タロ文庫の作品置き場
2025-05-06 23:23:05
6092文字
Public 作品
 

厄介者のクリプトグラム

2020-10-03

 これを鬼の霍乱と言うんだな、とティームは朝練後のプール棟から出たところで待ち伏せしていたウィンの姿を見て思った。
 ウィンは顔の下半分を白いマスクで覆っていて、近づいてくるディーンとパーム、そしてティームに対してひらひらと手を振っている。風邪をひいたと本人からメッセージが届いたのが一昨日の夕方で、そこから『副部長命令』により記録会への参加を控えているティームは昨日丸一日かけて面会謝絶を言い渡されていた。顔を合わせるのは二日ぶりだったが、最後に見た時とマスク以外は変わらない顔色と姿勢をしている。
 パームがいつも通り少し微笑んでワイで挨拶するのを横目に、ティームはツンと顎をあげた。
「なんか、日本のヤンキー漫画に出てきそうですね」
 顔が見られた安心感と弱っている時の姿が見られなかった不服が表に出てきて、つい憎まれ口を叩いてしまった。
 こちらが風邪をひいた時は甲斐甲斐しく世話を焼きに来たくせに、職権を振りかざして行動を制限された事がティームにはだいぶ不満だったらしい。自分でも口に出してみたことで気づいた。会えて心が緩んでポロリと零れてしまったようだ。勿論ウィンの言う通り感染してはいけない立場だということは水泳選手として理解している。水泳選手としては、だ。
「もう平気なのか?」
 ディーンが親友兼部長として尋ねると、ティームの憎まれ口を横目で睨んでいたウィンが目をディーンに戻して数回頷いた。勝気な目には熱っぽさも気怠さもなくいつもの生気を宿しているので、回復した様子は見て取れる。ただ、普段であれば打てば響くように会話を返してくるところをウィンは長い指を自分の喉仏にあててから胸の前でバツを作って見せた。
 ディーンの眉が寄った。
「お前、まさか声が出ないのか?」
 ウィンの自由自在に動く柳眉がひょいと上がる。
「それは大変ですね。喉が痛かったり、咳が出たりはないですか?」
 パームが下から覗き込むようにウィンを見上げると、ウィンが少し目を細めてこくこくと頷く。パームに向ける眼差しがなんだかいつもより柔らかく見えるのは、マスクで表情が隠れているせいか。ティームは少し視線をずらした。
「じゃあ、今日は先輩のうるさい小言を聞かなくて済むんだな」
「ちょっと、ティーム」
 両手を頭の後ろで組んでわざとらしくニッと口を歪めて更に憎まれ口を重ねると、隣でパームが制服の裾を引っ張って窘めてくる。
 ディーンとパームの前ではいつもこんな感じになってしまう事を自覚しているものの、今更急に態度を軟化させられない。ウィンは眉間に深く皺を寄せるとゆらりとティームを睨む。
「なんですか? ウィン先輩、言いたいことがあるなら聞きますよ」
 絶対に反論が来ない安全地帯からティームは軽口を叩く。厄介な事ばかりするウィンの口が音を発しないボーナスタイムだ。少しくらい突いても良いだろう。
 すると暫くティームをじっとり睨んでいたウィンは徐にリュックから付箋とペンを取りだした。素早く何かを書いて乱暴に剥がすと、そのまま勢いよくティームの額にビタンと付箋を貼り付けた。
「痛い!」
 付箋ごと額を押さえるティームに鼻で大きく息を吐いて、ウィンはディーンとパームに行こうぜと言うように顎をしゃくった。三人の後ろをのろりとついていきながらティームは額に貼られた付箋を読む。何故か一文字だけ大きな字で書かれている。
【誰がヤンキーだ。『す』こしは先輩を労わる言葉が出でてこないのか。可愛くない!】



 その日のウィンのコミュニケーションは付箋とジェスチャーで行われた。
 彼の顔は四六時中マスクで覆われていて表情の読み取りが普段より難しかったが、本来のそつなくこなす器用さで講義やグループワークをやり遂げていた。と、ディーンがランチタイムにぼそりと呟いた。
 六人で集まったランチタイムも、女子二人の会話を楽しそうにうんうんと頷いて聞いていたり、ディーンとパームのやり取りにカトラリーをちょいちょいと動かして茶々を入れていた。
 ガパオライスを掻き込む時だけマスクを外して大きな口で食べる様子を正面で頬杖をついて見ていると、ウィンがまた付箋に何か書いてティームの手の甲に貼り付けた。
【課題は終わったのか? チェック『し』てやるから出せ】
 一文字だけ大きい。
「終わったしもう提出したよ。先輩が教えてくれた方程式で解いたらあっという間だった」
 筆談に対して自分だけ声で答えるのが何とも恥ずかしくて早口になったティームに、ウィンは口の端をあげて笑い満足そうに頷く。そしてまたひとつ付箋をティームに貼った。
【えら『い』な】
 いつも二人きりの時にそう言いながら頭を撫でてくる手のひらの温度を思い出して、光の速さで付箋の上に手を乗せた。横目でちらりと他の四人を見るとマナウのセルフォンを皆で顔を寄せ合って見ている。誰もこちらを注目しておらずティームはほっと息をついた。そんなティームの様子も楽しそうに鼻で笑って、ウィンはティームの皿にまだ少し残っていた揚げ鶏にフォークを突き立てさらっていった。
「あー!」
 大きな口に大好きな揚げ鶏が吸い込まれていく。わざとらしくのんびりと咀嚼してみせるウィンにティームは震える指先を向けて、自分が思いつく限りの食べ物の恨みを言い続けた。反撃が出来ないのを良いことに、どさくさに紛れて日頃の揶揄いに対する仕返しもしておいた。
 ウィンは付箋での口撃が間に合わない事を悟り、ティームがたまにやる舌をベッと出す顔をしてそれらを受け流した。



 放課後、ウィンは制服姿に水泳部のジャージを羽織りプールサイドに居た。
 さすがに水の中には入れないものの、部員の記録や雑多な事務処理をベンチに座り黙々とこなしている。いつもの厳しい声が聞こえない分、部長と二人で無言の威圧をかけてくる迫力が凄まじい。
 ティームも含め、記録会が控えている選手はいつもとは違う種類のプレッシャーを感じながら気を引き締めてメニューをこなしていった。
 なんとか一日のノルマを終えてへとへとの状態で更衣室に戻ると、ティームのロッカーに見慣れた付箋が貼ってあった。隣でミューがニヤニヤと笑って着替えている。
【タイムが全然縮まってない。メニュー追加決定! あとロッカーの中が『き』たない】
「くそ……
「お疲れ。ウィン先輩、復活するの早かったなー。声が出ないだけであとはいつも通り、厳しい厳しい」
 ご丁寧に少しも可愛くないニコちゃんマークまで描いてあるそれを乱暴に剥がして、ティームはロッカーを開ける。今日は最後の講義が長引いてしまい、遅刻ぎりぎりで急いで脱いだから畳むことが出来なかっただけだ。
 というか勝手に人のロッカー開けやがって、お菓子を入れてくれているから許してやるけど後でいっぱい文句を言ってやる。
 シャツやズボンの上にトランクスがクシャっと丸まっているのをウィンにも見られたのかと思うと恥ずかしくなって、ティームは手の中の付箋を握りつぶしてジャージのポケットに突っ込んだ。



 部活帰りそのままに入室制限が解除されたウィンの部屋を訪れると、彼はまだマスクをしていた。
「先輩、暑くないの?」
 靴を脱ぎ、水泳部のジャージをポールハンガーに投げて、いつも通りベッドに仰向けにダイブすると目の前にセルフォンを翳された。メモ帳に【湿気が喉に丁度いい】と書かれていて、ふーんと頷く。
 せっかく回復したのに、やっと二人きりなのに、ちゃんと顔を見せてくれない。
 ティームの顔の横に腕をおいて覗き込むウィンの次の動作を知っているのでマスクごと顔面を掴んで阻止し、ティームはベッドの端に座り直した。ウィンは小さく笑いを含んだ息を吐きだしてティームの隣に座る。
 声が出ないから当たり前だが何も言わずにティームを見てくる。その見つめてくる目がマスクのせいで強調されて、いつもより数倍柔らかく見える。ティームは急激に背中の内側がソワソワしてきて、沈黙を破るために口を開いた。
「ご飯食べた?」
 ウィンが小さく数回頷く。目が少し細まり、顎をしゃくられる。お前は、かな?
「おれも食べてきた。熱はぶり返してない?」
 ウィンが親指と人差し指で丸を作って見せてくる。
「なら良かった。……えっと、じゃあさ、快気祝いに何かしたいことある?」
 とにかく沈黙の中ただ見つめられる空気感が嫌で思いついたことを何も考えずに口から出した後に、ロッカーを勝手に開けたことに対する苦情を言いはぐったことに気づいた。だがもう部屋の空気が先輩後輩ではない気がして、ティームはとりあえず自分の作った流れをそのまま押し通すことにした。
 ウィンは人差し指でマスクをトントン叩きながら暫くティームを見た。快気祝いも何もただの風邪だったのに大げさだっただろうか。でも自分が風邪をひいた時に頼んでないにしても食料を買ってきてくれて色々(本当に色々)世話になったウィンに、自分も何か出来ないかと一昨日からずっと考えていた。
 マスクをしていても綺麗な顔立ちを見ながら、ピアスに紐を引っ掻けたりしないのかな? と薄らぼんやり思いつつウィンの次の動きを待っていると、ウィンが立ち上がりリュックの中から付箋とペンを取りだした。ぺりっと剥がしてティームに手渡す。
【今日俺が書いた付箋を全部出し『た』ら、したいことが分かる。さて、なんでしょう?】
 また一文字だけ今までのどの付箋より大きく書かれている。ティームは口をへの字にして、側に立つウィンを見上げた。
「なんだよそれ」
 回りくどいことせずに今この付箋に書けばいいのに。
 ティームの顔にそう書かれていることが分かったのか、ウィンがいいから出せとティームが持ち込んだリュックを顎で示す。リュックの底に放り込んだままの付箋をウィンのベッドの上に広げた。
 朝の文句、昼のやりとり、あと部活の駄目出しはジャージのポケットだったかと、ウィンのジャージの隣にかけてある自分のジャージのポケットをまさぐって出した。くしゃくしゃになっている最後の一枚を見て、ウィンが肩を揺らして笑っている。
 シーツの上に広がった四枚の付箋の隣に先ほどティームに渡した付箋を置くよう指で示す。
「なにこれ、暗号?」
 付箋とともにベッドに乗り上げて胡坐をかいているティームの隣に再び腰かけたウィンが楽しそうにこくこくと頷く。そのまま上体をベッドに倒し腕で頭を支えて、ティームと付箋を交互に見つめている。ティームは散らばった五枚の付箋をランダムに並び替えた。
「し、き、い、す、た……
 不自然に大きな文字が五枚の中から浮いて見えて、口に中で五文字をぶつぶつ呟いていくとティームの脳にひとつの言葉がひらめいた。ピコンと頭上に豆電球がついたようにティームが背筋を伸ばしウィンに人差し指を向ける。
「分かった!! 寿司か! 『寿司期待』でしょ」
…………
 風邪の後に食欲が戻る気持ちはティームにもわかるので、寿司は美味しいよねと目を輝かせてウィンを見た。突然現れた『寿司』というキーワードに部活帰りに夕食を食べ終えたはずの胃はワクワクし始める。そう思って見ているとウィンはくっきりとした二重瞼を半目になるまで下げて首をぶんぶんと大きく横に振った。
「え、違うの?」
 寿司だと思った脳はもうそれを寿司としか認識せず、五枚の付箋を改めて見てもティームにはウィンの意図が読み取れなかった。腕を組みうーんと唸ると、制服の膝下部分にウィンが付箋をペタペタ貼り付けてきた。
 付箋が勿体無いくらい雑に【食い物】【しか】【頭に】【ないのか】【(豚の絵)(怒りマーク)】と書かれている。
「ちょっと、ウィン先輩! やめろ」
 膝下に並べてピロピロと貼られている付箋を引き剥がして全部まとめて丸めたものをウィンに投げる。
 ウィンは鼻でため息をつくと長い指をそろりと持ち上げ、ティームが『寿司期待』と並べた五つの付箋の真ん中を指差した。トンと付箋を突きティームの目を覗き込む。ティームが頷くのを見てから、今度は一番左端の付箋のさらに左隣のシーツの上をトントンと指で突く。
 うんうん。これを、こっちか。
 導かれるまま付箋を剥がし左端へ置こうとしたところで、ティームは答えにたどり着いた。付箋から手も目も外せず、その文字の羅列に胸の奥でぶわりと熱が広がった。勿論ウィンはそのティームの隙を見逃すはずもなくメモ帳が開いたままのセルフォンをティームの視線の延長にある付箋の上に置いた。
【言いたいことがあるなら聞くって言ったのはお前だよな】
「先輩、まさか朝から」
 ウィンが言ってきたその言葉は、今朝自分がウィンに投げたものだ。
【快気祝い、くれるんだろ?】
 付箋からセルフォンを持ったウィンの腕を辿りマスクに覆われた顔を見ると目が綺麗な弓形になっていて、ティームは途端に耳が熱くなった。
 自分が食べ物しか頭にないのかと呆れられるなら、ウィンはそれしか頭にないのかと思わず言いたくなった。こんな謎掛けにする内容でもないし、朝から計画的に行う事でもない。かと言ってストレートに付箋に書かれても万が一誰かに見られたら困るし捨てるに捨てられない。
 ウィンの口はいつも厄介だが、喋らなくても充分厄介だった。
「回りくどいんだよ」
 誤魔化すように眉間に力を入れて、ティームは胡座の体勢から上体を倒し寝そべるウィンの側に四つ這いで近寄る。
 丸めて放った付箋がティームの動きでベッドの下に転がり、並んでいた付箋の何枚かは膝の下でくしゃりと音を立てた。ウィンの目が面白そうに丸く開いて、じっとティームを見上げている。
 重力で垂れ下がるティームの黒いネクタイにウィンの指が絡んで下に引っ張るのと、今日一日ウィンの顔を覆い隠しているマスクにティームが指を引っ掛けてずり下げるのがほぼ同時だった。
 露わになった唇が口角を上げてゆっくり開いて湿り気を含んだ息を吐く。それを掬い取るように口を開き、ようやく見ることが出来たウィンの顔にティームは自分の顔を寄せていった。



 その後ティームは声の出ないウィンがいかにいつも以上に厄介だったかを身をもって思い知った。
 自分もそうだったように病み上がりの人肌恋しい時にキスだけで済むはずもなく、制服を脱ぎ終わる前に濡らされた。
 ウィンからは息づかいの音しか出ないせいで、自分の切羽詰まった声と粘膜の音がやけに耳に響いて追い詰められる。堪らず何か言えとごねると、耳元で息だけで熱く名前を呼ばれてしまう。それはそれでいつもと違う蜜を流し込まれたような感覚があって、脳がすぐに沸騰した。
 翌日に制服の洗濯が間に合わずウィンの予備のシャツとスラックスを身に付ける羽目になったところまで込みで、声の出ないウィンはティームにとっていつも以上に厄介な存在だった。