仕事が終わった後、ついてこいと言われるままに逢さんと一緒にタクシーに乗り込んだ俺は、高そうなレストランで食事をしてから逢さんの家へと連れて行かれた。リビングのテーブルの上には見慣れない花瓶にバラが飾られていて、逢さんは「風呂を入れてくる」と言って浴室へ行ってしまう。
食事中もずっと考えていたけれど、今日が何の日なのか、全然思い出せなかった。付き合い始めた日でもないし、俺たちが出会った季節とも違う。お互いの誕生日はもう過ぎている。他に祝うようなことが何かあっただろうか……。
「由鶴」
「はい! あ、お風呂、ありがとうございます」
「立ってないで適当に座っていればいいのに。何か飲むか?」
「……、……逢さん」
「うん?」
「今日って、何の日なんでしょうか……?」
もうこうなったら聞いてしまえと、申し訳なさを滲ませた声でそう問えば、逢さんはキョトンとして瞬きをし、それから不思議そうに首を傾げた。
「何かの日なのか……?」
「え! だ、だって、いつも行かないような場所で食事をしたし、いつもはないようなバラが飾ってあるし、逢さんもなんだか優しい気がして……いえ、もちろんいつも優しいんですけど。……なんでもないんですか?」
「……ふ、ふふ。悪い、言う必要もないかと思って説明しなかったせいで、不安にさせたな。今日が何かの記念日だったわけではない。レストランはたまたま知り合いが予約をしたけれど行けなくなったからと譲ってもらった席で、このバラは一昨日顔を出したパーティーで押し付けられて仕方なく持って帰ってきたものだ。優しかったかどうかは知らないが、由鶴がいつもと様子が違ったから多少気を遣ったかもな?」
「う、わ……すみません、俺が忘れてるだけで何かあるのかもと考えてたらそわそわしちゃって、……よかった、何も忘れてるわけじゃなかったんですね」
「俺の行動のせいで勘違いさせたなら悪い」
「いえ! 俺の方こそなかなか言い出せなくて」
ほっと息を吐いてソファーに腰を下ろすと逢さんも隣に座り、柔らかい笑みを浮かべて俺のことを見つめた。二人きりの時にだけ見せてくれる甘い表情に胸が高鳴る。
「なんの日にしようか?」
「え?」
「期待してくれていた由鶴に悪いから、今日も記念日にしてしまえばいい。俺たちだけの特別な日はいくらあったっていいだろう」
「……特別な、日」
「何かしたいことはあるか? 初めてすることでも、これから毎年の習慣にしたいことでも、なんでもいい」
毎年誕生日を祝ってもらえるだけでもこんなに幸せでいいのかなと困るくらいなのに、逢さんはどれだけ俺に幸せをくれるんだろう。考えているフリで目を逸らし目頭が熱くなるのを俯いて誤魔化した。悲しいわけじゃないのに涙が出そうでどうしたらいいか分からなくなる。
「……由鶴? ……こっち向け、由鶴」
「いま、ちょっと」
「ふ」
涙が声に滲んで震えていた。顔を隠してもきっとバレてしまってる。
逢さんは隙間を埋めるようにソファーの上を移動して俺のすぐ隣に座り直し、太腿の上で握りしめていた俺の手を優しく包んだ。それだけで心がきゅうっと締め付けられる。苦しいんじゃなくて、許容量を超えた幸せに耐えられていないだけだ。手が触れるだけでどうしようもないくらい幸せになることを、初めて教えてくれたのが逢さんだった。
「おまえが案外泣き虫なこと、付き合うまで知らなかった」
「……ないてません」
「俺の目を見て言ってみろ」
「……」
「ふ。ほら、早く泣き止まないと、由鶴の泣き虫記念日にするぞ」
「ばか……」
「ふはっ」
ぐすっと鼻を啜って逢さんの肩にもたれ掛かると、逢さんは空いている手で俺の頭をぽんぽんと撫でた。泣き止まないとって思うのに、逢さんの手が優しくて、感情が溢れて止まらない。あんまり俺のことを幸せにしないでくださいなんてこの人に言ったらもっと泣かせてきそうだから、俺は涙が枯れるまでただじっと逢さんに甘えていた。
お風呂が出来上がった音が鳴り、逢さんが顔を上げる気配を感じた。俺は涙を拭って体を起こし、ようやく逢さんと目を合わせた。きっと真っ赤になっている目元を逢さんが見つめてとろけるような笑みを浮かべる。
「もういいのか?」
「はい、泣いてしまってすみません」
「そうやって弱みを見せてくれるのは俺にだけだろう。だから、いい。もっと泣け」
「……もう泣かないです」
「泣きそうな顔だけどな」
逢さんは揶揄うようにそう言って俺の頬を撫で、親指でそっと目元をなぞった。涙腺のスイッチはまだ切れていなくて、ぽろっと涙の粒が溢れて逢さんの手を濡らしてしまう。ぎゅっと目を瞑って意識を切り替えようとしても逢さんと二人きりで緩んだ思考じゃうまくいかなかった。諦めて目を開き、「あいさん」と泣き出しそうな声で名前を呼んだ。
嬉しそうに笑う逢さんが不思議だった。こんな泣き虫な男、絶対面倒臭いのに。
「今日は本当に泣き虫だな。記念日にふさわしい」
「う、いやです、泣き虫記念日にしないで」
「ふふ。それじゃあ他のを考えてくれ」
「わかんない……毎日、ずっと、逢さんといられるだけで特別だもん……」
「……由鶴」
「ん……」
「いい子だから泣き止んでくれ。キスして、風呂に入って、俺のことを満たしてくれ。泣いたままじゃ集中できないだろう?」
「……きす、していいですか?」
「ああ、もちろん」
重ねた唇は涙の味がして、逢さんがふっと笑うのを感じた。もう、本当に早く泣き止まないと。泣き虫記念日なんて情けない記念日でも逢さんはそうと決めたらきちんと覚えている人だ。違う記念日にして上書きしないと、来年の俺がまた泣かされてしまう。
キスを繰り返すうちにいつのまにか涙は止まって、舌がいつもの逢さんの味を見つけ出す。逢さんが手のひらで俺の頬を拭い、目を開けると優しく細められたルビーの瞳と視線が絡んだ。さっきまで涙で滲んでいた視界はもうすっかりクリアになっている。
きっともう泣かないから、今日は他の記念日にしましょう。今は頭が回らないけど後でゆっくり考えるから。今日決められなかったら明日だっていい。二人で過ごす日なら、きっとどんな日でも記念日になる。
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