窓の外が明るくなったり暗くなったりしている間に一週間が過ぎた。この部屋の外で起こっていることについて、ホーエンハイムはあまり興味がなかった。興味を持つ気にならなかった。人一倍好奇心の強いたちだという自負が彼にはあり、それ故に研究者こそが彼の天職だった。しかし何事にも終わりは来るもので、それがひどく理不尽な形を取るのは都市ではよくあることだった。そんな場面では結局、才覚も個性も何の役にも立たなかった。ホーエンハイムは一人生き残り、彼の元に残ったのはただの記憶だけだった。
巣の中にあるアパートの一室で、ホーエンハイムは規則正しく暮らした。寝食の時間すら惜しんで研究に励んでいたのが嘘のように、今は自分でも不思議なほど人間らしい生活を送っている。好奇心という動機を失って、毎日ひたすら息をしているだけだった。それだけで時間が過ぎていく。
一緒に金も減るばかりだった。職を失ったホーエンハイムの貯金が底を突くのは時間の問題だった。光熱費はあり得ないほど高騰していた。都市のエネルギーを担う翼が折れたせいだということは、情報媒体に触れずとも分かっていた。彼は日がな一日、無音の部屋で膝を抱えて座っていた。
食糧には困らなかった。消費期限の長い備蓄食を買い溜めする癖がついていたせいだ。会社の購買など外で済ますことの方が多く、部屋の缶詰やレトルト食はあまり減っていなかった。この部屋で餓死するよりも、家賃を払えなくなって追い出される方が先になりそうだった。
ある日、電話が鳴った。彼は自分の部屋に固定電話があることを忘れていたので、初めは何の音か分からずにびくりと震えて縮こまった。心臓が跳ね上がり、呼吸が一気に早まった。電話はそれでも一定の間隔で鳴り続けていて、それが却ってホーエンハイムに冷静さを取り戻させた。
電話は大家からだった。家賃の滞納を理由に、今日限りで出て行ってもらう、と一方的な立ち退き勧告を伝えて電話は切れた。貯金の底は見え始めているが、それでも今月の分は先日納めていた。折れた翼の元職員が入居者リストに含まれていることに、今日になって気付いたのだろう。ホーエンハイムは受話器を置き、それから支度を始めた。
荷物には必要と思われるものだけを入れた。単身者の夜逃げらしい、少ない荷物を持って玄関に立つ。そのままドアノブに手を掛けようとして、ホーエンハイムは動きを止めた。荷物を床に置くと、彼は部屋の中へ戻った。固定電話の前に立ち受話器を取り上げる。
「……確か」
記憶を探る。ほどなくしてホーエンハイムは数字の羅列を暗唱した。ほとんどの職員は入社直後に存在すら忘れたであろう、彼の勤めていた支部の代表番号だった。
それから長い間、ホーエンハイムは電話の前にただ立っていた。受話器を持つのと逆の腕は最初は中途半端に持ち上がっていたが、じきに体の横にだらんと垂れた。
「無意味だ」
ふいに彼は呟いた。繋がるはずがないのだ。埋没処理の目的は、幻想体の封じ込めと特異点の秘匿であると推測される。ならば処理が実行された時点で支部と外部とを繋げる手段はほぼ絶たれているはずだった。この番号が機能するとは考えられない。
もし、万が一、施設の機構の大半が無事だったとして、まだ電話に出られる誰かがいたとして、この電話が繋がったとして、ホーエンハイムが地中の彼らに伝えることは何一つ無かった。では何故、番号を押そうとしたのか。
自分が見捨てた者たちの現状を知りたいから?
ホーエンハイムは己の右手を見た。手を広げるだけで皮膚が引き攣れて傷が痛んだ。自分で手当した五指は包帯で覆われている。塗った軟膏と、血と浸出液が染みて、面積のほとんどが黄色や茶色に変色していた。受話器を持つ手も例外ではなく、先程からじくじくと疼痛を訴えている。
知ったとして、こんな手では何もできまい。
――はい、もしもし。
聞き慣れた声が再生される。その声は底抜けに明るくて、何も起こらなかったかのように普段通りで、次の瞬間には己の名を呼んで、電話越しにどうしたのかと尋ねてくる。しかし、それはもう起こり得ない事象だった。電話は沈黙を守っている。ホーエンハイムに語り掛ける者は誰もいない。彼はすべてを地面の下に置き去りにした。だから今、こうして生きている。過程はどうあれ、それが結果だった。
「未練、か」
それがホーエンハイムの出した結論だった。声音が言い聞かせるような響きを帯びるのは、もう防ぎようがなかった。こうでもしないと受話器を置けそうになかった。これは逃げなのだろうか、という考えが頭をよぎったが、そう見えるならそれでも良かった。いずれにせよ、ずっとここにはいられない。彼は玄関へ戻り、荷物を持つと躊躇なくドアを開け、外へ出た。
そしてこの部屋には二度と戻らなかった。
かくて石は蹴り転がされ、円となって再び歩み始める。かつての車輪の形は拡張され、過去を轍にして邁進する。
車輪はいつしか、完全な円からは程遠い姿になっていた。踏み付けて後にしたはずのすべてを巻き込んだ歪な輪。しかし、いつか立ち止まる時が来ようとも、倒れることのない形だった。
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