吾妻
2025-05-15 00:00:00
6905文字
Public アークナイツ
 

愉楽の海にも希望は眠る

お誕生日にかこつけたテキ博♀。14章後にドッソレスに行く話。
ドッソレスデートを盛り込みたかったのですが、ながくなりそうだったのでそれはまた別の機会に。

 建物と建物の間の狭い路地を抜けると、眼前に砂浜が広がった。
 沈みかけた太陽が海面をオレンジに染め、穏やかな波が砂にじゃれつくように寄せては返す。
 大勢の観光客が上げる歓声もどこか遠く、その小ぢんまりとしたビーチはひっそりと静まり返っていた。
 
 ドクターは思わず、来た道を振り返る。
 今しがた通ってきた細く薄暗い路地は、消えずにそこに残っていた。
 
 観光客が屯する大通りからは少し外れた商業区画。主に地元の人間を相手にしつつも、都市中心部からのアクセスも悪くない専門店街。
 かなり恵まれた立地の只中で、堂々とシャッターを下ろしている店の横を抜けた先が、このビーチだった。
 
 どうやら夢を見ているわけでも、突如別の場所に転移したわけでもなさそうだ。
 細い路地の向こう側。先程まで自分たちが立っていた店の前の道路を、車が通り過ぎていく。その様子を眺めてから、ドクターはもう一度夕焼けに染まった海原と向き合った。
 
「ここが、君のお気に入りの場所?」
 
 秘密の抜け道を先導してくれたのは、傍らに立つ青年だ。
 問い掛けながら傍らを見上げれば、長身のペッローは人工海の彼方へ向けていた眼差しをドクターのほうへ引き戻す。
 
「そうだよ。ここに店を構えようと思った理由のひとつなんだ。いい立地だから、今もこのまま売りに出されずにいるのは正直ちょっと申し訳ないけど、おかげで今日は助かったよ。ドクターをここに案内できたから」
 
 そう言って、テキーラは人懐っこい笑みを浮かべた。
 夕陽を浴びて、彼の淡い金色の髪と頭頂部の耳とがきらきらと輝く。
 この街に着いてからというもの、彼は妙に緊張している様子だったが、日没を迎える頃になってようやく、その緊張もほぐれてきたように見える。あるいは、このビーチに漂うのんびりとした空気がそうさせているのだろうか。
 
「ドッソレスを案内するなら、絶対ここに連れて来ようって決めてたんだ」
 
 溶けかけの太陽がゆっくりと海の向こうへと沈んでいく。
 休暇兼ドッソレス支部視察旅行の一日目が、今まさに終わろうとしていた。
 
 
            *
 
 
――いい加減、君が有給を消化しないと周囲に示しがつかない。
 
 そもそものきっかけは、ケルシーのその一言だった。
 わざわざ医療部の彼女の部屋に呼び出され、なんの話をされるのかと思えば、溜まりに溜まっている有給を取れという厳命だった。
 『君だって人のことを言えないだろう』と喉元まで出かかったが、ケルシーのデスクの傍らにはいつになく真剣な表情のアーミヤが控えており、状況は完全に不利としか言えなかった。
 
 有給消化義務。部下への示し。
 彼女たちが掲げる理由は正当なもので、純粋にそれを気にしてもいるのだろうが。
 おそらく根幹にあるのは自分への心配なのだと、ドクターは気づいていた。
 
 ロンディニウムでの一件が片付いてから、少しばかり時間が経った。
 サルカズの今後やヴィクトリアの再興は既に当事者たちの手に委ねられたが、ロドスにはまだまだやるべきことが多く、奇妙な焦りがドクターの背を常に押していた。
 これまでより性急になっている自分に気づいていても、なかなか足を止められない。ケルシーとアーミヤは、そんなドクターの現状を案じているのだろう。
 彼女たちの無言の気遣いを察して、ドクターは「仕事が山積みだ」という文句を腹のうちにしまい込んだ。
 自分には休養が必要だ。それはわかっている。
 だが、手を休めることで他でもないケルシーやアーミヤにしわ寄せがいくのも容易に想像がつく。
 それに、走るのをやめてしまうと、余計なことを考える空白ができてしまいそうで恐ろしかった。
 さらには、余暇を楽しむのが壊滅的に下手だという自覚がある。休暇を与えられても、どう過ごしたものか。
 
――実は、ドクターにお願いしたいお仕事があるんです。
 
 居心地の悪い沈黙を断ち切ったのは、やけにうきうきとしたアーミヤの一言だった。
 仕事の話? このタイミングで?
 やや場違いな話題に思えたが、アーミヤの表情は自信に満ち溢れており、彼女に何らかの〝策〟があるのは明らかだった。
 
――とある事務所の視察なのですが……
 
 そう言ってアーミヤが差し出してきた資料には、大きく『ドッソレス』の文字が記されていたのだった。
 
 
            *
 
 
 確かに、いずれは視察に行かなければならない場所だった。
 それを後回しにしていたのは、その都市を熟知している人間が身近にいるせいだ。これまで彼の地の行政や事務所とのやりとりは、ほとんど彼に任せきりだった。現地の治安があまり良くないことも相まって、なかなか直接出向く機会に恵まれなかったのだ――が。
 仕事ができるCEOは、すでに護衛兼ガイドの手配まで終えていた。
 ……というか、今回の〝視察旅行〟にドッソレスが選ばれたのは、『彼を同行させるならどこに行かせるのが最適か』という条件から逆算されたようにも思える。
 
(返す返すも、アーミヤたちには気を遣わせてしまったというわけだ)
 
 何しろ、今回同行してくれた護衛兼ガイドは、ドクターのプライベートにおけるパートナーなのだから。
 視察という、さして重要度の高くない仕事などさっさと終わらせて、恋人と休暇を楽しんでこい――ということなのだろう。
 
「君のおかげであっという間に仕事の予定が片付いてしまったな」
 
 寄せては返す波を眺めながら、ドクターは苦笑した。かつてこの街で外交官を努めていた男の手腕が、あまりに見事なものだったからだ。
 無駄がなく、無理もないスケジューリング。堂に入った道案内。ランドマークの解説も抜かりなく。仕事らしい仕事は、ドッソレス到着初日にあっけなく片付いてしまったのだ。
 
「この街を案内するのにもたついたりしたら格好がつかないから、ちょっと緊張しちゃったよ。でも、ドクターを失望させずに済んだみたいでよかった」
「謙遜はよくないな。こんなにスムーズなアテンド、君以外の誰ができるんだ? 渋滞にも遭わなかったし、食事は全部美味しかったし、観光客目当ての詐欺にも引っかからなかったし……
「そのあたりは、ドッソレスのガイドならみんな押さえてるポイントだよ」
「カード勝負を仕掛けてこようとした酔っぱらいは君を見るなり退散したし」
「あはは、まぁ、そのへんは……多少は顔がきくというか。まぁ、ドクターなら相手のイカサマくらい簡単に見破れたと思うけどね」
 
 たいしたことないよ、とテキーラは笑う。
 人並み以上の知識を持ち、人並み以上に努力をしてきただろうに。その謙虚さは美徳だが、時折水臭く感じることもある。たまには素直に撫でさせてくれてもいいだろうに。
 だが、どれほど賛辞を並べたところで彼は穏やかに謙遜するだけなのだろう。
 短くない付き合いなのだから、そのぐらいわかってしまう。
 
「ありがとう、助かったよ」
 
 なので、直接的に感謝を伝えることにした。
……
 テキーラは一瞬呆気に取られた顔をして、その後に少し困ったような顔で笑った。
 ふにゃりと緩んだ彼の表情を見て、ドクターは小さく安堵の吐息を漏らす。
 そして、触れるかどうか迷っていた話題に踏み込むことにした。
 
「もしかして、今回の視察は気の進まない仕事だったかな」
……え?」
「私は君と一緒にこの街に来られて嬉しいし、とても楽しんでもいるけど、君はなんだか……緊張しているように見えたから」
 オペレーター〝テキーラ〟は喜んでガイドを務めてくれるだろうが、この街で育ったエルネスト・サラスはどうだろう?
 簡単には割り切れない事情を抱えているぶん、複雑な感情が胸のうちに渦巻いているのかもしれない。
 
……
 
 話術を得意とする青年が、柄にもなく押し黙った。
 言葉を探すように目を伏せ、海の方を見やり、そして諦めた様子で深々と溜息をついた。
 
……誤解しないでほしいんだけど、別に俺は嫌だったわけじゃないんだ。君がドッソレスに来るなら、絶対自分で案内したいと思ってたしね。でも――
 テキーラは一度言葉を切り、深く呼吸する。
 端正な顔に浮かんでいた愛想の良い笑みが、ゆっくりと、太陽が沈むかのように薄れていく。
 飾り気も誤魔化しもない、限りなく彼のニュートラルに近い表情に見えた。
「なんていうか、少し怖かったんだ。ドクターがドッソレスを嫌いになっちゃったらどうしようって」
「嫌う?」
「うん。だってここは刺激だらけの街だけど、同じくらい褒められないところもたくさんあるからね。俺たちは、いつスリにぶつかられてもいいようにダミーの財布を持ち歩くことや、近寄るべきじゃない路地の見分け方なんかを自然と身につけるけど、ボリバルの外にはそんなことをする必要がない場所もある。特にこの街は、そんなボリバルの現状の上にカラフルなペンキを塗りたくって、表面上は見えなくしているようなところだからさ」
 テキーラ――エルネストは、自嘲気味に笑って小さく肩をすくめてみせる。
 その捨て犬のような表情は、陽気で淀みのない口調とはちぐはぐに見えた。
……チェンさんやリンさんがこの街を見て顔をしかめるのもよくわかるし、親父がこの街を許せない気持ちだって、俺には理解できるんだ。でも、なんだかんだ言って、ドッソレスと俺はよく似てるから。どうしたって俺の一部であって、服を脱ぎ捨てるみたいに簡単には引き剥がせないんだよ。だから……
 いたずらを告白する子どものように、エルネストは目を伏せる。地平線に沈みかけの太陽が、彼の顔に影を落とした。
 
……だから、君が直接この街を見たときに、嫌な気分になっちゃったらどうしようって」
 
 夜の遊覧に出港したクルーズ船が鳴らす汽笛。
 上空を回遊するカモメの鳴き声。
 砂浜を濡らしてはまた引き返していく波の音。
 二人の間を、穏やかな時間が流れる。
 
 エルネストは居心地悪そうに黙り込んでいた。
 おそらく、柄にもないことを言ったと落ち込んでいるのだろう。
 都市への印象がどうあれ、それが彼への印象と同一視されるはずがない。
 そんなことは、彼本人もよく理解しているだろう。
 それでも非論理的な不安を抱いてしまうくらいに、彼にとってボリバルは、そしてこの街は、大きな意味を持つ存在なのだ。
 
「確かにこの街は、華やかだけど棘があって、君と似ているところも多いかもしれないね」
 
 ドクターが沈黙を破ると、エルネストはまず頭頂部の耳をひくりと動かした。
 その後、言葉の真意を探るように、俯いたまま視線だけを持ち上げる。
 
「私は最近、〝希望〟についてよく考えるんだ」
……希望?」
「かつて私に、『希望というのは残酷なものだ』って言った人がいた。『絶望に直面したとき、希望は人を狂わせる』って。その言葉を、私は目覚めて少し経った頃に、おぼろげに思い出した。そして、それからずっと考えている」
 
 突然始まった異なる話題に、エルネストは怪訝そうな顔をする。
 しかしドクターは特に説明もせず、軽い調子で言葉を続けた。
 
「確かに、希望によって人は狂うかもしれない。踏み止まるべき瞬間に、一歩を踏み出させてしまう力がある。だけど私は、人間が生きていくためには希望が必要だと思っているんだ。闇の中を歩いているとき、ほんの一筋の光でも道標になる。それと同じように」
 
 ドクターは、その場にしゃがみこみ、足元の砂を片手ですくい上げた。
 掌上の砂は日中に溜め込んだ日差しを残しているようで、まだほのかに温かかった。
 きめ細かい砂は指の隙間からすぐに滑り落ち、しかし掌には小さなかけらが残った。水に磨かれ丸みを帯びたガラスのかけらが、ささやかな輝きを放っている。
 
「チェンは報告書に、この街を評価するための知識も、裁く資格も自分にはないと書いていた。それについては私も同じだ。私個人の尺度では許しがたいことも、理解できないことも、この街にはあるだろうし、ドッソレスがボリバルの人々の金や欲望を吸い上げているのは隠しようがない。だけど同時に、ひとときでも苦痛を忘れられる夢をもたらしているのもまた事実なんだ」
「こんな毒々しい夢も、希望のうちに入るのかな?」
「それは人それぞれだろうね。でも君は、ひとときの夢じゃ満足できないほうだろう?」
……
 
 ドクターの傍らにしゃがみ込んだエルネストは、彼女の言葉に息を飲んだ。
 驚きと戸惑いの入り混じった青年の瞳が恋人を見つめる。ドクターは、いたずらっぽく微笑んで、その眼差しを受け止めた。
 
「君がこの街で暮らした年月ほど付き合いが長いわけじゃないけど、私は君をもっと欲張りな人間だと思っているんだ。だから、君とこの街はそこまで似てはいないかな」
 
 ドッソレスはあくまで、停滞によって絶望を押し留めているにすぎない。
 泥沼でもがくボリバルにおいて、それが成り立っているだけでもかなりの奇跡ではあるだろう。列強の圧力に屈さず、むしろ手綱を握るようなカンデラ女史の手腕は、見事としか言いようがない。
 だが彼は――エルネストはこの現状では満足できないのだ。それが欲張りでなくてなんだというのだろう。
 
 エルネストは、いつものように笑顔を浮かべようとして、それに失敗し、困った様子で眉を下げた。
 戯れに砂を撫でつけているドクターの手に、青年はそっと、自身の大きな手を重ねる。
 
……親父はさ、事あるごとに言ってたんだ。ドッソレスになんて来るんじゃなかった、って。でも俺は、この街で暮らした日々は無意味じゃなかったと思ってる。ただ殺して殺されての戦場にいるだけじゃ知らなかったことも、たくさん知れたしね。カードの扱いや酒の楽しみ方、交渉事や武器の仕入れ、その他もいろいろ。おかげで今日は君をきちんともてなせたし……
 
 青年の指が、砂に埋もれた女の指にじゃれつく。戯れに握り込み、愛おしげに撫で擦る。そして最後に、指と指を絡め合わせ、強く握った。
 
「何より、ドッソレスにいなかったら、君に会えなかった。……そうならなくてよかったよ」
「私にとっても、それは幸運だったな」
 
 ドクターもまた、絡め合わせた指をしっかりと握り返す。
 青年は、その言葉を噛み締めるように目を閉じて、やがて小さく「うん」と頷いた。
 
「ドクターとドッソレスに来れてよかった」
「明日には帰るみたいな口ぶりだけど、滞在期間はまだ一週間近くあるよ。もうドッソレス観光は終わりなのかな?」
「まさか。案内したいところはたくさんあるよ。お酒が美味しいお店とか、夜のクルーズなんかもおすすめだし。ただ、こうやってぼんやり波を眺められる時間を君と過ごせるなんて、正直思ってなかったから」
……確かに、君がこんなに素敵なプライベートビーチを隠し持ってたなんて、流石に予想できなかったかな」
「あ、海で遊ぶ? 遠くまで泳がなくても、砂浜にパラソルを立てて、その下で読書するのもいいと思うよ」
「昼間に見かけた、ビーチの砂に埋まるやつは?」
「あれは砂浴っていって、一種のデトックス療法なんだけど……興味があるの?」
「君がお手本を見せてくれる?」
「え? 俺が埋まるってこと……?」
 
 毒にも薬にもならない会話をしているうちに、夕陽はすっかり沈んでしまった。
 潮風に乗って、歓声や怒号が届く。常夏の日差しは遠のいたものの、街はまだ騒がしい。
 
「日も暮れちゃったね。お腹は空いてる? ホテルのレストランも十分美味しいけど、何軒かおすすめのお店があるんだ。空腹具合とか、お酒を飲むかどうかで、行き先を選べるよ」
 先んじて立ち上がったエルネストが、両手についた砂を払いながら恋人に微笑みかける。
「至れり尽くせりだな」
「こんな機会滅多にないから。ドクターはリラックスして俺にエスコートされてよ。……たくさん考えることはあるだろうけど、今だけは二人でゆっくり過ごそう」
 青年の手が差し伸べられる。
 ドクターはその大きな手のひらに自身の手を重ね、引っ張り上げられるのに任せて立ち上がった。

 喧騒はまだ続いている。
 楽しげな笑い声に混じって、剣呑な怒鳴り声、調子外れの歌まで。
 それは、人々がここで、紛れもなく生きている音だ。

「ここに、君と来られてよかった」
 ドクターの言葉に、ペッローの青年は尻尾をゆっくりと振って微笑む。
「最終日にここを出る時にもそう思ってもらえるように頑張るよ」

 優秀なガイドに手を引かれて、秘密のビーチを後にする。
 旅はまだ始まったばかりだった。



【終わり】