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mineml
2025-03-10 23:40:40
5795文字
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【SS】タムガの紅い旗 ネタバレ
キャラバンの幕間
「カーンの陣営を離れて8日目の日が暮れる。この時期の日が落ちるのは早い、設営に取りかかり損ねればすぐに夜が滑り寄る」
まだ明るい空を見上げる男の口元から、誰に向けたものでもない描写とともに白い息が立ちのぼる。
一日の旅程を終え、荷物を下ろされた駱駝たちがごうと鳴く。キャラバンのメンバーが数人ずつに分かれてテントを広げ、火を起こしては言葉を交わしている。薄く雪をまぶされた足元の枯草が晩秋の風に揺らされ、かそけき音を立てる。そう遠くないうちにこの風景も、なお深い雪に覆われ、春まで眠るのだろう。
「砂漠は更に先らしい。草原の冬が厳しいのは、遊牧民たちの秋の忙しさでよくわかるが、砂漠ともなれば尚更だろう。いやぁ、先が思いやられる」
「ほんとだよ」
うんざりとした調子の声が降ってくる。長身を寒さに縮めるようにして、サラヘディンの陣取る焚火の前へ戻ってきたのはキャラバンの隊長、ルカである。
「沸いたか? もう沸いてるよな?」
「はいはい。お疲れさん」
焚火にかけていた鍋からはふたりの息とは比べものにならないほど濃い湯気が立っており、サラヘディンはその中へ、茶葉を一掴み投げ入れる。その傍ら、ルカはせめてもと地面の薄い雪を払い、厚い敷物を置いた上に尻を落ち着ける。少し離れて、剣を佩き弩を手に提げたままのエギルの姿がある。こちらを見ていないようでありつつ、彼が広く巡らせる視界からは、雇い主の姿が外れることはひと時もないに違いない。
昼日中の僅かな暖かさを、空気も地面も瞬く間に失っていくのが身に沁みる。だが山羊の毛織物を重ね合わせてなんとか寒さを凌ぐばかりのキャラバンのテントは、炉のある遊牧民のゲルと違って、中で火を焚いて暖を取るわけにはいかないのが悩ましいところだ。
「で、行程はどんなもん?」
茶葉が湯の中で踊るのを眺めながら、髭を生やした顎をぞろりと撫でてサラヘディンが問う。両手をこすり合わせながらルカが応じる。
「悪くないってさ。牧童も次のキャラバンサライまでは案内してくれるらしい。砂漠越えの案内人はそこで探さないとな」
「見つかると思う?」
「さてね、冬のキャラバンなんて、よほどの都合でもなきゃ俺だって出したくもない。だがこの冬に限っては、俺たち以外の商人も動くだろうよ。稼ぎ時だ、見込みはある」
煮える湯が十分に色づいたのを見計らって、陶椀に注ぐ。ルカが差し出したものへも注ぐ。エギルに声をかける。彼は氷色の目をはじめてサラヘディンへ向けて、枯草を踏み折る音をさせて歩み寄ってくる。
東西を結ぶ交易路といっても、整然と切り開かれた大路が草原や砂漠を貫いているわけではない。出発地と目的地に応じて騎獣駄獣を歩かせた結果が、地上を覆う網目のように想定されている。それが交易路の実状である。案内役として、通過予定の地域をよく知る遊牧民の牧童を雇えれば、道行きは安全に、楽になる。
「草原の道が一気に開いた。この機を逃せば二番手になり下がると、目端の利くやつならわかってる。絶対に案内人は見つけるし、口説き落とすさ、何が何でも」
「商人てのもよくよく考えてみれば命知らずな連中だよなぁ」
「サラーも他人のこと言えなくないか?」
「事実否定しづらいことを言ってくれる!」
膝を叩いて太く笑い、学者はにやりと口角を吊り上げる。
「危険を冒さねば富も知も手に入らないってことだな」
「ここまでする学者先生もそういねえって。座ったらどうだ? こんなに見晴らしがいいんだし、滅多なことじゃ襲われもしないだろ」
言いながら、陶椀で両手を温めるルカはエギルを見上げる。立ったまま熱い茶に口をつけていた護衛役は、短く答えた。
「出てったやつらがまだ戻らない」
「そういやしばらく前に狩りへ出たきりだなぁ。ま、心配しなくったって、生半可な相手に遅れを取ったり道に迷ったりする連中じゃないさね」
「なんだ、雇い主以外の心配もするんだな」
「や、別に
……
あいつらがいると楽なんだよ」
サラヘディンののんびりとした調子や、ルカのあからさまにからかう調子に、エギルは渋い顔をして口ごもる。かと思えば早口に後を続けた。
「あいつら、獣とか野盗にちゃんと気づくし、っていうかそれで当たり前みたいなツラして警戒してるし。だいたい戦える人間が多い方があんたらだって、安全だろ」
「異議な〜し」
「そうだな。そういうことにしとくか」
「ったく
……
」
口の回りでこのふたりに敵うわけもなく、据わりの悪い様子で溜息混じりに、エギルは視線を地平へ逸らす。そこでふと、拍子抜けしたように彼の佇まいが緩んだことに、ふたりは気がついたのかどうか。
数頭の馬の蹄の音が響いてきたのだった。
音だけが先行することしばらく。サラヘディンとルカ、エギルの元に顔を出したのは、黄みがかった脂肪や半透明の筋も生々しい、切り分けたばかりだろう肉の塊をいくつも提げたドルラルと、手ぶらのフブスグル
――
死んだ名を葬るのであればナェズのふたりである。冬を前にした草原の民の衣服は、内側が毛皮張りだという。獣を追って馬を駆った帰りということもあるだろうが、夕暮れを迎えようとする寒さに凍える様子もない。
ルカの率いるキャラバンがかくも先を急ぐ理由、それは血の滴るような瞳をしたこの青年、ドルラルひとりの存在に尽きると言っても過言ではない。
大小の集団が入り乱れていた草原の支配図は、秋の戦において一意に塗り替えられた。クリルタイ
――
部族長たちの合議の場での承認こそまだ下りていないものの、タムガ・ドルラルがカーンの称号を得るのはほぼ確定していると言っていいだろう。そのために彼の配下は東奔西走して根回しを進めており、彼自身は更なる版図の拡大を見越して、東国の実状を自らの目で見に赴こうとしている。
ひとりの権威の下に広い地域が支配されるとなれば、これまで各地を支配していた勢力同士の駆け引きや緊張関係が取り払われ、東まで足を延ばした商売がしやすくなる。過酷な冬の旅を決行してでも、商人たちは同業者に遅れを取るまいと動きはじめていた。
ドルラルとナェズはその草原を分けた秋の戦の中心にいた一揃いであるわけだが、彼らが口を開くのもそこそこに、サラヘディンが目を輝かせる。
「今日の獲物か!? それはなんだドルラル、脚肉の先に蹄を残してるな、中型の草食獣なのは確かだが」
「何って、ナェズ、共通の言い方だとどう呼ぶんだこいつ」
「ガゼルだ。今戻った」
「ガゼル! どんな味がするんだろうなぁ、ガゼルはまだ捕まえてきたことなかったよな? 肉以外はどう使うんだ、毛皮と臓物、あとは角か、ここには肉しかないようだがそもそもガゼルの各部位は活用しないのか? お前たちのところで捕まえてたのもこれと同じ種なのかそれとも」
「ああもう待てよサラー、こいつは明日の分で、今日の飯はあっちだ」
矢継ぎ早に尋ねられ、一問ごとに煩わしさの色を表情に塗り重ねたドルラルは堪りかねたように遮り、視線を外す。
その先には火にかけた大鍋の傍ら、毛皮を剥がれて遠目には何かわからない小型の獣を何匹も捌くエレグの姿がある。ナイフをよどみなく扱いながら、物珍しそうに、あるいは待ちかねたように作業を眺めるキャラバンの商人たちと、笑顔で何か話しているらしい。
「お、あっちはなんだ? お前たちがいるおかげで新鮮な肉が食える、ありがたいことだ」
サラヘディンが深々と頷く一方で、ドルラルは気に入らないことでもあるのか、眉根を寄せてぶっきらぼうに答える。彼だけでなくナェズも何故か、まだほとんどが包帯に覆われた顔に沈痛の色を滲ませた。
「ウサギ。エレグが仕留めた」
「
……
今日の私は勢子、獲物を追う役を果たしたと思ってくれ」
「何も言ってないんだからそんな顔するなよ」
「仲良くなるの早いよな」
ルカがナェズへ漠然と投げかけた慰めなどよりも、キャラバンに加わっていくらも立たない遊牧民の娘の立ち居振る舞いの方が、珍しくもエギルの関心を引いたらしい。食事の支度を遠目に眺める彼のこぼした呟きに、そりゃあ、と、ルカとサラヘディンは声を揃えた。
「この男所帯だからな。気立てがいい若い娘、愛嬌もある、遊牧民との橋渡しも一通りの炊事も馬や駱駝の世話もできる。かわいがりたくもなるだろうよ」
「娯楽の少ないうえに過酷な旅路、故郷の歌を教えればあの見事な声で素直に歌ってくれるってんじゃあめろめろにもなるってもんだ。おまけにエレグにとっちゃ、教わる歌詞は知らない言葉だろ? 舌足らずで余計かわいく聞こえるわけさ」
「そうかよ」
精悍な面差しに不機嫌を隠し通さず、腹の底に響くような低い唸り声を漏らしたのはドルラルである。
「別に構やしないけどよ。誰と絡むかはあいつの自由だ」
「そうだな。ただ隊長殿にはぜひ、キャラバンへ周知をお願いしたい」
片やナェズはといえば、顔の広い部分を焼印で潰され包帯で隠してなお、秀麗に残された目元で涼やかに笑ってみせた。
「不埒な真似をした者は、首と胴が泣き別れになるぞ、と」
思わずといった仕草でエギルが剣の柄に手をかけ、しばしの葛藤の後、その手を自ら引き剥がす。地面に腰を下ろしたままでいるルカとサラヘディンからは、彼の一連の仕草がよく見えただろう。
ドルラルは豪腕で鳴らす新しきカーン、ナェズはひと時とはいえ、その彼と互角に切り結んだ剣士である。草原を分けた先の戦で、この傑物ふたりがどれだけの血で己が身を飾り立てたかは、それぞれの記憶に鮮明であるに違いない。
「え? 今もしかしてけっこう危なかった?」
「わかったわかった連中にはよく言っておくから、ふたりとも殺気を出し入れするのはやめてくれって」
「出し入れってなんだ」
「とカーンは仰せだ」
「無意識ほど怖いものはないってこった」
「女の子ひとりで心配すんのはわかるけどな。不埒云々は抜きにしても不便だろうし。エレグに限らず、お前たちも不便があれば言えよ? 移動しながらの生活は俺たちよりも慣れてるだろうけど、ゲルも積んできてないんだし、勝手が違うだろ」
ルカの提案に、青年たちは顔を見合わせる。垣間見せた苛烈さは呆気なく鳴りを潜め、こうして時折目にする彼らの打ち解けた様子は、ルカやサラヘディンからすると、ありふれた若者たちの親しさに相違ない。
「お気遣い痛み入る。だが私は、サラヘディン殿に看ていただいているだけで十分すぎるほどだ」
「まだ皮膚が完全に固まってないんだから無茶はするなよ」
サラヘディンの言葉に神妙に頷くナェズの横で、ドルラルもまた首を傾げる。
「俺も今んとこはそんなに
……
さすがにゲルよりは寒いけどよ」
「最悪はお互いで暖を取るしかあるまい」
「それほんとに最悪の手段までとっといてくれよ」
「
……
え、それエレグもか?」
にこりともせず言うナェズにドルラルが顔をしかめる。そこへ困惑した声を挟んだのはエギルである。
「いや、あいつはたぶん馬と寝る」
「馬と!?」
「遊牧民は冬の間、早く生まれてしまった家畜をゲルに入れて守るんだが、その習慣のせいなのかなんなのか、彼女は特別冷える冬にはゲルに入れた羊で暖を取っていたらしい。馬か
……
やりかねないな」
「いやどこまでが冗談
……
危なくないか!? 潰されたりとか踏まれたりとか、あるだろ!?」
「エレグの前じゃ家畜も暴れねえんだよ、なんでだか」
ふたりともが真顔で話すものだから、元々の生真面目な性質もあってか、エギルは真意をはかりかねているらしい。屈強な傭兵の逐一動揺する様子に、しばらく黙って眺めていたサラヘディンは終いには笑いを堪えつつエギルへ目をやった。
「なんだ。エギルも随分旅慣れているみたいだったが、初耳か」
「そりゃ
……
そうだろ。遊牧民と冬に会ったことなんてねえよ」
「そう。そこなんだよ」
サラヘディンが身を乗り出す傍ら、ルカはもはや呆れるでもなく、ドルラルとナェズに茶を配る。また始まったとばかり、冷めつつある茶を啜るエギルは逃げ腰に目を泳いでおり、ドルラルは胡乱なものでも現れたように怪訝な顔をするが、ナェズはルカから椀を受け取りつつしげしげと、少年のような目をサラヘディンへ向けた。
「外部の人間にはわからないことってのがあるんだ。すべてを目にする機会なんてものはないし、彼らにとって当然のことというのは説明すらされない。書物で読んだところで、それが文章であるという制約のために、書き落とされることの方が圧倒的に多いんだ。この、思いがけない未知というのを、すべて知ることができないのがもどかしい! だが楽しい! あと馬の傍で寝るのはさすがに俺も半信半疑!」
「ナェズお前、サラーの言ってることわかるか?」
「全部はわからない。だが興味深い。西方の知というのは、こうして言い表されるんだな、と」
「そうか」
怪訝な様子のまま、ドルラルは呟く。付き合いの長い友人の横顔を見て、短く言い足した。
「よかったな」
彼の声音に、何か思うところでもあったのだろう。一度は欺いた旧友を、ナェズは目を瞬いて見つめ返し、小さく笑った。
おおい、と呼ぶ娘の声が、焚火に屯した面々の耳に届く。気が付けば空はほのかに夕暮れの色に染まりつつあり、野営地のそこここに焚かれた火の色がますます眩さを増している。そう、冬のはじめ、夜は滑り落ちるように訪れる。人間の時間が終わり獣の時間がやってくる前に、一日を片づけてしまわなければならない。
「自分の皿とパンを持っておいで。飯ができたよ」
石造りと水路を巡らす芸術の街から来たひとりと、あらゆる貨幣と知恵者の行き交う砂漠の街から来たひとりが、いよいよ冷えてきた地面から腰を上げる。北の海のまじないを手の甲に持つひとりが、弩を肩にかける。東の果ての更に海の向こうを瞳に映すひとりと、胎動をはじめた大国の行く末を瞳に染め抜いたひとりが、連れ立って友人の待つところへ足を向ける。
彼らの行く絵巻のほんの幕間に、同じ言葉を話し、同じ食事を囲んだ。幾名が歴史に名前を残したとて、いずれ書き落とされる物語の一幕である。
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