精神はアシエンでも、なりそこないの身体は病気にかかるらしい。まったく厭になる。幸いだったのはこれがただの風邪であることと今日は大した用事もないくらいか。いや……今日は彼奴が帰ってくるだったなといつもより熱い頭でようやく思い出す。あいつ――我が妻ツィーディア様はある劇場の主力俳優の一人でもある。この女は、私――いや、正確には皇帝にならんとする男ソルの妻になる代わりに俳優業を続けさせてほしいと申し出てきた。曰く、演劇と共に生きてきた、と。舞台の上で見たよりもずっと陰りのある目で、私を見つめながら。
……話が逸れた。とにかくそういうわけで、俳優業を続けているツィーディアは、生活のほとんどを劇場で過ごしている。今の時期は特に、公演の大詰めということで練習にもとことん身が入っているらしい。今日帰るのはその公演を完遂するための休息だという。ただ、ツィーディアに関しては本当に休息が取れるのだろうか。帰ることが休息足り得るのは、帰った先の家が、あるいは同居人が心を落ち着けるに足る存在であることが前提だ。対してツィーディアはどうだ。恋情では繋がらなかった存在、しかも野心ある男の妻というこれまた重い立場を背負わせる相手と同じ屋根の下にいなければならない。これだけ避けられているこの家で、果たして休息がとれるのやら、だ。……ま、どうでもいい。あいつが勝手に避けてくれるおかげでこちらはやりやすい。その、やるべきことが今はないのは置いておく。
彼奴の、演劇と共に生きてきたという言葉に偽りはないと言わざるを得ない。このなりそこないの世界で不覚にも目を奪われたのは、ツィーディアが出演した演劇だった。その役がまるで「存在」するかのように動き、瞳はスポットライト以上に輝いているように見えた。観客と共に物語を動かし、惹きつけ、惜しまれるように締める。観客の楽しんだ顔に笑みを湛えて。この身体でもうっすらと見える魂の色が、その中では強く輝いていた。本当に、えらい違いだ。私に呼び出されるままに結婚し、家にいるときのツィーディアは強張らせ、諦めたように陰りがあった。念のためにとツィーディアの両親に挨拶がてら様子を探ってみても、そこには互いを家族として身を案じ合う、ごく普通の存在たちにしか見えなかった。つまり彼奴の陰りには家庭の影響はなく、この環境ゆえのものだということが再確認できただけだ。
「……暇というものも罪だな。どうでもいいことばかりこねくり回してくれる……」
こういう時には眠るに限る。目を瞑ってみるが、十分すぎるほど眠った身体は眠りに飽きているらしい。もうそろそろ侍女が食事を運んでくる時間だが、この自室に向かってくる足音がいつものそれと違っていた。3回のノックののちにその正体が声を聞かせた。
「ツィーディアです。ただいま帰りました。今開けますわね」
「開けるな!」
大声を出したせいで乾燥した喉が咳で悲鳴を上げた。開きかけた扉がガチャリと音を立てて閉まった。
「く、ごほっ……うつしたらお前の公演にも響くだろうが、軽率に開けるな……」
扉の向こうはうかがい知れない。ただ、しばらくの沈黙が妻の押し黙った声だと想像させた。そして遠くなっていく足音を聞きながら、安堵に胸を撫でおろした。……ん? 安堵、だと?
「なんだ、風邪のせいで頭までおかしくなったか……」
そして、遠ざかったはずの足音が戻ってくる。いや、これは侍女のものか。その証拠にツィーディアの声でないものが扉の向こうから話しかけてくる。
「ソルさま、お食事をお持ちしました」
「……ああ、入れ」
マスクを付けた侍女が、食事を持って入ってくる。ガレマールでは風邪のときに食べられる定番のスープだが、今日はいつものそれとは少しずつ違っていた。
「こちらを預かりました。旦那様へ、とのことです」
「……メッセージカード?」
「実は、このお料理もツィーディア様がお作りになられました。私はお食事をお持ちしただけでございます」
そう言うなり、笑みをたたえた侍女はさっさと部屋を出ていった。……残されたのは私とスープとメッセージカードのみ。ひとまずは熱を持ったスープを空にしようと匙を持った。一口飲むと、まろやかな口当たりが喉を優しく撫でた。スープの内容をよく見ると根菜が食べやすいように小さく切られ、卵がとろけている。気が付かなかったがスープのほかにもりんごのすりおろしとハチミツが小さく添えられている。デザートにでも食えということか。
完食するころには喉も大分マシになった。さて問題のメッセージカード。このまま捨ててしまっても良かったが、そうする気にはならなかった。文句が書き添えてあってもおかしくないと思っていたそれには、ツィーディアの心の一片が記されていた。
「……「お口に合わなかったら残してください。貴方が私の公演のことを心配してくれて嬉しかったから、身体が動いてしまいました。元気になりますように。ツィーディア」……はぁ」
身体がじんわりとぬくもりを持った。スープを飲んだばかりだからだと結論付けたいが、私の家にいるツィーディアと舞台の上のツィーディアが点と点で線になって繋がった。……あいつはこういう公演をする奴だった。
「さっさと治して、観客になりに行くのも悪くない、か……」
私は、どうして彼に料理を作ってあげたんだろう。ただあの時は身体が動いてしまった。昔のことを思い出したの。「……ツィーディア、入ってはいけない。公演にも響いてしまうよ。大丈夫、すぐに治して君の公演にもいくからね」優しい家族の声。口調こそ強かったけど、彼にも同じものを感じてしまった。「この形なら「なりそこない」の私にも渡せる」って。
「大丈夫ですよ、ツィーディア様。旦那様は受け取ってくださいました。きっと空のお皿が帰ってきますよ」
「……ええ、そうだといいなって私も思う。……ありがとう」
不安が顔に出てしまったのかもしれない。料理を届けてくれた侍女が私を励ました。……私も公演頑張らなくちゃね。もし彼が来てくれたら、その時はたくさん楽しませたいと思うから。
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