kanaco
2025-05-17 00:08:11
2711文字
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その他SS(単作)まとめ

P1【天満月と風】龍信親子。風と戯れる信一の小話。

【天満月と風】

喧騒もなだらかになりつつある、静かな深夜。
信一は人知れずに屋上へと歩いていた。

九龍城砦には真夜中であろうとも“眠らない”階層が存在する。しかし住居が集合するような区画であれば、夜が深まるにつれて人々は眠り、その様子も静かで穏やかになっていくのだ。常に人の声と何かが動く音で弾ける、明るくて騒がしい昼間の雰囲気との落差に苦笑しながら、廊下を通り抜け階段を上り、そっと屋上の扉を開ける。

当然そこには誰もいない。
目の前に空間が広がり、頭上に夜空がひらけた。


見上げた先には美しく光を放つ天満月。


しかしそれは孤月だった。
薄雲が覆い隠しているせいなのか、星の瞬きは全くと言っていいほど見えない。そこにはただ月がポツンと寂しく“ひとりぼっち”でいる。

まるで俺みたい。

そう思ってしまうのはさすがに感傷的すぎるだろうか、と笑う。

寝つけず、この場所にきた。
もしかしたら風を感じられるかもしれない、と思ったからだった。こんな夜でも風を感じれば気持ちが凪いで眠れるかもしれない、と。

しかしあいにく風は吹いていなかった。あるのはここだけ時間が止まってしまっているかのような、そんな澄んだ静寂だけだ。

「あらら」

と、ポツリ呟いた声も夜闇と月光へと吸い込まれた。もしかしたら信一以外の全てはもう眠りについてしまったのかもしれない。

信一はそっと目を閉じる。
そうして指をいくつか失った方の手を真っすぐに前へ差し出した。

「祖哥哥」

そっと、大切な人の名前を呼ぶ。
いなくなってしまった、守ることができなかった、愛しい人の名前を。

ふと、その無き指先に風を感じた。それは気遣うように寂しく悲しそうに吹く風で、遠慮がちに指を撫でると、そのまま残った2本の指と手の甲をそっと辿る。

信一が夢を見ているかのようにうっとりと微笑む。おずおずとやってきた小さな風をその手にもっと纏わせようと翻せば、応えるように優しく風が舞った。

「やあ、哥哥。良い夜だね」
「こんな時間なのに、あなたに会いたくて出てきちゃった」

信一は城砦福祉委員会や砦のボス代理として働く今の暮らしに、不安や苦痛があるわけではなかった。

むしろ逆だ。九龍城砦の復興は誰もが想像したよりずっと順調である、といっても過言ではない。

信一は砦と住人たちを懸命に支えようとしたし、それに応えるように住人たちも信一を支えようとしてくれた。もともと龍捲風が愛した九龍城砦とは住人たちの“人情”が作り上げた場所だ。一番傍で力を貸してくれる洛軍や四仔、十二はもちろんのこと、虎兄貴や表立っては告げられていないが秋兄貴の尽力も大きい。そして信一には表社会ごとでも裏社会ごとでも、いつだってギリギリの中で最高の働きを叩き出している自負さえあった。

そう。結果は自ずとついてきた。
その流れに乗り、みな辛い過去を抱えながらも次のステージへ進もうとしている。
そして大切な人を失ったこの世界で、信一だって次へ進もうとしていた。


でも、あなたが、いないのに。


それがたまらなく信一の胸を塞ぐのだ。
自分が後ろを向いていても時間も時代も勝手に前に進んでしまう。
龍捲風だって知っているだろう、その残酷さを。

「ねぇ、兄貴。俺、頑張っているんだよ」

住人たちの暮らしの保証や次の住む場所の確保をしようと、政治家とか有力者とか、黒社会とのパイプを繋げるために色んな人に会ったよ。

みんな、欲しがりさんなんだね。

富が欲しい人。権力が欲しい人。名声が欲しい人。拳の強さが欲しい人。駆け引きに夢中になり、ただ快感に身を委ねていく人たち。

あまつさえ、俺が欲しい、だなんて人もいたよ。
物好きだよねぇ。

俺なんて、あなたがいないから、全部が意味を失ってしまったよ。
あなたがいないなら、あなたじゃないなら、何も欲しくはないもの。

「あなたのそばにいられることが、俺の人生に贈られた最高の幸運だったのに」

「ねぇ、でも、それを失ってもなお、次に進まなくちゃいけないの?」
怯えたような声音だった。


風が吹く。


それは先ほどの遠慮がちなものではなく、優しく長閑に、しかし豊かに吹き上がる。パーマが緩やかになって伸びた髪を、乱れてしまうほどにたなびかせ、存在を主張するように頬をしっかりと撫で、その腕へ、胸へ、腰へ、足へまるでイタズラに触っていく。

「ふふっ」

楽しそうに笑った信一が両腕を空へと広げて、軽快にステップを踏む。クルリと回転するとしっかりと風がついてきて全身を包み込む。戯れる風にまるで一緒にダンスしているみたいで心が躍った。


風は優しく吹く。


悲しみに溢れてしまった思いを堰き止めることができるよう、願うように。
寂しさに迷子になってしまった我が子にそっと寄り添うように。
その傷ついた心に触れ、抱きしめるように。

これが儚い”夢”だったとしても、信一を満たしてやれるように。

風は何も言わない。
しかし沈黙の中で、目を閉じたままの信一の耳には囁きが聞こえるのだ。
穏やかに、愛しそうに「信仔」と呼ぶ声が。


「このまま、風に溶けてしまえたらいいのにな」


信一とは離れた場所で、風がびゅうっと鋭い音を出したのを聞いた。
枝がしなったように木々が一斉にざわめいたから、地では葉も一斉に舞い上がったかもしれない。


それは大きな突風だった。


髪を抑えて風がおさまるのを待ち、また優しく穏やかな風に戻ってから信一はそっと目を開けた。
風が顎をくすぐるように撫でるので、誘われるように夜空を見上げる。


見上げた先には美しく光を放つ天満月。


そして月の周りに散らばって輝く星たちが見えた。
突風が薄雲を散ちらしたのだろう。
本当はずっとそこにいて月に寄り添っていた、綺羅星たちが。

また、風が指先にフワリとやってくる。
信一は「あはは」と元気よく笑う。
龍捲風と一緒に過ごしていたあの頃のような、年頃の青年らしい朗らかさで。

月の近くに、一際強く輝く星が3つ見える。


「分かってるよ、俺は独りじゃない」


明けてしまうのが惜しいほどの夜だった。
穏やかな闇の中で、月と星々が美しく煌めき、風がそれを守るように舞う。
優しくて幸せで、永遠に続いて欲しいような夜だ。


「でも、前に進まなくちゃ」


微笑む信一は手のひらを掬うように合わせる。

「ずっとそばにいてね、哥哥」

その手の中にそっと降りた“そよ風”は、安心させるように中でクルリと小さく舞った。