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2025-05-15 16:36:29
4407文字
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【敢高】かたちのない夜に

※直接的な描写はありませんが事後です

 ゆったりとしたぬるま湯のようなまどろみの中、覚醒のきっかけは僅かな肌寒さと衣擦れの音だった。ぼんやりと唯一開く右目の瞼を持ち上げる。カーテンの隙間からじんわりと滲むように漏れる白い朝日に、白い天井が帯状の模様を描いていた。自分の部屋では無い、とすぐに気が付くが見慣れない天井というわけでも無い。
 いつの間にか掛布団の上に出していた腕をごそりとぬくもりの中にしまいながら寝がえりを打とうとして、頬に柔らかな黒髪が触れると同時に隣に温もりがあることに気づき一気に目が覚めた。背中にひやりと冷たいものが流れて飛び起きそうになり、僅かに身を起こしたところで自分に背中を向けて眠る相手の横顔を認識し、動きが固まった。そして、昨夜のことをようやく思い出したのだ。

 昨日、長く携わっていた事件にひとつ区切りをつけることが出来た。母子殺害という凄惨な事件が発生したのは一年近くも前の話で、逃亡していた犯人を逮捕出来たのが二日前の話だ。無事送検することが出来たとはいえ、ここまで時間が掛かってしまったのは十カ月前の雪崩事故による敢助の行方不明から派生した長野県警本部内のごたごたが、捜査の遅れに無関係であったとはとても言えない。敢助だけでなく高明も、この事件から一度外れる事を余儀なくされてしまったのだから。
 犯人の逮捕と送検を遺族に伝えたのは高明だった。直接会って伝えることに拘った彼は、遅くなってしまったことを詫び亡くなった母子の遺影が飾られた仏壇に手を合わせたのだという。県警本部に戻って来た高明は常と変わった様子はなく、退勤時間まで通常通りの勤務をしていたが、敢助は彼の見慣れた姿勢の良い背中にどこか憂いを感じて呼び止めた。「話したい事があるから夕食を買ってお前んちで」と言えば、高明は拒絶することなく彼の車を玄関前までまわしてくれた。
 高明がひとりで暮らすのは、敢助の実家ともほど近い場所にある一軒家だ。諸伏、と表札の出されたその家は築三十年を超える二階建ての、敢助も子どもの頃から良く遊びに来ていた洋風の家で、『長野県夫婦殺害事件』と名付けられた凄惨な事件の現場でもあった。
 高明の両親が殺害されたのは、彼が中学生の頃だ。林間学校から帰宅し、家の中で殺害されていた両親を見つけ通報した。この事件が解決し、犯人が逮捕されたのは発生から十年以上も後のことになる。
 当時高明は長野市内の親戚の家に預けられることとなったが、どうか犯人が捕まるまでは事件現場である家を保存して欲しいと懇願したのだという。高明が警察学校を卒業したと同時にこの家は高明の名義となり、犯人が逮捕されようやく家の中を綺麗にリフォームした。
 両親を失い、敢助は殆ど顔を合わせた事が無かったが唯一の肉親である弟とも離れて暮らさねばならなくなった高明は、あの頃から随分と大人びた少年だった。今思えば、中学生から強制的に大人にならざるを得なかったのかもしれない。
「ご遺族に犯人逮捕まで時間がかかりすぎたと詰られました。妻と子どもを一度に喪ったのですから、その怒りは当然です」
 風呂上り、高明はぽつりと言った。真新しい安物のスウェットに着替えた敢助とパジャマ姿の高明は、互いに缶ビールを傾けつつスーパーで買った総菜をつつきながらだった。話がある、などという敢助の言葉がただの建前であることは高明には最初からわかっていたようで、小皿に乗ったポテトサラダを見つめながら更に小さく言葉を続ける。
「お前に俺の気持ちなんてわからないだろう、と言われました」
 ビールを飲むペースがいつもより早かった。明日は互いに非番だということは分かっていたが、飲ませすぎるのはまずいと思い敢助は勝手知ったる諸伏家のキッチンでグラスに水を注ぎチェイサーとして手渡す。ありがとうございます、と律儀に言った男の横顔は普段と変わらず人形のように整っているが、疲れているなと敢助はひと目でわかった。身も心も疲れているのは敢助も同じだったが、状況は違うとは言え、家の中で家族が惨殺されるという事件の内容において高明が何を思い出しているのか想像することはできる。
 想像することしか、出来なかった。
 新たなビールに伸ばされようとする手を取って、敢助は白い顔に朱が差してきていた高明を引き摺るようにベッドまで連れて行く。ひとりで歩けないほどでは無かったが、高明は素直に敢助に手を引かれてベッドに横になった。大人しくて調子が狂う、と敢助がからかい混じりに笑うと、高明は敢助の手をおもむろに引いた。倒れ込むように高明の上に覆いかぶさることとなった敢助は、上体を起こす間もなく強く抱きしめられた。掻き抱く、と表現するのが最も適切だと思えるほどに、彼の長く白い腕は敢助の背中に回り両手の指がスウェット生地を掻くのがわかる。
 高明を弱いと思ったことは一度も無い。体力も頭の出来も、いつだって張り合ってきた相手だ。彼が弱音を吐くところも、泣いたところも見た事が無い。だが、傷つかない男だと思ったことも一度も無かった。そして、傷ついた時には誰にも寄りかかろうとしない男だということも知っていた。何故なら、自分とは正反対に見られがちな高明が、その実とても自分と似ている事を知っているからだ。辛いとも、苦しいとも、悲しいとも言わない高明を敢助は力の限り抱き締め返す。僅かにしっとりと水気の残る髪に、白いものが混じる旋毛に唇を押し付けたのは敢助がそうしたかったからで、腕の中に納まった高明はびくりと肩を震わせてから、可笑しそうにくつくつとくぐもった笑い声をあげた。くすぐったいですよと言ったのか、痛いですよと言ったのかは思い出せないが、そう言って笑った薄い唇を噛みつくように塞いだのは確かに敢助の方で、アルコールで熱を帯びた舌を差し出してきたのは高明の方からだった。
 慰めるつもりなど無くて、ただ単純にそうしたかっただけだ。この男の心の柔らかい場所に触れて、それを大事に扱いたかっただけだ。
 けして柔らかくは無い肌に触れるのは心地よくて、言葉も無く強請るような彼の舌の熱さや色づいた指先、泣かない男の睫毛が濡れるのを見てたまらなく興奮した。高明のブルーグレイの瞳が水を張ったように濡れて、敢助だけを映しているのがわかり頭の芯の部分が焼けるように熱くなった。頑ななまでに抑えた声の合間に漏れる微かな甘い嬌声と、湿度のある息遣いと、暗闇の中やけに白く目に着く男の喉が反る曲線に笑えるくらいに煽られた。その行為がどういった意味をもつものか、互いに子どもでは無いのでわかっていたはずなのに、互いに老成しきってもいないから高まる熱に流される。それで良い、としたのはお互い様だった。

 ふ、と敢助は笑ってしまう。互いに三十五にもなって、学生のようにがっついてしまったという自覚はあった。見える場所に時計は無かったが、まだ部屋の中は薄暗く太陽の位置は低そうだ。今日は互いに予定が無いことは分かっているのでもう少し寝直そうかと思ったが、今更ながら平均身長を上回る男二人が眠るにはこのベッドは狭い。高明が落ちないように、腰をそっと抱き寄せた。途端、腕の中でびくりと高明の小柄とは言えない体が震える。
「起きてんじゃねーかよ」
 こちらに背を向けたままの高明に、敢助は毒づいた。起きたならば声でもかければいいものを。起きているのなら遠慮はいらないと、腰を強引に引き寄せて乱れた黒髪の間から覗くうなじに唇を押し付ける。腕の中、掌が触れる平たい腹筋がきゅっと緊張したのが伝わってきた。
「ひげが」
 敢助の耳を掠めた声は明らかに掠れており、その事実に高明自身も気づいたのだろう、中途半端に口を噤む。うなじに敢助の無精髭が当たって嫌だ、と言いたいのだろうが全て言い切らないのなら配慮する必要も無い。うなじから首筋、少し骨ばった白い肩にまで唇をずらしていけば腕の中の男は何やら悔し気に唸る。らしくないことをしているという気恥ずかしさが無いわけでは無いが、徐々に明るくなってきた室内で頑なに顔を向けようとしない頑固な男をからかうのは気分が良いのだ。
 昨夜、互いに熱を吐き出したところで疲労と酔いに身を任せて眠りに落ちた。最後まで至らなかったのは、心も体もまだ整っていなかったから――準備が必要なことは、互いにわかっていた。身も心も互いに準備が整っていればきっと、敢助は高明を抱いていただろうと思う。高明がそれを望むのなら、きっとそうなっていた。昨夜の様子からして、準備さえ整っていれば彼もそれを望んでいた……ように、敢助には思えたから。
 こくり、と高明が唾を飲む音が微かに聞こえた。それほどに、この部屋は静かだ。窓の外から小さく小鳥が囀る声と、新聞配達員であろう原付のエンジン音が遠ざかるのが聞こえるだけ。少しずつ、まどろみが舞い戻ってくる気配がある。
「昨夜のことは」
「忘れましょう、ってか?」
 高明が言うであろう言葉を、敢助が先回りする。図星だったのだろう、高明が黙り込んだ。長めの黒髪が邪魔で、後ろからでは高明の表情はわからない。
「嫌だったか? 俺の独りよがりだったか?」
 弱みを見せない男を、敢助は背中からじわじわと追い詰めてゆく。腕の中に囲い込み、柔らかさの無い手を取って指を絡める。こっちへ来いと念じるように。
……そういう、問題ではないでしょう」
 頑固な奴だ、と敢助は苦笑する。何を言ってもきっと、気の迷いだの何だのと得意の小難しい言葉を使いはぐらかすに違いない。それならば最後まで抱いてしまえば良かったとも思うが、敢助には高明を傷つけて喜ぶ趣味もなかった。
 二人分の体温でまどろみが深くなってゆく。ここ最近は休みも返上して仕事をしていたから、疲れも溜まっていたのだ。もうあまり無理が効く歳でも無い。
「良いから、もう少し寝ろ」
 高明が忘れたいと思うのなら、別に忘れたってかまわないのだ。自分が覚えていれば良いのだから。そうしておけば、高明もプライドを保てるのだろう。少しは人に甘えれば良いのにと思いつつ、それが出来ない男の心も手に取るようにわかる。まったく似ていないようで、似ているから。
 目が覚めた時にまだこの男がここにいたら、今度は最後まで抱かせろと言ってやろう。そうしたい、と思った事実を受け入れて提示してやればきっと、頑固な高明は見た事も無い顔をするに違い無い。嫌だと拒絶されることは無いはずだ、という妙な自信が敢助にはあった。
 窓の外から聞こえる車の音が増えてくる。この、平和とは言い切れない街にも朝がやってくる。いつもと変わらない、けれど、昨日とは違う朝だ。
「君って、時々狡いですよね」
 呆れが混じったような声。
 敢助はまどろみに抗えず、目を閉じた。