外に出てから何時間経っただろう。寒さは感じていない。それなのに大きめのクシャミが出た。風邪をひいたんだろうか? コートの袖を中に着ていたトップスごと捲ると、腕一面に鳥肌が立っていた。だけどゆっくり瞬きした次の瞬間、鳥肌は消えていた。見間違いだったらしい。口から自然と、ほうっと安堵の息が漏れた。
最近はずっとこんな調子だ。こんな、というのは体調面での不調を指す。怪我や病気で臥せっているわけではない。それなりにまあまあ健康だけれど、良好快調とも言い難い。なんだかどうにもしっくりこない、そんな感じが続いている。
ポケモンバトルに関しては特段問題ない。日々の練習を怠ることなく努力しているし、結果にも結びついている。だから多少の懸念事項は、些末なことだと気に留めなければいい。日常における大概のことは気の持ちようでどうにかなるのだから。……なんだか今の思考、ダンデさんっぽかった気がする。
「あーあ、やだな……」
今度は落胆のため息が漏れた。この頃、よくリーグスタッフに言われるのだ、「ダンデさんに似てきましたね」と。
元・無敵のダンデ。僕が二年前に王座を奪い取った彼は、先代チャンピオンとしても先輩トレーナーとしても見習うべき点が多く、もちろん心から尊敬している。だけどダンデさんみたいになりたいかと言われれば、断然否だ。
人はそれぞれなのだから個性を大切に、などと多様性を重んじる今時の主張をしたいのではなく、言葉通り本当になりたくないのだ、ダンデさんみたいには。だって見習うべき点と同じくらい、反面教師と言える部分が多すぎる。詳細を語ると恨みつらみが長くなってしまうので、ひとまずは割愛するけれど。
そんなダンデさんと僕は、半年ほど前から生活を共にしている。シュートシティの街はずれにある土地の一角をダンデさんが購入しており、ポケモンと生活するために建てられた立派な一軒家に僕も住まわしてもらっている。
生活が始まった当初は同居人だった僕達の関係は、やがて同棲相手という密接なものになっていた。反面教師や恨みつらみなどと言っておきながら、その相手と懇ろになってしまっている。結局惚気かと思われるのは心外だけれど、僕は事実しか語っていない。
そして現在、その恋人と暮らしている家を出てそれなりの時間が経ったところだ。事の発端は些細な行き違い。それが言い争いへと発展した。原因がなんだったのか、もはや覚えていない。責めるような諭すような鬱陶しい瞳から逃れたくて、無計画に飛び出してしまった。
空腹は不思議と感じていない。ただ漠然とした空虚さが胸を占めていた。もしかするとこれが、寂しいという感情なのかもしれない。
しかも僕としたことが、ポケモンの入ったボールを家に置いてきてしまった。ひどく心許なくて孤独に苛まれ、鬱々とした気持ちが延々と尽きない。最もやってはいけない失態だ。心強い相棒たちとはいつも一緒にいなきゃいけないというのに。これではチャンピオン失格だ。ポケモントレーナーとしても。そんな大切なことが頭から抜けてしまうほど、ダンデさんとの口喧嘩に我を失っていただなんて。
「そうだ……お風呂が、あつくて……」
近頃、湯船に浸かることができない。以前は長風呂が大好きだったのに、いつの間にか苦手と感じるようになってしまった。その頃からかもしれない、やたらとダンデさんに対して苛つくようになったのは。
喧嘩の原因を思い出した。カッとなっていた頭が冷えた今、ダンデさんは悪くないということも分かる。お風呂の設定温度が高かった、ただそれだけ。それだけのことでダンデさんを責めたのだ。改めて思えば、どうしようもないほどくだらない理由だ。今更だけど認めるしかない。悪いのは完全に僕だ。
地方によってだいぶ差があるらしいけれど、ガラルの人は湯船に浸かる習慣がほとんどない。熱々のお風呂に長時間浸かるのが好きな僕は、かなり珍しい方だと言える。今となっては、『好きだった』になってしまったけれど。
ダンデさんはココガラの行水で、僕みたいに湯船に肩まで浸かってゆっくりするということをしない。僕達の入浴スタイルはまったく違っていて、僕の目的がリラックスするためであれば、ダンデさんは体を清潔にするためでしかなかった。熱い湯に浸かると体の火照りが収まらず寝つきが悪くなるかららしい。
お風呂は気持ちいいものなのにもったいない。そんな憐れみすら抱いていたというのに、僕まで同じように苦手になってしまうとは。
ダンデさんと暮らしているせいで、僕の体質も似てしまったんだ。そんなふうに僕は結論付けた。以前よりも運動と食事の量が増えたことで筋肉量と体のサイズが変化した。だからダンデさんみたいに、熱いお風呂が受け付けなくなったのだと。
しかも僕は、それをダンデさんには知られたくなかった。悔しかったというか恥ずかしかったというか、一言で片づけてしまうと僕が思春期だからだ。僕という人間を構成するアイデンティティの一つがなくなってしまったような気がして、それが悲しかった。
好きと嫌いは紙一重だの表裏一体だのと言うけれど、本当にその通りだと思う。あんなに好きだったお風呂が苦手になってしまったし、恋人であるダンデさんに対しても負の感情を抱えている。自分の体と心なのにコントロールができない。それがもどかしくて苦しくて、その鬱憤がダンデさんへと余計に向いてしまう。
ストレス解消に役立っていた日々の癒やしを失い、日に日に心が荒んでいく僕にダンデさんは当然気付いていた。だから仕事で疲れて帰宅した僕を慮って、熱いお風呂を用意してくれたのだ。香りの強い入浴剤も混ぜてあった。キミのためだと入浴を強制され、それで僕がぶちギレた。何が僕のためだ、何も分かってないくせに、と。
「……最低だ、僕」
僕は相手が悪い時よりも自分が悪い時の方が激しく落ち込むタイプだ。自己嫌悪によるネガティブが止まらなくなる。ダンデさんへの怒りで家を飛び出したはずが、今はダンデさんへの申し訳なさと自分自身の不甲斐なさで帰るに帰れなくなっていた。
胸に詰まった鬱屈を追い出そうと深く息を吐き出す。大きな白い靄となり、外気がだいぶ冷たいことに気付かされた。人は逃避行すると何故か北国を目指すらしいけど、僕も無意識にキルクスタウンへと行き着いていた。今晩の寝床となるホテルが必要だったこともあるけれど、熱いお風呂と暑苦しいダンデさんから逃げた先が寒い場所だなんて。我ながら短絡的思考すぎる。
目の前に広がった一面の雪による銀世界。どこか物悲しさのある美しい景色に溶け込んでしまいたくて、僕は足を引きずるように動かした。
雪が降っていて積もっているというのに、どういうわけか全然寒くない。心は虚しさでいっぱいなのに、反比例するかのように体が熱い。全身が熱くて暑くて、やるせなくて苦しい。
分厚いコートがいやに重たく感じて脱いだ。やはり寒くない。近くのベンチ横にゴミ箱があり、僕は迷わずコートを捨てた。僕が自分のお金で買った物だけど、キミによく似合っているとダンデさんが褒めてくれたコートだった。
ガラルチャンピオンである僕はそれなりに顔が知られている。こんなところを人に見られたらどうなってしまうか。そんなことを気にする余裕はまったくなく、幸か不幸か誰ともすれ違わず、僕は他人の目というストッパーがないままフラフラと彷徨い続けた。
雪が降り積もり静けさに包まれた世界に、いつしかシャラシャラと鈴のような音が混じっていた。それがユキハミの鳴き声だと分かった時には、数えきれないほどのユキハミが僕の横に長い行列を作っていた。
一体何事だろうか。ユキハミが行列を作るだなんて現象は聞いたことがない。気になって、たくさんのユキハミ達に誘われるようにその行き先を辿ることにした。
ゴールに到着するまでに、さほど時間はかからなかった。英雄の湯。ポケモンとトレーナーどちらからも愛されるそこは、ガラルの伝承に名を刻む名所だ。まるで時間が止まったかのように静かな水面。ユキハミの行列は、そこを目指していた。
シャラシャラと耳心地のいい鳴き声を響かせながら、一匹が湯へとダイブする。続いてもう一匹、また一匹と、ためらうことなく水面へと身を投じていった。氷タイプのポケモンが熱い湯に飛び込むなんて、自殺行為にしか見えない。
「っ、」
息を呑んでぎょっとした。そんな僕の目の前で、ユキハミたちは次々と消えていく。ぽちゃん、ぽちゃんと、小さな水音だけが残り、浮かんでくる気配はない。……まさか、溶けてしまった?
そんなはずがない。英雄の湯と言えばポケモンを癒やす場所だ。
もしもの可能性に戦慄しながらも、僕は誘われるように湯の縁に近づいていった。そのまま足を踏み入れてから靴を脱ぐべきだったと気付く。
膝より下までしかない浅い水位。何度か足湯をしたことがあるから知っている。本来なら水温が高い温泉のはずだ。それなのに今は、全然温かくない。氷水のように冷たい。
本当に、ユキハミ達が溶けてしまったのだろうか。そんなわけないと内心で強く否定する。それでも目の前の光景があまりにも非現実的で、思考がぐちゃぐちゃになった。
もっと湯の中に、深く身を投じれば。そしたら……。
「マサル」
膝を折って屈もうとした時、背後から声がした。振り向けばダンデさんが立っていた。
男らしい形の眉、いつもより少し乱れた菫色の髪。黄金色の瞳が、じっと僕を見つめている。
「何をしているんだ、こんなところで」
緊張感のある声色。心配してくれているんだろうか。だけど、僕はいたたまれなさでいっぱいだった。
「放っておいてください」
突っぱねるように言えば、ダンデさんの眉がわずかに動いた。
「放っておけるものか」
静かだけど強い口調。面倒見の良さか義務感か、どうであれ現在進行形で迷惑をかけてしまっていることが恥ずかしい。
「構わないでください。僕なんか……僕なんかのことに、ダンデさんがいちいち気を使わないでくださいっ」
叫ぶように吐き出した。自分でも驚くほど感情が溢れて、声が上ずった。
ダンデさんは目を大きくみはって、それから表情をやわらげた。
「帰ろう、マサル」
落ち着いた声。駄々をこねる子どもを宥めるような響きに、余計に苛立つ。
「嫌です」
「オレと帰ろう」
ダンデさんは、ずんずんと歩いて英雄の湯に入った。ブーツで水を蹴り進んですぐに僕のいるところまで来てしまう。
逃げなきゃ、と思いながらも僕はその場に立ち尽くしていた。そして目の前までやってきたダンデさんを見上げた瞬間気付いた。きっと僕は、待っていた。期待していたんだ。ダンデさんが迎えに来てくれるのを。
「マサル」
名を呼ばれ、強い腕に抱きしめられた。……あったかい。
ダンデさんの体温が、直に伝わってくる。こんなの、いつ以来だろう。人の温もりをこんなに近くで感じるなんて。胸の奥が締めつけられて、泣きそうになる。唇を噛みしめて涙をこらえる。
「構わないなんて、無理だ」
ゼロの距離でダンデさんの声が聞こえた。
「マサル。オレがわがままなだけだ」
絞り出すような声が耳元で響く。抱きしめる力が強まる。僕を逃がさないと知らしめるように。
「オレが、キミのそばにいたいんだ」
許しを請うような願いに、胸が痛んだ。ダンデさんの人肌が、あったかくて、嬉しくて嬉しくて、涙がこぼれそうになる。必死で堪えようとしたけど、限界だった。
目が覚めた。
近寄ってきたスマホロトムが、現在時刻を告げている。深夜二時過ぎ。シュートシティの家、僕とダンデさんが暮らす寝室。夢の内容はまだ覚えている。
隣を見れば、ダンデさんがいた。最近はベッドを分けていたというのに潜り込んできたようだ。寝息を立てながら僕にしがみついていて、暑いのか額が少し汗ばんでいる。閉じられた瞼の下では、黄金の瞳が揺れていることだろう。無防備な寝顔は、どこか子どもっぽい。
「まさる……」
寝言での呟きにどきりとする。起きたわけではないらしい。……名前を呼ばれた。ダンデさんも、夢の中で僕と会っているんだろうか。
「ダンデさん」
小声でそっと呼んでみる。特に反応はない。本当に眠っているらしい。
包まれている体温は、夢で感じたのと同じ温かさだ。熱い湯船に浸かっているような心地。僕の大好きな、あったかくて気持ち良くて、幸せな温度。
ダンデさん、ダンデさん、ダンデさん……。
起こさないよう声には出さずに心の中で呼び続けた。いろんな感情が綯い交ぜになり、どうしようもなくなって涙が溢れ出す。
夢の中でコートを捨てたことを思い出して、後悔した。ダンデさんが褒めてくれたあのコート。あの時の僕は、とにかくダンデさんを拒絶したかった。何もかもが嫌だった。
だけど今は違う。あれが夢で良かったと、心から安堵する。
シャラシャラ、と鈴のようなユキハミの鳴き声。聞こえた気がしたのは単なる夢の余韻で、気のせいだと分かっている。雪に閉ざされたキルクスタウンも、英雄の湯も、すべてが遠い幻だ。
温かいお風呂が恋しくなる。今夜こそ、以前のように熱々の湯船に肩までじっくり浸かりたい。
でも今は、この体温だけを感じていたい。
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