rkrn柳の霊

山の奥さんが、5人目の産後にちょっと具合が悪い話 cp無しのつもりですが、雑高の人間が書いていますのでご注意ください
視点が少しずつ変わります
⚠︎雑の過去、雑の父の設定、山と山の奥さんが幼馴染など様々な捏造があります

柳の霊

ある武家の男

 よく酒を飲み、女を買って、酩酊の足でふらふらと、今にも川に落ちそうになりながらも帰っていた。どうせ独り身だ。いくあてもない。本当は女のところで一晩泊まっていこうと思ったが、あまりの酒臭さにすげなくされた。あの女はいつもそうだ。酔わせて狂わせるくせに、いざとなれば素っ気なくする。そういうのに絆されて金を出す武士道楽を良しとしているから、結局いつまでも良さそうな縁談は来ない。
 橋の下を通り、乞食たちが足を掴もうとしてくる。恵んでやる金など毛頭ないからしっしと手で払いのける。無力で哀れな人間たちは言葉にならない喃語なんごを発しながら、泣いて体を引っ込める。
 なんだか、気味の悪い夜だ。タソガレドキは元々戦好きの殿によって築き上げた城と、その下に織りなす城下町からできている。人々は血気盛んに暮らしていて、派手な喧嘩も多い。それなのに──今夜は三日月で、辺りはしんと静まり返っている。男たちの笑い声も、女たちの可憐な足音も話し声も聞こえない。橋の下から上へ、そして渡って右へ曲がれば自分の長屋がある。年中敷きっぱなしの布団が恋しかった。
 川が突然急流になったかのようにザザアと鳴って、俺は「わあ!」と情けない悲鳴をあげた。小魚が跳ね、うろんな目でこちらを見た。滑りのある体と半開きにした口にぞっとする。そういえばこの橋の向こう側は、殿お気に入りの忍軍の家が立ち並んでいるはずだ。町の人は尊敬と恐れを込めて接するが、どうも俺は好きになれず、近くに住んでいるのに一度も挨拶をしたことがない。
(忍びなんて、どうせろくでもない)
 そうさげすんで、顔を上げると。
 ──橋の向こう、忍びの町の入り口に立つ大柳の木の下に、髪の長い一人の男が立っていた。
 俺の全身は干上がるように乾き、冷気が足から伝わる。初めて知る感覚に鳥肌が立ち、寒さがどこまでも這ってくるようだ。
 これが黄泉の冷たさと知るまで、そう時間はかからなかった。

 ◇

山本

 生まれた、と聞いて、何度目かの緊張を解きほぐした。五人目。名をなんとしようと考えているうちに、上の四人を構うことで一所懸命になってしまい、墨を含んだ筆は動かないままだった。真っ白な半紙にまだ名は刻まれていない。妻が決めたいとも言っていたが、産前の体の具合があまり良くなく、結局話し合いができないまま有耶無耶うやむやになってしまっている。
 妻は基本的に丈夫で病気知らずなのだが、今回のお産はどうも変化が激しく厳しいものになった。私が代わりに炊事をしたり、子どもたちの面倒を見たりと、働きながらもなるべく家に籠っていた。
「休み、もうちょっといる?」
 そう声をかける組頭の顔は、包帯で覆われていてはっきりとは読めないが声色でわかる。明らかな心配だ。妻の体へのいたわりと、私が倒れてしまわないかという不安だ。
「いえ、そんなお気遣いいただかなくとも」
 私はそう言いながら、少しだけ心の中で笑っていた。
(昆奈門のやつ、そんな気を回せるようになって)
 もとより周りをよく観察して足繁く部下を訪ねたり、様子を見たりするような男だ。一体誰に似たのやら、その性質は今や忍軍で欠かせない逸材だ。皆組頭のようになりたいと鍛錬を積み、精神も鍛える。「それはいい、たくさんの優れた人材が現れたら、すぐに引退できる」と組頭は半ば本気とも取れる冗談を言っていた。
「でも体調悪いの珍しいね。四人目生まれたときなんて、一週間後には洗濯かごいっぱいの干し物してたのに」
 見舞いに来たときの様子を思い出しているのだろう。産後の体は一ヶ月は休めてほしいというのに、前回のお産のあと、妻と来たら「もう平気です」だなんてケロリとして、よくよく働いた。頼りない夫であろうかと思っていたら、「動いていた方が私にとってはいいってだけよ」と心を見透かされ、それでもなるべく炊事や育児を代われるところは代わっていた。
 しかし今回は全く動かせずじまいで、むしろ妻が悔しがっていた。「動きたいのに」と私を申し訳なさそうに見つめる目には涙が浮かんでいて、「今日は高坂も来てるから」と手伝いがちゃんとあることに安心感を覚えさせたり、口に入りそうな食事を用意してなるべく休ませている。
「いよいよ無理をさせてしまったのです」
……そうだね。子どもが増えるのはいいけれど、これから戦だっていつ起こるかわからないし。そうなれば女も子どもも変わらず、動かなくてはいけない」
「はい」
「でも、子どもが増えるのは嬉しいことだね」
 組頭はそう言いながら私の休暇届を受け取り、目元を綻ばせた。

 家へ帰ると、雨上がりの庭で、高坂が子どもたちに稽古をつけてくれていた。干し終えた洗濯物がたなびき、夏の陽気に誘われそうになって私も外に出たくなる。しかし、まずは妻の容体を確認したい。高坂には目だけで軽く挨拶を交わすと、すぐに廊下を歩いた。
 ふすまの先に妻はいる。いつもは開け放って空気を入れて、風に吹かれるのを楽しみにしているのだが、今日は様子が違うらしい。医師による判断なのか、単に眠っているだけなのか。不安になってそっと開けてみると、医師はもう去っていて、妻は静かに呼吸を整え仮眠を取っていた。短い休息を邪魔するわけにいかずそばを離れようとすると、ごそ……と寝返りのおとがして、彼女を起こしてしまった。
……あぁ、お帰りなさい、すみません……このような格好で」
「いい、寝ていたのだろう」
 隣には小さい頭が見えた。生まれたばかりの赤ん坊である。眉尻の辺りが妻に似て、体つきは私に似ているようだった。妻の丈夫さを吸い取ったような健やかな子どもで、泣き声も元気良く、そちらは問題なく育ちそうなことに胸を撫で下ろしたものだ。
「陣内左衛門の声が聞こえました。一段と大きくなりましたね」
「一段とって。お前、もうあいつは二十一だぞ」
「声だけだとまだ十代の幼さがあるのに……張り合う威勢はもうすっかり大人になってますね」
「近ごろじゃ組頭か、押都でしか相手は難しくなってきている」
「あなたは?」
「高坂の手の内はどうも苦手だ。月輪の習いが入っているからかもしれないな」
 あら、じゃあ負かされているの? まぁ、まだ六分勝てる。そういうやりとりをして、朗らかに笑う妻を見ると胸のつかえが取れた。今日はまだ安定しているようだ。
「冷たいものを食べないか? 昆が気を利かせて持たせてくれた」
「昆奈門が?」
「そうだ、いい男になっただろう」
 幼少期から組頭を知っている私たちは、口元が緩むのを止められなかった。
 ──あの男は歳のころは我々に近い。幼少期、それはやんちゃで派手ないたずらを仕掛けたりしていた。同い年の同僚に負かされて泣き、負かしてふんぞり返り。笑って、怒って、感情の豊かな子どもだった。
 いつからそれを押し殺すようになったのかは見当がつく。というよりはっきりと見た、という方が正しい。父君の死後と言われているが少し違って、死後より一ヶ月ほど経った辺りからだ。
 まだ若い昆奈門は年寄衆に呼ばれ、襖の閉じ切った部屋の中でじわじわと蝉の鳴く中、一日中なにかを話し込んでいた。太陽が隠れ闇が忍び寄っても、襖の開く気配は一向になく、皆が不安を抱えながらなにも言えず部屋のことを思った。私なぞ、真っ先に有事があると勘繰って身構えていただけに、ついぞ呼ばれなかったことにかえって肩透かしを食らった。
 部屋から出てきた昆奈門は大した憔悴を見せなかった。代わりに中にいた年寄衆の疲れ果てた表情を見た者がいて、曰く、頭を抱えていたり唸っていたり、散々だったらしい。
 昆奈門がなんと言ったのかはわからない。彼らの頭を悩ますような宣告をしたのは窺え、内容は秘匿とされた。その翌年から、年寄衆は少しずつ引退を表明していった。一人、また一人と去るたび、昆奈門は引き締まった表情をする機会が増えた。火傷を負ったあとは特に厳しく、険しい顔つきになったように思う。火災の中で部下を助けるという、あんな突飛な行動をしても、残っていた年寄衆はぐちぐちと物を言わず黙ったままだった。最後に残ったのは穏健派だけで、昆奈門はその人たちが引退をするときだけ顔を出して深々と世話になった礼を述べていた。
 そしてとうとう誰も上にいなくなったとき──昆奈門は組頭になったのだ。大人びた顔つきで祝いの酒を飲み、殿からも祝われてめでたい門出を迎えた。その門出のうしろに落としていったのは、今思えばタソガレドキの古いくびきであり、これからの忍軍に不要なものだったのだろう。昆奈門は冷静に、冷徹にそう考えていたのだ。
 だから組頭に就任したとき、彼が少し肩の力を抜いたのがわかった。鍛錬もまえほど厳しさを見せず、休暇や忍務の重なりを防ぐなど、労働環境の改善が見違えた。こうまでして成し得たかったのはおそらく──部下の一人一人が、これ以上無茶や無謀をしないで生きられるようにという願いによるものからだろう。
(自分は誰よりも無茶をしたのにな)
 私は目を伏せて思いにふける。が、耽る間もなく妻の隣で寝ていた赤ん坊が愚図り始めた。妻が抱き寄せようとしたが手で制し、
「今日は休みなさい」
 と言って預かった。
 小さい体で目一杯生きている。今はまだ泣くことしかできない。いずれこの子も我慢をするようになるのだろうか。無理を言わず、唇を噛み締め、いつかの昆奈門のように全てを請け負って、じっと耐える日々が来るのだろうか。
 子どもが増えることが嬉しいと笑った昆奈門の思惑は、きっとこんなことを想像したのではないだろう。

 ◇

高坂

 忍軍の住処の入り口にある柳の木たちが揺れると、ガサガサと大きな音が鳴る。子どもたちはそれを、妖怪が来るのだと怖がった。
「なんだ、まだ怖いのか」
 寝床で山本さんの四人の子どもたちが怯えた顔をしている。私はなだめながら薄掛けの布団を分け与えた。布団がかけられると包まれているような感覚だ。温かいのに安堵して、「兄さん」と呼ばれる。
「怖くないの、兄さんは」
「昔は怖かった」
「今は?」
「あれは植物だと知ってしまったからな」
 真実を知れば意外と大したことはない。私はつたない慰めを言うと、それでも子どもたちには「そっかぁ」と安心が広がるようだ。
 私には、山本さんのように父性もない。温かい言葉のかけ方もわからない。そういった点で、子どもたちがこんな言葉一つで胸を撫で下ろせるのであれば、ずいぶん子どもたちの理解力に助けられている。尊奈門あたりなら「寄り添いが足りない」と文句を言うだろうが、いざあいつがこの子らを慰めるとなると「鍛錬が足りない」と言って叱咤してしまうのだろう。容易に想像がつく。子どもたちはときどき、尊奈門さんは話を聞いてくれないだとか、聞いてくれるけどやさしくないだとか文句を言って、子どもの相手が意外にも難しいのだということを尊奈門に教えてやっている。
「明日は風が収まるはずだ」
……雨は?」
「降らないだろうな。また外で鍛錬ができるぞ」
 ただタソガレドキは山や森に囲まれて、攻められにくいように傾斜のある地形をしているから、天候は変わりやすいかもしれない。そこまでを自分は知っているが、あえて言わなかった。言えば彼彼女らはがっかりした顔をする。今求められているのは安寧だ。穏やかな眠りへつながるための、祈りのようなものだ。
「兄さんは明日もいる?」
「いや……山本さんがいるうちに一度長屋に戻らなくては。でも午後には来るから」
 そう言って、近くにいた次女の髪をひと撫でした。今まで末っ子だった彼女はこの間から弟ができたので、一番不安を感じている。私の体にしがみつく時間が圧倒的に増えた。肝心の母上は布団から出てこられる時間が少ない。母代わりとなるとますます自分には役不足だ。それでもいいからと必死にすがる彼女の背をやさしくさすってやり、私は体温の高い子どもたちに囲まれて少し眠気を覚え始める。
 ──昔、山本さんに一度使いを頼まれたことがある。柳の木が目印で、そこを曲がって橋を渡れば大きな店が軒を連ねているからと、渡された小銭を握って走って使いへ行った。夕暮れに差しかかり、夕飯の用意のために家路へ帰る人だったり、夜のあてを探してさまよう人だったり、とにかく子どもは少なかった。
 だから、あれは勘違いだろう。一人の男が、ざらんざらんと鳴る柳の葉の下でこちらを見ていたのだ。最初は意識もせず通り過ぎようとしたのだが、その男はこちらを不躾に見ていて、あまりにじろじろと眺めてくるから、用事でもあるのか、それとも私をわらべだと思って小馬鹿にしているのかと疑ってかかった。
 なにか用向きがあるのかと食ってかかろうとしたが、思いがけず向こうから声をかけられた──「陣内に頼まれたの?」とだけ。
 声音が敬愛するあの人にあまりにも似ていて、けれどそのじつ少し硬く、しなりのある大人の言い方だった。男の顔はよく見えず、暗がりと葉の重なりで私を惑わして、特に西日のせいでわからなくなっていたから、私は名前を聞く勇気が出せなかった。狼狽うろたえる私を男は笑い、
「呼び止めて悪かったね、もう行きなさい」
 と言って、ふっと消えたのだ。
 私が柳を恐れたのはその一度きりだ。恐れた、というより、そのあと山本さんの元に帰って報告をしたら、あまりに慈しみ深い顔をされたものだから、あれは物怪もののけの類ではないなとなんとなく合点がいって、それ以来あまりお化けだとか妖怪だとかは怖くなくなった。忍軍の先輩たちから、同年代くらいの子どもたちへ向けて怪談を夜な夜な聞かされたときも、一人ケロリとしていてつまらないと言われた。怪異を恐れていないのではなく、怪異にもみな、元の形があることを知って、その元の形は全て、一度愛された人の果てであるとわかってしまったからだ。
 あれ以来、私はその人に会えていないが、今もまだどこかを彷徨さまよっているのではないか、と思うと、時折駆け出して会いにいってみたくなる。そんなとき、組頭はなんと言うだろうか。「陣左が取り憑かれちゃった」とお嘆きになるだろうか。けれどその手を引いて、引き合わせてみたいと思う。ときどき、少し遠い目をなさる組頭の心の隙間は、どうしても私には埋めることができないからだ。

 ◇

山本

 今日は起き上がることが難しいらしい。妻が体を震えさせて腕をついてなんとか起こそうとしているのが痛々しかった。体を宥めながら、食事も手ずからあげた。その間、近所に住む女性たちへ子どもを預ける。「大丈夫かい、奥さん」と気遣う彼女たちの顔色もあまり良くない。産後の辛さをよくわかる人の表情だ。こういうとき、男はその痛みをわかってやれない。「いや、あんたはじゅうぶんわかってやってる方だよ。うちのなんて……」と愚痴が始まるからこういった話はしないようにしているが、女性たちに比べると無力さを思い知る。たとえば「母上がいい」と子どもにごねられたとき。たとえば「母上が良くなるように」と花を手折って持ってきたとき。高坂と二人で息をつき、束の間襖を開けてやって、子どもたちがわっと歓声をあげて妻の元へ向かうのを、まぶしく見る。
 しかしそんな時間もあまり長くは続けられず、断腸の思いで子どもたちとの間に襖を閉じる。子どもたちもわかっていて、膝の上に手を置いて拳を作る。妻の回復ばかりが望まれる今、できることはとにかく休ませることくらいしかできないのが歯痒かった。
 あなた、と掠れた声で私が呼ばれる。どうか気になさらないで、とやさしい口調で言う。一番苦しい人の代わりにさえなってやれないもどかしさを、私こそ堪えなくてはならないのに。どうしたって妻には気づかれる。
「明日にはきっと良くなります」
「どうしてわかる?」
……そうですね、なんとなく。なんとなく、そんな希望を持ちたいのよ」
 希望だけであれば、いくら持っても構わないだろう。私は何度もうなずいた。「首がもげますよ」と笑う青白い顔に、早く紅葉のような赤みが差してほしい。眠る我が子を抱きながら、私は日に日に隈の濃くなる顔で願った。

 ──忍務を終えてまだ日が昇らないうちに帰還することができた。報告の類は明日でいいと言われている。それは組頭の、「早く家に帰ってあげなさい」という意図なのだろうが、どうしても今覚えているうちに書き上げたい図面があった。敵方の陣形と土地の使い方の妙を、知らせておく必要性を感じた。
 高坂にその旨を伝えると、「私が書きます」と引き受けてくれた。横にいながら情報を整理しつつ、書くのを任せられるありがたみに感謝する。この子は正しく組頭の意図と、私の思いを汲んでくれる。
「あとは頼む。すまないな」
「いえ、明日の午後は私も顔を出します」
 頭を下げると、慌てたように高坂が制止する。この子に幾度となく迷惑をかけてしまっていることをわかりながら、つい頼ってしまうのはひとえに高坂が、恩着せがましいことをしてこない割り切った性格をしているからだ。困っていることがあれば助けるのは当たりまえなのだという、おおよそ忍びとしてはかけ離れた性質は、もしかしたら昆奈門から譲り受けた精神なのかもしれない。高坂もずいぶん長く、昆奈門の補佐をやっている。
 家路へ着くと、当然子どもたちは眠っていた。今はまだ、夜の忍務がある時間に起きていてはいけないと言い含めてある。待つ時間は余計に不安にさせてしまうからだ。さっさと眠り、朝元気に過ごすに限る。それが本来の人間であるのだから。
 近くに住む年配の女性がそばに控えていて、「ただいま戻りました」と言うと彼女は安堵して立ち上がった。
「よく眠っておられますよ」
「来ていただいて、助かりました」
「いえいえ、眠るまえまで元気良く学んで、遊んでおりました」
 こうして何度、人に頭を下げただろう。妻が臥せっている生活というのは予想外にきつく、辛いものだ。ただひたすらに妻の苦労を知る。
 年配の女性を戸口まで見送り、門に鍵をする。周囲の気配を探りながら、平穏であることを察知すると、私は室内へ入ろうと足を向けた。黒っぽい、湿った雲が空を横切り、さっきまで鼻先に軽く雨粒が当たっていたが、今は月が見えてよく晴れている。明日は一日だけ、休暇を取れた。昆奈門が「もっと休みなよ」と休みを増やそうとしたが、それでは申し訳が立たぬと一日だけとしたのだ。首を真横に揺らして骨を鳴らし、肩を軽く回す。
 ──妻の寝所へ、ゆっくりと、黒い影が入り込むのが見えた。
(なんだ?)
 廊下のきしむ音がまるでしない。なぜか。背筋がぶわりと総毛立ち、血の気が引いた。夜の気配や闇の雰囲気など、何十年も体感してきたというのに、歴戦の忍びがこんな様子ではいけないと、私は一足飛びで駆けた。久しぶりにどす黒い殺気を漏らし、家中を包むように守る。ビリビリと指先に痺れが走る。きっと、一番上の子はこれで起きてしまったかもしれない。今はなにより緊急事態である。つま先を床から離し、屋内での戦闘に備えて目を光らせた。妻の寝所まであと半歩、黒い影は閉め切った襖に吸い込まれるように入っていった。
(物怪の類か?)
 と一瞬たじろぎ、しかし勢いよく入った私のまえに広がったのは──見覚えのある髪と、横たわった妻の静かな寝息だった。
 月夜に晒され、青っぽい髪色をしている。狼の毛並みのようだ。黒い忍び装束で正座をして、妻の額に手をかざし、「疲れただろう」と労っている。聞き覚えのある声と後ろ姿に、そんなはずはないと私は唇を震わせた。現実を受け止めるのに時間がかかりすぎる。
「奥方を連れていくことはしないよ、陣内」
 だから安心しなさい、と笑って、体の透けている男は「久しぶりだね」と告げた。
「ここまでどうにか歩いてこられた、足がないっていうのは意外と難儀だね」
「雑渡様」
「昆奈門は元気かな。相変わらずわがままばかり言ってない?」
……そんなことは。組頭に、なったのですよ」
「ええ、あの子も変わったね」
 それとも、と男は、少し声を悲しげに落とした。
「変わらざるを、得なかったのかな」
 ──年寄衆に囲まれたまま、なにを問われたか、なにを答えたかわからない襖の先。昆奈門が下した決断の中には己の感情を殺すことも含まれていただろう。その姿をまだ、この方は知らないのだ。雑渡様は、父として、部下として、息子の姿を見られないままに散ってしまった、私を庇って。
「陣内、ああ、泣くなよ」
 奥方が起きてしまうよ、と肩に添えられる手は、霊体であるはずなのに温かい。黄泉の息吹が伝わるほど霊というのは冷たいのではなかったのか。どうして冷たくしてくれなかったのだろう。今この温もりを感じるのは、唇を歯噛みして血が滲み、傷を作ってしまう。虚しく畳を引っ掻くばかりの指を、雑渡様が手で覆った。その上から水滴がぼたりと落ちる。
「未練がましくこの世を徘徊しているものだから、お前の頑張ってきた過程を見てきたけれど……子どもたちも部下の様子も見たよ。陣内、よくやってるね」
「私は……なにも。ただ皆が優秀なだけです」
 昆奈門とはまた違う、穏やかな低音で笑った雑渡様は、曲げた膝を伸ばして立ち上がる。足先は見える、がおぼろげで、なるほどたしかに移動には不向きのようだ。その場に留まり続ける地縛霊のようなものだろうか。
「お前の泣き顔も見て、なんだか満足したよ」
「な……!」
「はは、泣くがいい。お前は少し張り詰めすぎたんだ。そんなんじゃ奥方も面食らって、おちおち回復できやしない」
 袖で強く涙を拭いた。こんな年になって、ぼたぼたと泣くなど恥でしかない。しかしこの場にいるのは、私を幼少から知る雑渡様と妻だけだ。こんな姿はいくらでも見せてきた二人で、情けないことなどたくさん共有してきた。
「そろそろ私はいくよ」
「昆奈門には、会わずにいくのですか」
「あの子にはまえに一度会った。ひどい火傷を負ってこっちへ来たから、ここでは治療できないって言って追い返したんだ」
 私は思わず口を開け、呆然とした。快活に笑う霊はゆっくり影を伸ばし、月の光に焼かれて煙のように消えつつある。
「陣内、またいつか会おう」
 さも季節の変わり目に、酒を飲み交わしたあとのようにあっさりと、雑渡様は別れの言葉を告げる。彼の体が青白く発光し、いよいよ姿がわからなくなった。煙はただ空気に混じって空へ昇り、私が手を伸ばして掴もうとするとすり抜けて、大した未練もなくあっけなくこの世から消え失せてしまった。
 妻の横で眠っていたはずの赤ん坊が、眠りから覚めた。私たちの会話が終わったのを待っていたかのように泣き始める。大声になるまえにすくい上げ、眠る妻の横であやすと少し落ち着いた。
 いつもならこの泣き声の前兆でさえ妻は目を覚ますのに、今夜はやけに眠りが深い。不思議に思って顔を覗き込んだ。青ざめていたはずの細面に、血色が鮮やかに差していた。今までの疲れを取り返すかのように懇々こんこんと眠り、朝には布団を跳ね除けて起きる、お転婆だった少女時代に戻るほどの元気を見せるだろう。

 ◇

 二年後、六人目に生まれた子が、妻の背中で元気よく泣いている。あやすのも手慣れた上の子どもたちが妻の背負った紐から赤ん坊を下ろして、変わるがわるに抱きしめてあやしていた。うまいものだと感心しながら、歩いて私の元へ向かってくる五人目の子を受け止めた。
 妻は丈夫だった、今回も四人目までと同じように乗り切った。むしろまえより生き生きと子どもたちと接している。生まれた子は私に似た顔つきをしていて、「愛嬌があるのよ」と妻に言われたが、果たしてそうなのかよくわからない。生まれたときから珍しく髪が多く生えていて、どこか狼の毛のように硬質だった。青っぽい毛質は私でも妻でもなく、どこか遠い親族と似たのか、それとも。
 近所の女性たちからは、「もういい加減、奥さんに無理させるんじゃないよ」と言われ、それでも六人目の赤ん坊を見るとかわいいかわいいとあれこれ手をかけてくれる。
「生まれるまえに願掛けをしたよ、今度こそ奥さんの体調が大丈夫でありますようにって」
「それは……ありがたいことです。おかげで前回のようなこともなく」
「私らの願掛けのおかげって言われたらそれも嬉しいけどねぇ」
 女性たちは顔を見合わせ、顎に手を当てる。
「この間までいた色男のおかげかも」
「そうよ、あの人ね」
 口々にそう言うから、高坂のことだろうかと首を傾げる。女性たちがあどけなく頬を染めた。
「人ならざるもの、ではあるんだろうけど」
「でもあんまりやさしそうだったからね」
 この家にはそういう恵みがあるのかしら、と女性たちは口々に勝手なことを言うが、私はあまり悪い気はしなかった。妻もはじめこそ怪訝な顔で聞いていたが、あの晩の霊について私から話していたから、「ああ、その人のことですね」と彼女らに含みを持たせ、もったいぶってあえて正体を教えようとしなかった。
 彼は柳の下、葉で顔を隠していたらしい。正体が悟られないようにと、霊なのにいらない気遣いをするあたり、息子によく引き継がれている。それでも美丈夫だとわかるのは、おそらく彼がその信念と誇りをそのままに、うつくしく散ったからだ。私はその瞬間を知っていて、この腕で看取り、泣いた男である。その人が私の家族を見守り、うつくしいままほほえんで、そうしてもしかしたら、命のかけらを我が子に宿して去ったのかもしれない。私は都合良く、そう思うことにした。そうすればきっとあの人の分まで、私はこれからも妻と二度と泣かずに生きていけると思ったからだ。