河童の皿箱
2025-05-15 09:46:30
2652文字
Public 遊戯王:短め(2025年度)
 

悪癖

悪い癖を直したいディア・ノートと、別にいいんじゃないかと思ってるワゴン

 「私はふたりほど、上手にはできませんから」。そう呟くのは、3人組の能楽師の、真ん中の子。いつもの溌溂として快活な様子はしおり萎れて、稽古のためにと結い上げた髪が、はらりと零れる。「いけない」、と。一度髪を解き、長く長く伸ばし続けている若芽色を掌で捕まえては、ひとつに纏める。
 相対するは、稽古に付き合ってほしいと呼び出された雅楽師、ワゴンである。開いているのか、閉じているのかもわからぬ細い目が、真っすぐに能楽師を見据えれば、けれど、うぅむ、と唸った。

 断じて下手なわけではないのだ、この子は。それでも、この子は悩んでいる。

 今時珍しい木造の床。それを囲い込む木造の壁。その一面に描かれた一本松の前に、能楽師は正座をしては、キリリと凛々しく、雅楽師と向き合った。

 シン、と静まり返る稽古場。普段であれば、浮世絵師やほかの能楽師たちと共にここへとやってきては、どったんばったん賑やかに稽古をする。打ち合わせやれ、番組作りやれ。演目をまとめ、パフォーマンスとして昇華する大事な拠点である。だが、時は夕刻。ある程度の流れを確認できた仲間たちはふたりを残し、先に各々の部屋へと戻っていった。

 「どうか、もう一度。お願いします」。恭しく頭を下げられようが、なんだろうが。雅楽師の答えは、ただひとつだけしか用意していない。

 カラリと響いた琴の音に、ひゅるりひゅうるり笛の音と、とつん、とつんと鼓の音。つま先ひとつ、トンとならせば、小さな体はくるりと宙へ。面の光がピカリ煌めき、角の先より現われ出でるは、鹿の角を持つ気高き仙人。ひらり翻る振袖の、末より響きし歌声と。混ぜあう声の、威勢に乗せて。ふわりほほ笑む、仙人の……

 「……あー! ダメ! 違う! そうじゃなくって!」。ブンブンブンと、激しく首を振っては、能楽師は動きを止めた。「ごめんなさい! もう一度!」。深々と下げられた頭に、雅楽師は微笑む。「ははは。えぇ、えぇ。納得ができるまで、何度でもやろうじゃあないか」、と。
 何度も何度も躓くその箇所。己を出してはならぬはずのそこで、ついつい頬を緩めてしまうのだ。気が緩んでいるわけではない。何故かはわからないが、いつも微笑みを客席に向けてしまう。そのような悩みを打ち明けられて、早数日。この演目を繰り返し、繰り返しても、それでもその癖はどうにも直らなかった。
 勝手に緩む頬を手で挟み、恨めしそうにムニムニといじくりまわす能楽師。そんな姿に、雅楽師は内心、それでもいいんじゃないか、と言葉を掛けたくなるも、飲み込む。本人が納得していない以上は、言うべきではない。
 ふわり、舞い上がれば、衣もまた、バサリ。中空の舞と、一本角の仙人と。雨などいらぬと怒れる者の、けれどやっぱり、微笑んで。違う、違うのと首を振り、また初めから。能楽師がここまで理想の形にこだわるのには、理由があった。

 『能楽師セアミン』は、3人いる。シテの上の子と、裏方の下の子と、そしてワキ、或いはアドを務める中の子である。上の子は普段ぼうっとしているが、ひとたび演じるとなれば、その身に神霊を憑依させるかの如く、神がかりという他無いほどの迫力のある演技を見せる。そこに己はなく、かけた面の淡い表情に、鬼気迫る狂乱に、或いは滑稽な姿に、観客は集中ができるのだ。
 一方の下の子は黒衣を纏い、衣装に小道具にと、実に様々な補助を担っている。必要な物を瞬時に嗅ぎ分けて、トラブルがあればサッと対応し、演目を円滑に進行させてくれる。そんな合間合間にも、人形を遣ってツレなりアイなり演じては、主役を引き立たせるために、何事にも臨機応変に対応する。
 そんなふたりを誇りに思うとともに、けれど羨ましくも思うのと、中の子はポツリ零した。ふたりはとかく、理解が早いのだ。ひとたびのリハーサルで流れを理解し、上の子は所作の磨き上げては、表現を自由自在に操り、時には演目を自分で作り上げ、長たる浮世絵師にさらなる提案を持ちかけている。下の子はそうして素早い理解で得た時間で能楽の枠を飛び越え、揃えた機材を改造したりと、全く別の分野でも活躍している。けれど、自分はそこまでではない、と。ほんの時折にしょんぼりしょげて、けれど、少しでも追いつくためにと。
 幾度も、幾度も繰り返す。練習、練習、また練習。毎日、毎日、欠かすことなく。ふたりよりも長く。雅楽師もまたそれに付き合っては、けれどとひとつ、思うことあり。

 上の子と下の子の呑み込みが早いのは確か。しかしここには、からくりがあるのだ。中の子がこうして熱心に練習に取り組んでは、演目のあらすじを謡本から書き起こす。いざ皆が集まってリハーサルを行うよりも少し前。読み合わせの際に、中の子が上の子と下の子にあらすじを読み聞かせ、演技で気を付けるべき点をひとつひとつ、実演を交えながら丁寧に説明する。そうした注釈を頭に入れたうえで、上の子と下の子は演技を行う。
 ――そう。上の子と下の子が素早く理解できるのは、紛れもなく中の子の指導のおかげなのだ。いわばこの特訓こそが、『セアミン』の土台になっているといっても過言ではない。それに付き合う雅楽師も、付き合いとは名ばかりで、より良い表現を突き詰める中の子に感化されては、応えるべしと、より演奏に磨きをかけている。

 『セアミン』は、3人の天才によって形作られる。ひとつは、演技の天才。ひとつは、技術の天才。そしてもうひとつは、その才覚を繋ぐ、努力の天才。それを慰めとして口に出すほど雅楽師は野暮ではなかった。かわりに、これが終わったら思いっ切り抱きしめて、甘やかしてやろうと。雅楽師は密かに画策した。
 そんな真面目で熱心な中の子が唯一、三位一体の能楽師、『セアミン』として。上の子が改良した演技を真似する上で、直したいと願うのが。

 「だからっ! もうっ!」。恥ずかしそうに、赤く染まった頬をむにむに。勝手に緩む頬をぺちぺち。どうにもついて直らない、ファンサービスの癖。こればっかりは、自分との戦い。珍しくしょぼくれて卑屈になるほどの悪癖というわけではないのだが。
 何度見てもかわええのう。本人からすれば悪戦苦闘の悩みとはいえ、これほど愛らしい姿を独占できるのは、いわゆる役得であった。つい溢れそうになった言葉と頬の緩みを必死に堪え、雅楽師は夕飯時までひたすら、皆のためにと特訓に励む能楽師のそばで奏で続けた。