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タロ文庫の作品置き場
2025-05-06 23:30:51
12880文字
Public
作品
アンラッキーデーの皺寄せ
2020-12-21
ティームの不運は五日前に遡る。
月曜日の朝、久しぶりに自室で寝ていたせいかセルフォンのアラーム設定をオフにしていたので遅刻ギリギリに寮を出た。すると車のガソリンが底をついていた。慌てて近くのガソリンスタンドに立ち寄ると長蛇の列。結果、最初の講義に遅れてしまい教授の機嫌を損ねたのか追加課題を出されてしまった。
火曜日は、部活に行く道すがらで鳥に糞を落とされてしまい髪にべったり付いたそれをシャワーで流していたら集合に遅れてコーチにしこたま怒られた。
水曜日、買ったばかりのアイスコーヒーを通りすがりにぶつかられて制服に全部こぼす。部室に置いておいたTシャツとジャージに着替えるもスラックスの代わりはなく下着にまで染み込んできたコーヒーの冷たさがクーラーでさらに冷やされて凍えながら講義を受けた。
木曜日の部活終わり、クタクタの状態でプール棟から出ると途端に降り始めた土砂降りの雨に途方に暮れる。こんな日に限って駐車場が混んでいて、車ははるか遠くに停まっている。傘はない。人もいない。ティームはため息をつくとリュックを頭に掲げて雨のカーテンの中を疲れた身体に鞭打って全力疾走した。寮に着く頃には雨は上がりムッとする湿度だけが残っていて、びしょ濡れのティームの気持ちをさらに重苦しくした。
前の日にコーヒーで汚れた制服はクリーニングに出している。替えのシャツもスラックスもびしょ濡れになってしまい、もう着ていく制服が無くなってしまった。乾燥機に放り込んだものの、明日の朝までに気持ちよく乾いているかはわからない。
ティームはシャワーから出て髪をガシガシと拭きながらベッドへ仰向けにダイブすると身体の奥底からため息を吐き出した。
天井をぼんやりと見つめ続けていると心と身体の澱みでベッドに沈んでいく。
ウィンがいれば、制服も借りられたかもしれない。
だがウィンは先週末から大掛かりな課題に取り掛かっている。夜中に帰ってくるか朝に着替えだけしに帰ってくるかの生活をしていて、いよいよ昨日からは「ディーンの家で作業をする」とメッセージを残して上の部屋からは一切の物音がしなくなっていた。
部活以外で顔を合わせる事がないので、この一週間はウィンの副部長としての厳つい姿しか見ていない。それも課題に追い込まれているせいで気がバチバチに立っている。
四日が全て不運に見舞われているティームにとって、メンタルリセットがなかなか出来ずにいる一番の要因がそれだった。
明日はやっと金曜日。朝練はあるものの午後はプール槽の定期点検で部活は休み、土曜日も午後からの陸上トレーニングなので少しは時間を取ることが出来る。
ウィンとディーンの課題提出も明日だと聞いている。明日を乗り切ればきっといい事があるはずだと、ティームは腕を目の上に置いてもう一度大きくため息をつくとそのまますっと意識を手放してしまった。
そして本日、朝。
乾燥機の中のクシャクシャになっている制服をカバンに詰め込んで水着にジャージを着た状態で車をかっ飛ばしプール棟に一番近い駐車場に滑り込んだ。
「遅い!」
「すみません」
息を切らせながらプールサイドに出てみれば途端に飛んでくるウィンの厳しい声に、頭を下げてウォーミングアップをしている部員の列に加わった。ウィンのチクチクとした視線が身体の上から下まで滑っていくのを感じながら、ティームは唇をぎゅっと閉じて耐える。
寝落ちして遅刻した自分が悪いけど、惨めになるからそんな目で見ないで欲しい。
寝癖の髪を帽子に押し込んでティームは自分に降りかかる厄災を振り払うようにいつにも増して力強く練習をこなしていった。
喉奥がぜいぜいと音がなるほど肺の中の空気を使い切ってなんとか水の中からプールサイドに身体を引き上げると、目の前にウィンとディーンがいた。ウィンの持っているストップウォッチを二人で覗き込み何やら話し込んでいる。部活中は基本的に鬼と悪魔のオーラを漂わせている役職コンビだが、今朝は心なしかお互いに向ける表情が柔らかい。
ティームは顔に落ちてくる水滴を手のひらで雑に拭うと彼らの隣のベンチに置いておいた自分のタオルを取りに行った。ウィンがディーンと笑い合っていた余韻を口元に残したままティームを振り返る。ティームを見て何か言おうと口を開けるのを胸がふわっとする気持ちで見ていると、それより早くディーンが反対側からウィンの肩に拳をトンとあてた。
「お前、一本付き合えよ」
途端にウィンの首がくるりと回って、ティームに金髪のちょんまげが振られた。ウィンはそのまま立ち上がると長い腕をディーンの首に巻き付け楽しそうにニヤリと笑った。
「課題も終わったし、がっつりいくか?」
それを聞いたディーンも口の端を持ち上げる。
ティームはそれらを間近で見て、知らずに眉根に力が入るのをタオルで拭いてなんとかやり過ごした。
これはあれだ。大きな課題をやり終えた達成感によるハイだ。二人ともいつもより気持ちが浮き足立っている。それも苦しみを共に乗り越えた共感性と寝不足からくる視野の狭さがあいまって距離がいつもより近い。もともと圧の強いコンビなので、周りを置いてけぼりにするオーラがすごい。
そんな『二人の世界』の空気を撒き散らしていた片割れのウィンがディーンの首に巻き付けている腕をそのままにキョロリと周りを見回した。その目線を追ってティームはすぐに気付いた。
「先輩、飲み物
……
」
乾いた唇をぺろりと舐めるその仕草に、朝から気温が高いプールサイドで檄を飛ばしていたウィンの喉の状態を察知したティームが自分の手元にあった未開封のペットボトルを差し出す。
ウィンがそれに気付くのと、ディーンが隣でドリンクホルダーからスポーツドリンクをあおったのが同時で、ウィンはふよりと視線を動かすと巻き付けている手でディーンのボトルをその口元から奪った。
「いい、こいつの貰うから。お前は泳ぎ終わったばかりだろう。お前が飲め」
「おい」
ディーンはまだ飲み途中だったのだろう。横から大きな口に奪われて至近距離から睨みあげている。口いっぱいにスポーツドリンクを流し込んだウィンは頬を膨らませたまま眉を上げてディーンを笑った。
ティームは手の中のペットボトルの蓋をパキリと回して開けると二人に背を向けて一番端のベンチにいるミューの元に歩いていく。
「そういえばウィン、ゴーグルの曇り止め切れてたよな。塗っておけ」
「よく気付いたな」
「さっき途中から泳ぎ方がおかしかった」
「さすが。俺のことばかり高校の時から見てるだけのことはあるな」
「おかしな言い方するな、バカ」
背中に聞こえてくる会話も課題によるハイのせいだし、自分の心に酷く引っかかるのも観客席から聞こえてくるセルフォンのシャッター音と黄色い悲鳴が耳障りなせいだ。
ティームは自分の中にあるモヤつきから目を逸らすために手の中のペットボトルをごくごくと飲み干すことに集中した。
ちりも積もれば山となる。
ティームの不運による気持ちの落ち込みは、今朝の狼達のじゃれあいが乗算されて回復する間もなくランチタイムまで引き摺った。
しわくちゃな制服のシャツが恥ずかしくて、いつもは着ない水泳部のジャージをずっと羽織っている。その袖を捲り上げた腕に頭を乗せて、ティームは場所取りをしているテーブルにべったりと懐いていた。
朝から何回目かもしれないため息をついていると、隣に座ったパームが背中をポンポンと叩いてくる。
「ティーム、今週はお疲れだね」
柔らかいパームの声が、ささくれだった心にじわりと沁み込んでいく。月曜からの不運を彼はずっと見ていて、大きな目の上の眉をティームと一緒に下げて背中をさすって慰めてくれていた。パームがいなければ自分はもっと腐ってしまっていたかもしれない。
けれど本当に背中をさすって欲しかった腕と平べったい手は高校時代からの親友の首に巻かれて、同じドリンクホルダーに口をつけて飲み物を共有していた。その光景を思い出してしまい、ティームはグリグリと自分の腕に顔を擦り付けて低く唸り声を上げた。
それだけじゃなかった。
ティームに積もったちりの一つ二つの中には、ティームとパームの対面に座っているマナウが熱心に凝視しているセルフォンの画面と同じものが含まれていた。
ティームの沈んでいる様子など意にも介さず寄り目がちに見入っていたマナウが急に手足をばたつかせて二人に画面を見せた。
「パーム大変! 新しい写真が更新されたわよ!」
「これって朝練の?」
朝練というキーワードにティームの肩がピクリと動いた。画面を見なくてもわかる。誰よりも至近距離で見ていたんだ。そしてそんな自分はトリミングされて、いないものとして扱われているはず。
それでもどんな風に二人が映っているか見ないと気が済まなくてティームはのろりと顔を上げた。
マナウが見ているのは大学内のコミュニティSNSに上がっている『#ディーンウィン』のタグである。
この三日ほどで急激に更新数を伸ばしていた事をティームは知っていた。ちょうどウィンがディーンの家に泊まるとメッセージを送ってきた次の日に、ディーンの車から降りるウィンの写真が朝日に輝く神々しさを伴ってアップされたところから始まっている。
学部も一緒で部活も一緒。登下校も一緒。ランチも課題の話し合いがあるからティーム達とは別に課題チームでとっていて、律儀にも隣同士で座っているものだから撮られ放題だった。
ティームが木曜日に部室から退出するのが遅れたのも、部活終わりにマナウがグループメッセージにこのハッシュタグに上がっていた動画を送ってきて、着替える気力が萎えたからだった。『ディーンの部屋のどこに置き忘れたの?』というキャプションと共に、朝の登校時にディーンがウィンに腕時計とピアスを手渡していて、ウィンが耳元を探り外れたピアスを笑いながら付けている動画だった。
泊まり込みで作業してるんだから風呂も入るし、風呂に入るんだから腕時計くらい取るしとティームはセルフォン画面に向かって呟いて、ピアスが外れた事については迂闊すぎると舌打ちして端末をリュックに投げ入れることで気をおさめた。
そこからの今朝である。
写真は案の定ディーンの肩に腕を回してドリンクホルダーを傾けているウィンで、ティームはふっと目を逸らした。
「パーム、悲しんではだめよ」
「大丈夫だよ、マナウ」
口ではそう言いながらもマナウが画像を保存しているのをティームは目敏く目撃したが、パームの朗らかな返しの方に気を向けた。
「パームは嫌じゃないのか? ウィン先輩、ちょっとベタベタしすぎだし。家に泊まって行きも帰りも車で一緒なんだぞ」
「ちょっと、ティームまで。いつも通りでしょ? ウィン先輩だよ? ティームだって僕の家に泊まりこみで課題をやったことあるじゃない」
「そりゃそうだけど」
ウィン『だから』じゃないか、とティームは言い募ろうとしてパームがニコニコと笑っている様子に自分だけが必死になってるような気がしてやめた。
「これっぽっちも心配してない?」
「何の心配だよ。もう」
じっと上目遣いで様子を伺ってもパームはいつも通り苦笑するだけで、ウィンに対して何か思うことは微塵もないようだ。ティームだって、通常のコンディションだったら『#ディーンウィン』のタグに対してパームほどではないが、へぇとかふーんの一言で済ますところだ。今だって本当はそうしたい。
マナウがデルを呼びに行くというので小さく手を振ってから、パームはティームの沈んでいくつむじを見て密かに笑ってリュックから小さなタッパーを取り出した。
「皆が揃うまでにこれでも摘んで元気出して」
ぱかりと蓋を開けるとふんわりと蜂蜜の甘い香りがした。ティームはスンスンと小鼻を動かしながら顔を上げてパームの手元を見る。一口サイズのフィナンシェがいっぱいに敷き詰められていて、ティームは今週一番の顔の輝きを見せた。
「マナウには内緒だよ。ご飯の後に皆で食べようね」
「パーム
……
」
ティームは人差し指と親指でふわふわのフィナンシェを一つ摘むと口の中に放り込んだ。鼻から抜ける甘い匂いとじゅわっと口に広がる美味しさに涙が出そうになる。
潤んでくる目元を誤魔化したくて、パームの首元に顔を擦り付けて腰にゆるりと手を回した。腕の中にすっぽりと収まってしまう親友に、ティームは小動物を抱きしめてるような癒しの感覚を味わった。今のティームのささくれ立った心がアニマルセラピーで穏やかになっていく。
「美味いよー。全部食べたい」
「だめだよ。ディーン先輩とウィン先輩、課題提出が今日でしょ? きっと疲れてるだろうから甘いもの摂ってもらわなきゃ。昨日の夜も寝たの遅かったみたいだし」
「なんで遅かったって知ってるんだ?」
「え、あ
……
おはようとおやすみのメッセージは毎日してるから。あとウィン先輩が泊まってる間は家を出る時と帰宅の時も」
パームが口ごもって肩を小さく揺らしたから照れてるのがティームにも伝わってきた。代わりに肩をこわばらせて動揺した事が伝わらないことを願った。
口の中に残っている甘さに苦いものが混じる。それも誤魔化したくてティームは普段の揶揄う時の口調でパームの首元から声を出した。
「じゃあ今日でお邪魔虫も家から居なくなることだし、ディーン先輩はパームの家にお泊まりか」
「ティ、ティーム!」
パームの焦った声は図星だ。ディーンのことだから課題が終わると共にパームに連絡したのだろう。ディーンにしても一週間パームとろくに会っていないのだから当たり前か。
そう思った瞬間にティームは胸の中が掻き回された感じがした。塵の山がふわりと舞う。
ウィンからティームへもメッセージは確かに来ていた。
『寝たか?』と『起きたか?』で、不運の渦中にいたティームはリアルタイムで返す事が出来ず返事を返さないうちに部活で顔を合わせることが続いた。課題が終わったという連絡も来ていなければ週末の予定も知らない。自分たちの圧倒的なコミュニケーション不足にティームはまたひとつ打ちのめされた。
ギュッとパームを抱きしめる手に力を入れた時に、パームが徐に首を回した。嫌だったかと思って顔を上げるとパームが食堂の入口を見ている。大きな目がキラキラしていた。
「ディーン先輩たち来たよ」
その声につられてティームも視線を投げると、確かにウィンとディーンの姿が見えた。どこか楽しそうに見えるのは課題提出を終えたからだろう。軽い足取りでこちらに向かってくる。
その時吹き抜けの食堂に風がさーっと吹いてディーンの髪が乱れた。形のいい頭の片方にぴょこんとアポストロフィーのような形に毛束が飛び出していて、ウィンが破顔してその跳ねている髪を長い指で手早く撫でつけた。
ティームの塵の山に火種が灯った。
溺れるものは藁をも掴む勢いで、腕の中のパームを抱く手に力が入った。目を瞑っても念写されたように今の映像が瞼の裏にこびりついて鼻先をパームの襟元に埋める。落ち着く為の深呼吸は、フィナンシェを食べたせいかお菓子作りをしているからかパームから香り立つ甘い優しい匂いだった。
ディーンの普段見られない可愛い一面を見て笑っていたパームも、いつにないティームの密着具合に戸惑い身体をもぞもぞと動かす。
「ティーム?」
伺う声が聞こえてくるのと、とても強い力で腕を掴まれ身体を引き剥がされたのが同時だった。
「お前なにしてんだ! ディーンに殺されたいのか!」
食い込むほどの力と勢いで引っ張られてティームは強制的に立たされる。反射的に開けた視界には肩で息をして眉を顰めて睨みつけてくるウィンがいた。
「痛い。先輩、離して」
「パームにくっつきすぎなんだよ。わきまえろ」
「っ」
ウィンの長い指に骨を持ちたいのかと思うほど腕を強く掴まれて、硬い声を投げつけられる。
いつもよりも強い喧嘩腰にティームも思わずウィンを睨みつけた。腹の底でゆらりと焔が立ちかけているのか、熱い。口からぼろぼろと言葉が溢れた。
「わきまえろって何だよ。自分だってディーン先輩とくっついて楽しそうにイチャイチャしてるくせに。見てて恥ずかしくなった」
「
……
は?」
「おれはパームの友達だ。友達ならハグくらいするだろ。それも許せないくらいウィン先輩の親友は了見が狭い男なんですか」
「ティーム」
目の前のウィンの瞳孔が縦に絞られる。呼ばれた自分の名前の硬度が一段と増して、比例するように掴まれた腕にぎりっと力を入れられた。
握られた腕より心が痛い。
ウィンとティームの不穏な空気にパームがオロオロとテーブルの向かい側に到着したディーンに寄った。ディーンは一度パームに目を向けてから、呆れたような胡乱げな目でウィンを諌めた。
「ウィン」
何の変哲もない、抑揚が薄くて低いいつものディーンのウィンを呼ぶそれに、ウィンの目線が外れて掴んでいた指が緩んだ。
自分が離せと言った時は無視されて、ディーンの一声、それも名前を呼んだだけの声でウィンは行動を起こした。
「離せよ!」
緩まった指の輪から腕を強引に振り解いて、自分に引き寄せて守るように抱きこむ。
ティームが見渡すとウィンもディーンもパームもティームを見ていて、自分側には誰も居ないような錯覚に陥った。一週間疲弊しきって浮き上がるタイミングがなかったメンタルがティームにネガティブな幻覚を見せていた。
指先が痺れてくる。大きな声を出してしまった。
「ティーム、頭冷やせ」
先程とは少しニュアンスを変えて訝しそうに顔を歪めたウィンがそれでも苦々しく言った言葉とそろりと伸ばされた指に、ティームはついに身体の中で粉塵爆発を起こした。
「おれに触るな」
身体の奥から上がってくる爆風のような衝動でティームは自分がどんな表情でどんな声でそれを言ったか分からないまま、ウィンの指を逃れて踵を返すと猛然と走り出した。
足元が震えて、息が苦しい。口の中が苦くて目が霞んで前がよく見えない。
どこかに行きたいわけじゃなくて、あの場に居たくなかった。自分をあの三人の視界から消したかった。
悔しい。
ディーンにはどんな時でも親友も恋人も居て、自分にも親友と大事にしてる人が居るはずなのにどちらもディーンに取られたような、否定されたような気がした。
そんな風に思ってしまう情けない自分に腹が立った。
ついてない出来事が立て続けに起きたことは自分じゃどうにも出来ない事だが、ウィンが自分以外に甘い顔を向けて自分には厳しい顔と否定の言葉しか向けなかった事を嘆くのはただの驕りと甘えだ。
でも、それでも悲しかった。
全力疾走で息が上がるのにしゃくり上げるからまともに呼吸が出来ない。
「待て!」
足がもつれそうになり止まろうと思った矢先にウィンの大声が聞こえて振り返る。少し遠くに走ってくる金髪の姿が見えた。恐ろしいスピードで近づいてくる。足の長さを思いきり駆使して全力で追いかけてきた。ティームは止まりかけていた足にもう一度力を入れて、ウィンに向かって怒鳴り返した。
「来んなよ!」
いかんせんスピードに乗っているウィンと一度失速してしまったティームが速度を上げるまでのタイムラグで出来た差は歴然で、程なくしてティームはウィンにジャージを掴まれてしまった。
「逃げ、るな」
酸素を取り込もうと大きく口を開いて肩でぜいぜいと呼吸をする。止まった途端全身から汗が噴き出て、ティームは掴まれたジャージを脱ぎ捨てた。ウィンの手の中にぱさりと落ちてウィンの顔がくしゃりと大きく歪む。
「逃げてない
……
頭を、冷やしたかっただけ」
冷やせと言ったのはウィンだ。
くしゃくしゃの制服のシャツの胸元を、かろうじてぶら下げてるネクタイごとぎゅっと掴む。俯いた鼻先に汗が伝って、ティームは小さく鼻をすすった。
ウィンは、あーと低くうめいて顎を手の甲で拭うと辺りを見回す。ふいにティームの手を取って歩き出した。
ティームはもう離せと言う気力もなく息を整えながら従った。
車道と歩道の境に植えられている街路樹の前が木陰になっていて、ウィンはティームをその石造りの囲いに座らせた。
「ちょっと待ってろ。絶対にそこを動くなよ」
手に持っていたジャージをティームの頭に雑に乗せるとポンとひとつ撫でて、ウィンはふらりとどこかへ行ってしまった。
ティームは頭に乗せられたジャージを乱暴に丸めて膝の上に置く。
昼の強い日差しが遮られた木陰は風が通り抜けて気持ちが良かった。制服の間に入り込み汗が気化していく。荒ぶっていた呼吸が少しずつおさまっていった。
ジャリッとアスファルトの上の砂を踏む音がしてウィンのスニーカーの爪先が目に入る。
視線を上げると目の前に突き出されたのはアイスコーヒーのカップだった。シンプルな琥珀色のアイスアメリカーノ。ストローの挿さったそれをスッと差し出されて氷がころりと鳴る。
「飲めよ。走って暑いだろう」
「
……
ありがとう」
ティームが受け取るとウィンはティームの反対側の端に腰を下ろした。足を投げ出してシャツを大きくはためかせて肌との間に風を送り込んでいる。
全力疾走で喉が干からびていたティームはズズッとコーヒーを啜った。冷たくてスッキリとした苦みが咥内と喉を通って胃に染み込む。火照っていた顔や頭もすーっと冷えていくのを感じた。
冷静になってくるとますます自己嫌悪が増してくる。皆の前で感情を露呈して居た堪れない。
「さっきは強く掴んで悪かった。パームから聞いた。お前、今週散々だったらしいな」
ウィンがいつもの高く掠れた声で静かに話しかけてくる。ティームはストローから口を離さずにまたひとつコーヒーを啜った。
「言えよ、俺に」
「なんで? 言ってもしょうがないじゃん」
なんで一々、課題で忙しくしているウィンに今日は寝坊しただの鳥に糞を落とされただの言わなきゃいけないんだ。ウィンだってそれを言われてもどうにもならないだろう。いつものように会って話す機会があればトピックスの一つとして話していたかもしれないが、わざわざ言ってどうする?
「大変だったなくらいは言ってやれた。あと俺の部屋から替えのシャツ持って行けって言えた。合鍵持ってるんだから入って持っていけよ」
ウィンの目がしわくちゃのシャツの上を滑るのでティームは思わず両腕を交差してシャツを隠す。顔が赤くなったのは恥ずかしさと、ウィンに言われた事が心にじんわり染み込んできたからだ。
自分の求めていたものが差し出された気がした。
ティームは引き続きコーヒーを吸いながら腰を浮かせて少しずつ少しずつウィンの方に寄っていった。二人の間に吹いていた風が二人の両脇を通って吹き抜けていく。
「もう触ってもいいのか?」
しばらく無言で過ごす中、横にくっついてきたティームにウィンは笑いを含ませて目を細めた。
嫌味か野暮か、それともまさかティームの強い拒絶に少し臆病にでもなったのか、ウィンの問いにティームは残りのコーヒー全部啜ってカップの底を大きな音を立ててさらった。
それを肯定とみなしたウィンがティームの丸い頭に大きな掌を添えた。ぽんぽんと軽く叩いてから丸みを確かめるように撫でる。
「月曜がガス欠で、火曜が鳥の糞、水曜がコーヒーで木曜が土砂降りか」
「まぁ
……
それだけじゃないけど」
言いながら一つ一つの不運に対して労わるように頭を撫で髪を梳く。ティームは気持ちが凪いでいく自分の現金さにストローから離した口をもごつかせた。
「今日はなんだ? パームは教えてくれなかったぞ」
「今日のは
…
気の持ちようだから」
「ハッシュタグ?」
「
……
」
そうじゃないとか何で知ってるんだよとか言いたくて、でも図星をつかれた事をそのままウィンに晒したくなくてティームは唇を突き出してむくれた。
その様子にウィンが笑った気配がして、頭を撫でていた手に少し力を入れられる。
コーヒーと自分の間に木陰より濃い影が出来て視界がかげると、唇にストローよりもずっと柔らかいものが押し当てられてすぐに離れていった。
追うようにウィンの汗の匂いが鼻を掠めていく。
「じゃあ今日はこれで相殺だな」
驚いて見上げた先でウィンが口端と眉を上げていて、ティームは丸くしていた目を元のよりも深めに細めて睨みつけた。肘でウィンの開き気味のシャツの胸をドンと押す。
「ふざけんな。今ので今日のアンラッキーが更新した」
「おい、なんでだよ」
じっとりと見上げる先でウィンが解せないという顔をしている。この顔は察していないなと思い、自分が黙っていたことでディーンに横から攫っていかれたプールサイドのことを思い出した。
「いきなりされて何も分かんなかった」
一週間ぶりに触れたのに。ハッシュタグを相殺されるのに使われて、そんな不運があるか。
ティームは手元のカップに挿さったストローをこねくり回しながらボソリと呟く。
ぐりぐりと差し口を軸に回しているとカップの蓋についていたシールが捲れた。その裏側が見えてティームがあっと呟くのと、その顎をウィンに掬われるのが同時だった。
もう一度視界がかげり、唇にふにと柔らかくて乾いた感触が押し付けられる。啄まれて、少しだけ内側を舐められて、下唇を挟まれ軽く引っ張られてから離れていく。
最後に顎を捉えている親指でゆっくり端から端に辿り、ウィンが目と鼻の先で囁いた。
「今のは分かった?」
ティームは目を伏せて軽く頷いた。ウィンがまた小さく笑う。
「コーヒーの味がする」
「苦い?」
「あぁ、喉渇いてるからちょうどいい」
そう言ってもう一度ベロンと唇を舐めてきて、流石にティームも頭をのけぞらせた。犬か。
人通りが少ないとはいえ大学の敷地内だということを思い出して今更だがウィンの胸を押す。ウィンは押されるままに身体を離して自分の唇もぺろりと舐めた。
「なんで一個しか買わなかったんだよ。おれ、飲み終わっちゃったし」
「お前を追っかけるのに財布なんて持ってこれるか」
ポケットに五十バーツだけ入っていて助かった、とウィンは笑う。ティームは目元に熱が集まるのを感じつつコーヒーの蓋についていたシールをその鼻先に突き付けた。
「仕方ないからおれの一週間のアンラッキーの皺寄せ、ウィン先輩にやるよ」
ウィンの目が寄り目になって、シールの裏側に印字されている『当たり! もう一杯おかわり無料』の文字を追っている。墨色の黒目の寄り方が可愛いのとなりふり構わず全速力で追いかけてきたことに免じて、今週唯一のラッキーを譲ってやることにした。
「貰いに行って皆のところに戻ろう」
「ちょっと待て、これは俺が買ったんだから俺の運だろ」
「先輩がおれに買ってきたんだからおれのものでしょ」
熱くなりつつある顔を覚ますように立ち上がって歩き始めるティームに、ウィンはまたくしゃりと黒髪をかき混ぜてそのまま肩に腕を巻き付けた。
ティームはその鬱陶しさと暑さに口の中に甘さが広がった気がして口端が緩むのを、重いよと文句を言うことで誤魔化した。
「ところで先輩、今日は帰ってくるの?」
「勿論。部屋と洗濯物がヤバい。帰りにディーンんとこ寄って荷物持って帰る」
「ふーん」
現役体育会系の全力疾走はかなりの距離を走ってしまったようで、経済学部の食堂から遥か離れたところをティームとウィンは並んで歩いていた。
二人とも身一つで追いかけっこをしたせいで誰とも連絡を取ることも出来なかったがきっとディーンの先導で食べ始めているだろう。
ウィンがストローでコーヒーを啜るのを横目で見ながら、ティームはディーンの無表情を頭に思い浮かべてぐっと顎を引いた。
「あのさ、先輩」
だいぶ回復した思考はそれでもあのハッシュタグだけは引っかかってるようで。
「おれ、車出すよ。ディーン先輩の家まで行ってそのままこっちに帰ればいいんでしょ」
通常のコンディションならば自分からはしないであろう提案をした。ウィンはふよりと眉を上げてティームを見返す。
「どうした? 別にディーンに送らせるから大丈夫だぞ」
案の定わかっていない返しに若干腹が立ってティームはウィンを強めに睨む。
常日頃あんなにもティームの機微に敏感なくせに、この件に関してはどうしてこんなに察しが悪いのか。高校時代からの根深い『親友の当たり前』に対して、ティームに思うところがあるなんてこれっぽっちも考えたことないのだ、きっと。
「わかってないな、先輩」
「何がだよ」
「さっきパームに聞いたけど、今日はディーン先輩はパームの家にお泊まりなんですよ。一秒でも早くパームの家に行きたいんです。親友のアシになんてならないよ。それに一週間も独占してたんだから、これ以上『おれの親友』の邪魔はしないでください」
最後はたっぷりの嫌味を込めてウィンに人差し指を突きつけてやる。
ウィンがムッとして眉を寄せて何か反論しようと口を開けたが、思い直したようにぴたりと閉じ代わりにコーヒーを大きく吸った。
言い負かせたことが気持ち良かったのと言いながらデジャヴを感じていたティームも、その答えにウィンと同じく行きあたり押し黙って指していた人差し指をキュッと丸めて引っ込める。
ティームがパームに抱きついていた時のウィンの癇癪の出どころは、これだ。
自分で言ってみてティームも気付いたし、言われたウィンも一瞬ティームを「なんだよ、ヤキモチか」と揶揄おうとして自分に跳ね返ってくるのがわかってやめた。
お互い親友を盾にした嫉妬の表現の不器用さに変な気まずさが漂う。
こういう時の立ち直りが早いのはウィンだ。咳払いを一つして、ティームを見る。
「ティームの車で行くってディーンに言っとく」
「う、うん」
「あと、今日はお前の部屋に行きたい」
「う、わ、わかった」
さらりと告げられた今夜の予定に反射的に頷いてしまい、ハッと思い直し慌ててウィンの腕を掴んで首を横に振った。
「やっぱりダメ。めちゃくちゃ汚い!」
「は?」
「一週間本当に色々あったんだってば。ゴミ捨ててないし洗濯物もぐちゃぐちゃ。床も掃いてない。せ、先輩だって部屋ヤバいんでしょ? じゃあ今日はお互い部屋の片付けして明日改めて」
一週間のしっちゃかめっちゃかのせいで部屋が荒れまくっている。それはウィンもさして変わらないだろう。せっかくウィンの身体が空いたのに金曜日の不運はまだ息の根を止めてなかったかとティームは俯くと、ウィンがボソリと低く呟いた。
「一時間」
「え」
「部屋に戻って一時間経ったらお前の部屋に行く。俺は終わらせていくからお前が終わってなければ手伝ってやる」
「一時間って
……
キツい」
「俺にパンツを畳まれたくなければ死ぬ気で片付けろ」
とにかく絶対にティームの部屋で過ごすというウィンの目は部活の時のように強い。ティームは不運慣れした思考が一蹴された気がして、その必死さに引き攣り笑いをしながら今度は縦に頷いた。
勿論最初に洗濯物を畳もうと心に決めることも忘れなかった。
こうしてティームの不運続きの一週間は終わりを告げて、その皺寄せに片付いた自室で心身ともに実に充実した週末を迎えることとなった。
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