しあわせのまほう

【寿月】数年後同棲プロ時空*親子丼をあーんしやる話。シチュエーションの都合で野菜天丼ならず。

 ことことことこと、ぐつぐつぐつ。
 クッキングヒーターに掛けた手鍋の中で、馴染みの具材が熱されてやわらかな出汁の香りを漂わせている。
 背後のラックでふかふかと蒸気を吹いていた炊飯器も、少し前に炊き上がりを教える音楽が鳴った。ほどよく蒸らした炊きたての白米を昼食に宛てがえるのは、オフ日ならではの贅沢だろう。(否、拠点でのトレーニングがあるときは施設内の食堂の世話になることが多いので、そちらも大変重宝しているのだけれども。)
 鶏肉、玉ねぎ、それから人参。具材にはそろそろしっかり火が通ったころだから、あとは卵でさっととじて、彩りに小ねぎを散らせば本日の昼食の完成である。
 すこし離れた浴室からかすかに聞こえるドライヤーの音を、意識の端に心地好く捉えながら、溶き卵がとろりと揺れるボウルに手を伸ばす。ジャストタイミングだ。
 窓の外には雲ひとつなく晴れ渡った青空、キッチンに差すあたたかな昼のひかり――上機嫌に口笛でも吹きたくなってしまうほどの、おだやかな休日だった。
「機嫌がいいな」
月光つきさん」
 休日用のトレーニングメニューを終えてシャワーを済ませた越知が、そんな言葉とともにキッチンへ顔を覗かせる。口笛を聞かれたか、そうでなくとも胸中が漏れ出ていたかはわからないが、彼の声も綻ぶようなぬくもりを帯びていた。
 浄水器からグラスに注いだ水を、彼のしろい喉がこくりと二、三、嚥下する。湯上がりの水分補給を済ませた彼が、こちらの手元を見遣り「親子丼か」と呟いた。
「今日はすまし汁つきです。 自分で言うんもなんやけど、ええ感じやと思いますよ、へへ」
……そうだな。良い香りがする」
「あんがとございます! あ、そうや、せっかくやから味見してもろてもええですか?」
「いいのか」
「もちろん」
 どちらかといえば薄味のものを好む彼に合わせて、やさしめの味付けを心掛けているが、やはり確認はしておきたい――というより、少しでも早く彼の「おいしい」の声を聞きたい、の方が本音のところだが。
 味見用の小皿にひとくちぶん取り分けた親子丼の具材を、すぐに食べられるようにスプーンで掬い置く。皿ごとひょいと差し出すと、それに合わせて背を屈めた彼のうすい唇がわずかに開いた。
――……
――……
 間。
 視線がぶつかる。
 静寂。
 無言で口を噤んで姿勢を正し、突然踵を返そうとする彼の手を、慌てて掴む。「つきさん、ちょっ、待って」
「あの、今、もしかして」
……こちらの勘違いだ。気にするな」
「いや、そないな、無理やってえ……
 小皿もスプーンも取り落とさずに済んでよかった。それとなく自身から視線を逸らして誤魔化すように言う彼のささやかな照れ隠しを聞きながら、一旦小皿を横手に置いて火を止める。
 あとはほどよく卵に余熱が染み込むのを待つだけだ。
月光つきさん」
 ただ呼ぶ声を投げれば、逸らされていた視線が戻ってきて「なんだ」と応えてくれるのが嬉しい。掴んだままの彼の手が逃げていかないことを確かめて、そっと指先をほどいた。
「さっきの、やり直してもええですか」
……、」
「ね」
 冷めてまう前に。駄目押しのひと言に、彼の切れ長のひとみがゆるく目瞬く。
 仕方がないなとわずかに零れた嘆息は、こちらに聞かせるためのものだ。傍らに逃がしていた小皿とスプーンをもう一度、意気揚々と手に取って、なぜだかすこし神妙な顔をしている彼の目を見る。
「はい、月光つきさん」
 そうして匙を斜め上に差し出せば、――ぱくり、今度こそ味見のひとくちが彼の口の中へ消えていく。しばらくむぐむぐと口を動かしたあと、彼がちいさく頷いた。
「美味い」
「へへ、よかったですわ」
 彼好みの味付けの加減もすっかり心得ているつもりだが、やはり直接そう言われると安心する。思わず表情を崩して笑うと、何やらじっとこちらを見つめた彼が、ぽつり、呟く。毛利。
「お前はしなくていいのか」
「へ?」
 目的語の足りない言葉に目瞬きをひとつ。どうやら意図的に外したらしいそれを、自身の手元の皿に落とした彼の視線が無言で補った。
「え、」
 彼を見上げる。
 わずかに眇まるひとみの奥に照れ隠しのサインを見つけてしまえば、……一も二もなく頷くほかにないだろう。
「毛利」
 自身の猫舌を気遣い律儀に冷ましたあと、スプーンひとさじぶんの具材が口元へ差し出される。あ、と口を開けてひとくちで食べてしまうと、馴染みの味付けが口に広がる。鶏肉も固すぎず、熱されてしんなりとした野菜にもやさしい甘さがしっかりある。美味い。うん、と頷いてみせれば、彼の双眸がうすく和らぐ。
 窓の外の雲ひとつなく晴れ渡った青空、キッチンに差すあたたかく澄んだひかり、昼食の香りに、傍らでやわらかく笑む彼がいる。
 ――ああ、これ以上なく良い休日だ。
 幸福にほのかにぬるむ頬を感じつつ、目を細めた。