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mineml
2025-01-01 15:23:10
3278文字
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【SS】タムガの紅い旗 ネタバレ
歌うたいの娘
遮るもののない白い日差し、乾いた風。所どころに岩が頭を見せ、風が唸るたびに草原が波打つ。草を掻き分けていく羊の足音と散発的な鳴き声に警戒は含まれておらず、主を背に乗せた馬が穏やかに鼻を鳴らす。
年の頃、50絡みだろうか、日差しと風によく鞣されてきた風情の女がひとり、羊の群れについている。追い立てるでもなくその歩みを見守り、黒、茶、白の毛並みが散らばって草を食みはじめるのを確かめて、跨った馬の首を巡らす。そうして、少し離れた場所に頭を覗かせている岩の上、人影があることに気がついた。海を知っている者ならば、海に浮かんだ小島の上とも例えそうな様子だった。近くには馬が一頭、頭を上げて女を見た。
そうと気がついてはじめて、歌声が耳に届く。
実のところ、ずっと聞こえていたのだろう。ただ風や葉擦れの音と同じ気配だったために、人間のものと知るまで判別できなかっただけのこと。
のどかな歌だった。気持ちよく伸び、豊かに揺らぎ、家畜たちを脅かすことなく流れていく。突き詰めれば吸って吐くだけの行為が、岩の上に腰を下ろした娘の小柄な身体を響かせている。
馬をそちらに歩ませ、大声を出せば届く距離まで近づいたところで彼女もまた、己以外のもうひとりの人間に気がついたらしい。ふわりと歌声が途切れ、叫ばなくとも済む距離まで待って、声をかけてくる。
「ごめんなさい、邪魔をするつもりじゃなかったんだ」
「羊を放してたわけじゃないんでしょう? 大丈夫よ」
羊の群れの姿は女の連れてきたもの以外になく、であれば争う必要もさしてないのだった。馬を連れた娘がひとり、何をするでもなく、草原の只中にいるのが些か妙であるにせよ。
「上手ね」
全体に丸みを帯びた、まだ少女を失っていない顔立ちに、はにかんだ笑みが浮かぶ。
「ありがとう」
「私もそちらで休んでいいかしら」
「もちろん」
言いながら位置をずらして座り直した娘の隣に、馬を降りた女は腰を下ろした。そうして、鞍に括り付けてあった布づつみを開く。
「あなたも食べる?」
「いいの?」
「こんなところで偶然会ったのだし、よかったら」
広げられた乾燥チーズと乾燥肉の中から、礼を言った娘がひとつを手に取る。それに目を細めて応え、女は鞍から水袋を下ろす。
しばらくは静かに、チーズを齧り、馬乳酒を分け合っていた。小さな一欠片を大事に噛んでいた娘がふと、口を開く。
「おばさまは、他所から来たひと?」
「ええ」
「おばさまのところから来たひとたちに、いくらか会ったことがある」
衣服をしげしげと見つめた娘が言う。
ふたりの装いは一目見て、形は似通っているものの刺繍の絵柄や色合いが違っている。加えて娘の方は、長衣に重ねて丈の短い上着を着ていた。また女のように帽子をかぶる代わりに、春の空をなお青くしたような宝石を縫い留めた帯で額を飾っている。
「しばらく前に、このあたりへ移ってきたの。羊もまだ土地に慣れていないから、道を覚えるまではついていてやらないとね」
薄く散らばる羊の群れを眺めやり、女の声がしみじみと遠くなる。
「ようやく家畜も肥えてきた。冬が来る前にどれだけ潰さなきゃならないかと思っていたけれど、ひとまずは一安心かしら」
「
……
そんなに厳しかったのか? 前のところは」
「昔はそんなことなかった」
綿雲の落とす影が、彼方を横切っていく。
「どこへ移っても、手つかずの草地を探すのが難しくなってねぇ。娘たちを嫁に出した先も、家畜に満足に食わせられずにみんな苦労しているらしくって」
「それで、このあたりに?」
「新しいカーンが立ったでしょう?」
娘の優しい両手が、身をすくめるようにおず、と握り込まれる。女がそれを見ていたとしても、その様子から見出だせるものは限られていただろう。
「国攻めの折、うちの部族の武勲を認めてくださってね。広げた土地に移れるように取り計らってくださった」
見渡す草原は、戦火に踏み荒らされた気配もなく無関心に、清らにある。主戦場がここでなかったからだ。
彼女らを庇護するカーンが先だって、自ら戦の前線へ出て平定するまで、ここは異民族の統べる豊かな土地であった。
「あなたもそうなのじゃないかと思ったのだけれど」
元は主を異にする土地だったのであれば、羊を追ってきた女はもとより、偶然出会った娘もまた、女の言うようにこの土地を訪れて間もないはずである。
水を向けられた娘は、どことなく固い顔をして、少し言葉に迷う様子を見せた。やがてぽつりぽつりと、言葉を置いていく。
「おれは
……
住むところは、別にあるんだ。でもカーンの軍勢について、ここまで来た」
「あなたみたいなお嬢さんが?」
女の返しは素朴で毒気がなく、それを聞いた娘はふっと表情を緩ませた。
「女が弓を取る部族だってあるさ。お嬢さん、と呼ばれるには年を食っているし」
「あら、気を悪くしたならごめんなさいね。末の娘が、あなたくらいの歳なものだから」
娘の黒ぐろとした瞳が瞬き、女を見つめる。そう、とこぼした声はやわらかい。
「ううん、嫌だったんじゃないんだ。ありがとう。ほんとのところ、弓も引くけども
……
一番は歌だな」
「歌?」
「うん」
頷いて、傍らに寝かせてあった馬頭琴に手を伸ばし、けれど触れる前に手を引き戻す。その手で膝を抱き、膝頭に頬をつける。
歌を語るに似つかわしくない、ぼんやりとした翳りが瞳に落ちる。
「歌を歌うと喜ばれる。恐れを払うことができる、憂いを忘れさせることができる。方々から集まった勇士たちの故郷の歌を、たくさん教えてもらってたくさん覚えた。喉を潰すほど歌って、話せるようになればまた歌った」
語り口が滑らかになるごとに、旋律になる前の剥き出しの、むしろ静かな言葉であるのに、鼓動を荒くするような拍子が自在に刻み込まれていく。
「我らは強い。恐れることはない。死すらも恐るるに足りない。誇りを燃え立たせろ。阻む者らを踏み潰せ。子のため、母のため、己を待つ乙女のため、刀を振るえ、馬を駆れ、死ぬ前になお殺せ。
――
戦いに出た男たちの、全員は帰って来なかったろう?」
は、と息を取り戻す音。目を瞬くのは女の番だった。
娘は膝を抱えころりと丸い姿のまま、微笑みに似た形に、口元へ小さく弧を描いた。青い飾り紐を編み込んだ太い三つ編みが片方、しなだれていた肩から、ふたりの間へ境界線を引くように滑り落ちる。
「おれの役目は、そういう役目」
女は、握り込んでいた手のひらを思い出した風に緩める。刺繍に覆われた服に寄った皺を丁寧に伸ばし、絡め合わせた両手へ視線を落とす。
羊の眠たげな鳴き声が、間遠に聞こえてくる。
「さっきのあなたの歌、素敵だったわ」
すぐには返事がなかった。ぎこちない間をおき、もうひとつ続ける。
「あれは何の歌だったの?」
「あれは
……
春に子羊を放しているときの歌」
「他にもある?」
「
……
もちろん、」
一言目は、まだ足元が定まっていなかったが。
ふらついた語尾を呑み込んだ二言目は、しばらく弾いていなかった楽器の、たわんでしまった弦を張り直すような声で。あるいは雪が溶けて、青々とした大地が息を吹き返すような。
ただ手を差し伸べられてのことではなく、それは彼女自身の意思でもあっただろう。
「もちろん、たくさんある」
馬頭琴が手に取られる。弦の上を弓が跳ねる。蹄の刻むのに似た軽やかな拍子に重ねて、瑞々しい歌声が溢れ出す。
娘の声の中に、若駒が2頭立ち現れ、草原の風に戯れる。ただひとりだけが、その光景に耳を傾ける。束の間共有されたささやかな楽しみは、それほど長い時間のことではなかったに違いない。
どれもあっけらかんとした歌ばかり、もうひとつふたつ歌って娘は去っていき、天の頂に向かってまた少し座を移した太陽が残された。
その後しばらくの月日が経ち、サマルカンド陥落の報がシルクロードを揺るがすこととなる。
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