友人の、年季の入ったオンボロベンツが性懲りもなく修理工場へと泊まりに出掛け、私が事件現場まで名探偵を運搬する運転手役を仰せつかったのは、そろそろ桜の季節も終わろうかという四月の下旬のことだ。
桜がまだ散りきらないこの時期に、大阪市平野区で事件は起きた。輸入雑貨店を営んでいた女性が首や腹など複数箇所を刺されて死亡しているのが見つかったのだ。被害者の名前は岡田俊子、三十一歳。そして現場にはもう一人、腹部を刺され意識不明の重体となった被害者がいた。岡田と共同で輸入雑貨店を経営していた橋本侑衣という女性である。現場となった店舗内には争いの痕跡があり、レジからは売上金と釣銭が奪われていたという。
それだけ聞けば典型的な強盗殺人事件で火村の出番はないように思える。しかし死亡した岡田俊子と婚約中だったと言う男性が、共同経営者である橋本と岡田は近年険悪な状態にあったという証言をもとに「橋本が犯人に違いない」も騒ぎ立てた。その婚約者が府議会議員であったことから捜査担当となった船曳班は府警本部から早急な解決を求められ、火村准教授に要請が入ったというわけだ。
ところが私たちが現場に入り、件の婚約者や第一発見者であるアルバイト女性に事情を聞いているうちに橋本侑衣の意識が戻り、岡田との無理心中を図ったと自供したことにより事件は急転直下の展開を迎えた。もともと衝動的な犯行で、警察が出てきては逃げ切れないと悟ったのか、第一発見者が強盗に見せかけてレジ金を盗んだことを自白して、私と火村がなんとも中途半端な関わり方をした状態で事件はほぼ解決したのである。
海坊主こと船曳警部が「急いで先生方をお呼びしたのに申し訳ない」と恐縮するのをなだめすかし、けれど実際問題多少の徒労感を覚えながら私たちは事件現場を後にした。本当に、ただ顔を出しただけであった。
ちょうど昼時の呼び出しだったおかげで私も火村も腹を空かせており、道路沿いのラーメン屋にでも入るかと相談しながら私がハンドルを握る。助手席の火村はと言えば、人の車を煙草で燻すのに忙しい。
「なんや、ややこしい事件やったな」
「そうか? よくある痴情のもつれだろ」
「無理心中と窃盗が無関係やったところがややこしいって言ってるんや」
橋本の自供によると、岡田俊子と橋本侑衣はもともと大学の同級生で、大学時代は恋仲にあったとのことだ。けれど大学卒業とともに恋愛関係を解消して友人の間柄に戻り、二人は以後共同経営者として良好な関係を築いてきたという。
ところが岡田が婚約者とうまく行っていなかった時期に再び肉体関係を持ってしまった。橋本はそこから自分の感情をコントロールできなくなり、自分と関係を持ちながら他の男と結婚しようとする岡田を許せず無理心中を図った──という言い分だった。もちろんこれは犯人の一方的な自供に過ぎないので、語られた内容については船曳たちがこれから裏取りをしていくだろう。
橋本のもとに行っていた森下と高柳から電話越しに聞かされた真相は、少なからず私を動揺させた。その理由について語るには、私と火村の歴史を紐解かねばなるまい。
──かつて私、有栖川有栖と火村英生が互いに英都大学に籍を置く学生であった頃、私たちの間柄は単に仲のいい友人というだけではなく、いわゆる恋人同士と呼ばれるそれだった。あけっぴろげに触れまわっていたわけではないが別段隠し立てもしていなかったので、当時親しくしていた友人たちは知っていたものと思う。
私と火村の蜜月は知り合った半年後からはじまり、岡田と橋本と同じく大学卒業とともに終わりを告げた。告白したのも別れを切り出したのも私からだったので、火村からすれば付き合わされていただけと感じていてもおかしくない。
ともあれ私たちは大学卒業とともに恋人としての関係も卒業し、それからは親友として──この数年は、時には相棒として親交を深めてきた。岡田と橋本の仲と異なる点は、私たちの間には揺り戻しがなかったという点だ。私たちは関係を解消してから、再び情を交わすようなことにはならなかった。
今までそのことに何の疑問も持たずにきたが、けれど、と私は考える。たとえば火村が岡田俊子のように、誰かと結婚することになったとして、果たして私は何の憂いもなくそれを祝福してやれるのだろうかと。
◇
私と火村の関係が単なる友人でおさまらなくなったのは、二回生の冬のことだったと記憶している。大学生にとってのクリスマスは格好の恋愛イベントで、社会学部ではいつもすこし孤立していたらしい火村も常にない頻度で合コンに誘われては煩わしそうにしていた。
私が火村に恋をしているのだと思ったのはそんな時期のことだ。ふだんは火村を遠巻きに見ていて親しくする気もないくせにイベントごとにだけ引っ張りだそうとする連中にも、とりあえずイベントをこなすための間に合わせの恋人を欲しがって火村に目をつける女子にも腹が立って、その誰も彼もから火村を隠してしまいたくなった。そういう、いっそ暴力的なまでの狭量さを当時の私は恋と呼んだ。
自覚した勢いで気持ちをぶつけた私を火村は拒まず、そうして私たちの恋人としての交際がはじまった。それは十一月末の小春日和のことで、結果として私はひどく疎んじていた『イベントごとに合わせて付き合いはじめた大学生カップル』というものになったわけである。
火村が私の告白に応えるかたちではじまった私たちの交際は、いつも私から行動を起こしていたように思う。一緒に出掛けるのもキスをするのも、ベッドに誘うのもいつも私からで、火村はそれに応えてくれる側だった。不満があったわけではないが、私だけが望んでいるのではないかという不安は二年のうちにどんどん強くなっていき、社会に出る私と大学に残る火村の道の分岐を理由に卒業とともに関係に区切りをつけた。そのときもやはり、火村は拒まなかった。
何もかもが若かったな、と今では思う。不安を拗らせて一方的に関係を終わらせる前に火村と話し合いをするべきだったのだと今なら思える。けれどそれは結局失敗して時間を経たからこそ判ることであって、ようやく思春期を過ぎたばかりの大学生の私には難しいことだっただろう。
大学を卒業してから、私たちは良き友人であろうと意識してふるまってきた。恋人だった頃のことは不可触の思い出とすることで私たちは──少なくとも私は、互いの理解者であり昵懇の親友という間柄を維持してきた。話が、空気が、かつての間柄を想起させないように。
恋人関係を解消してから共同経営者として良好な関係を築いてきたという橋本の供述を説明しながら、電話の向こうの森下は「本当にそんなことができるんですかね」と疑っていたらしいが、似たような歴史を持つ私としては、お互いの努力と意思疎通次第では可能だと断言することができる。実際に私と火村はこの十二年そうして過ごしてきたのだから──などと口にできるはずもないので黙って聞いていたが。
けれど岡田と橋本は、遺体の写真と電話越しの自供でしか知らない彼女たちは、その良好な関係を捨て去って時計の針を戻したのだ。そう選択した理由のひとつが岡田俊子の婚約とその不和だろう。
だから私は考えてみる。もしも火村が私ではない誰かを人生の伴侶に選び、その相手との亀裂が生じて苦しんでいたら、自分はどうするだろうと想像してみる。
果たして私は橋本侑衣のような恋の揺り戻しに溺れることなく友情を保ち続けることが、他の誰かを生涯の伴侶とする火村を心の底から祝福してやることができるのだろうか。
◇
府道沿いにある、行こうと目をつけていたラーメン屋に入ることは適わなかった。店に着いたときには既にランチ営業でスープが完売したため臨時休業との貼り紙があったのだ。腹を空かせていた私たちはガックリと肩を落としたが、店にとってはおそらくよいことなのだろう。
「まあ、こんな日もあるさ。繁盛してて何よりじゃねえか」
「それはそうやけど、俺らの腹はどうするんや。向こうのファミレスにでも入るか?」
幸い、数百メートル離れた先にオレンジ色の看板が目印のファミリーレストランが鎮座している。さすがにファミレスが臨時休業ということはないだろうし、ランチタイムも過ぎているから混雑で待たされることもないだろう。
「俺は構わないぜ。そもそもラーメンが食べたかったのはお前のほうだろ」
「なんや貼り紙見たらその気持ちも切れたわ。ならあっちに行くか」
そうしてわれわれは同じ道沿いにあるファミレスにすべりこみ、私はチキングリルを、火村はハンバーグをそれぞれ注文した。料理が届くまでの待ち時間、自然と話題は今日の事件のことへと戻る。
「しかしあの婚約者は……インパクトあったな」
橋本侑衣が犯人に違いないと騒ぎ立て──結局それは事実だったのだが──私たちを現場に招く原因となった府議会議員は、私たちが現場に到着した時点で婚約者の無残な死をおおいに嘆き悲しみ、その時点では橋本の意識も戻っていなかったのに「早くあの女を逮捕しろ」と鮫山の胸ぐらを掴んで喚いて茅野になだめられていた。大の男が人前でこんなに取り乱せるものかと私はすこし感慨すら覚えたものだ。
「まあ、婚約者が殺されたわけだからな。動揺もするだろ」
「それにしたってあれはなあ……大阪の政治の一端をあの人に任せてることに不安を感じるレベルやったぞ」
あの様子では、真相を聞かされてもまた警察相手に大暴れしかねない。対応する警察官──それは見知った顔なじみではないかもしれないが──のことを思って同情した。
「それはそれはご愁傷さまだ。有栖川先生は意識の高い有権者であらせられる」
目の前の京都府民はまるきり他人事の顔でそう言って、水の入ったグラスに口をつけた。畜生、関係ないからって涼しい顔をしやがって。
「で、お前の悩みごとは大阪府政への憂いだったのか?」
「は? 何の話や」
「ずっと上の空だっただろ。運転中の考えごとは勘弁してくれ、二人で仲良く心中するはめになるかと肝が冷えた」
「……気づいてたんか。それにしても、今日その喩えは不謹慎やないか?」
さすがの観察眼に舌を巻くと同時に二人分の料理がテーブルに届けられた。鉄板から立ちのぼる湯気に食欲を刺激されて、口の中に唾液がたまる。
さっそくナイフとフォークを手にとって、添えられていた目玉焼きをチキンステーキの上に移動させて黄身にナイフを入れた。どろりと半熟の黄身が崩れて鶏肉にかかる。付属のソースをひとまわしかけてから口に運ぶとまろやかな味が口いっぱいにひろがった。うまい。
こぼれでた黄身が鉄板の上で軽く焼かれ、まるで炒り卵のようになっていた。敷かれた玉ねぎと絡んで甘い。
「別に、府政の未来を心配してたわけやない。上の空だったのは……まあ、悪かった。帰りは気をつける」
「じゃあなんだったんだよ」
ビーフシチューのかかったハンバーグを口に運びながら火村が言う。ファミレスを選んだのは失敗だったな、と今更思った。予定どおりラーメン屋で食事ができていれば、こんな問答をする隙はなかっただろう。
どうごまかそうか考えながらチキンステーキをナイフで切り分けていると、火村は湯気の立っているハンバーグではなく真正面に座っている私をまっすぐ見つめていた。
「素直になったほうがいいぞ」
ごまかそうとしてるだろ、と図星をさされて私は一度ナイフとフォークを置き、水を口に含む。今の火村は友人ではなく、嘘を許さない狩人の目をしている。
「判った、話す。でも車に戻ってからや。こんなところでする話やない」
再びチキンステーキを口に運びながら私は言った。鉄板の上の肉はもう半分以上私の腹におさまっているし、火村の紙鍋の上も似たようなものだ。時間稼ぎにしては中途半端だったな、とパリパリとした鶏肉の皮を噛みながら思った。
会計を終えて車に戻るや否や、助手席に座った火村がジャケットのポケットからキャメルの紙箱を取り出した。店内は全面禁煙だったから待ちかねていたのだろう。
話をするというのにエンジンをかけるわけにもいかず、意味もなくバックミラーの角度を調整してしまった。私が車内の空気を持てあましていることを感じとったのか、火村が「それで」と口火を切る。
「何を考えてたんだ? どうせ事件に影響されて情緒的になってたんだろ」
なにもかもお見通しだとでも言うように火村が問いかけてきた。合っているような間違っているような、微妙なところだ。そのくせ理解者を気取っている態度を突き崩してやりたくなって、私は「君のことや」とすこし投げやりに答えた。
「は?」
「君が結婚するときのことを考えてた。……そう言ったらどうする?」
私の言葉が予想外だったのだろう、火村は目を見開いて一瞬動きを止めた。その姿にざまあみろ、と溜飲が下がる。勝手に人の胸中を察したようにふるまったりするから、私なんかに一杯喰わされたりするのだ。
「それは……俺とお前の、昔の関係のことを言ってるのか」
察しは足りなかったが、元より勘の鈍い男ではない。私の意図を正確に汲み取った火村が言葉を選びながら尋ねてくる。
「そうやな、事件に引きずられて感傷的になってたわ。そんな顔するな」
「驚いてるだけだ。お前はあの頃のことを思い出したくないんだと思ってたから」
思い出したくないと思ったことはないが、火村との間では過去に触れるような言動を忌避していたのは事実だ。うまく構築し直したはずの友情が崩れてしまわないように心にしまいこんでいた。
それなのに今更こんな話を持ち出してしまったのは、まさしく事件の背景に自分たちを重ねてしまったせいだ。情緒的と言われても否定できない。
「お前は俺に、愛想を尽かしたみたいだったから」
「愛想って……別にそんなつもりは」
「だから有無を言わさずの別れ話だったんだろ。別れたい、とかの希望じゃなくてもう別れるって通告だったじゃねえか」
思いもよらぬことを言われて言い返そうとするが、言葉に詰まる。愛想を尽かしたなんてそんなつもりは一切なかったが、まさか十二年もそう誤解していたのだろうか。火村は深く息を吐いたが、それが溜め息なのか肺から煙を吐き出しただけなのか判断がつかなかった。
「俺が結婚するときのことを考えてたってさっき言ったな。そんな予定は一切ない」
それはそうだろう。学生を恋愛対象にする男ではないし、フィールドワークの場で出会う女は殺人事件の被害者か重要参考人だ。結婚に、それどころか恋愛になど発展しようはずもない。
「センチメンタルになるのは勝手だけど、あまり引き込まれすぎるなよ。俺もお前もお役御免になった事件だ」
だいたい事件に重ね合わせるなら、結婚云々の前に俺は婚約者をキープしたままお前と二股かけなきゃならないだろ。
火村の落ち着いたバリトンでそう言われるとありえない仮定だということがよく判る。いつだって、不誠実なことはしない男だ。二年の恋愛期間と十二年の友だち付き合いでよくよく知っている。
「俺は、結婚なんかしねえよ」
きっぱりとした再度の宣言に、思わず苦笑しそうになった。火村の女性の遠ざけ方も、家族というものから距離を取りたがっているところも理解はしているつもりだが、態度があまりにも頑なすぎる。それは君の過去と関係あるんか、と尋ねようとして思い直した。
「今その予定がないのは知っとるけど、未来のことまでは判らんやろ」
「今もこれからもないんだよ。……なあ、アリス」
火村が一度そこで言葉を切った。灰皿にまだ吸いさしの煙草を押しつける指先を見て、この男も緊張しているのかもしれないと思った。常の火村ならばフィルターぎりぎりまで吸っている。
「俺が執念深くいまだにお前のことが好きなままで、まだ諦められないって言ったら」
──そうしたら、お前はどうする?
ひたりとまっすぐに私を見つめて、火村はそう言った。
◇
「……お前が、俺を好き?」
「ああ。俺たちが──恋人だった頃から、今日までずっと」
言葉がすこし躊躇いがちなのは、この十二年私がそういった話題を意識的に遠ざけてきたことを火村も察していたからだろう。信じられない思いで助手席に座る男をまじまじと見つめてしまう。
「せやったらなんで、」
食事のときにしっかり水分をとったはずなのに、喉がカラカラに渇いていた。そのせいで、声の出し始めがすこし掠れる。
「なんで俺が別れるって言ったときにそう言ってくれんかったんや。お前がなんも言わんから、俺は……」
「ンなもん、お前がもう答えを出してたのに俺が嫌がったって仕方ねえだろ。俺だけがお前を好きでも意味がねえ」
「ねえねえうるさいな。……意味がないなんて、そんなん、」
──そんなわけがあるか。
最後まで言葉にできなかったのは、泣いてしまいそうだったからだ。君が俺を好きでいてくれることに意味がないなんて、そんなことあるわけがない。
「……意味がないと思ってたなら、なんで今更言おうと思ったんや。十二年経って、今更……」
十二年もあったのだ。今までいくらだって機会はあったはずなのに、どうして今になって。
私のそんな疑問に、火村は口を横に広げて言った。
「言おうと思ったのは、勝算が見えたからだよ。だってお前──今、俺のことが好きだろう」
「……なんでそう思うんや」
「今日は『なんで』ばっかりだな。俺が結婚したらどうしようなんて、あんなにかわいく言われちゃ嫌でも判るさ」
「目がおかしくなったんと違うか」
到底かわいげなんてものがあるとは思えない私の言葉に、火村はそれでも愉しげに「そうかもな」と返した。余裕を窺わせる態度が妙に癪に触る。
「それにお前の推理はハズレや。お前は何も判っとらん」
まったくもって、殺人事件の謎解き以外では肝心なところで答えを外す男である。私の夕飯のメニューにしろ、犯人当て小説にしろ、心の機微にしろ。
「俺やって、君のことがずっと好きやった。十四年間ずっとや」
私の言葉に、余裕ぶっていた火村がぽかんとまぬけに口を開いてから若白髪の混じる頭をがりがりと掻いた。畜生、と唸るような声がする。
「じゃあ、なんで別れるなんて言ったんだよ」
「君が何も言わんかったからや。俺ばっかりが君を好きで、君を無理矢理付き合わせてるみたいで居た堪れなかった」
「お前こそ何も判ってないじゃねえか。無理矢理なんて、俺が付き合うかよ」
今にして思えばそのとおりだ。けれど当時の私はそんな単純なことにも頭がまわらないほど追い詰められていた。それこそが若さというものだったのだろう。
「……君は優しいから、そういうこともあるかと思った」
「俺を優しいなんて言うのはお前ぐらいだよ」
果たしてそうだろうか? 尖っていた若かりし時代ならともかく、少なくとも今の火村は優しさを見つけ難い男ではないように思う。
「アリス」
「なんや」
「お前が好きだ。付き合ってた頃も、別れてからもずっと好きだった」
──俺はお前に結婚なんかさせたくないし、浮気相手になるのもまっぴらごめんだ。
今日の事件かはたまたそれを受けての私の発言か、あるいはその両方を思い出してか苦い顔で火村が言う。
「俺がお前を好きで、俺がそれを判ってればそれだけでいいと思ってた。けど、やっぱりもう一度お前を縛る権利が欲しい」
ハンドルも握らず放り出していた左側の手を、火村のそれで包まれた。私の手より高い体温をした掌に心臓が跳ねる。
「もう一度、俺と付き合ってくれないか」
まっすぐに私を見ながら火村がそう言った。十二年の間、こんなふうに請われることを一度も想像したことがなかったと言えば嘘になる。けれど現実の火村の声はどんな夢想より甘く、そして真摯に響いた。
「……俺は、結構面倒な性格やろ」
「そうだな。よく知ってる」
「浮気も二股も赦さんし」
「しねえよ。だいたい、フラフラしがちなのはお前のほうじゃねえか」
裏磐梯の人妻とか、とチクリと刺されて言葉に詰まる。そこをつつかれると分が悪い。
「ひとりで考え込んで、別れ話も切り出すし」
「次は俺が粘るさ。別れたくないって」
「……ほんまに俺でええんか?」
つまるところ、私が尋ねたかったのはこれなのだった。勝手に告白して勝手に逃げ出した私で本当に構わないのか、それを直截に訊くのが怖くて無駄に言葉を重ねてしまった。
「お前がいい。十四年、お前しかいらなかった」
夢の中よりずっと情熱的に火村が言う。ここはファミレスの駐車場で、車内は煙草の煙に燻されていて、灰皿にはそれなりに吸い殻が積もっていて、口の中にはさっき食べたチキンステーキのソースの味がまだ残っている。何ひとつロマンチックではなかったけれど、今までに見たどんな都合のいい夢よりもずっと甘美だった。
「……俺も、君がええ。君だけが欲しい」
掌に包まれていた手を裏返して、いわゆる恋人繋ぎといわれるかたちで握り返す。私からのアクションに火村がすこし目を瞠って、それから一層力を込めて手を握られた。
おそるおそる目線を上げて火村のほうを見ると、十四年焦がれた男が見たこともないほど気の抜けた顔で口許を緩ませている。その顔にどうしようもなく胸が詰まって、たぶんこの感情をいとおしさと呼ぶのだろうと思ったら、柄にもなく涙ぐんでしまいそうになった。
(了)
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