木兎さんの卒業式から約一ヶ月が過ぎて、俺は高校3年生になった。副主将から持ち上がり? で主将になったものだから、去年とやっていることはほとんど変わらない。入学式には新入生たちへのビラ配りに参加して、仮入部期間初日から積極的に見学者への声かけをする。スポーツ推薦組には別カリキュラムで対応し、未経験者や他のスポーツからの鞍替え組にはバレーボールの楽しさを熱意を持ってアピールする。全部去年副主将としてやったことだから、今年はなんだかとてもスムーズにいろんなことが進んでいる。
去年と違うことといえば、俺の隣に木兎さんがいないということ。
去年俺が居た場所には、少し緊張気味の尾長がいる。ずっと俺の背中を見続けていたと言う尾長は、こちらがびっくりするぐらいにいろんなことを先回りしてサポートしてくれている──下手をしたら俺のやることが無くなってしまうぐらいに。でも尾長は木兎さんじゃないし、俺でもない。尾長は尾長のやり方で立派に副主将という立場をこなそうとしてくれている。
だからかな、去年俺がオーバーフローを起こしかけていた新学期の怒涛の行事ラッシュも、新2年生でうまく作業を分担をしながら和気藹々とした雰囲気で新入部員を迎える準備を進めている。こういうやり方もあるんだな、なんて過去の自分を振り返って胸の内側がキュッと軋んだ。
「主将……じゃなくて赤葦さん!」
キャプテンとも主将とも呼ばれたくなかったから、なんとなく『赤葦さんって呼んでね』と新入生たちにも言ってしまった。俺のことを『あかーし!』と呼ぶあのひとはもういない。同級生の『赤葦』呼びとも、先輩たちの『赤葦』呼びとも違う、あのひとだけの『あかーし!』が聞きたくなってしまって、また胸がかすかな痛みを訴える。
卒業式からまだ2か月も経っていない。でも春休みのあのひとはすでに大学の練習に参加していて、ほとんど会う機会が無かった。会えたとしても部活後のほんのわずかな時間で、毎日毎日嫌でも顔を合わせていたあの頃とは全然違う。ああ、あのひとが居ないだけでこんなにも世界は違う色になってしまうのか。極彩色で眩しかった日々を思い出して、俺は暗澹たる気持ちに陥りかけた。
「赤葦さんってば……!」
「ごめんごめん、なんだっけ」
一生懸命俺に声をかけてくれた尾長が、満面の笑みですっと手を伸ばした。校舎と体育館を結ぶ渡り廊下側の出入り口、スノコのあたりに人だかりができている。興奮した声で大はしゃぎする新入部員たちの視線の先には、一際目立つミミズクヘアー。梟谷のジャージじゃない、大学ジャージ姿の木兎さんが立っていた。
「大学の練習が急遽休みになったらしくて、こっちに来てくれたんだそうです」
ヒョロリと縦に長い尾長の体からは嬉しそうな雰囲気がダダ漏れている。『ボクトコウタロウだ!』と遠慮なく大先輩を呼び捨てにする新入生に、さりげなくツッコミを入れる2年生。現3年生からは最上級生の表情が消えて、ついこの前卒業したばかりの先輩を懐かしむ空気が広がる。春高準優勝の元エースの来訪に、体育館は俄かに沸き立った。
「……こら、みんな騒ぎ過ぎ。木兎さんも来るなら教えてくださいよ」
「監督にはちゃんと言ったよ。それにこの時間だとあかーしは部活中だからケータイ見られないでしょ」
ニコニコしながら後輩たちに声をかける木兎さん。ちょっと前までは俺の隣にいたのに、なんだか今日はとても遠く感じてしまう。春高で『普通のエースになる』と宣言したとおり、俺がトスを上げなくても木兎さんは着々と自分の新しい道を進み始めていた。
「部誌、尾長が書いてるんじゃないんだなぁ」
俺の目の前で頬杖をつきながら、木兎さんがポツリと呟いた。慣れた距離感のはずなのに違和感があるのは、俺の目の前のひとが着ているのが中央体育大学のジャージだから。
「これ、本来は主将の仕事ですからね?」
「俺の時はあかーしの仕事だったし」
「それはあなたが書いたら後で読み返す時に大変だからですよ」
「俺はお前の書く字、好きだよ」
「そういう問題ではなく」
カリカリとシャーペンを走らせながら、今日あったことを淡々と書き記していく。練習メニュー、監督からの指摘事項、2対2の結果、特記事項は〝OBの来訪あり〟。
「それだけ?」
「……あなたが早く書き終われオーラを出すからです」
「バレてた」
フッと口元を緩めた木兎さんが目尻を下げる。長いまつ毛が伏せられて、漂うのはどことなく大人びた雰囲気。このひと、こんな表情したことあったっけ……?
「赤葦と話したくて来たのに、ずっと後輩たちの面倒見てるし」
「主将なんだから当然でしょう」
「赤葦は、俺のあかーしなのに」
〝俺のあかーし〟という言葉に込められた切ない響きに、またツキンと心が痛む。ついこの間まで〝俺のセッター〟だったのが〝俺の赤葦〟になったことに、俺はちゃんと気づいてしまった。
──俺があなたの赤葦なら、あなたは俺の木兎さんだと思っても良いですか? そう言おうとして思いとどまって、俺は咄嗟に唇を噛んだ。
「そういう木兎さんこそ、後輩たちからめちゃくちゃチヤホヤされてたじゃないですか」
「それは元主将でエースの木兎さんだからしょうがない」
「自分で言わないでくださいよ……」
「だってほんとのことじゃん」
それはそう。俺の主将で、俺のエースで、俺のスター。二年間ずっと追い続けていた星が、俺の目の前でキラリ微笑む。
「でもさ」
じいっと俺のことを見つめながら、木兎さんがシャーペンを握る俺の手に自分の手を重ねた。大きくて力強い手はゴツゴツしていて大雑把な感じがするけど、とても優しくて温かいことを俺は知っている。
「今は、お前だけの木兎さんでいいんじゃないかなあ」
「……っ、は!」
ちょっと待って、こんなこと言うひとだったか、このひと⁈
「なに、を」
「春休みから大学の練習行ってたからなかなか赤葦に会えなくてさ。やっと会えるタイミングができたからすっ飛んできたのに、赤葦は後輩の面倒ばっか見てるし」
「アンタだって、後輩たちに指導してて俺のトスを呼ばなかったじゃないですか」
あんなに手がかかる主将だったのに、大学生になったとたん面倒見の良い先輩にクラスチェンジするなんて。すっかり良い先輩ヅラするなんてズルいだろ……俺に見せたこと無い顔をして、まるで違うひとみたいに。
「赤葦にトス上げてもらったら一本じゃ済まなくなっちゃうだろ。だから今まで我慢してた」
パタンと反対の手で部誌を閉じて、やんわり俺の手からシャーペンを取り上げて、机越しに木兎さんの顔が近付いてくる。視界いっぱいに広がる〝俺の木兎さん〟の顔を直視できなくて、俺は耐えきれずにぎゅっと目を閉じた。
「ここから先は、赤葦の恋人の木兎さんの時間。ラーメン奢ってやるからもうちょっとだけ一緒にいよ」
最終下校の時間を気にしつつ、俺は〝木兎さんの後輩の赤葦〟から〝木兎さんの恋人の赤葦〟になっていった。
2025.5.7
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