夢篠
2025-05-17 21:46:50
2553文字
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君の最期に手を伸ばす

病弱な娘と雑渡昆奈門の続き

ナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエナマエがまた熱を出した。先日蛍を見せた時に随分気持ちを昂らせてしまったから、ひょっとしたら、とは思っていたけれど案の定、彼女は熱を出して寝込んでしまった。

熱が出ている時、彼女の身体は極端に病に対する抵抗力が落ちている。そのため彼女付きの医者からは許可が出るまでは面会は駄目だと、そう言われていた。

彼女に付けた医者は、タソガレドキを探し回って私が見付けて来た「名医」と呼ばれる者だ。彼女に与えられる薬も治療も、並の人間には受けられぬそれだ。与えられた療養環境だってまた。

それなのに、ナマエは良くならない。否、寧ろ。

考えるのが恐ろしいのだ。小さな角度の傾斜を鞠が少しずつ転がって行くのを眺めるように、ナマエの生命の蝋燭がゆっくりとすり減って行くのを見詰めているしか出来ない。手出しをして灯火が消えるのを恐れている。けれども手出しをしなければきっと。それが怖い。

本当に、腑抜けだ。百人を統べる忍軍の長の癖に。…………恐れるものなど、何一つ無かった筈だったのに。ナマエを知るまで、私は文字通り自らを瑕疵の無い、完全な存在だと驕っていたのだと思う。何一つ恐るるに足らず、私は何ものにも決して怯まないだろうと。幾人もを屠り、幾人もを死地に遣った。今更人一人の死に感慨など湧く筈も無い。なのに今はただ一人の安寧を願っている。

彼女の室の前に来たのは、情け無くも感情が揺らいだからだ。幼い頃、私はその感情の動きに「不安」という名を付けた気がする。だが成長するに連れ、その感情に名を付け続ける事は非常に不都合だった。だから捨てた。名を捨てられた感情は私の認知から外れて何処かへ消えたと思っていた。それが蘇った。

ナマエ、」

部屋を開けてはいけない。抵抗力の落ちたナマエには私のような穢らわしい人間の纏う何かは毒なのだ。でも、此処に私がいるのだと、知って欲しい。お前を想う人間が、此処にいるのだと。

それは小さな呟きだった。きっと満天の星空が瞬くような音だろう。空気を揺らして、消えたそれを受け取る者はいなかったようだ。自嘲の笑みと共に、逃げようとした。

「こ、な、もん、さ、ま……?」

か細い声が殆ど空気を揺らすように辛うじて私の耳に届く。正直な所、半分も聞き取れなかった。愛した娘の声すらも、私は満足に聞き取ってやれない。今までの生き方に後悔は無いけれど、今、ナマエの小さな声を取り零した事は僅かに残念だった。

……っ、ナマエ?大丈夫?あ、いや、熱を出したって聞いて、」

本当は、準備していた言葉はあって、もっと小粋にお見舞いの言葉を掛けて、私の格好良い所だけ見て貰いたいのに。どうして上手く行かないのかな。

自分の情け無さに苛々してしまう。ナマエが空気を揺らした。笑っているように聞こえた。

「へ、いき、です。すこし、つかれ、ただけ……、なの、で……

言葉と合わせて力の無い空咳が聞こえる。嗚呼、顔が見たい。顔を見て、その小さな背を摩って、腕の中に儚い生命を抱き締めて、彼女が生きているのだと知りたい。きっと生まれて初めてなのだ。終わりの見えた生命を「なんとしても何をしても繋ぎ止めたい」と思うのは。

二人を隔てるのは障子一枚で、きっと私以外の誰もがこの薄い壁を簡単に越えられる。私一人だけ、この薄くて何よりも高い壁に阻まれている。

「顔が見たかったけど、まだ医者に許可が貰えていないから、あ、でも、声聞けたから、凄く、安心したよ」

沈黙が恐ろしい。恐ろしい事ばかりで息が苦しい。燃え盛る炎の中に飛び込んだ時だって、こんなに恐ろしくは感じなかった。喉を真綿で締められたような、無理に声を搾り出すようなそんな。

……こんなも、んさま、」

か細い声なのに、弱った私の聴覚でも十分に聴こえた。鈴の鳴るような美しい声。その声を聞いて思い出すのだ。厳しい忍務を終えて熱い湯を浴びる時の感覚を。何故だろう。全く状況は違う筈なのに。

「何?もしかして辛い?医者を呼ぼうか?」

障子に手を掛ける。嗚呼、この薄い一枚が邪魔だ。この一枚に私とナマエの距離が全て写し取られている。ナマエが身を起こすような気配がした。

「おかお、みせて……

ひゅ、と自分が呼吸をした音を、久し振りに聞いた気がした。乱れた呼吸を立て直すのに時間は掛からなかった。ナマエに言われた事を、反芻していた。でも、それは、だって。

「で、でも、医者に、」

「いいの。ナマエは、こんなもんさ、まに、っ……

大きく咳き込んで、倒れ込むような音がした。心臓が裏返るような心持ちはもしかしたら、初めて就いた忍務では感じた感覚だったかも知れない。あっという間に薄い壁は破られて、私の腕の中にか細く呼吸をする弱々しいナマエがいた。

「こ、ん、なも、さま……

「嗚呼、ナマエ……っ」

小さくて青白い手が私の頬の辺りを撫でる。困ったように笑うナマエが譫言のように「すき、」と呟いた。知っていた。でも、それは初めて聞く音だった。とても綺麗で美しい音に聞こえた。

……ナマエ

「すき、こんなもん、さま。いえなく、なる、まえに、……っ、ん」

口布をしたままだから、きっと許される、そう思いたかった。覚悟を決めたようなナマエの言葉が恐ろしい。病魔に絡め取られているのはナマエではない。それはきっと、私だ。喪う事を、恐れている。私だけが遺される事を。だからこそ。顔を離す。熱に浮かされた曖昧な表情で、ナマエが私を見ている。

……本当は、ナマエと、共に生きたいと願えるならどれ程幸せだったろう」

ナマエの顔は確かに笑んでいた。その顔は事実として覚悟を決めた顔だった。それを合意と受け取るのに楽観も謙遜も必要無いだろう。小さくて頼りない身体を確かに腕に収める。もう、誰にも邪魔などさせるものか。

私が全てを地獄に引き連れて逝く。その覚悟はお互い、どうやら疾うに出来ていたようだ。私たちが姿を消した室には唯一、誰かが身を横たえていた褥が遺されていただけだった。