史加
2025-05-14 16:28:57
13955文字
Public 原神(鍾タル)
 

この胸を焼くもどかしさに愛と名付ける権利を

鍾タル/死体を埋めるタルと先生の話




 朝というものは必ずしも清々しいものではない。人間や動物が野生の勘のようなものを発揮することがあるように、魔神というひとならざるものは目覚めたその瞬間にえも言われぬ予感を覚えることがある。それは吉兆のこともあれば、凶兆のこともある。
 今朝の空気に混じるのは後者の気配だろうか。重く垂れこめる鈍色の雲と、質量を感じさせる生ぬるい大気。泣き出すのを耐えている空模様を見た鍾離は顔を洗い、身なりを整えると、傘を手に外へ出ることにした。
 朝の散歩で通る道はいくつか決めてある。早朝から働く人々の活気に触れたければ埠頭を、飛び交う鳥の声に耳を傾けたければ天衡山を、草花を愛でたければ玉京台を、そしてただ漫然と朝の空気に身を浸すだけなら人目を避けて帰離原、もしくは青墟浦を目指す。そも、雲行きの怪しい朝に散歩など、と普通の人間なら思うだろう。食料の蓄えも十分で、わざわざ朝食を求めて出かける必要だってない。だが鍾離は目覚めとともに意識に引っかかった予感を捨て置こうという気になれなかった。
 長い長い時を生きていれば、年に数度こういう朝がある。それを杞憂と切り捨てて後悔した経験も、逆に見て見ぬふりをしておけばよかったと項垂れた経験も、鍾離という男の身の裡には詰まっている。予感は漠然なもので、切り捨てるべきか否かを判断することは六千年を生きていても不可能だ。だからそれを察知するたびに、鍾離は自らの手で拾うか捨てるかを選ばなければならない。
 さて、今回拾うことを選んだのは鍾離にとっての吉と出るか、凶と出るか。
「おや、鍾離先生じゃないか」
 路地を進む鍾離の耳に、軽薄な声が届く。石畳を踏む足を止め、鍾離はそれまで人っ子ひとりいない通りに突然現れた――否、まるで誰かを待ち伏せるように身を潜めていたタルタリヤの姿を認めた。
「丁度良かった。出会い頭に頼むのも趣味の悪い話だと思うけど、こんな日に朝から散歩をしているくらいだから暇だろう? 少し手伝ってくれないか」
 沈んだ青色のひとみはいつにもまして感情が読めない。ただ鍾離はもう「選んだ」後だ。拒絶の色を滲ませることなくじっと彼の顔を見つめる。
 色素の薄い肌は曇天の下にあるからか、常よりも白い。
「死体をひとつ、片付けたいんだ。協力してくれたらお礼に琉璃亭での食事を奢るよ」
 ざわり、と。湿度の高い風が鍾離の頬を撫でた。
……対価として差し出すものが安すぎると思わないのか」
 突拍子もない頼み事だが、六千年も生きていればただの情報として脳に留め置くくらい造作もない。
 普段通りの声で尋ねると、タルタリヤは飄々とした笑みを浮かべてみせた。
「ハハッ、確かに。それじゃあ……そうだな。先生が欲しいものをひとつ、手に入れるのに協力する。多額のモラが必要なものなら俺が払うし、璃月では手に入らないものなら俺が他の国で情報を集めて手に入れてみせよう。どうかな」
 相変わらず青いひとみの底は読めない。ただ、相手がいつになく慎重に、諦念を手放さないようにしながらも鍾離の様子を窺っていることだけは確かだった。
 今ここで問い質したところで、タルタリヤはのらりくらいと躱すだろう。あるいは「頼み事」をやっぱりなかったことにして姿を消してしまうかもしれない。そうなればきっと後悔する、という予感がある。
 こつりと石畳を鳴らして、鍾離はタルタリヤの真横を通り過ぎる。
「着いてこい」
 ――この男が今と未来を確かに握り締めているのなら、わざわざ契約を結ぶまでもないことだ。
 必要な情報は道すがら話してくれるだろう。そう思いながら、鍾離は頭の中に璃月の地図を広げた。この広大な国には「死体」を処理するのに差し障りのない場所がいくつかある。そのうちここから最も近い場所を選び、後ろからタルタリヤが着いてきているのを確かめながら歩を進めた。


 


 往生堂の客卿という身分で俗世を生きる鍾離は、当然のことながら生と死に近い場所に立ち、それらに関する深い知識を有している。死体の処理方法と弔い方については言うまでもない。
 同時に、目の前の青年に対し基本中の基本から説く必要がないことも心得ている。スネージナヤの擁する外交と防衛の役割を兼ね備えた組織、その執行官として生きる彼もまた、死についてよく知っているからだ。
「手伝ってくれって言ったけど、先生はただ俺に、死体を埋めても差し障りのない場所を教えてくれればいい。それ以外のことは俺がやる」
 道中歩きながらタルタリヤはそう言った。その両手は荷車を引いている。璃月港を出てすぐに「連れてくるから少し待ってて」と言い、引っ張ってきたものだ。貨物を装い布に覆われたそれからは、常人ではまず気付くことのない死臭と澱み、そして瘴気が感じられた。
 空は依然として暗く、一日の始まりを迎えたとは思えない色をしている。層岩巨淵へと通ずる道をはずれ、草木の生い茂る獣道を進む間、タルタリヤは口を閉ざしていた。いくら彼が鍛え上げられた肉体を持つ武人であるとはいえ、ぼうぼうと茂る草が車輪に絡まり、地面の凹凸が荷車を揺さぶる道を進むのは体力を要することだろう。しかし鍾離が手を貸そうとしたところでおそらくこの男は首を振らないし、勝手に手を出せば機嫌を損ねる。鍾離は時折タルタリヤの横顔を窺い、額やこめかみから伝い落ちる汗の粒と、重労働の割に赤みを帯びることのない肌の色を確かめながらただ道案内に徹した。
 そうして、璃月港を出て二時間は経った頃だろうか。
 青墟浦の近郊、岩肌と木々に覆い隠された何もない草地で鍾離は足を止めた。
「ここだ。地脈の収束点から離れた場所にあり、人や魔物が寄り付くこともない。仙人が好き好んで暴くようなこともしないだろう」
「ありがとう。それじゃあ悪いけど、念には念を入れて見張りだけ頼んでもいいかな」
 やはり必要以上の手出しをさせるつもりはないらしい。すでに汗だくになっているタルタリヤの言葉に頷き、鍾離は少し離れた場所にある木の幹に背を預けて見届けることにする。
 荷車にあらかじめ積んでおいたのだろう、シャベルを手にしたタルタリヤはざくざくと草地を掘り起こし始める。無駄な体力の消耗を避けるためか、その口が言葉を紡ぐことはない。黒い腐植土の湿った匂いと、シャベルで無残に切り刻まれた草葉の青臭さが鼻をつき、周囲の空気を陰鬱なものへと変えていく。頭上に広がる雨雲よりもよっぽど重たく感じられる沈黙の中、鍾離はタルタリヤの一挙手一投足をずっと眺めていた。
 手套に覆われた手がシャベルを握り締めて、淡々と穴を掘り広げていく。軍靴が泥土と草露で汚れていくのも気にせず、死体を埋葬するための準備に集中する年若き執行官の姿を、はたして彼の下で働く者は見たことがあるのだろうか。苛烈な戦場では捨て置く以外に選択肢のない骸を彼が弔おうとする、その理由を知ることの出来る者は、はたして。
 鍾離が物思いに耽っているうちに、成人男性ひとりが寝そべっても余りある大きさの穴が作られる。タルタリヤはシャベルを適当に地面に突き立てて荷車へ戻ると、布を取り払い、その下に積まれていた長方形の木箱を抱え上げた。上蓋に紋を刻み、呪符で封をされたそれは、ただの棺と呼ぶには物々しい。通常はひとりで抱えるべきではないものを、彼はそうするのが当たり前だと言わんばかりにその細腕で運ぶ。ここまで来ても鍾離が助けを求められることはなかった。
 やがて、タルタリヤの身長とほぼ同じくらいの長さの箱が穴の中に設置される。
「俺の知るやり方と、璃月の仙法、それに稲妻の符術を組み合わせたんだけど、足りるかな」
 不意に尋ねられた鍾離は、いくつかの封印を施されている箱を注意深く観察して、勤勉なものだと感心した。
 璃月という土地の地脈と境界。それらに馴染みやすく、かつ悪影響を及ぼさぬよう璃月の仙術をベースに、鍾離の知らない術式によって水元素力が組み込まれ、箱の中に収められている「モノ」が外界に害なすことのないよう封がなされている。ごくわずかに臭気と瘴気が漏れ出ているものの、鍾離だから気付ける範囲のもので、大地を汚染するには到底いたらない。地中に埋めておけば時の流れと共に水の力が穢れを払い、やがては箱ごと腐敗してただの土へと還るだろう。
「十分だ」
 簡素に答えると、タルタリヤは少し安心したようだった。深く息を吐き出した後、地面に突き立てていたシャベルを引き抜き、箱に土をかぶせて埋めていく。最後まで鍾離の手を借りることなく彼は「死体」を埋め、なるべく不自然さの残らぬように大地を均し終えた。
 鉛色の空はまだどうにか平静を保っている。
「終わったよ」
 シャベルから手を離したタルタリヤが、ようやく口を開いた。 
「それはどうするつもりだ」
 空っぽになった荷車と土まみれのシャベルを指して尋ねると、後で信頼のおける部下に場所を伝えて回収、処分させると言う。ならば最初からすべて部下に任せればよかったのではないか、と追及することはしない。この男が、雑用であれ何であれ身体を動かせるのなら何でも請け負うような愚者ではないことは知っていた。
「では、帰るか」
 代わりにそう言ったところで、鍾離の頬にぱたりと冷たいものが当たる。頭上に広がる暗雲は限界を迎えたらしい。ぽつぽつと降り出した雨はすぐにでも勢いを増しそうだった。
 タルタリヤは荷車に傘を積んでこなかったらしい。濡れるのも気にせずそのまま歩き出そうとするのを見て、鍾離は持参していた傘を開くとタルタリヤの目の前に差し出す。
……何?」
 仄暗い色をしたひとみが怪訝そうに鍾離を見た。
「欲しいものをひとつ手に入れるのに協力してくれる、と言ったな」
「ああ、言ったけど……それで?」
「璃月港へ戻ったらすぐにでも協力してもらいたいものがある。だからお前に風邪をひかれてしまっては困るのでな」
 万の言葉を知り、扱うことに長けている鍾離にしてはずいぶんと拙い言い訳だった。けれど人間ひとりぶんの死体を運び、埋めるという重労働を終えて疲れた様子のタルタリヤに、それを言及するだけの余裕はないようだ。大人しく彼が傘の中に入るのを確かめると、鍾離は歩幅を揃えて歩き出した。
 荷車の轍を、ふたりの足跡と降りしきる雨が消し去っていく。瞬く間に激しさを増した雨に容赦はない。たちまちのうちに大地は泥濘み、ばしゃりと跳ねる泥水がふたりの靴やスラックスの裾を汚す。むせ返るほどの土の臭いと雨音、そして真っ黒な雲に覆われた空に人々は凶兆を見出しがちだが、はたして本当にそうなのだろうか。
……アビスの侵食がひどくて、手遅れだったんだ」
 ばたばたと傘を叩く雨の音に混じって、タルタリヤの声が響いた。傘の柄を握る手の強さも、璃月港へ向かう歩みの速さも何ひとつ変えることなく、鍾離はただ耳を傾ける。
「本当は故郷に連れ帰ってやりたかったけど、船を手配するにも、火葬するにも時間がなかった。俺が発見したときにはすでに人間のかたちですらなくなっていたからね。燃やしたところで持ち帰れるような灰にはならないし、処理を誤れば汚染が残って次の災いを生む。俺が炎元素の使い手だったら綺麗に焼き尽くしてやれたんだろうけど、生憎知っている方法は水の力を駆使する方法だけだった」
 淡々と語る声には、複雑に混ざり合いすぎて起伏をなくした感情が居座っているようだった。
「それに彼は遺書を残していて、「もしもの時はドッグタグだけを故郷の妻へ」と書かれていた。いつだったか、俺の妹や弟と同じ年頃の娘と息子がいて、子どもたちにはファデュイであることを隠しているんだって言っていたな。だからきっと、兵士としての死に姿を彼らには見せたくなかったんだろう。真実を打ち明ける時期は妻に委ねていて、彼女もそれに同意しているとも言っていたし」
 まだ二十年程度しか生きていない青年の口から紡がれているとは思えない言葉の羅列が、雨音に溶けることなく鍾離の耳へと届く。魔神どもが領土を巡り争い合っていた時代も、あの厄災がテイワットに降りかかった時代も終わったというのに、冬国の戦士の生き様はかつての戦乱の世を思い起こさせるものだ。
「戦士としても、父としても立派なひとだったと思う。必要悪となることを恐れはしないけど、不必要に手を染めることを良しともしない……この組織にいる人間の中ではかなり珍しくまともで、誠実な人間だったんじゃないかな」
 ふう、と息を吐き出した青年の横顔を覗き見るような真似は、鍾離には出来ない。彼の部下や旅人であればそうしただろうが、魔神は本当の戦を、そして次なる戦に繋がりかねない傷痕が今もなお世界中に残っていることを知っている。
 この武人が故郷を、部下を想い、自分の手で守れるものは何であると判断したのか。あるいはすべてが自らのエゴに過ぎず、いつか綻びの生じる日が訪れると知りながら、何を守ろうとしているのか。そこに安易に踏み込んでいい権利など誰にも無い。
……先生が手伝ってくれて助かったよ」
 だから、拾うことを選んで正解だったと、鍾離は静かに胸を撫で下ろすだけに留めた。
 
 
 


 耐えに耐えた上で一度降り出した雨はなかなか止む気配がない。
 傘を差してはいたものの、結局頭と肩以外ほとんどずぶ濡れの状態で鍾離とタルタリヤは璃月港へと戻ってきた。おそらく今日は一日この調子で、夜を迎えるまで雨脚が弱ることはないだろう。
「そういえば、手に入れるのにすぐにでも協力してもらいたいものがあるって言ってたけど何だい?」
 いつもの掴みどころのない声で尋ねてきたタルタリヤの肌は相変わらず白いままだった。青褪めているわけでも、土気色をしているわけでもないが、人間の温度が宿っているのかとつい訝しんでしまうほどには白い。ずっと歩き続けていたとはいえこの雨の中だ、身体も幾分か冷えてしまっているだろう。
「外で話すのは少し、な。俺の家まで来てもらえるか」
「構わないよ。今日は一日休暇を取っているんだ」
 なるほど、いいことを聞いた。呟きを胸中に留め、鍾離はひと気のない道を選んで自宅へと向かう。この大雨だから普段よりも璃月港は静かなものだったが、それでも今は知人との接触を避けたい気分だった。
 さして時間をかけずに家に着き、傘を閉じてタルタリヤを玄関へと招き入れる。手套を外し、雨水を吸って重くなった上着を脱いで腕にかけている間、タルタリヤは玄関口で微動だにせずにいた。
 床が濡れるのを気にしてか、別の理由があってか。なかなか上がってこようとしない彼の手首を掴み、鍾離は半ば無理矢理寝室まで連れて行く。
「ええと、先生?」
 困惑したような声を出すタルタリヤに、抽斗から洗いたてのタオルを数枚引っ張り出して投げ渡した。
「そのままだと風邪を引く。今着替えも渡すから服を脱いで待っていろ」
「別にそこまでやわじゃないし平気だって。それよりも床がべちゃべちゃじゃないか」
「後で拭けばいい。とにかく大人しくしていてくれ」
 仮にここでタルタリヤが暴れたり、寝室の窓から外へ出て行こうとしたりしても、家に足を踏み入れたその瞬間からシールドを張り巡らせているので鍾離が困ることはない。言い含めたのは、それに対するタルタリヤの反応を見るためだ。
 タオルを受け取って茫然としていた彼は、こくりと頷く。親に叱られ、勢いに呑まれてしまった幼子のような仕草だった。重い溜め息がこぼれそうになるのをどうにか堪えて鍾離は衣装棚を開き、自分とタルタリヤふたり分の着替えを用意する。
 本当は湯を沸かし、風呂で身体を温めてから着替えたほうが効率が良いのだが、生憎今は湯浴みよりも優先しなければならないことがある。着替えを選び終えて振り返ると、タルタリヤは制服の上着を脱ぎ、濡れたスラックスから足を引き抜くのに苦戦しているところだった。指先の感覚を鈍くする手套を外さずにいるのだから当然だろう。それは彼もわかっているはずだ。
……貸しなさい」
 今度は押し殺すことが出来なかった。
 溜め息混じりに言い、鍾離はタルタリヤが脱ぎ捨てた上着と自分の上着を雑にまとめて置く。それから、すらりと長い脚に張り付くスラックスを下ろしてやって、足を抜くのを手伝った。臙脂色のシャツを留めるベルトも外して脱がせ、下着一枚の姿になったタルタリヤが無抵抗でいるのをいいことにそのまま寝間着を着せつける。これで少なくとも体温が奪われていくことはない。
……先生も着替えないと、風邪ひくだろ」
 されるがままになっていたタルタリヤが我に返り、苦し紛れに呟く。唯一手套だけまだ外されていない手が痛ましい。
「俺は問題ない。それよりもこちらが先だ」
 今更逃げられるはずもないのに。不器用な男だと思いながら、鍾離はタルタリヤを寝台に座らせ、彼の前に跪いた。やや強引に彼の手首を掴み、湿った手套を引き剥がす。
 生身の手が露わになった瞬間、タルタリヤは身体を強ばらせた。掬い上げた手を通して伝わる緊張が鍾離の胸の奥まで届いて、たまらない気持ちにさせる。
 武人の節くれだった手は、指先から第二関節ほどまでが黒く変色していた。今もじわじわと少しずつ肌の色を変えようとしているそれの正体など問うまでもない。
……いい、先生。自分で出来るから」
 余裕のない声でタルタリヤは言った。
 実際この程度なら、彼は自分で対処出来るのだろう。長時間その呪いと呼ぶべき侵食を受けていながらも全身に広めることなく、指先だけに留めているのが何よりの証拠だ。鍾離がわざわざ家まで招かずとも彼はひとりになれるタイミングを見計らい、治療したに違いない。
 けれど鍾離は今日、目覚めたその瞬間に選んでいる。今も璃月の空に垂れ込めている黒雲と同じく、かたちもなければ掴みどころもない予感を捨て置かないことを。その選択が己にもたらすものをすべて受け止める覚悟とともに。
「先生……
 懇願に近い響きを持つ声で呼ばれても、鍾離に最初から止まってやるつもりはない。アビスの侵食の影響を受けて氷のように冷え切っているタルタリヤの両手を己の両手で包み込み、元素力を流し込む。
 堅牢な岩の力は物理的に降りかかる脅威から人民を守ることに長けている一方、アビスの侵食のように内側から命を脅かすものを防ぎ、食い止めることは出来ない。だがタルタリヤの指先に留められているそれには彼自身の水元素力が混ざっている。ならば穢れを含む水元素ごと結晶化し、体外へ排出する手助けをすることは可能だ。
 手の甲から指先へ、静かに手のひらを滑らせる。鍾離の手の動きをなぞり、軌跡を描くようにタルタリヤの手は元の色を取り戻して、代わりに鍾離の手のひらに呪を帯びる水元素の結晶が生まれた。暗澹たる力が混じり、澱んだ色をしている結晶はそのまま黄金の光に包まれ、明滅し、やがて――ぱちんと弾けて、消滅する。
……いつから気付いてたの」
 鍾離の行いをただ見つめていたタルタリヤは、疲労の滲む声で尋ねてきた。侵食を指先に留めるのに相当精神力を費やしていたのだろう。青いひとみはどこかぼんやりとしていて、瞼が重く落ちそうになっている。
「最初から、すべてだ」
 答えると、青年はなんとも居た堪れなさそうな顔をした。兄や姉がいるとは思えない顔だ。その表情が鍾離の心臓を締め付けて痛ませるなんて、彼はきっと想像もしていない。
「湯を沸かしてくる。時間がかかるから、身体を冷やさないようにして少し休むといい」
 ぽん、と頭を撫でてやると、タルタリヤは素直に寝台の上に横たわった。肩口までしっかり毛布をかけてやってから、鍾離はようやく自身の着替えを済ませ、二人分の濡れた衣服を手に部屋を出る。
 屋根を叩く雨の音は激しさを増していた。遠くで雷が唸り声を上げている。両腕に抱えた服から漂う泥の匂いは、湿地や川べりが戦いの舞台と化した時の臭いに似ていて落ち着かない。
 まったく、酷い日だ。けれど止まぬ雨もないことを鍾離は知っている。雨上がりの透き通った空の美しさも、たくましく生き延びた花の蕾が陽の光の下で開いたときの鮮やかさも、外で遊べるようになったことを喜ぶ子どもたちの賑やかな声も、ただの雨雲ごときが奪い去れるものではない。無論、夜空に絶えず存在する極星の輝きも。
 ただ、あれは誰かにとっての星であると同時に、人の子なのだ。心ある生き物である以上、いかに強靭な精神の持ち主であろうと疲労を覚えぬ訳ではない。魔神とて摩耗から逃れられぬように、人間もまた加減を誤れば擦り減る。
 救ったなどとは思っていない。むしろ、「救える」と思い込むなどあまりにも烏滸がましいことだと理解している。
 鍾離は彼を見放さなかった。その結果後悔することになろうとも構わないと腹を括り、選んだ。それだけだ。
 
 


 
 彼は、年若い少年が「公子」の名を戴き執行官の末席に着いたそのときから配属されていた、手練れの戦士だった。
 故郷にいる父と世代を同じくする彼は、タルタリヤにとって信頼出来る部下のひとりだった。一個小隊の隊長を任せるに足るほどの実力を持ち、アビスとの戦いの経験も豊富で、他の兵士たちからも厚い信頼を得ている、タルタリヤよりもよっぽど上に立つのに向いている人間だったと思う。ただ彼は天才ではなく秀才で、ファデュイという国の暗部を担う組織に身を置くには善人すぎた。そういう人物だったから、最年少執行官の教育係として他の部隊から転属されたのかもしれなかった。
 彼が家族の話をするときの、年相応に皺の刻まれた顔と、穏やかな微笑みを覚えている。戦場に立つときの、研ぎ澄まされた戦士の横顔を覚えている。強大な魔物を相手にしても怯まず、タルタリヤの指示に合わせられるよう常に冷静沈着でいた表情を覚えている。
 タルタリヤが現場に駆け付けたときにはもう黒泥に呑まれ、肉体の変形が進んでいたけれど、まだ元の人間が誰であるか判断出来る状態だった。だから「彼」だと分かった瞬間にその心臓を貫き、泥に埋もれる身体へ手套を外した手を突っ込んで、鎖に繋がれているドッグタグを回収した。本来は侵食を回避するため絶対にやってはならないことだと理解していたが、タルタリヤにそうしないという選択肢はそのとき、無かった。
 執行官として名を戴いたその日から、タルタリヤは部下の命を預かり、戦場に立って生きている。だから、どれほど生に固執することを部下に説き、強い戦士となって生き延びるための術を教えても、喪失を避けられはしないということを身を以って知っている。人間よりもはるかに強大な力を有する魔神ですら数多の命を失って生きているのだ。「今」を作り上げている歴史がこの世の無情さを証明している以上、何の覚悟もなしに戦場に立つ方が愚かであることをタルタリヤは正しく理解している。
 割り切れなかったのか。否、タルタリヤはあの場に他の脅威がないことを確認し、部下の遺品を回収するのに時間を費やしても問題ないと判断していた。もしもまだアビスの残党がいたら、「彼」の心臓を貫いた刃でそのまま次の敵を屠っていた。その間にドッグタグは完全に黒泥の中に埋もれ、回収不可能となり、書面による犠牲の報告のみがなされていただろう。
 絆されたわけではないと言い切れるのか。否、言い切れない。彼が守ろうとするものは、タルタリヤが守ろうとするものに似ていた。だからあの任務を命じる前、彼から託された遺書の中身を読んだとき、極力最期の願いを叶えてやらなければと思ってしまった。
 それを守れなければ、タルタリヤもまた守れないのではないかと思ったから。
……う、」
 泥のように沈んでいた意識が浮上する。眠っていたというよりは、脳を占める情報を整理するのに強制的に外界へ向く意識を落としていた、といったほうが正しいだろうか。閉じていた瞼を押し上げると、何度か見た記憶のある天井が視界に入った。
 外はまだ雨が降っているらしい。淡々と屋根を叩く水の音がする。それから、ぺらりと紙を捲るかわいた音も。
……起こしてくれてよかったのに」
 のそりと起き上がり掠れた声で呟くと、寝台の傍らに椅子を運び、そこに腰かけて本を読んでいた鍾離が顔を上げる。
「疲れているようだったからな。無理に起こして風呂に入れてもかえって具合を悪くさせるのではないかと思ったんだ」
「そんなやわじゃないって……というかごめん。俺のせいで先生のベッド、臭うかも。濡らした床の片付けも任せてしまったし」
 どうして自分が鍾離の家にいるのかも、揃いの寝間着で寝室にいるのかも、タルタリヤは正しく覚えている。完全に失態を晒したなと思いつつも、不思議と羞恥が込み上げてくることはない。鍾離の朝の散歩のルートの中でも今日通りがかりそうなところに目星をつけ、待ち伏せていたのは利用するためだ。人間を捨て置けない神の性質まで計算に含めて行動を起こし、結果として目的を達成した。その後の世話を焼かれたのは想定外だったが、すべてをひとりで為すのに比べれば効率良く済ませられたので良いだろう。
 ……否、本当は分かっている。タルタリヤはただ、甘えたかっただけだ。己の情けなさを正しく理解し認めているから恥じらう必要がないだけで、言い訳を並べることに意味はない。
 ともあれ湯を浴びて身を清め、それからベッドのシーツや枕を替えるくらいは自分でしなければと思って立ち上がろうとする。しかしそれは叶わなかった。いつの間にか本を閉じた鍾離が寝台に乗り上げ、タルタリヤを抱き締めたからだ。
「ちょっと、鍾離先生……ッ!?」
 ぼふん、と音を立てて頭が枕に沈む。タルタリヤを腕に抱え込んだまま鍾離が身体を倒したことで、もろともベッドへと逆戻りしてしまった。 
 一体何を考えているのか。さっきは風呂を沸かしてくるから少し休んでいろとか言ってたくせに。まさか自分が入浴したいだけだった? いやいやそんな馬鹿な。死体を埋めるという重労働をしたタルタリヤの身体は汗臭いし、雨と泥のにおいだって染み付いていて不潔である。すぐにでも丸洗いするために浴室まで担ぎ込まれるのなら理解出来るが、抱き枕にされるのはいくらなんでもおかしくないか。
 困惑するタルタリヤの額に、こつりと鍾離の額が押し当てられる。睫毛の触れ合いそうな距離で黄金が安心したように緩むのが見えた。
「熱はないな」
……だからさ、俺はそんなやわじゃないって言ってるだろ」
「だが公子殿、お前は何時間アビスの侵食に耐えていた? 汚染を取り除いたとしても消耗した体力が戻るわけではない。いくらお前が丈夫でも、遅れて体調を崩す可能性はある」
「それは否定しないけどさ……でも本当に大丈夫だよ。それにいくら俺でもさすがにこんな汗臭い状態で人のベッドを借り続けるのは気が引けるっていうか」
「もっと盛大に汚したことだってあるだろう。今更ではないか」
 鍾離を相手に言葉の応酬で勝つのは非常に難しいことである。それをタルタリヤは知っているが、真面目くさった顔で紡がれた言葉をすぐには理解出来ず、飲み込むのに時間を要する。
 決して見るのが初めてな訳ではない天井。鍾離の朝の散歩のルートを知っている理由。自分の経験と行動に鍾離の言葉が結びつき、紐解かれ、意味に辿り着いた瞬間にかっと顔が熱くなる。
「Мудак!」
 思わず吠えて、べしんと鍾離の顔を叩いた。その手は元の肌色を取り戻したまま、すっかり温まっている。
 それなりの力で叩いてやったはずだが、鍾離は痛くもかゆくもなかったらしい。ふっと金のひとみを緩めて微笑んだかと思えば、タルタリヤの身体をますます強く抱き締めてくる。すぐそばにある鍾離の首筋からは石鹸と花の香りがしてやっぱり居た堪れない。
 なんとか鍾離を引き剥がせないものかと考えるも、薄い寝間着の布越しに伝わる体温がやけにあたたかいように思えて、手からも足からも力が抜けていく。どっと押し寄せてくる倦怠感は疲労だろう。部下が任務中、アビスの魔物に襲撃されたとの報せを受けたのは昨日の朝のこと。そこから討伐に向かい、侵食による異形化の進む肉体を箱に封じて、ここにいたるまでほぼ休みなく動いていたことを思い出して、タルタリヤはようやく自分が追い詰められた状態にあるのだと把握する。
 ああ、本当に失態だな、と心の中で呆れた。タルタリヤ自身が把握出来ていない余裕の無さを、まさか鍾離が気付かないはずもない。星の数ほどの離別と喪失を経験してきた魔神がその気配に敏感で、感傷的になりやすいことだって分かっているくせに、隙を見せるのを許してしまった。それくらい、誰かにとって「父」と呼ばれる人間を目の前で失うのは、タルタリヤに衝撃を与えることだった。
 これは兵器として切り捨てるべき弱さだろう。戦士として不要な情だろう。だけど捨てたくない。子どもの夢は壊れやすいから、守ってやりたい。いつか破れる日が訪れるとわかっていても。その時に生じる痛みの責任を負わなければならないとわかっていても。
 タルタリヤの身体から余分な緊張が抜けていくのを感じた鍾離が、とん、とん、とあやすように背を撫でてくる。思考がぐるぐると回って頭が重い。つられるように瞼も重くなっていて、もう一秒たりとも開けていられない。
……先生」
 清らかな香りと人肌の温もりに包まれたまま、タルタリヤは鍾離を呼んだ。
「あとで、片付けるから……今は……
 ――今はどうか、このままで。
 唇の動きだけで、音にはならずに紡がれた言葉も、この腕の中では拾われてしまうのだろう。どうやら今日の鍾離はそうすると決めているようだから、タルタリヤがどれほど抗ったところで勝ち目はない。
 ならば雨の上がる、そのときまで。
 凡人を名乗るこのひとの温度に触れていたいと、青年は思った。
 もう、幼い頃に自分を抱き締めてくれた母の体温も、頭を撫でてくれた父の手の温みも、なんだかうまく思い出せやしないから。




 
『鍾離先生には一度、礼を伝えなければと思っていたのです』
『璃月に赴任され、あなたと出会ってから、公子様は少し雰囲気が変わられました。羽を休めるための止まり木が増えた、と言えばよいのでしょうか』
『いくら執行官と言えど、あの御方はまだ年若い。私には子どもが三人いまして、最初の子は流産で亡くなっているのですが、もしその子が生きていれば、公子様と同じくらいの年になっています。だから上官であると分かっていても、息子のように思ってしまうことがありまして……
『私には、例えいかなる理由があるとしても実の息子をファデュイに入れる親の気持ちは理解出来ません。公子様の事情に踏み入る気はありませんが、ただ、あの御方がただの息子として両親を想い、兄弟を愛している姿を見ると、どうしようもなく胸が痛むことがある。その愛は報われているのか、まだ年若い彼が受け取るべき無償の愛はきちんと与えられているのかと……心配になるのです』
『鍾離先生。あなたが時折父のような目で公子様を見ているのに気付いた時、そして公子様があなたの前では年相応な表情をされるのを見た時、私は少しだけ安心しました。あなたがあの御方との縁を断つことなく傍にいてくださることに感謝を。……そしてどうか今後も公子様のことを、よろしくお願いいたします』

 腕の中ですうすうと寝息を立てて眠る青年の顔を見つめながら、鍾離はあるひとりの男の言葉を思い出していた。
 一週間前だ。たまたまタルタリヤに用があって北国銀行を訪ね、もうすぐ外回りから帰ってくると伝えられ応接室で待っていた時に、その男は茶を運ぶついでに鍾離と言葉を交わして、深々と頭を下げてきた。
 思えばあの時からすでに、漠然とした予感はあった。蜘蛛の糸よりも細い何かが指の爪の先に引っ掛かっている程度の、ごくわずかな予感。決して忘れていた訳ではないが、意識に留まり続ける訳でもないそれの存在を、鍾離は今朝目覚めたときに確かに感じ取った。
「止まり木、か……
 何百年、何千年と朽ちることなく存在する大樹ならば確かに、やんちゃ坊主が木の枝に飛び乗ってきたり、幹にもたれかかったりしてきたところで揺らぐことはない。立派に生い茂る葉は雨避けと日除け、両方の役割を果たすのにも十分と言える。そういうものとしてほんのいっときだけでも頼りにされるというのは、幸福なことだろう。
 汗と土の匂いを纏ったままの青年の額に触れる。変わらず平熱であることを確かめて、静かに胸を撫で下ろす。少しばかり心配しすぎなのかもしれないが、多分そのくらいが丁度良い。
 素直に甘えられるようになれ、とは言わない。そうしてくれたらうれしいとは思うが、そうなるように仕向ける気はない。
 魔神にとって人間はみな子どものような存在だが、鍾離は生憎この青年の父親代わりになる気もない。ただ雨が大地にとっての慈雨になる場合も、豪雨が人々にとっての脅威になる場合もあるように、この胸にはやわらかな慈しみと、吹き荒ぶ激情の両方が存在する。
 救えぬことが悔しいか。
 ああ、悔しいとも。
 だが救うのがすべてではない。神が人間に差し出せる愛情があるとしたらそれは救いというかたちをしているのかもしれないが、今の鍾離は凡人である。ならば凡人の愛とはただ寄り添うだけのひとときを指すものであっても、熱とゆるしを求めて貪り合うおぞましいものであってもいい。
「羽を休めたら、改めて協力してくれ。お前にしか頼めない、俺の欲しいものがここにある」
 べたついた髪を指で梳き、白磁の頬に口付けて、鍾離は温かな青年の身体を抱え直す。
 
 ――まだ外では雨が降り続いている。雨脚はいずれ遠のき、明日にはきっと金色の陽の煌めく美しい朝がやってくるだろう。
 遺憾も悲哀も後悔も、死者とともに地中に埋めてしまったままで構わない。「助けて」などと言えなくていい。
 ただ願わくば、この国のあたたかな光の中で笑い、呼んでくれ。
 鍾離という、この凡人の名を。