月が呼んでいる

【寿月】数年後同棲プロ時空*ドライヤーが苦手な毛利くんの話。

 ドライヤーが苦手だ。
 もともと熱いもの自体が不得手ということもあるけれども、ことドライヤーに関しては、あの音が理由だった。
 ごうごうと、たえず一定の調子で耳元で鳴り続ける熱風は意識をつつむ殻に似ている。目を閉じて温度と音に浸かっていると、そのままするりと眠りに落ちていきそうな心地がする。自分の意思で踏み込む深い睡眠のわずか手前、無意識の海のふちが、ふとそこにあらわれるのだ。
 そこにはまばらな欠片たちが泡沫のように浮いている。手のひらで掬うと途端にほどけて消えるそれらは、記憶の端にほんのすこしだけ引っ掛かり、それからふわりと溶けていく。頭の中の引き出しを、無意識が片端から開けては好き放題に投げ込んでくるために、何が手元へ流れ着くかもわからない。

 ――ほら、おいで寿三郎。
 ――あなたはくせっ毛なんだから、きちんと乾かさないと寝ぐせが酷いことになるわよ。すぐ済むから、もう少しじっとして。

「毛利」
 短い呼び声と、肩に置かれた手の感触に意識が浮上する。自宅の脱衣所兼洗面所、握ったままのドライヤーからは、相変わらずごうごうと温風が吹き出している。スイッチを切ることすら忘れて、傍らに立つ彼を呼ぶ。
 月光つきさん。
 切れ長の瞳がちらとこちらを見、何事かちいさく呟く(唇の動きからして「すまない」と言ったように見えた)。
「声を掛けたが、聞こえていないようだったから」
「あ……いや、スンマセン、ちょっとボンヤリしよったみたいですわ」
 そこでようやくドライヤーのスイッチの存在に思い至り、電源を切る。静かになった脱衣所に、湯上がりの自分と、入浴の支度を片腕に抱えた彼が立っている。
「毛利」
 どうした、と、声音だけで彼が問う。洗面台の鏡に映った自分はタオルを肩に掛けたままいやに神妙な顔をしていて、先ほどまで足を浸していたはずの眠りの波が静かに引いていくのがわかる。
 ドライヤーを手近な洗面台に置き、呼ばれるように手を伸ばして彼の五指を絡め取る。そのままぎうと長躯を抱き竦めると、珍しく彼が落ち着かなさげにわずかに身じろぐ。様子を窺う代わりに少しだけ腕を緩めれば、手近な場所にある空き籠に彼が荷物を下ろす音がした。とさり。
 彼の長い腕が背にまわり、大きな手のひらでそっと頭を撫でていく。据わりが悪そうだったのは、思うように抱き返すことができなかったからだろう。
 律儀な性分をいとおしく思いながら、改めて額を胸元に預ける。部屋着越しの温度とかれの匂いが鼻先にふれる。目を細めた。
「べつに、なんもないです。ないんやけど」
……、」
「ちょっとだけ、こんまま居させてくれんせーね」
 ぽつり、つぶやく。髪をやわく梳きながら返される無言の肯定が心地好かった。

 ――懐かしい声を、久しぶりに聴いた気がした。
 自身を呼んで手招くしぐさ、癖毛を混ぜる指先の柔らかさと優しさを、覚えている。あのころ何気なく注がれてきたそれらすべてがたしかな愛だったのだと、こうして彼と過ごすようになったいま、ことさらに思い知る。

月光つきさん」
 いくら呼んでも足りない名前。
 ぴったりと寄せた体に伝わってくる拍動は穏やかで、それだけで満ち足りた気持ちがする。しばらくその快さに身を浸したあと、そっと腕を解いて顔を上げた。静かな夜の色をしたひとみが自身を見ている。
「もういいのか」
……はい。あんがとございます」
 風呂を済ませに来たのだろうに、いつまでも甘えて足止めをしていては申し訳がない。一歩下がり離れようとした自身の手首を、彼の五指がやんわりと掴んだ。
月光つきさん?」
……いや、」
 いましがた自身を引き止めた指先がすいと持ち上がり、まだわずかに湿り気を帯びている髪に触れる。肩に掛けたままのタオルをさらった彼が、静かに自身の癖毛を混ぜた。
「もう少し乾かせ。……風邪を引く」
 ひそやかな低音が耳朶を打つ。タオル越しにゆったりと髪を撫ぜる不器用な両手はひどくやさしい。
 はい、と短く応えて身を委ね、彼が拭きやすいようにかるく俯く。手持ち無沙汰な指先でかれの上着の裾を摘むと、髪を混ぜる動きに合わせた小刻みな揺れが手からも伝わる。心地好い。浅い波に揺られながら、ぽつりぽつりと言葉を接いだ。
月光つきさん、あんね」
「なんだ」
「俺、あんまドライヤー、好きやないんよ」
……知っている」
 俯いたまま目を細める。
 知っている。端的なそのいらえが、どれほど自身の心にあまく響くのか、かれは知らない。
 裾をつかむ指先をわずかに強くする。「やから」と声を先に繋ぐには、ほんのすこし勇気が必要だった。
「時々でええから、こーやって、乾かしたってほしくて」
 彼の寛容は月明かりの夜のようだ。ひそやかで、深く、澄んでいる。パートナーとして対等でありたい自己と、柔いものをかれにだけ委ねたい自己が、同じ月を見上げている。
「お前が、いやでなければ」
 ゆらゆらと心地好い揺れのなかで彼の声が聞こえる。
 迷いのない低音はどちらの自身にもひとしく応えを投げていて、――これだからかれには敵わないと思った。
「つきさん」
「なんだ」
…………やっぱ、あとで言います」
「そうか」
 頷く代わりにそっと目を閉じる。澄んだ月のひかりに照らされて、足元に海のふちは見えない。あるのはあたたかい穏やかな浅瀬だけだ。
 髪が乾いたら顔を上げて、まっすぐに目を見て礼を言おう。
 それからもう一度名前を呼んで、抱き締めてキスがしたい。