香川では二、三日降り続いていた雨も、徳島港からフェリーで和歌山港にたどり着いた頃には冗談のような快晴が広がっていた。片道2時間程度なのでそこまで遠く離れたところではないのに、雨雲は関西地方まで伸びていないらしい。見渡す限り広がっていたはずの曇り空も、どこかに青空との境界線が引かれているのだ。
——そんな風に、俺の気持ちも切り替わればいいのに。
フェリーを降りた成早朝日は、眩しく照りつける太陽を睨みつけるかのように目を細めた。
フェリーで片道2000円、香川から徳島までの交通費も含めれば片道4000円は越える。高校生、おまけに貧乏な家庭の生まれにとっては決して安くない金額だ。
新聞配達のバイトで稼いだ金のほとんどは兄弟姉妹を養うために使っているから、成早の小遣いとして残るのはほんの僅かしかない。
その僅かな小遣いによる貯金を崩してでも、成早は和歌山に来たいと思える理由があった。
和歌山には、掛け替えのない友人がいる。
正確には友人といってもいいのだろうかと、疑問に思わないこともない関係なのだが。
乗り降りの客とその送迎で、和歌山港の南海フェリー乗り場はごった返していた。
待ち合わせ場所はこの場所なのだが、探すどころか移動するのも苦労しそうだ。
「よしっ」
成早は荷物で膨らんだリュックサックを背負い直し、辺りを見回そうとしたその瞬間に——彼を見つけた。
彼はこの人混みの中でも頭一つ分抜けており、灯台のように目立っていた。一九一センチの体躯の先端で、ぎょろりとした双眸を左右に振っている。まるで草花の群れに紛れた針葉樹が風に揺られているかのような佇まいに、成早は苦笑しつつ彼に見えるように手を大きく振った。
「我牙丸ー!」
我牙丸と呼ばれた長身の男の視線が、成早を捉えた。
「あー、みつけた」
低く起伏の無い声、仮面でも被っているかのように表情の変化も乏しい——だが成早は気づいた。普段の彼よりも、ほんの少しだけ声が上擦っていることに。
我牙丸吟。
青い監獄で出会った友人、好敵手、競合相手、そのどれにも当てはまるようで、当てはまらない。
———
和歌山港から電車とバスを乗り継ぎ、内陸の方に移動することさらに二時間。出費はさらに嵩み、最後のバスを降りた頃には成早の財布には帰りの交通費以外ほとんど残っていなかった。
道中では、我牙丸と他愛のない話をした。
青い監獄にいる間は外部との接触が完全絶たれていたから、ちょっとした浦島太郎のような気分だったのだ。話題には事欠かない。
好きな漫画の新刊が出てたとか、毎週録画してる番組の古い回が家族に消されてたとか、芸能人が結婚離婚したとか、本当に他愛のない話を。
成早は我牙丸より"ひと足先に"青い監獄を後にしたので、その間に起きた色んな出来事を話した。我牙丸は相変わらず起伏のない声だったがサザンの新曲がリリースされた話になった時だけ、一際目が輝いていた。
会話は、尽きなかった。
バス停からさらに歩くこと20分——目的地の前に到着した。
バス停からここに至るまでの間に建物の数はぐっと少なくなり、人工物の代わりに緑豊かな風景が視界を覆っていった。足元にはいつの間にか、膝丈ほどまで伸びた草花が茂っている。
自然と、我牙丸との会話は途切れていた。
此処からは、青い監獄とは別の意味で通常とは異なる環境に身を置くことになる——違う世界の扉が、もう目の前に迫っているような気配がした。
やがて扉の代わりに、木材と鉄線でできた柵が二人の前に姿を現した。柵は左右にずっと広がっており、先が見えない。
我牙丸曰く、柵の内側は我牙丸家の敷地内らしい。自宅もこの柵の内側に建てられているのだという。
柵の向こうには、小高い緑の山が聳えている。
我牙丸家の敷地には、山が丸々一つ残っているのだ。川も流れているのだろうか、耳を澄ますと動物の鳴き声や木の葉の擦れる音に混じって、微かにせせらぎの音が聞こえてくる。
成早も幼い頃は誰の土地かもわからない裏山を公園代わりにして遊んだことがあるが、我牙丸に案内された山は成早の知るそれとは規模が違っていた。木々の背は高く、傾斜は一度足を滑らせれば麓まで転がり落ちてしまいそうなほどだ。こんなところで鬼ごっこやかくれんぼをしようものなら確実に怪我をするし、遭難してしまうだろう。
山は景色の一部として眺めるのと、登るために相対するのとでは、受ける印象が大きく変わる。後者の場合、山は人を呑み込まんとする巨大な怪物のような重圧を放つ。大きな口を開けて、餌が入り込むのをじっと待っている。
気圧された成早が思わず後退りした瞬間、踵が足元のちょっとした窪みに嵌った。バランスが崩れる。
背負ったリュックサックの重みもあって、重心が大きく傾いた成早の体は後方に倒れ固い地面に——ぶつかることはなかった。
成早の腕を、いつの間にか我牙丸が掴んで支えていた。
「大丈夫か?」
我牙丸はその場から一歩も動くことなく、体幹と腕の力だけでリュックを背負った成早を支えていた。
「あ、ああ。ありがと」
成早が自分の足で立つために我牙丸の腕を引っ張るように力を込めても、彼は巨木のように動じない。我牙丸も、成早と同じかそれ以上の大荷物を背負っているというのに。
先ほど目の前の山に対して感じた同じ重圧が、我牙丸からも感じられる。
——俺には、無い。
成早は、我牙丸に今の自分の顔を見られたくなくて、目を逸らした。
この隔たりが、この違いが、青い監獄の選考で生き残った者と、脱落した者の差なのだろうか。
「あ、これ履いとけ。俺のお下がりだけど、サイズ合うと思う」
我牙丸はそんな成早の気持ちを知ってか知らずか、登山靴を差し出してきた。
我牙丸が小学生の頃に履いていたものらしいが、悔しいことに成早にぴったりのサイズ感だった。
———
登山靴はスニーカーともスパイクとも履き心地が違っていた。
素材のせいなのか、とにかく固い。我牙丸が子供の頃に履き古しているのならやわらかくなっていてもいいと思うが、靴の中で足の指をほとんど動かせない。爪先立ちがしづらいとでも言うべきか。その分靴底は厚く、まともに整備されていない裏山の道を歩いても苦にならない。
歩き慣れているだろう我牙丸の背中を追いかけるだけなら、成早にも容易い。
だが、もし我牙丸と本気で山道を競争をしたとしたら——成早には勝つビジョンが全く見えない。そんなことを考えて心を曇らせてしまう自分が嫌になる。
「我牙丸って、いつも山籠りしてたの?」
気を紛らわせたくて、成早は無理やり話を振った。
「そうだな、部活終わったら家じゃなくて裏山(こっち)で野宿して学校行く、とかやってたな」
「マジで?」
「マジだ。そんなに変か?」
我牙丸は歩きながら、顔だけをこちらに向けてきた。
「変だよ」
「成早の家の近くにもあるだろ、裏山とか」
「あるけど、こんな熊とか出そうなところじゃないって」
「見たいか?」
「何を?」
「熊」
「嫌だよ!」
「なんだ、熊見たいのかと思った」
我牙丸は思案するように宙を見上げながら顎を掻いているが、成早はそんな呑気になれる心情ではなかった。今自分は熊が出るかもしれない山の中にいる!
熊の出没情報が出た場所には近づかないのがルールだ。ようやく慣れてきた山道が、再び得体の知れない恐怖を纏い始めている。
獣道を囲う木々の隙間から熊が飛び出そうものなら、成早は気絶してしまうかもしれない。
縮こまる成早を見て、我牙丸は何か思い当たったように鼻息を漏らした。
「もしかして、熊、怖いのか?」
「見てわからない!?」
「いや、見てわかった」
我牙丸は納得するかのようにうんうんと頷く。
「まあ、安心しろ。熊の縄張りは反対側だ」
「やっぱりいるのかよ……」
「この山は餌もたくさんあるから、よほどのことがない限りこっち側には来ないぞ」
「そう言われても……」
一度植え付けられた恐怖は、そう簡単に克服できるものではない。
後悔するのと同時に、大人が禁止していることをしているという背徳感が心をくすぐった。
———
山に入ってから一時間ほど経過した頃、我牙丸は足を止めた。
いい加減両足が悲鳴を上げそうな頃だったので、成早はとにかく一度座りたかった。
膝に手をついて息を整える。登山靴で負担が軽減されてるとはいえ、上り坂の獣道は歩くだけでどんどん体力を奪われる。
「ちょ、我牙丸……そろそろ一度休け——」
成早は言いかけた言葉を唾ごと飲み込んだ。
風もないのに、成早のすぐ近くの茂みが不自然に揺れた。そんな現象は漫画やアニメでしか見たことがなかった。茂みの奥に"何か"がいると、本当にその茂みはガサゴソと怪しく揺れるのだ。
「ここだ」
我牙丸はずかずかと茂みの方に向かっていく。
「おい、ここってなんだよ?」
我牙丸の表情からは、何も読み取れない。
「罠を仕掛けた」
「罠?」
「猪を捕るための罠だ。俺が作った」
茂みをかき分けていく我牙丸の後を恐る恐る追っていくと、少し開けた場所に"それ"はいた。
全長は150センチほどだろうか。成早の身長よりも小さくはあるだろうが、焦茶色の体毛に覆われた体は大きく膨らんでいる。100キロは超えているだろう。狼と豚の中間のような顔つきはどこか愛嬌も感じられるが、四肢が引きちぎれんばかりに暴れ狂う様子は成早の心の奥底の原始的な危機感を呼び起こすには十分過ぎるほどだった。
猪だ。
初めて見る野生の猪に、成早は好奇心と恐怖がないまぜになっていた。ここが動物園で、向こうが檻の中であれば、好奇心だけで済んだだろう。しかし、成早と猪を隔てるものは、何もない。
よく見ると猪の後ろ足の一方はワイヤーか何かですぐ近くの木の幹と繋がっていた。まるで店の外で待たされている大型犬のような状況だ。これが我牙丸の仕掛けた罠なのだろうか。
と、少し安心した矢先に、猪が我牙丸と成早の気配を感じて振り返った。
そして当然だが何の警告もなく、真っ直ぐこちらに向けて突進してきた。
「——!」
成早は一瞬で血の気が引くのを感じた。
幸いにも猪はぴんと張り詰めたワイヤーのおかげで二人の遥か前方までしか進むことはできなかった。
それでも野生動物の鬼気迫る威嚇に、成早は腰を抜かしてその場にへたり込んでしまった。
我牙丸だけが、意を介さずに猪が動ける範囲のギリギリまで近づいていく。荷物を下ろし、中から野球のバットのようなものとナイフを取り出した。
以前我牙丸から聞いた話では、野球のバットのようなものはそのものずばり棍棒だ。捕らえた猪を殴打し気絶させるために使う。
そしてナイフは気絶した猪の急所を刺して、とどめを刺すために使う。我牙丸の手に握られたナイフは刃に厚みがあり、刃渡りが20センチ以上ある。彼はこのナイフ以外にも用途毎に様々なナイフを持っているらしい。
「成早、あっち向いてたほうがいいぞ」
両手にゴム手袋をはめ、棍棒とナイフを持った我牙丸が、自分たちが入ってきた茂みの方を顎で指した。
「え……」
「俺も、初めて見た時は結構ビビった」
「あ、うん…………」
言われるがままに、成早は茂みの方に顔を向けた。
これから、我牙丸は動物の命を奪うのだ。
「猪、とどめ刺すのか?」
「ああ。折角だから肉も取る」
そして、殴打の音。
猪の短い悲鳴のような鳴き声。
どさっ、と重たいものが地に落ちる音。
我牙丸が歌を口ずさみ始める。
知らない歌だったが、多分サザンの曲だろう。
その歌詞は、途中まで完全に青い監獄のことを歌っているようだった。嘘か真実かの化かし合いだの、一か八か勝負の時だの、自分のために他人を蹴落として成り上がるだの……。
そう感じたのは1コーラス終わった辺りまでだったが、成早に青い監獄での日々を思い起こさせるには十分だった。
青い監獄(ブルーロック)。
全国の高校から集められた300人のストライカーから、たった1人の最強のストライカーを生む——そんな荒唐無稽な計画は今も続いている。
その計画が日の目を見たのが、先日のU-20日本代表との試合だ。
当初は誰も、青い監獄の選抜メンバーのことなど気にかけていなかった。世間的には糸師冴の加入したU-20日本代表が主役で、いわば引き立て役のような扱いだった。
しかし試合の結果は4-3で青い監獄選抜の勝利に終わった。互いのチームが点を取り合い、逆転に次ぐ逆転の最後を飾ったのは、潔世一のゴールだった。
——潔は、勝ち続けたんだ。
成早が青い監獄で最後に背中を見たその男は、今や日本サッカー界でも注目の的になっている。
U-20日本代表との試合では、凪や馬狼もゴールを決めた。
彼らの活躍は嬉しい反面、複雑な気持ちにさせられる。
青い監獄二次選考で、成早は彼らと競い、そして敗れた。その悔しさは、今もなお頭の片隅にこびりついて離れない。
「成早、終わったぞ」
「えっ?」
青い監獄での日々を思い出していた成早が振り返ると、幾つかのビニール袋を担いだ我牙丸が目の前に立っていた。ビニール袋は半透明で、中が赤く染まっている。
一方我牙丸自身は一切返り血を浴びておらず、けろっとしている。かなり手際良く猪を捌いたのだろう。
「とりあえず毛皮だけ剥いだ。食べられる部分は川に行ってからやる」
「お、おう……」
「安心しろ、肉は洗えばちゃんと食える」
———
日が暮れようとしていた。
そういえば昼飯を食べていないことに、今更のように思い当たる。
成早はシチューを作っていた。
使い慣れた自宅の鍋は、家族達に無理を言って持ち出してきたものだ。
我牙丸が慣れた手つきで川辺の石を使って作り上げた焚き火台の上で、鍋の中のシチューがぐつぐつと音を立てている。
成早が背負ってきた荷物の中のほとんどは、シチューを作るための道具と材料だった。
今日のために買った(これも小遣いをはたいた)トライポッドや吊り下げ用のフックも役に立ってくれている。
水は我牙丸が「川の水を使えばいい」と言っていたが、念の為ミネラルウォーターのペットボトルを持ってきた。おかげで行きは重たい荷物が、帰りは少し楽になるだろう。
おたまでシチューをかき混ぜると、我牙丸が食べやすいサイズに切り落とした猪の肉が顔を覗かせた。我牙丸は成早がシチューの準備をしてる間に、顔色ひとつ変えず猪の形をしていた肉塊から馴染みのある"肉"の形に切り分けていた。
今我牙丸は焚き火台の反対側で、シチューが完成するのをじっと眺めている。瞳が煌々と輝いているのは、焚き火の炎を反射していることだけが理由ではあるまい。
ふと気になって、成早は口を開く。
「我牙丸は凄いよな。あんなデカい猪にも物怖じしないっていうかさ」
「ん? あー、でも俺だって最初はビビってたぞ」
我牙丸は当然のように言うが、今の我牙丸の姿からは猪にも怯える様子は全く想像できない。
「サッカーと同じだよ。リフティングとかドリブルとか、繰り返してるうちに慣れてるっていうか」
「…………」
成早もリフティングやドリブルは同年代の人並み以上にできると自負しているが、それが我牙丸の言う"慣れ"の域に達しているかは自信がなかった。
「でも、動物の命を奪うことは、まだ慣れてない」
「そうなの?」
意外だった。我牙丸にとっては、狩りはもっと日常的なものだと思っていたからだ。
「うん。仕留めれば美味い肉も食べられるけど、いたずらに狩ったりはしない。こいつは、うちでキノコ栽培してる土地を荒らしたから」
我牙丸は、自身の隣で袋詰めにした猪の毛皮に目をやった。それから、シチューの中の猪肉を指さす。
「仕留めた獲物を食べるのも、狩人の義務みたいなもんだ。それが俺にとっては美味いってだけ」
我牙丸の口元が緩む。青い監獄で、餃子を前にした時と同じ表情だ。
思い出してしまう。我牙丸達と共に、チームZとしてがむしゃらに戦い抜いた一次選考のこと、そしてあと一歩——しかし決定的な一歩が及ばなかった二次選考のこと。
我牙丸が乗り越えて、成早に乗り越えられなかった壁が、そこにある。山よりもずっと高く、厚く、遠い壁。
我牙丸は、焚き火を挟んで向かい側にいるだけなのに、霞んで見えるようだった。
自分の中で滲み出る黒い感情を打ち払いたくて、成早は話題を変えたかった。
だが、口をついて出たのは、どうしても、サッカーのことだった。
「そういえば、試合見たよ。U-20との試合」
道中では、あえて避けていた話だった。
二次選考で脱落後、元の生活に戻ってしばらくして、そのニュースは日本中を駆け巡った。
U-20日本代表VS青い監獄選抜メンバー。
国民の大多数は「青い監獄って何?」という印象を抱いたことだろう。あそこがどういう場所だったのかは、参加した者でなければわからない。
世界一のストライカーを養成するための施設と言えば聞こえは良いが、300人の高校生ストライカーがたった1人になるまで選考(サバイバル)を繰り返すのだ。そのやり直しの効かない選考の中で適応し、進化した者だけが残っていく。
必要なのは、他者を蹴落とし圧倒する強さ。
戦いの中で得た経験を吸収し自分のものとする貪欲さ。
サッカーに没頭し自分の可能性に夢中になれる身勝手(エゴ)さ。
選考は、参加者を狩る側と狩られる側に分つ。
成早は、狩られた。
そして成早を狩った潔世一は、青い監獄のスターティングメンバーに名を連ねていた。
誇らしいと思うと同時に、悔しさや虚しさが頭を満たした。潔世一がいてもいなくても、その悔しさと虚しさはなくならなかっただろう。
——俺もあの場に立ちたかった。
その思いだけが、成早の視線を試合中継に釘付けにしていた。
そしてそこには、我牙丸の姿もあった。
ただし、ストライカーとしてではない。
「我牙丸はさ、ゴールキーパーでよかったのか?」
不躾な質問だとわかっているが、聞かずにはいられなかった。
「そーだな、まあ試合には出れたし。適性あるって言われたし」
我牙丸は当時のことを思い出そうとするかのように瞳だけで空を見上げている。
「……悔しくは、なかった?」
「試合には出られたからな。あと、思いっきり体動かせるし。二子も試合の後ディフェンダーが楽しいみたいに言ってたから、俺もそれに近いのかも」
抑揚のない口調で、我牙丸は淡々と告げる。
しかし、その目はストライカーを目指していた頃よりも煌々とした炎を湛えていた。成早が感じているのは焚き火の熱か、それとも我牙丸のエゴか。
「……確かに、凄かった。U-20でのスーパーセーブ逆立ちして、足で止めたやつ」
夜の山は肌寒いはずなのに、成早の額に汗が滲んだ。心なしか、声も震える。
「ありがとう。でも、3点取られた」
そう言った我牙丸に、成早の背中を寒気が走った。二次選考で潔世一が自分の走行移動(ステップワーク)を再現した瞬間を目にした時と同じ感覚——。
狩る側と、狩られる側。
我牙丸との間に壁があるのではない。我牙丸自身が、壁のように大きいのだ。
逆に成早は、自分がひどく小さな存在のように感じた。
「あのセーブは、玲王のおかげでシュートコースが限定されてたからできた。点を取られたシュートには、そもそも全然反応できなかった」
「…………」
「だから、次は止める。絶対に。この先青い監獄でその機会があるのか、わかんないけど」
「そっか……」
成早は自分の気持ちが沈んでいるのを悟られないよう、務めて明るく言ったつもりだった。
我牙丸は今でこそ目の前にいるが、また青い監獄に戻るのだ。今はただ、U-20戦を終えての休暇を過ごしているだけ。
チームZにいた頃とは、我牙丸はまるで別人のようだった。無表情で何を考えているかわからない雰囲気は変わっていなくても、内に秘めるエゴは研ぎ澄まされている。迂闊に触れれば、たちまち取って食われてしまうと感じられるほどに。
同じチームZのメンバーとして試合に臨み、餃子を取り合っていた頃の我牙丸は、もういない。
「……シチュー、そろそろじゃね?」
「——あっ、そ、そうだな」
我牙丸の声に、我に帰った。持ってきた大きめの器にビーフシチューをよそい、焚き火を迂回するようにして我牙丸に手渡した。
一応スプーンも一緒に渡したが、我牙丸は器に直接口をつけて具ごとシチューを飲み始める。喉を一度ゴキュッと鳴らして器から口を離すと、開口一番、
「うっっっっっっま!」
リスのように頬張った野菜や猪肉を咀嚼しながら、我牙丸は感嘆の息を漏らした。
「成早、これめっちゃ美味い! お前ん家いつもこんなの食ってんのか!?」
「いつもじゃないよ。牛肉が安く買えた時だけ」
褒められたのが素直に嬉しくて、成早の顔も綻ぶ。
「なるほど。あ、おかわりもらっていいか?」
我牙丸から、あっという間に空になった器が手渡される。
六人分のレシピで作ったが、むしろ足りないくらいかもしれないと成早は思った。
二杯目を我牙丸に渡し、自分の分をよそう。
スプーンに収まりきらないほどのゴロッとした猪肉を、シチューに絡めて一口。
味見は済ませていたが、確かに美味い。肉の旨味がルウにも溶け込んでいる。慣れ親しんだビーフシチューとはまた違った味わいだ。
「おかわり!」
成早が一杯食べ終わるまでに、我牙丸は7回もおかわりした。
鍋の中身が空になる頃にはすっかり夜になっていた。街灯や近所の家の灯りも無い山の中、まるで世界に2人だけしかいないかのような暗闇の中で、焚き火の炎だけが互いの存在を認めている。
食器や調理器具を片付け、あとは薪を多めに焚べたら寝袋に入るだけだ。
朝が来きたら成早は香川に帰って、深夜からの新聞配達のバイトに備えなければならない。フェリーの時間もあるので、あまりゆっくりと過ごすことはできない。
だから、今しかなかった。
「我牙丸、聞きたいことがあるんだ」
———
パチパチと音を立てる薪の上で、炎が揺れている。
その反対側で、成早は焚き火を寝袋にくるまって寝息を立てていた。
顔だけを出したその姿は、観光地に飾られた写真用の顔空きパネルではしゃいでいるようにも見えた。吹き出しそうになるのを、我牙丸はぐっと堪えた。
家族以外に誰かと山で過ごしたのは、今回が初めてだった。
先ほどの答えに、偽りは無い。
ブルーロック二次選考3rdSTAGE、もし我牙丸のチームが、潔と成早のチームに勝利したらどうするか。
勝利したチームは敗北したチームからメンバーを一人選んで自分のチームに入れることができる。
潔と成早のどちらかを選べと言われたら、我牙丸は間違いなく潔を選ぶ。
体の大きさやパワーは潔が勝るが、スピードは成早の方が速い。だが、それは数値化したとしてもどちらも大した差にはなり得ないだろう。
だとすれば判断基準はそれぞれが持つ"強み"だ。武器や能力と言い換えてもいい。
成早と潔の二者択一なら、十人中十人が潔を選ぶだろう。
成早は、選ばれない。潔にはあって、成早には無いものがあるからだ。
潔は試合をする中で常に進化している。自分が変化していくことを、全く恐れていない。
ブルーロック一次選考でチームZとして一緒に試合をしていた中でも、二次選考やU-20との試合でも、潔は常に進化を遂げていた。勿論日々の練習の積み重ねもあるだろうが、それだけではない。
潔は、試合の中で自分の成長に必要な欠片を集めて形にしていってるように見えた。それはゴールキーパーとして彼のプレーを見てきたことでわかった。その様子は、足でサッカーをしながら手ではジグソーパズルを組み立てている——そんな風に思えた。
我牙丸も、成早も、他の多くのブルーロックメンバーも、大半はそんなことができるとは思えない。
だから、その二択なら、我牙丸は成早を選べない。
チームZのメンバーの中で順位をつけるとしても、成早は下から数えた方が早い。
嘘は言えなかった。
だから我牙丸は、俺は潔を選ぶと、はっきり告げた。
その時の成早の表情は、喜んでいるのか悲しんでいるのか、どちらだったのかよくわからなった。もしかしたら、どちらの感情も込められていたのかもしれない。
もっと上手に、成早を傷つけないような言い方があっただろうかと、我牙丸は眉間に皺を寄せて考える。
しかし、答えは出ない。
——でもな、成早。
我牙丸は、火を絶やさないよう薪を焚べる。
チームZとして、成早と共に過ごした日々のことを思い浮かべる。
いつも人の餃子を勝手につまみ食いしてきた。
シチュー作る約束を、本当に果たしてくれた。
ブルーロックで紛失した髪留めを、夜遅くまで一緒に探してくれた。
——サッカー以外なら、俺はどんな時も、どんなことでも、お前を選ぶよ。
だから、成早を山籠りに誘った。
潔や蜂楽からも遊ばないかと誘いがあったが、成早と過ごしたかった。
でも、それをはっきりそのまま言ってはいけないことくらいは我牙丸にもわかる。
サッカー——その言葉にどれだけの重みがあるか。青い監獄にいた誰もが知っている。だからそんなことを言っても、余計に成早を傷つけるだけだ。
気持ちに嘘はない。本当にサッカー以外のことなら、どんな時も成早と一緒なら楽しめるだろう。
微かに寝息を立てる成早の寝顔を、もう一度見やる。
「ありがとう、成早。お前と此処に来れて、良かった」
その言葉は、夜風と、川のせせらぎと、焚き木の音に紛れた。
山だけが、二人を見守っていた。
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