ああ、またこの夢か──深い色の海に俺自身がゆっくりと泡になって溶けていく夢。
何か言おうと口を開いても声は出なくて、代わりに吐き出した息が泡になって俺を包む。いつの間にか俺は泡と同化していって、指の先から順番にふわふわと溶けて最後は跡形もなく海の青に消えていく
……そんな、夢。
いつからこの夢を見るようになったのか
……最初にこの夢を見て目が覚めた時は、なんだかとても息苦しかったような記憶がある。部活の練習で疲れ果てて帰ってきて寝落ちした時や、試験勉強中に居眠りをした時、練習試合の前なんかにも、見る気がする。
あまりに頻繁にその夢を見るものだから、一度ネットで検索してみたこともある。泡に関する夢占いは、あまり良い意味を持たなかった。関係性の消失、儚さ、現実とのギャップ。どれもこれも喪失を表すものばかり。
だからかな、『泡になってしまう』というお話があったことを思い出した時に、ドキリと心臓が跳ねた。小さい頃に母から聞かされた童話で、泡になって消えてしまったのは人魚の国のお姫様だった。
『おかあさん、にんぎょひめは泡になってしまうの
……? どうして? にんぎょひめは王子さまとけっこんするのよって先生が言ってたのに』
『あらあら、困ったわね。京治の知っている人魚姫とお母さんの知っている人魚姫は、違うお話だったのかしら』
小さい自分が母親を困らせてしまった話が、今でも時々家族の食卓の話題にのぼる。恥ずかしくて話を逸らすことの方が多かったけれど、内容としては〝母親の読み聞かせてくれた人魚姫の話と、俺が幼稚園で聞いた人魚姫の結末が違っていた〟というものだ。
本好きの母は小さい頃の俺に、寝る前の習慣としていろんな物語を読み聞かせてくれた。簡単な絵本から始まって、俺が幼稚園に上がる頃にはアンデルセンやグリムの童話集から自分の好きな話を選んでいたように思う。『シンデレラ』『白雪姫』『いばら姫』『親指姫』そして『人魚姫』。いま思えばやたらとお姫様が出てくる話が多かった気がするけど、それはまあ母の趣味だったんだろう。
その頃の俺はもう自分でも簡単な文章なら理解できるようになっていたから、幼稚園でもずっと本を読んでいるような子どもだった。先生の読み聞かせも大好きだったし、幼稚園にある絵本はほとんど読んだ気がする。女の子たちがお姫様に夢中になるように、俺は魔法や妖精の出てくるファンタジーに夢中になった。だからかな、母の選ぶ物語にもよく魔法使いが出てきたっけ。母の影響もあって、俺は今でも時間があればいろんなジャンルの本を読むし、図書館が好きだ。
そして俺が進学した梟谷学園高校には、とても大きな図書館があった。都下でも有数の蔵書量を誇る生徒たちにも人気の場所だ。試験前ともなると自習スペースは試験勉強をする生徒たちでごった返すし、俺も貸出や勉強でお世話になることも多い。夢の内容から思い出した人魚姫の童話の結末が知りたくて、俺はある日の放課後一人で図書館を訪れた。
【王子への恋慕が叶わなかった人魚姫は、夜明けとともにひとり静かに海に身を投げて、泡になって消えてしまいました】と書かれている原典版に近い結末と、【悪い魔女を倒して王子との恋を成就させた人魚姫は、魔法の力で人間の体を手に入れて王子と幸せに暮らしました】という改訂版。
そして【王子が別の女性と結婚したら人魚姫は死んでしまう。姉たちから〝王子を殺せば自分の命が助かるナイフ〟を授けられたものの、人魚姫は結局それを使うことをせずに自ら海に身を投げて泡になった】というのが原典版だ。高校の図書館にも一応童話の本があるんだな、なんて思いながら俺は書架から取り出した本をぼんやり眺めていた。母が話してくれたのは原典版に近い方だったのだろう。幼稚園で聞いた童話は『お姫さまは王子さまといつまでも仲良く暮らしました』という終わり方がほとんどだったから、母が話す人魚姫を聞いた俺は幼心に衝撃を受けたに違いない。
「王子様を助けたのは人魚姫だったのに、王子はそれに気がつかなくて別の相手と結婚しちゃうんだよなあ
……」
自分の大切な声と引き換えに人間の足を手に入れたのに、人魚姫は声が出ないから自分が王子を助けたんだと伝えることができない。それどころか王子は命の恩人である人魚姫とは別の女性を恩人だと勘違いしたまま結婚してしまう。こんな理不尽が幼稚園児に理解できるわけないから、改訂を重ねては表現はよりマイルドに結末はよりハッピーに書き換えられてしまったんだろう。
「なんという、理不尽」
俺が人魚姫なら、そんな王子様は見限ってサッサと海に戻っちゃうかも──と思えたら、どんなに良かっただろう。結末の違う童話集を見比べながら、俺は憂鬱な気分になる。王子様を殺すこともできず、自分が本当の恩人なんだと伝えることもできず、ただ静かに海の泡になって消えてしまう人魚姫。嗚呼なんて美しい無償の愛と自己犠牲だろう
……なんてね。
「なにがリフジンなの?」
静かな図書館の閲覧スペースにあまりそぐわないハリのある声が響いた。キョトンとした顔で俺の顔と手元の童話の間で視線を行ったり来たりさせた木兎さんは、とても居心地が悪そうにその場に立っている。
「いえ別に、ただの独り言ですよ。それよりも木兎さんはどうしてここに?」
ここは自分に似つかわしくない場所であるということをわかっているのか、木兎さんはガリガリと頭を掻いた。
「なんか、アイツがここにいるから迎えに来いって」
「ああ、今日は部活が休みだからですか」
「そうなんだよ
……俺ココ苦手なのに」
「木兎さん、地声が大きいから
……もうちょっとトーン落としてしゃべった方がいいですよ、目立つんで」
「だよなぁ」
「まだ大きいです、残念ながら」
やべ、と大きな手で口を押さえながら木兎さんは俺の前に腰を下ろした。
「赤葦は何してんの?」
「本を読みにきたんですよ、ここは図書館です」
「せっかくの部活休みなのに、こんなとこ?」
こんなとこ。勉強が苦手で部活だけしていたいと豪語する木兎さん一人だと、おおよそこんなところには来ない。迎えにくる相手がここにいるからだ──ちょっと前から付き合いだした、明るくて朗らかでいかにも面倒見の良さそうな同じクラスの女の人。
「なんかさ、本屋とか図書館とか独特の匂いしねえ? 紙の匂いっていうの?」
「俺はそれ好きですけどね」
「あーアイツもそう言ってた。落ち着くんだって」
スンスンと鼻を鳴らしながら落ち着かない様子で木兎さんは辺りを見回している。きっとここに座っているのも苦痛なんじゃないだろうか。
「そういえば、さっきそっちの書架で見ましたよ」
「ショカ?」
「料理とか手芸とかのプレートがある方の棚のとこです」
「おおさんきゅー赤葦、ちょっと行ってくる」
これ幸いと椅子を蹴って立ち上がる動作は、だいたいいつもの木兎さんだ。そろそろ司書の先生に注意されるか周りの生徒に嫌な顔をされるか、あとは。
「もう
……またそんな大きな音立てて。ごめんね赤葦くん、光太郎がうるさくして」
「いえ平気です、いつものことなので」
「光太郎も、ちゃんと謝って」
「ごめん、あかあし」
棚の向こうから姿を現した小柄な女子が、うるさくしてすみません、なんて言いながら周りに頭を下げている。手には料理の本が何冊か。わかりやすいな、すごく。
「せっかく部活休みなんですし、俺に構わずごゆっくりどうぞ」
「赤葦くんも、いつもありがと。光太郎すごく手がかかるから」
「慣れてるんで」
「ええ〜あかあし、それひどくない?」
「嘘ついてもしょうがないでしょう」
「じゃあね、赤葦くん。光太郎、行こ」
「ばいばい、あかあし。また明日部活でね」

彼女さんに引っ張られるみたいに、木兎さんは図書館から出て行った。明日部活で。わざわざ言わなくても、嫌でも毎日顔を合わせているのに。俺とあのひとはただの部活の先輩と後輩。俺がどれだけあのひとにトスを上げても自主練に付き合ったとしても、エースに尽くすただのセッターでしかない。
「はは」
俺は王子を刺し殺すナイフも持っていなければ、悪い魔女を倒す力も勇気もない。何もないんだよ。
「またあの夢、見そうだな」
夢の中の俺は深い色の海にゆっくりと沈んでいって、指先から順番に泡になって溶けていく。あのひとにトスを上げるための手も、コートを踏み締める足も、エースを呼ぶ声も、全部泡になって最後は海の藻屑となるんだろう。
深い深い青に沈んでいく光景を夢見ながら、俺は明日もバレーボールを続ける。
2025.5.18
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