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タロ文庫の作品置き場
2025-05-06 23:20:28
13111文字
Public
作品
それら愛しき者達と
2020-09-28
その日ウィンは同じ学部の友人の替わりにコーヒーショップでバイトをしていた。
オープンしたばかりでまだ客足もまばらだからとオーナーはウィンにコーヒーの淹れ方とレジの使い方を一通り教えたら、豆の買い付けに出てしまった。職人のような挽き方、淹れ方が売りではなく店内の雰囲気や装飾といった所謂『映え』に重きを置いたコンセプトの店なので、最新の機械がボタン一つでバランスの良い美味しい一杯を作ってくれる。普段はインスタントコーヒーくらいしか淹れないウィンでも持ち前の器用さでメニューごとの操作や手順を覚えて、持ち前の営業スマイルで提供できるようになっていた。
店は立地がいいのか外の焼けつくような日差しを外の街路樹がほどよい木漏れ日に変えて店内を明るく見せている。落ち着いた洋楽が流れる中、もともとまばらだった客足がふいにピタリと止んだ。一人きりの空間で、ウィンはカウンターの中の壁に凭れる。これも『映え』の一種なのか店の制服はバリスタのような白シャツに濃い茶色の腰下エプロンで、普段の大学の制服姿の数倍もウィンのスタイルの良さを際立たせていた。壁に背をつけて顔を伏せている様子はさながら一枚の絵画のようだった。
だがそんな事よりもウィンには頓着することがあった。ポケットの中に手を突っ込みセルフォンに触れる。取り出して画面を見てもメッセージの着信はない。ウィンはつまらなそうに一つ息を吐いてセルフォンをまたポケットの中に放った。
カラコロン
「ウィン先輩、こんにちは」
軽やかなドアベルの音とともに耳に慣れた柔らかい声が聞こえて、ウィンは営業ではない笑みを浮かべて手を上げた。
涼しげな私服のパームが両手を合わせて挨拶をしてくれる後ろには、ピタリといつも通り親友がくっついていた。ウィンのエプロン姿を見ると片眉だけ上げる。
「様子を見に来てやったぞ。調子はどうだ?」
「あぁ、ぼちぼちやってるよ。コツを掴んだから問題ない。お前たちはデートか?」
「これから少し郊外まで行く予定です」
デートと言われてパームの目元がパッと赤くなる。付き合って暫く経つのにまだまだ初々しさを保っているパームにウィンはチラッとディーンを見るとこちらも愛おしそうにそれを眺めている。
「それじゃあドライブデートのお供にコーヒーでもどうだ?」
「もちろん! そのつもりで寄らせていただきました」
「売上に貢献してやる」
二人を見ていると着信のないセルフォンがますます気になってしまうので、可愛い笑顔の後輩と不遜な態度の親友にオーダーを訊くと手早くテイクアウトの袋を用意した。アメリカーノを二つ、ディーンに手渡す。
「そういえばティームからさっき連絡が来て、課題の提出が間に合ったそうです。教授のオーケーが出たらこちらに向かうと」
パームがたった今メッセージを受け取ったであろうセルフォンの画面を操作してウィンを伺うように見上げた。ウィンは自分のセルフォンには音沙汰がない事を頭の隅に押しやってパームに礼を言う。ウィンが気にしているのではないかというパームの懸念を吹き飛ばしたくて笑ってみせた。
カラコロン
タイミングよくドアベルが来客を知らせた。
「いらっしゃいませ」
「あ、じゃあ僕達は行きますね」
「あぁ楽しんでこいよ」
ウィンが声だけ入り口に放るとディーンとパームは身体を扉の方に向ける。そしてそのまま二人揃って固まった。
ドアベルの音が鳴ったのになかなか中に入ってこない客は、重たそうなスーツケースを両手で一生懸命持ち上げていた。それを後ろからギターケースを背負った男が助けようと腕を伸ばしているのだが扉のところで大渋滞を起こしている。
「義兄さん、大丈夫だよ。一人で持てるから」
旅行帰りか? とウィンがカウンターから出て助けに向かう。
ディーンとパームの横を通る時、二人の時間だけ止まってしまったように扉をじっと見つめていてウィンは眉根を寄せた。信じられないものを見ているという顔だ。
「手伝います」
今はそれより引っかかっている客をどうにかしよう。ウィンは客が細い指で引っ張っているベルトを一緒に持ち引き上げてあげる。持ち主がパッと顔を上げた。人懐っこそうな柔らかい垂れ目の少年だ。
「あ、りがとう、ございます」
一瞬だけ目があってすぐに伏せられてぎこちなく礼を言われる。声も高くて幼い。
だが客ではあるのでウィンはニコリと営業スマイルを向けてから、カウンターへと戻った。その際もまだ知人二人が先ほどから一ミリも動いていないので流石に妙だと声をかける。
「おい、どうした?」
ウィンの声がけが魔法を解く呪文だったかのように、ディーンが瞬きをしてパームの肩はカクンと落ちた。
「いや
……
なんでもない。パーム、行こう」
「はい。ウィン先輩、さようなら」
「またな」
時間が動き出した二人はウィンに軽く挨拶をして扉を出て行った。キャリーケースの少年とすれ違う際にどこか懐かしむような愛おしむような、普段あまり見ない表情を彼に向けていたのをウィンは不可解な面持ちで見ていた。
「すみません」
「あ、はい」
親友達を見送っていたウィンは少年の声で接客の顔を取り戻す。長袖の指先だけ出ている手がメニューを指差していた。
「義兄さんは何にする?」
「お前と同じもので良いよ、ター。出来ればテイクアウトにして欲しい」
「え、せっかく荷物持って入ったのに? お店の中だって誰もいないよ?」
「早く家に帰ってゆっくりしよう」
「テイクアウトでよろしいでしょうか?」
少年は少し不満げに唇を突き出しているがウィンは知っている。先ほど荷物運びを手伝った時からギターケースを持った後ろの男がじっとりと睨みつけている事を。
にいさんと呼んでいるなら兄弟だろうが、少しブラコンすぎやしないか?
この視線を店内で受けるよりはさっさと自分の存在をログアウトさせて欲しいというウィンの願いも込めて、強引にならない程度にテイクアウトへ誘導した。
んもう、と不満げに膨れる少年はそれでもテイクアウトを了承してくれた。会計を済ます兄の無言の牽制にウィンは、実の弟には勿論のことティームにだって自分はここまでしないな
…
俺はどんな狼に見えるんだと心の中で文句を言いながらも完璧に接客をこなした。名前を書いたカップを二つ、少年に手渡す。
「ありがとうございました」
両手にカップを持った少年の荷物はギターを持った男が力強く引き、勿論ウィンの助けもいらずにひょいと扉の向こうへ持っていった。
カラコ、カラコロン
男の後をついていった少年と入れ違いに、今度は制服を着た高校生が入ってきた。
そうか、大学は休みだが高校はまだ授業があったのか。
ウィンが挨拶をしようと口を開こうとした時、さらにドアベルが鳴ってすらりとした男が転がり込むように入ってきた。高校生はさっと手を差し伸べてその身体を支える。
「ちょっと待てって言ったのに」
「ノー先輩こそ車で待っていてください」
「いや、だって、また全部奢ろうとしてるだろう」
「勿論です。僕はあなたの彼氏ですよ」
「ばっ、ちょっ! あ
……
」
二人で喧々言い合いながらカウンターの前までくると高校生の発言を受けて男がバフッと高校生の口を細くて白い手で覆った。
彼氏、ね。
男は外から転がってきたせいか今の高校生とのやりとりのせいか汗が尋常じゃなく噴き出ており、顔から首へ伝っていた。目をまん丸くさせて誤魔化すように笑いながらウィンを恐る恐る伺っている。上唇だけ持ち上げて前歯を見せるから、恥ずかしさでの震えも含めてウサギのようだなと思い、営業の顔を貼り付ける。
「ご注文はお決まりですか?」
この二人もテイクアウトだろう。いや、テイクアウトしてくれ。
男がウィンを見た瞬間から、密かに銃を突きつけられているかのような緊迫した空気を高校生から向けられているのが痛い。男に口を覆われるがままで目だけをこちらに向けている。睨まれているわけでは決してないのだが、ウィンはその中にある殺意に近いものを感じ取っていた。
トン、と高校生の綺麗に整えられた指先がメニュー表を指差す。オレンジジュースを指して人差し指を立て、もう一度ブルーマウンテンを指して人差し指を立てる。
「テイクアウトでご用意します」
「クラ! どうしておれの飲みたい物がわかったんだよ。すごいな、ありがとう! コーヒーの気分じゃなかったから正直どうしようかと思ってて」
「あなたの事は何でも分かります。だって僕はあなたのか、」
「うわあ!」
滅多に出ないとオーナーに言われていた高級豆を機械にセットしているウィンの背後でやりとりされている会話は完全に無視を決め込んだ。会計のために振り返るとまたも四本揃えられた指で口を押さえられている高校生が、キャッシュトレーに黒いカードを置いている。ウィンは微かに眉を上げて心で口笛を吹いた。
坊ちゃんか。
車というキーワードを元に窓の外に視線を走らせると店前にはドイツの高級車。
「わぁ、ちょっとクラ、カード下げて! すみません、おれが払いますんで。これでお願いします」
ウィンが自分の所有するカードとは異なるブランドのブラックカードのデザインに興味が惹かれている間に、慌てた男がカードを高校生の胸ポケットに入れて自分の財布から現金をトレーに乗せた。口にくっついてた男の指が離れたのに、随分大人しくなった高校生を見ると唇を内側に入れて少し目元を潤ませている。嬉しがっているように見える。
ジュースとブルーマウンテンの用意が整い二人に手渡す。実際にはオレンジジュースを受け取ろうとした男がウィンの手に触れる前に高校生が横からスマートかつ有無を言わさぬ強さで二つとも持ってしまって、またチラリと銃口を突きつけてくるような目で見られた。
「ノー先輩、両手が塞がってるのでポケットの中から車のキー出してくれますか?」
「うん、どこ?」
「ズボンの左前の、奥です」
「わかったわかった、店出てからな」
「はい」
「
……
ありがとうございました」
高校生が何をしてもらおうとしてるかわかって、高校生だなと思いながらウィンはもう退店して欲しい一心で締めの挨拶をピシャリと投げる。
カラコ
……
「何でそんな怒ってんだよ! あすこに先に止まってたのは向こうの車だろう。確かにおかげで少し歩いたけど、ほんのちょっとじゃん! ほんの少しだけ汗掻いただけじゃん。お坊ちゃんはそんな少しも我慢できないのかよ。ほら早く入って涼もう。喉渇いたー!」
「うるさい」
そしてまたドアベルが鳴ったような気がした。ウィンの耳には軽やかで可愛らしいベルの音は、とても早口な誰かの声で一切届かなかった。
「げっ!」
新しく入ってきた客を見て思わずウィンの口から声が出たが、その声もオレンジジュースの男の声と綺麗に重なってしまい消された。
以前、映画館で会ったドッペルゲンガー二人組だ。なんでまたこんなところで会う?
ウィンが動揺して来店の声がけすら出来ない中、扉の前で鉢合わせた四人のうち二人がおしゃれなカフェに似つかわしくない大声をあげあって互いを人差し指で指しあった。
「せんぱーい」
「キャン!」
「どうしてここにいるんですか? あ、後ろの子は弟ですか? こんにちは! おれにもジュース奢ってくださいよー」
「
……
こんにちは」
「キャーン! 黙れ、忘れろ、何でもない。おおおおれ達もう行くから、な、な」
男が背中に高校生を押しやって二人に見せないような形で店から出て行った。
ウィンは自分の友人に頭の先から爪先までそっくりな男が首を傾げながら後頭部を掻いて近づいてくるのを改めて不思議な感覚で見つめる。友人も騒がしいがこの男に比べたらとても大人しく見える。映画館でも思ったが口が倍速再生されているような男だ。比較的のんびり喋るティームの低い声が突然聞きたくなった。
課題が終わったら遊びに行きたいと指を折りながら候補地を言っていたティームを思い出してウィンは少し口元を緩めた。
その時、自分より少しだけ低い高さからヒヤリとした冷たい氷のような目線を感じた。頭のてっぺんから足の先までアレックスに似た男がこちらをじっと見ている。
……
いや、断じてこの騒がしい男に対して笑ったわけじゃない。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
ウィンは力が入りそうになる眉根を必死に抑えてレジの上に指を乗せる。可及的速やかに終わらそう。
それなのにカウンターに子供のように両手をついた男はニコニコしながら片っ端からメニュー表を指で指していった。
「おれはね、この季節限定のクラッシュブラウニーマッチャクリームフラッペとブルーベリースモアフラッペクリスピーマシュマロと、アボカドとチキンのトルティーヤとホットドックと、ミックスサンド! ティンは?」
「ブレンド、ショートで」
「以上でよろしいですか? こちらでお召し上がりですか?」
「うん!」
「いや、テイクアウトで」
「は? なんだよティン、涼んでいくんじゃなかったのかよ」
「車で食べろ」
「なんで? いつもは汚れるから食うなって言うくせに! なぁなぁなんで店で食わないんだよ。こっちのが涼しいし広いじゃん」
なぁなぁと口を尖らせ膝を細かく屈伸させる。相手の長袖のシャツの肘辺りを指でつまみくいくいと引っ張る様は子供の駄々こねそのものだ。
「車の中で映画見せてやるから、テイクアウトにしろ」
「映画
…
見る!」
「テイクアウトでご用意します」
頃合いを見計らってウィンが会話に割り込むように声をかける。オーダーの中で効率的に動ける順番を組み立てて、もう何も考えずに手を動かそうとウィンは首を横に振って気を保った。
アレックスによく似た男が先の高校生とはまた違うブランドのブラックカードをキャッシュトレーに乗せて会計を済ます。注文量が多いので少し店内で待ってもらっていたが、その間も騒がしい男は興味の限り店内をうろつき何かを発見する度に椅子に座って静かに待っている男の元に報告しにいっていた。
ウィンが紙袋に全てを入れて男に持たせると、中身を見たい子供が隣でぴょんぴょん跳ねながら袋を覗き込む。それを鬱陶しがるでもなく目を細めて微かに笑いながら見つめている男に対して、食べ物を前にはしゃぐ相手が可愛いと思う気持ちは分からないでもないとウィンは思いながら見送りの挨拶を二人の背中に送った。
カラコロン
入れ違いで、男が一人するりと店に入ってきた。
騒がしいスコールのような客が立て続けに来た後だったからか、その男の来店は嵐の去った後の海のように凪いでいた。
「いらっしゃいませ」
その男は工学部特有のシャツを羽織っていた。ただ自分の大学ではない名前が刺繍されている。学内で学部棟が離れているために中々見る事はないワーガーシャツにウィンは興味が湧いた。そして何よりその男の髪型はティームを彷彿とさせる。指で混ぜるとサラサラしていて、プールの塩素にも負けない黒髪はどんなにくしゃくしゃに混ぜても手櫛で直ぐに元に戻るくらい健康的だ。最近は手を出すと無意識に頭を少しこちらに傾けるようになった。指摘するとやらなくなるので秘密にしている。
男はセンター分けの黒髪を手でかき上げながらメニュー表を見ていた目をひょいと上げた。
「あっ」
男がウィンの腕にある三角のタトゥーを指差す。支給された白シャツの袖をいつもの癖でゆるくまくっていたのだが、大量注文をこなす際に邪魔だったので大きくまくり上げていた。
「お兄さん、そのタトゥーはどんな意味があるの?」
「これ、ですか」
「そう。オレの知り合いも首筋とか腕とか肩とかにタトゥー入れてて意味や願いが込められてたから。何か意味があるのかと思って」
意味はある。願いも込めているが、初対面の、それもコーヒーを買いに来た客に話す気はない。ティームにすらまだきちんとは言ってない。ウィンはにこりと営業スマイルを貼りつけてメニュー表を指先で男の前に押し出した。
「先にご注文を承ります」
「注文したら教えてくれる?」
男は綺麗なくっきりした二重にたっぷりと木漏れ日を入れた黒目を真っ直ぐに向けてくる。指先はきちんとメニュー表の左端を指していた。
「アイスエスプレッソですね。テイクアウトでよろしいですか?」
もう今日の客は全員テイクアウトだとウィンが勝手にカップに文字を書いていると、扉が静かに開く音がした。
ドアベルすら揺れない静かな開閉にそれでも目の前の男はパッと反応して入り口に手を振る。
「なんだキミも来たのか」
「いらっしゃいませ」
ウィンの声がけと男の声が重なる。入ってきた静かな男はコクリと頷いただけで他の部分はひとつたりとも動かさなかった。近づくにつれその首筋に大きなドリームキャッチャーのタトゥーが彫られていることにウィンは気づいた。
さっきこの男が言ってた知り合いはこいつか。
彫りが深く全く動かないせいで彫刻のように見える顔立ちの男に対して、エスプレッソの男は口の端をニンッと持ち上げて迎え入れた。
ウィンが「ご注文は?」と訊くと男は横に首を振るだけで、すぐに目の前の男へと身体を向ける。
「この前飲んでた時にキミがえらく気に入ってたから、また同じものをオーダーしたよ。ちょうど持って会いに行こうと思ってたんだ。おれの飲みかけの一口じゃなくて、奢ってあげるからもっと沢山飲みなよ」
カウンターに頬杖をついて笑う男を、静かな男は何も言わずにただ見つめていた。会話はそこで終了してしまったが笑っている男はそのままニコニコしていた。
変なやつ。
ウィンは淹れ終わったカップに蓋をして、自分のタトゥーから興味が別に移ったことにほっとした。
「お待たせしました」
ストローを添えて差し出すと、男はそのまま挿して相手に差し出した。
「ありがとうございます。ほら、キミのだよ。飲まないの?」
どうぞ、と彼の手が胸の前に出されるが静かな男は相変わらず静かに立っているだけでなんの反応もない。エスプレッソの男は小さく首を傾げる。
「今日は作ってくれた人が違うから味が一緒とは限らないって疑ってるのか? じゃあ、おれが一口飲んで確かめるから、先飲むぞ」
そう言うとウィンの淹れた澄み切った琥珀色の液体をすーっと吸った。ウィンは自分が作った飲み物を目の前で初めて飲まれた結果が知りたくて黙って見守る。ストローから口を離した男がまたニンッと笑って、カップを差し出した。
「美味しい! 味は前と全く一緒だ。飲んでみて!」
ストローの位置も丁寧に相手に向けていて、静かな男はまた最小限の動作で少し屈みストローを唇の先で挟んだ。液体が吸い上げられてコクリと喉が鳴る。
「美味しい」
透明感のある低い声がポトリと落ちた。
ウィンは彼が言葉を発したことに少し驚いたが、持ち前の察しの良さでなるほどなと思った。伊達に無表情で気難しいディーンの親友を長く続けているわけじゃない。
小さく二度ほど瞬きをした男にウィンは未開封のストローを差し出した。少し茶化してやろう。
「お客様、もしシェアされるのであれば」
「あ、どうも」
「結構です」
こちらをじっと見る寡黙な方の男がウィンの悪戯心に気づいたのか、ぴしゃりと言い放ちカップを持つ男の手首を掴んで半ば強引に扉へと歩いていく。
「ちょっと! どこに行くんだ。まだ全然飲んでないだろ。テイクアウトしたからには外で飲まない駄目なのか? 待てよ、ラム!」
ウィンは密かに片眉と片方の口の端をにやりと上げてカウンターに手をついて二人を見送る。
「ありがとうございました」
自分にも少し昔に身に覚えがある。
相手の唇が触れたものに触れたい。それで口にした食べ物はなんと美味しいことか。今では普通に横取りしたりされたりするけれど、あの頃はどうやって触れようかずっと考えていた。
カラコロン
ウィンが暫しティームに想いを馳せているとまたドアベルが軽やかに響き、その音が終わる前に男の困ったような声がウィンの耳に入ってきた。
「もー! オレの話聞いてた? そこで待ってて、もう近くにいるから! 迎えに来なくていい。そこで、待ってて。いい? わかった? 切るよ。また後でね」
まろやかな声質が困っているような怒っているようなそれでいてどこか甘い口調で言い切るとセルフォンを耳から離して早足でカウンターに近づいてきた。
「いらっしゃいませ」
ウィンが声をかけると、近くで見ると自分より身長が高かったその男がニコリと笑った。
纏っている雰囲気が柔らかいからかあまり大きくは見えなかったなとウィンは彼を見上げながらメニュー表を差し出す。
「アイスコーヒーとブルーハワイひとつずつ。テイクアウトでお願いします」
「かしこまりました」
「あ、すぐ飲むんでストロー挿してください」
シンプルなオーダーに、ウィンは手早く用意する。
客足がまばらなんて真っ赤な嘘だし、『映え』目当ての客なんて一人も来ていない。ウィンは店内に飾ってある時計をチラリと確認する。あと少しでバイトの終了時刻だ。ティームからの連絡はまだないがとりあえず早く解放されたい。
「お待たせしました」
セルフォンをいじりながら待っていた男に、要望のままストローを挿してコーヒーとブルーハワイを差し出す。満足そうに笑みを浮かべてた男がカウンターの上のカップを持ち上げようとしてピタリと止まった。
「あ、ちょっと、写真撮っていいですか?」
「どうぞ」
ウィンが促すと男は顔の周りに花が咲くように満面に微笑み、嬉しそうに二つ並んだカップをカメラに収めた。『映え』のためにオーナーが色々工夫している壁の絵や置いてある小物たちと撮るでもなく、男はひたすら二つのカップを撮っていた。そして一人でうんうんと頷いて、セルフォンを少し操作している。
「店名と位置情報を載せてもいいですか?」
「どうぞ」
オーナーからもSNSでの積極的拡散は歓迎だという話を聞いていたので、ウィンは男の華やいでいる雰囲気に気圧されながらもなんとか頷いた。
自分の周りにいないタイプだ。
彼はどうやらSNSに無事にアップを終えたらしくセルフォンをパンツのポケットにしまって、いま一度並んだカップをうっとりと眺めてから手に持とうと指先を伸ばした。
カラコロカラン
「タイン!」
やや乱暴に扉を開けられ、不平を訴えるように騒がしく鳴ったドアベルにつられて入り口を見るとギターを背負った男が仁王立ちしていた。ウィンはもう口を開けなかった。
「ワット、なんでここに? 待っててって言ったろ」
男はツカツカと歩み寄るとウィンを一瞥し腕のタトゥーを見つめる。またタトゥーが何か?
「タイン、さっきの写真上げ直して。この男の腕が写り込んでる」
「は?」
は?
ウィンは口を開けていなかったので実際に声は出なかったものの不遜極まりない男の登場に、顔面の営業が終了しかけていた。それでも何とか従業員の立場を思い出し、レジの前にスッと移動する。
「だってこれは俺とタインのつもりで撮ったんだろう? コーヒーとブルーハワイ、ストローの先がくっついてる。だったら俺とタインだけで写りたい」
「ばっ、か! 何言ってんだ」
カウンターに置いたのはウィンだし、そのような意図は全くなく本当に偶然くっついてしまったのだ。それを相手と自分に見立てて喜んで、バレたことに盛大に照れている。華やかな雰囲気の顔立ちが首まで赤くなって目がうるうるとしている。
バレないと思って一人で楽しんでるのを、実は知ってるよと言った時の相手の反応がとんでもなく可愛い事はウィンも知っている。
ギターを背負った男の顔が、一日二度も言いたくないけれど彫刻のように整っていて、でもそれを惜しげもなくデロデロに溶かして愛おしい目で相手を見ていた。
「違うの?」
「ちがくない」
「じゃあもう一回撮り直して」
真っ赤になっている男がウィンより高い位置から上目遣いでこちらを伺うので、手を差し出してどうぞとジェスチャーを示す。
騒ぎの影響でずれてしまったストローをわざわざ元の通りくっつけて、男はカシャリと写真を撮った。
そのままセルフォンを操作して、隣で黙って立っている男に画面をスッと差し出す。男は満足そうにうんうんと大きく頷いて、この上なく幸せそうに、大輪の花を艶やかに咲かすように、にっこりと笑った。
「
…
ありがとうございました」
もう話しかけてもいいかなと思いウィンが営業の声を出すと二人はそれぞれカップを持って、入ってきた時とは反対に軽やかにベルの音を響かせる。
カップを持つ腕にはそれぞれお揃いのブレスレットを付けていて扉を抜けて行く時にちょんっと触れ合い、二人は顔を見合わせ笑いながら出て行った。
さて次は来るかとウィンがカウンターに手をついて身構えたが、ドアベルは静まり返ったまま次の来客が無いことをウィンに知らせた。
店内には洋楽が静かに流れており、ウィンはその存在を久しぶりに思い出した。ウィンははっとしてエプロンの中にほったらかしにしていたセルフォンをつかみ出すと画面を起動させた。てんやわんやしていて着信を知らせる振動にも気付けなかったと思いきや画面にメッセージの着信の文字はなく、ロック画面にもうすぐバイト終了時刻だと知らせる時計表示があるだけだった。
ティームからの連絡がない事でウィンの疲労はピークを超えた。
「なんだよ。今どこにいるんだあいつ」
はぁと重たいため息と共に普段出ない独り言がスニーカーの先に落ちる。カウンターについた手に重心を乗せて、重力に逆らわずに首から上をガックリと項垂れた。
カラコロカラン
ティームに会いたい。
そう思ったウィンの願いが聞き入れられたのか、軽やかなドアベルの音が店内とウィンの心に響いた。ウィンはティームだと決めつけて、営業の声は出さず期待に目を輝かせた顔を入り口に向けた。
「ティー
……
」
ム。
じゃない?
ウィンは全身が金縛りにあったように動かなくなる。扉を開けて一歩店内に入った状態の男から目が離せなかった。
ふんわりとセットされた黒髪にスッキリした一重の中は墨汁を流し込んだように真っ黒な黒目をしていて、ウィンを見据えて同じように固まっている。ぽってりした唇を半開きにした表情は、見慣れているベビーフェイスのようで絶対的な違和感しかない。大学の制服を着ている。ネクタイはしていない。
ウィンの背中に嫌な汗がぶわりと浮き上がった。
先に動いたのは男の方だった。
「なんで止まってんの。後ろが詰まってるんだから早く入れって。暑い!」
外側から誰かに背中を押されて店の中に身体が入る。男が呪縛が解けたようにハッと息を吐いて、押してきた外側の声の主を逆に店外へ押し返した。
「お前は入っちゃダメだ! ド、ドッペルゲンガーがいる」
「は? 何言ってんの? 俺の『旦那様』は暑さにやられちゃったのかなー?」
「いや、ふざけてる場合じゃなくって」
声が、声までもが。ウィンの愛してやまない低く柔らかいのんびりしたティームのそれとそっくりで、ウィンは手足が痺れてきたのを感じた。目だけが彼を追う。
こちらをチラチラと伺いながら外から店内に入ろうとしている人物を必死に押さえつけている。侵入者の微かに見える腕は彼と同じように大学に制服を纏い、指輪と腕時計、ブレスレットと騒がしく飾っている。金髪なのか溢れ入ってくる日差しでキラキラしている頭が見え隠れした。
「キン! マジでやめろ。本当に気持ち悪いくらいそっくりで気持ち悪い。おれ吐きそう。この店はダメだ。違うとこに行こう」
「えー、なんだよもう奢るって言ったのナットだろ。それに俺そっくりな美人なんて滅多にいないじゃん。見たいなぁ
……
ね、どいて」
「奢る! ここ以外で! あとお前ほどの美人じゃない。見るほどじゃない。だから、な、行こう」
ティームに酷似した風貌の男は、決してティームが発する事のないような悪気を含んだ言葉を外の相手に向けているようでウィンに向けて放っていた。
呆けていたウィンに思考が戻ってくる。スッと温度を下げた目で睨みつけると、男は目を左右に忙しなく動かしてウィンに背を向けて半開きだった扉の向こうへと消えていった。
完全に閉じた扉を見てウィンはグッと奥歯を噛んだ。
なんだ今の失礼な男は。
ティームも大概に失礼な後輩ではあるが、そこが可愛いと思える愛嬌たっぷりの失礼である。あんなぬるついた悪意のある失礼がティームにそっくりな顔から振りかけられた事が、ウィンの腹をじわじわと立たせる。
そしてウィンは猛烈に飢え始めた。
空腹の状態でオーダーした食べ物が一向に来ず、やっと来たと思ったら隣の席のものだった。その数百倍の、上げて落とされた飢餓感をウィンは歯を食いしばって耐える。
今のティームのドッペルゲンガーで、一気にきた。
男ばかり来店した上に誰も彼もが濃かった。ウィンは飲食店にあるまじき「またお越しください」が親友たち以外に一度も言えなかった。
どいつも嫉妬や牽制をするようにウィンに圧をかけてきて、こっちはティームがいてそんな気はこれっぽっちも持っていないのに痛くない腹をかき回されて、さらに自分たちの関係性を見せつけるようにして帰っていった。
こっちはティームがいないのにティームに想いが向かうようなことばかりが起きた。
カラコロン
ドアベルの音がウィンのため息と重なる。
項垂れる視界の先のメニュー表に影ができた。
「すみません」
低くて少しのんびりした声がウィンの金色の頭のてっぺんに当たる。ウィンが今、心の底から求めている声だ。先程とはやはり似て非なる、ウィンが愛してやまない間延びした声。
「アイスキャラメルマキアート、サイズはMでお願いします。シロップ半分でホイップ追加。名前は」
「ティーム」
顔を上げると、黒い目に照明の光をたっぷり入れてこちらを見ている生意気でとても会いたかった男がいた。
「ウィン先輩、お疲れ様。綺麗なシャツにエプロンなんて付けちゃって
…
一日だけのバイトのくせにちゃんとバリスタっぽいじゃん」
「お前な、来るなら連絡ひとつ寄越せよ」
「途中で充電が切れちゃったんだよ」
他に客がいないことを頭を動かして確認した彼は面白そうにニヤニヤと笑ってウィンを揶揄う。
その動作ひとつひとつが、言葉ひとつひとつが、今のウィンの身体にじんわり染み渡っていった。
ティームだ。
ウィンは安堵を含んだ息を一つ吐くと、ティームのこめかみを軽く小突く。撫でる時とは逆に軽く頭をそらして避けるティームに今度は手のひらをいっぱいに広げて頭をかき混ぜた。そうするとティームの頭が少し戻ってきて、ウィンはふんわりと笑みを浮かべる。
「ちょっと! 今のおれのオーダー通してくれた? ちゃんと課題終わったんだから、ご褒美ください」
「わかったよ、大人しくそこで見てろ」
「あ、あとこの卵とハムのホットサンド食べたい!」
「この後メシ食いに行くのにここでも食うのかよ」
「もちろん」
コーヒーマシンにカップをセットして呆れたようにティームを振り返ると、メニュー表を目の位置に掲げて全ての食べ物を目から食べるかの勢いで凝視していた。
可愛いな。
ウィンはシフト終了間際の最後にして唯一の自分の客に、その日で一番丁寧な接客をした。
「で、先輩。今日一日どうだった?」
「あー
……
」
カウンターに頬杖をついてるティームの前にコーヒーとホットサンドの載ったトレーを置いて、ウィンは目を和らげて綺麗に笑った。
人差し指の腹で食べ物へ向こうとするティームの顎を掬い上げ、至近距離でその顔を覗き込む。
一日かけてずっと想っていた。
そんな、
「特別な日だった」
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