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richnaturaltobaccos
2025-05-17 10:18:12
1711文字
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信一と燕芬姐(魚屋のおねえさん)の話
以前旧Twitterに画像で載せたもの。なんてことないです。
陽が傾いてきた頃に店じまいをすると、あたりは刻々と暗くなっていく。
店の隅々までよく水で流して、まな板は布で拭き上げる。
こうしておかないと明日臭いが酷いのだ。
先に帰らせた魚蛋妹がお腹を空かせているだろうから、早く済ませないといけない。
魚団子には飽き飽きしているみたいだから、今日は肉味噌を乗せた麺にしよう。
ふと店の床に影が落ちて、煙草の煙が流れ込んできた。
「お疲れさん」
戸口にもたれて気取った腕組みをする男にちらりと目をやり、掃除を続ける。
「いかした化粧だな」
口の横を指さされたのを袖で拭うと、いつのまにか飛んでいたのだろう魚の血がついた。
「拭かなくていいのに。たまには赤の口紅もいい、色っぽいぞ」
「うるさい。無駄に色気振りまいて歩いてるあんたと違ってこっちは忙しいの」
「おお? 俺の色気を感じてくれるのか。なら今度食事をどうだ」
形のいい唇を歪めてへらりと笑うこの男が本当に暇だと思っているわけではないけれど、軽口に付き合うほどこっちも暇じゃない。
「食事の後は踊りに行こう。流行りの服を届けよう、どんなのがいい」
ふざけてステップを踏む足元めがけて溜め水を流してやった。
「いらない。片付けの邪魔をしにきたわけ?」
そう言うと、信一は「おっと。これを渡しに来た」とポケットから封筒を出した。
「大老から金だ。魚蛋妹を引き取ってくれてありがとうと」
正月の残りなのか、派手な赤の利是封だ。
受け取っていいものか少し躊躇う。
「好きでしたことよ」
「わかってる。大老もわかってる。でもとっておけ。邪魔になるものじゃないだろう」
「わかった。後でお礼に行くと伝えておいて」
信一は「大老からもうひとつ伝言だ」と続けた。
「もしこの先人生に風が吹いて、凧が舞い上がることがあれば、魚蛋妹は引き受けるから心配するなと。良い家を探して養女になる手もある」
少し考えた後に首を横に振る。
「ずっとそばにいると約束したから」
信一はしばらく黙ってから言った。
「そうだな。ああいうときの子供が一番必要としていることだ。抱きしめて、ずっとそばにいると」
遠くを見ているような声の響きに顔を上げると、入れ替わるように信一は外を見た。
夕暮れの最後の光が消えていき、九龍城砦に夜が来る。
「大老の具合が良くない」
薄闇の中でぽつりと呟かれた言葉は、二人だけのこの場に静かに落ちた爆弾のようだった。
「このところずっと嫌な咳をしているし、顔色も悪い。少し痩せた。だけど、聞いても何でもないとしか言ってくれない」
「四仔はなんて?」
「何も言わない」
良くない兆候だ。
四仔は普段から口が堅いけれど、秘密が大きいときほど押し黙る。
貝のように口を閉じるのだ。
どこからか二胡の音が聞こえる。
練習中なのか少し辿々しいその音色を聞きながら、九龍城砦そのものだと言われる人のことを思う。
彼の目は、城砦を吹き渡る風のようにすべてを見ている。
ここでは生活は常に苦しい。
目を背けたいくらい酷いことだって起きる。
それでも、ここで暮らしは続く。
一息つき、英気を養うことができる場所。
身を寄せ合い、日々の糧を作り出せる場所。
明日は来るのだと信じて眠ることができるのだ。
龍捲風という大きな竜巻の内側で。
嵐の届かないそこで、少しだけ安心して。
そんな日々の終わりが近づいているというのだろうか。
「
……
深刻ね」
そう呟くと、信一はなぜか少し微笑んだようだった。
「気休めを言わない奴と話したかったんだ」
短くなった煙草を戸口に押し付けて消し、こちらを向いた顔はもういつもの顔だった。
「やっぱり食事に行こう」
ニヤつきながらしつこく言うのに呆れて口を開こうとすると、信一は続けた。
「魚屋の前掛けのままで構わないさ。大老が最近気に入ってる糖水もつける。いつがいいか考えておいてくれ」
そう言って出ていく背中に返事をするか迷って、結局何も言わなかった。
姿の良い男が後ろ手に手を振って歩いていくのを少しだけ眺め、掃除に戻る。
早く済ませてしまわないといけない。
明日も仕事だし、家では魚蛋妹が待っているのだから。
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