千代里
2025-05-12 09:03:24
11179文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その69


 震えすぎてまともに動いてくれない足を叱りつけ、できるだけ靴音を殺して、建物の奥へ奥へと向かう。目的地があるわけではない。だが、逃げなければということだけは分かっていた。
「どこかに、隠れないと」
 だが、どこに隠れるのが一番賢い逃げ道となるのか、少女には皆目検討もつかなかった。
 何せ、今までこの建物の奥に入り込んだことなど一度もなかったのだから。
「どこに隠れようとも無駄だ! さっさと出てこい!!」
 遠くに聞こえる声は、今まで目にしてきた礼儀正しい姿とは比べものにならないほどに荒々しい。先だってあったことを思い出し、思わず少女は自分の喉に手をかけた。
 無意識に狭まっていた呼吸をゆっくりと取り戻し、恐怖から狭めていた視野を広げていく。
 声から離れようと廊下を歩いていると、一つだけ開いている扉が目に入った。すぐさま、戸の内側に滑り込み、入ってきた木戸を極力音を立てないように閉める。
 部屋の中は真っ暗で、どこか埃臭い。数分おいて暗闇に慣れた目が、見慣れない造形の品々を捉えていた。細かな細工が施された盃、剣、盾。部屋の隅に置かれた像は兜の飾りが取れてしまっているが、イシュガルドでも度々見かける戦女神の像だ。
(ここなら、すぐには見つからないはず……
 逸る心臓を抑えながら、少女は像の女神に内心で謝罪しつつ、像の裏側へと滑り込んだ。積み上げられた雑多な品々の片隅に体を隠すようにして、漸く一息をつく。
 この後どうするか。そのことを考えないといけないと分かりつつも、どうしてこうなったのかと言う疑問が少女――オデットの中で渦巻いていた。
……今日はヒューイさんの葬儀に参列するだけのはずだったのに」
 冷えた倉庫の片隅で、嘆息する。短い吐息と共に、オデットは数時間前の出来事を振り返っていた。
 
 ◇◇◇
 
 先の騒乱の最中、ゲルトルーデの爪により体を引き裂かれて命を落としたヒューイは、数日をおいて教会内の墓地に埋葬されることになった。
 この町に彼の身内はおらず、両親や近親者の話も聞いたことがなかったため、葬儀を受け持つことになったハンフリー司祭も最初は困り果てていたようだ。
 元は神殿騎士団お抱えの錬金術師だったという話はあったものの、騎士団に連絡をとってあれこれやり取りをしている間に遺体が傷んでしまう。それに、今回は騎兵たちの死者も少なからず出ており、彼らの埋葬を希望する者も後に控えている状態なので、あまり悠長に構えている時間的な余裕もなかった。よって、ヒューイの埋葬は、町人の葬儀と同様の手筈で速やかに執り行われることになった。
 ヒューイと少なからず縁ができていたノエたちも、彼の葬儀には同席を希望した。
 だが、葬儀の場に到着したオデットは、町の人々がヒューイとの別れを惜しむ様子や、祭壇の前に置かれた棺を目にして、どこかちぐはぐな印象を受けていた。
(だって、ヒューイさんはハルオーネ様を崇めている人ではなさそうでしたから)
 ノエから渡された作り物の白い花を胸に、オデットは皆と共に葬儀の列の一番後ろに並んでいた。一人一人、花と共に別れの時間を設けた後、棺を閉め、一人の勇士が神の御許に向かうことを司祭が戦神ハルオーネへと告げる。その後、墓地に用意していた墓に埋葬するという手順になっているとのことだった。
 町の人々は、口を揃えて「ヒューイ先生の薬に世話になった」という話をしている。けれども、その言葉をヒューイが喜んで受け入れている姿がオデットにはどうにも想像できないのだ。
「気の毒に。竜の爪にやられたそうだよ」
「でも、どうして異端者の集落にいたんだ?」
「どうやら、異端者に拉致されていたらしいぞ。ひどい話もあったもんだ」
「その上で竜に殺されるなんて、ヒューイさんも可哀想に」
 おそらく、ヒューイはこれらの見当違いの言葉を聞いても、薄く微笑んでいるだけだろう。いなくなってしまった以上、彼が心の内にどんな心情を抱いているかは、流石にオデットにもわからない。だが、ヒューイが人々の同情を求めてなどいないことだけは確信が持てた。
「オデット、僕たちの番だよ」
 気がつけば、葬儀の列は随分と短くなり、先に並んでいたルーシャンたちが花を入れる姿が見えた。オデットは我に返り、ノエに促されるようにして棺に一歩近づく。
 寒さのために生花は用意できず、端切れで作った薄い色味の花の中にヒューイは眠っていた。半眼のままとなっていた瞳は今は閉ざされ、白い服に着替えさせられて傷が見えなくなった彼は、唇の血の気さえ失われていなければ眠っているかのようだった。
(ヒューイさん。わたしをゲルダに出会わせてくれてありがとう。……あなたのしたことが、正しかったことかはわたしには分からないけれど、でも)
 オデットを庇い、前に立ったヒューイ。ゲルダにオデットを託されたと話していた青年は、最期の瞬間に何を思ったのだろうか。
 ゲルトルーデの復活に執着するなら、彼は再び眼を手に入れて同じことを繰り返せばよかった。自分のことすら覚えていなかったゲルダのお願いなど、無視すればよかったのに。
(あなたがゲルダの約束を守ってくれたことを、わたしは……嬉しく思ってしまうのです)
 ゲルトルーデという竜に近かった人物であった者が、復活の途上にて芽生えたゲルダという存在を認めてくれた。そんな風に思う自分は薄情だと思いつつ、オデットは胸の内で混ざり合う感謝と言い切るには複雑な感情をヒューイに対して抱いていたのだった。
……ありがとうございました、ヒューイさん」
 結局、言葉にできたのは、月並みなお礼の言葉だけだった。
 オデットは頭を下げると、作り物の花を棺の中に入れ、その場を後にしようとした。だが。
……!?」
 ぞくりと、背筋を走る冷たい感覚。
 まるで、誰かにありったけの敵意を込めて睨みつけられているような。
 オデットは一瞬足を止め、束の間呼吸を忘れた。
「どうかしたの」
「いえ、あの……
 オデットが止まったことに気がついて、サルヒが小走りに近寄り、声をかける。だが、先ほど感じた殺気じみた視線は既に消えていた。
 素早く周囲を見渡しても、ヒューイの葬儀に参列する人々で狭い礼拝堂はごった返しており、先ほどの視線の主など分かるわけもない。
 振り返れば、ちょうど最後尾にいたノエが花を入れて、近くに控えていたハンフリー司祭に声をかけているところだった。
……何でもないです。きっと疲れているんだと思います」
「誰かが死ぬのは、気分のいいことじゃないから」
 それも仕方ないと言外に付け足し、サルヒはオデットを一番後ろの席へと導いてくれた。
 *
 その後、滞りなく葬儀は進み、より親しかった者だけが埋葬に立ち会うために墓地へと移動した。ノエたちの中では、ノエとオデット、それにヤルマルが埋葬に立ち会うことになった。
 ヒューイに世話になった町の者は少なからずいたようで、埋葬の場にも相当数の人が集まっていた。小柄なオデットでは隙間から葬儀の場を覗き見ることしかできないほどだ。
 家族や近親者がいなくとも寂しい葬儀にならなかったのは喜ばしい。しかし、彼が本当に心を砕いた相手がここにいない。
 そう思うと、集まった人々の姿すら、オデットにはどこか白々しく思えてしまうのだった。
(だとしても、ヒューイさんのお墓はここに作られて、この先も町の人が祈りを捧げにくることもあるのでしょう)
 先の騒乱で同様にオデットの前から姿を消した友人は、人ですらない為に墓もなく、死を悼む儀礼が執り行われることもない。
 ヒューイがゲルトルーデの蘇りを切望したのも、別れの節目となる葬儀や墓というものが存在しなかったからなのかもしれない。故に、彼はいつまでも死による別れを受け入れられなかったとも考えられる。
(それに、その点に関しては、きっとわたしも同じです)
 司祭の祈りの声を聞きながら、ふとオデットの頭に閃くものがあった。あまりに単純な思いつきではあったが、今の自分はきっとこれを必要としているのだろうと思えた。
 ヒューイの棺が墓穴に収まる重苦しい音。土がかけられ、再びの祈りが捧げられた頃には、日は半ば山間に隠れる頃合いになっていた。人々は葬儀の終わりと共にそれぞれの家に戻り、残っているのはノエを含む三人だけとなっていた。
「ヤルマルさん。僕たちもそろそろ戻りましょうか」
「そうだね。明日はついに当主様が来訪するって話だったっけ。一応、ボクたちも残って様子を見ておいた方がいいのだろうね」
「有る事無い事を騒ぎ立てられる可能性がある、というルーシャンさんの意見には僕も賛成です。彼らが僕らに濡れ衣を被せてくる可能性は捨てきれないので」
「オデットの件もあったからね。おや、そのオデットは?」
 見れば、オデットはヒューイの墓地の前に立ったまま、その墓石を見つめていた。
 故人に祈りを捧げるにしては不自然な態度に、どうしたのかと近づくと、オデットは慌てたように振り返り、
「あ、あの。……わたし、もう少しここにいたいのですけど、良いでしょうか」
「ヒューイさんの墓前にかい」
「それもありますけれど。あの……わたし、ゲルダのために祈る時間が、欲しいんです。本当は、お墓を用意できた方がいいかなって、思ったのですけど」
 しかし、流石に勝手に墓石を持ち込んで墓地に置くような真似はできない。
 それに、ゲルダはシュガーグレイヴの住民というわけではない。彼女の墓を町の住民の眠る地に作るというのも、ちぐはぐなように思えた。
「それなら、今は礼拝堂が空いているようだったよ。お墓の前でなかったとしても、いなくなってしまった人に祈ることはできるはずじゃないかな」
 このまま寒空の下で祈りを捧げるのはオデットのためにも避けたいという意味も込めて、やんわりとノエが提案する。
 ゲルダは戦神ハルオーネを信奉していたわけではなかったが、礼拝堂そのものが誰かの祈りを受け入れてくれる場でもある。
 失った友人のために、オデットはどうにかして心の整理をつけようとしているのだろう。だからこそ、このようなことを言い出しているとは、ノエもヤルマルも気がついていた。
 そして、自分たちでは彼女の傷に一時的に蓋をすることはできても、本人が向き合おうとしている喪失に対して無力であることも、二人は知っていた。
「それなら、ボクたちは近くの店で待っているよ。ハンフリー司祭には、ボクたちの方から伝えておくから、ゆっくりしていくといい」
「ありがとうございます、ヤルマルさん」
 そばにいようと言わなかったのは、共にいてもオデットの祈りの時間を邪魔することしかできないと二人が自覚していたからだ。いくら親しい人物といえども、傍らに誰かがいる状態では、祈りに集中しきることは難しい。まして、それが故人に向けてのものなら、なおさらだ。
 二人が司祭に話をしに行っている間、オデットは、まずヒューイの墓前にもあらためて祈りを捧げた。
 その後、礼拝堂を使っていいとリンクパールに知らせが届いてから、少女は礼拝堂へと祈りの場を移した。
 人気のない礼拝堂は、今までオデットが受けていた印象と全く違う空気を湛えて彼女を迎えた。
(皇都で見た時よりも、アランさんたちがいた教会よりも、ここはずっと……静かです)
 皇都の教会は、ここよりもずっと大きく、その分礼拝堂に祈りを捧げにきた信者の数も多かった。大きな声を出さないようにと注意していても、人の気配は完全には殺せない。微かに漏れる人のざわめきがさざめく様子は、木々の葉ずれにどこか似ていて、グリダニアで過ごした日々を思い起こさせた。
 一方で、ノエの父が治める町にあった教会――アラン司祭が滞在し、彼の葬儀を上げた教会は、静粛な空気に包まれながらも、どこか明るい空気に満ちていた。人々が祈りを捧げる以外の意味でも何かと集まり、孤児院の子供たちもたびたび顔を見せていたからかもしれない。だからこそ、竜と化したグレンが教会の片端に残した傷跡は、かつてあった日常が取り返しのつかない形で壊れた証のようにも思えたのだ。
 そしてシュガーグレイヴの礼拝堂は――ひたすらに静かだった。
 人が一人もいない礼拝堂に落ちる影は、奥に据えられた戦女神であるハルオーネのものだ。槍を掲げ盾を携えた甲冑の乙女の佇まいは、ひたすらに凛々しい。
 ハルオーネにまつわる神話の一つとして、勇敢に戦った戦士はハルオーネの坐す氷天に招かれるというものがあるが、それならば此度の戦いでオデットの元から去った二人はどうなるのだろうか。
 彼らが何と戦い、何を得たかはオデットの口から語れることではなかった。しかし、少なくともイシュガルドの人々にとって、彼らの死の真相はハルオーネ神の元に導かれるものではなかっただろう。
(神様が、この町の人が何を言おうと、かまいません。私が祈りたいのですから)
 結局のところ、それも自己満足に過ぎないと分かっていても、オデットは彼らに祈りを捧げることを選んだ。
 椅子に腰を下ろし、静まり返った礼拝堂の中で、自分自身に刻まれた二人の思い出を辿る時間は、これまでになく思考を澄んだものへとさせていった。
 祈りを捧げる相手は、ゲルダやヒューイだけではない。竜へと姿を変えてノエに討ち取られた少年や、竜の襲撃で命を落としたアラン。イシュガルドに訪れた後に出会い、傷つき、目の前で命を落としていった名も知らぬ人々。
 ノエと出会ってから何度も目にしてきた命の喪失を、一本一本の糸を手繰り寄せるように、オデットという芯へと絡め、結んでいく。
 思い出したのは、ノエと出会ってから巡り会った人たちだけのことではない。
……お母さん)
 イシュガルドに辿り着いてから、ようやく思い出せた母の記憶。目を瞑り、彼女にも祈りの言葉を捧げる。共にいた日々を懐かしみ、もう戻らない現実を寂しく思う。寂しかったと改めて心に告げることもまた、祈りの一つの形なのだろう。
(わたしが一番辛かった時期に、そばにいた人たちのことも)
 教会の事業に参加させられていた頃は、自分の隣から消えていた人のなんと多かったことか。顔を覚える間もなく、名前を聞く機会もなく、ある日自分の隣で冷たくなっていた。はたまた、作業の最中に動かなくなって、そのまま戻ってこなかった。
 そのように名も知れぬ誰かにも、オデットは祈りを捧げる。遅くなってしまったが、この祈りが彼らの慰めになってくれたらと願う。
 これは、ここまで歩んできたオデットにとって、知らず知らずのうちに己の影に染み込んでいた死というものに向き合うための時間だった。
 決別というほど明確な線引きはできなかったけれども、自分が再び歩き出すぐらいの力を得るために、オデットはひたすらに祈りのためだけに時間を費やした。
 目を瞑り、戦神ではなく己自身に語りかける。逃避ではなく、自責でもなく、ただそこにあった死が自分にとってどんなものだったかを整理していく。
 そうして、オデットにとっては何時間もの時が過ぎ去ったように思えた頃、ようやく彼女は瞼を持ち上げた。視界には、目を瞑る前と寸分変わらない位置に女神の像がある。窓から差し込む薄く淡い日差しは少しばかり傾いていたが、オデットが思うほどに時間は経っていないようだ。せいぜい、三十分程度だろうか。
 すうと息を吸い、吐き出す。冷たい礼拝堂の空気が、一心に自己に向き合っていたオデットには心地よく、どこか甘さすら覚えるものだった。
「兄さんが心配しないように、もう戻らないといけませんね」
 少しばかり軽くなった足を伸ばし、今まで腰掛けていた礼拝堂の椅子から立ち上がろうとした時だった。
 こつん、と革靴の音が背後で響く。
 自分一人しかいないものと思っていたオデットは、驚いて振り返り、
「ハンフリー……さん?」
 たしか、そのような名前だったはずだとオデットは思う。
 入り口の扉の前からゆっくりとこちらに歩み寄ってくる司祭は、葬儀を取り仕切っていたシュガーグレイヴの司祭だ。孤児院にも一度顔を見せており、司祭が苦手なオデットは彼の姿を見て否応なしに緊張を強いられた。
 そして今もまた、オデットは背筋に冷たいものを感じていた。
(兄さんが、礼拝堂を使うって話をしてくれたはずですから、様子を見にきたのでしょうか)
 葬儀が終わったのならば、ハンフリーの今日の仕事は終わったも同然だ。だというのに、礼拝堂にいつまでもオデットが居座っていては、彼はゆっくりと休息を取ることもできない。だから、そろそろ出るように言いにきたのだろう。
「すみません。もう出ていきますので。礼拝堂を貸していただき、ありが――
 
「あなたが、五年前の復讐をしている者ですか」
 
 全く噛み合わない問いかけに、オデットは中途半端に口を開いたまま固まってしまった。ようやく我に返ったときには、彼はオデットとの距離をぐっと詰めていた。
 手を伸ばせば互いに届く距離に立っていれば、司祭の表情もよくわかる。
 孤児院で会ったときは、どこか居心地悪そうに揺れていた瞳が。
 葬儀の際には、如何にも司祭らしい厳粛な光を帯びていた瞳が。
 今は――憎々しげに歪められ、オデットを見下ろしている。
「ハンフリーさん……? 一体どういう――
「しらばっくれるな! お前が、五年前の例の件に関わっていた私の同胞を次々殺している者なんだろう!!」
 司祭の恫喝と共に、オデットは腕を掴まれる。椅子から立ち上がりかけた中途半端な姿勢だったのが災いして、足がもつれてオデットはその場に倒れ込んでしまった。
 したたかに背中を打ち、一瞬息が詰まる。辛うじて体を捻って頭を打たずに済んだのは、これまでの冒険が積み重ねてきた経験の賜物だ。
 倒れ込んだオデットの体に、影が落ちる。
「五年が経とうとも、私は忘れるものか。五年前に、ジャヌカンを殺して逃げた子供はお前だろう!!」
「わ、たしは――
 その名前を、オデットは知っていた。覚えていたくなかったけれど、蘇った記憶がオデットにその人物が何者かを告げていた。
 五年前、復興事業とは名ばかりの凍てついた大地で、いつ終わるとも知れぬ労役を課せられていたとき。オデットを一際気に入って、傍に侍らせ続けていた司祭の名――それが、ハンフリーの言っているジャヌカンという男の正体だ。
「その後も、イーサンを、アンリュヌを……彼らの死はただの病気だ事故だと言われているが、そのようなはずがない! 先だって、移動中のアンドリュースを竜に変えたのも貴様の仕業だろう!」
 これまで見てきた好々爺然とした司祭の姿はどこへやら。ハンフリーは倒れ込んだオデットを硬い革靴で蹴飛ばし、その体を踏みつけた。
 ただ虐げるための暴力ではない。まるで、手負の獣が必死で暴れるような勢いには、鬼気迫るものがある。
(この人は、本気でわたしに殺されると思っている……!?)
「次は私を殺しにきたのだろう。そうだろう、オフェリー!! 私の出世を邪魔するだけでなく、私の命を奪いにきたとは、平民のくせになんと烏滸がましい……!!」
 必死に逃げようともがけども、重量の伴った蹴りに、オデットの体が仰向けになる。視界にいっぱいに映った司祭の憎悪と恐怖の入り混じった瞳と、一瞬目が合った。
「賤しい人間どものを信頼を得て、ようやくほとぼりも冷めてきた頃だというのに……!! 貴様如きに邪魔されてたまるものか!!」
 首に絡みついた男の太い手が、渾身の力を込めてオデットの首を締め上げる。気道を抑えられ、必死に男の腕に手を伸ばすものの、オデットの抵抗はあまりにか細かった。
――……っ!」
 やめてください。そんなこと考えていません。確かにあなたは五年前にあの場所にいたのかもしれませんが、わたしはあなたのことを覚えていませんし、覚えていても闇雲に命を奪おうなどと思ってもいません。
 言いたい言葉はいくつもあるのに、呼吸を奪われてしまっては言葉など出るわけもない。川に溺れたときとはまた異なる苦しさに、視界が明滅する。目の前に真っ赤な光が滲み、圧迫された喉が空気を得ようと虚しくもがいているのがわかる。
(死んでしまう。わたし、このままだと本当に)
 ノエはここにこない。ヤルマルも、まだオデットが帰ってくるのを待っているだろう。けれども、あと一分も首を絞められればオデットは死んでしまう。
 誰かに助けを求めるように手を伸ばし――先ほど祈りを捧げた人たちの姿が瞼の裏をよぎった。
 娘の幸せを祈って死んだ母の姿が。
 自分で選択するといいと己の道を突きすすんだヒューイの姿が。
 幸せになってと、最期に笑いかけた友人の姿を思い出した瞬間、オデットは身のうちの魔力を掌に集めていた。
「はな、して……!」
 声にすらなっていない拒絶の悲鳴と共に、オデットの手の内に集まった魔力が光と共に小さな爆発を起こす。同時に、首から手が離れるのを感じ、咳き込みながらもすぐにオデットは立ち上がった。
 背後のハンフリーがあげる濁った悲鳴を無視し、真っ先に瞳が捉えた扉の元へと駆け出す。
(逃げないと、とにかく逃げないと……!)
 教会の奥に続く扉がどこに続いているのか。考える暇もなく、扉を潜り抜け、更に廊下をいくつか曲がり、時にハンフリーがこちらを探す気配に震え上がりながら、オデットはようやく一つの部屋に滑り込んだのだった。
 
 ◇◇◇
 
 冷え切った倉庫の中で、オデットは思案する。このまま倉庫に篭り切っていても、いつかはハンフリーに見つかってしまうだろう。彼は、オデットが無実を訴えたところで、抗弁を聞く気はなさそうだった。かといって、ハンフリーと真っ向に対峙するのも、今のオデットは避けたかった。
(あの人は、本気でわたしを殺そうとしている)
 まだ首が絞まっているような感覚が残っており、危うい場面だったとオデットは身震いした。
 しかし、だからといってハンフリーを傷つける――あるいは、殺す決心までは持てなかった。腰にナイフは吊るしているものの、ゲルダの目を抉り取ったときの感覚はまだオデットの手にこびりついている。その上に、更に人を殺す感触まで重ねる覚悟は、今のオデットには持てそうになかった。
(もし、ハンフリーさんに出会ってしまったら、わたしはあの人の殺意に押し負けてしまうでしょう)
 ならば、彼に出くわさずに教会を出るのが一番だ。だが、オデットの知る出入り口は玄関にあたる礼拝堂の大扉だけである。
 あんなにも大きな扉ならば、開くには相応に時間がかかるだろう。加えて、蝶番の軋む音がハンフリーを呼び寄せるのは容易に想像がつく。オデットの逃亡を予想して、ハンフリーか鍵を閉めているかも知れない。そうなったらもうお手上げだ。
(兄さんに連絡するとしても、声を出さないといけないから、そうなるとどこにいるか気が付かれてしまうかも……
 ハンフリーの目に留まることなく、大きな物音を立てずに外に出る方法はないか。そう思って少しでも手がかりを得ようと、倉庫の中を見渡していたオデットは、床のある一点で視線を止める。
(あそこだけ、何か違う感じがします。床に取っ手みたいなものがある?)
 近づけば、床板に使われている木目とは異なる継ぎ目が見えた。取っ手を引くと、軽い感触と共にあっさりと手前に動き、床下の暗闇がオデットの前に露わになった。
 イシュガルドでは、寒冷な気候を利用して、床下を天然の保存庫にしている場合がある。これもその一つかと思いきや、覗き込んだ穴は床下収納とは思えないほどに、黒々とした深い闇を湛えていた。微かに下から吹き込む空気は、室内の籠り切った空気とは異なる冷ややかな気配がある。
「もしかして、この穴から外に通じている……?」
 手前には梯子のようなものが見えるが、長らく使っていなかったのだろう。縄でできたそれは、切れ端を空中に揺らしていた。
 外からは、相変わらず重々しい足音とオデットを探しているハンフリーの声が聞こえる。悩んでいる時間はあまりなさそうだ。
 幸い、穴の深さは分からずとも、幅はオデット一人ならかろうじて通れる大きさである。ならば、やりようはいくらかある。開いた蓋が音をたてて閉じないように注意しつつ、オデットは穴へと足をかけ、
……重力の魔法なら、この前も使いましたからね」
 竜となった友人を押さえつけるために使っていた重力操作の魔法を、今度は自らを軽くために用いる。レビテト、と小声で魔法の名を告げると、オデットの体はふわりと宙に浮かび上がった。
 体が引っかからないように、さながら針を通る糸のように体を極力細くして、オデットは黒々とした穴へと飛び込んだ。飛び降りる前に、床下に続く扉を閉めておくのも忘れない。教会の管理者であるハンフリーならば、直にこの穴に気づく可能性はあるが、ここまで深い穴を飛び降りる可能性はないと思ってくれることを願うばかりだ。
 最初は少し広めの床下収納なのだろうかと思っていたが、穴は存外に深く、なかなか終わりに辿り着かなかった。ようやく地面に足がついたときは、床下の蓋から漏れる光はすっかり遠くなり、オデットは一面の暗闇に包まれていた。
 流石にここから上の教会まで光が漏れることはないだろうと、オデットは光の魔法で周りを照らし上げた。
 露わになったのは、土や岩が剥き出しになったぽっかりとした空洞だった。存外に高さも空間としての広さもあり、床下にこんな広大な空間があるとは想像もしなかっただろう。
 隅に寄せられた武具はすっかり錆び付いており、毛布と思しき布類もすっかり朽ち果てていた。
「もしかしたらここは、かつて竜との戦いの際に教会に逃げ込んだ人が避難するための場所だったのでしょうか」
 そうだとしたら、武具や寒さを逃れるための毛布を置いておいたのも納得だ。そして、ある種の避難場所だったのならば、ここから外へと脱出する道もあるはずである。
 オデットが慎重に洞穴を探っていくと、ある一角に鉄格子がはめられて通り道になっているような箇所があった。先ほど風を感じたのは、ここを通り抜ける空気を感じたからか。
 鉄格子には簡単な錠がかけられているが、この程度ならオデットの魔法で壊すことは可能だ。希望が見えてきたと、オデットはほっと笑顔を浮かべる。
 改めて周りを見渡し、他に出口のようなものがないか、追っ手が近づいていないか確認した時だった。
 オデットの視線が、空洞の中のある一点に留まる。
「どうして、こんなところに、あんなものがあるのでしょう」
 古い時代に使われていた避難所ならば、決してそこにあるはずのないもの。それに近づき、手に取ったオデットは、あるものに気がつき、さらに目を丸くする。
「まさか、これって……!!」
 鼓動が先ほどの数倍も早まり、耳の奥でガンガンと響いているかのようだった。いくつもの可能性が頭の端を横切り、最後に残ったのは一人の青年の横顔だった。
 何度も深呼吸をして手の震えが収まるのを待つ。そうして、一度自分に走った衝撃を落ち着かせ、オデットはそこにあったものをかき集めてから、古びた出入り口に向かった。