タロ文庫の作品置き場
2025-05-06 23:15:41
2571文字
Public 作品
 

溶けてほどける

2020-09-27

 水滴が滴る拳をなんとか持ち上げてドアをノックする。この動作を開始するまでにいつもの三倍は時間がかかった。
 頭の中のシミュレーションでは、とっくに部屋に入って言いたいことを言って手の中のものを渡している予定だったのに、自分は思ったより今回のことで怖気付いているようだ。足が竦みそうになるのをグッと踏ん張って耐え、冷たさで感覚が鈍い手をまたひとつ強く握る。
 ガチャリとドアが開いて、ティームは目の前に現れたウィンの顔を久しぶりに正面から見ることが出来た。
 整った顔が無表情でいるとその綺麗さが際立って迫力が増す。水分を湛えた目はティームを映したまま眼球も瞳孔も動かず、滑らかな頰も大きい口も微動だにしなかった。
 ティームはウィンがいつも自分を認識した時にどれほどの感情を表情に乗せていたかを思い知る。そして今はそのどれも読み取れなくて、彼をそういう風にした事実に目の奥がじわりと滲んだ。
ウィン先輩」
 何でもいいから反応を返して欲しくて発した自分の声が弱くて、更に気持ちが惨めになる。頭の中のシミュレーションをプランBに変更したいのに思い出せない。
 ティームが目の中の水分を分散させるように瞬きを繰り返すと、ウィンの身体が半歩下がった。視界に部屋の中が広がる。相変わらず顔はピクリとも動いていないが、ウィンからのアクションはティームを奮い立たせた。顔を伏せて部屋に滑り込み、いつも通り靴を脱ぎ捨てベッドの端に座る。
 いつもはベッドを独り占めする様に斜めに寝転がり天井の模様を見ていると、ウィンの顔や呆れた声や楽しそうな身体がティームに乗ってくる。出来ない時に限って当たり前に出来ていたことが鮮明に頭を過ぎるから、ティームはますます自己嫌悪に陥って奥歯を食いしばった。
 勿論ウィンは近づいてすらこず、テーブルの角に寄りかかり腕組みをしてティームを見ていた。この部屋の中でウィンとこんなに距離があるのは初めてだった。
 部屋はエアコンの作動音しか聞こえない。掌や指先は冷たさで感覚がなくなっていたがびっしょりと濡れていて、またひとつ指の間を滴が伝う。その感覚はティームの背中を押した。
 そっちが近づいてこないなら自分が近づけばいい。だからここにやってきた。
 逃げるなと言われて逃げないと言った。ずっとそばに居ると言うから捕まえていろと言った。
 事はきっとそれほど深刻では無いけれど、今あの時の告白を思い出すなら自分は本能で察している。ここで関係の修復方法を決めたり、喧嘩の終わらせ方に慣れておかないと絶対どこかで二人とも深手を追う。
 ティームはベッドから立ち上がりウィンの前に立った。一度ウィンの顔を見ると、瞬きをした目が僅かに揺れていた。それだけでだいぶティームの心に勇気が戻る。先程とは違う温度の高い水の膜が目を覆うからティームも何度か瞬きをして引っ込めて、また一歩ウィンに近づく。
 ウィンが腕組みをほどいた。
 腕の武装が解けた分だけまた近づいて、この部屋にいる時のいつもの距離になる。ウィンから漂う暖かさと部屋の匂いを感じた。
「ん」
 ティームはのろりと両手を胸の位置まで持ち上げて片方をウィンに差し出す。ウィン本体には触れることは出来ずTシャツの布一枚に指の節を触れさせることが精一杯だった。
 ぽたぽたと自分とウィンの間の床に水滴が落ちる。
 ウィンの手がティームの手を一度外から包み、手の中のものを取っていく。ずっと握りしめていたから手がその形で固まっていて、ティームはゆっくりかじかんでいる指を開いた。
 ウィンがパキリと音を立てて蓋を毟るとそのまま先端を口に咥えた。
「完全に溶けてる」
 一口吸った後に咥えた状態で発せられたウィンの声が高くて掠れている。ふわっと香るコーヒーとチョコレートの中間のようなアイスの冷気がティームの頬を撫でた。
 チューブ型のそのアイスは二本が繋がってひとつの状態で売られている。前にウィンと分け合って食べた時に、ウィンはまだ冷えて固い中身を出すために吸い口を奥歯で何度も噛んでいた。大きな口の端にアイスを寄せてガジガジ噛んでいる様子が子供のようで、いつも飄々として揶揄ってばかりくる年上の彼が可愛かった。またあの顔が見たい。
 さっきまで二本とも自分に手の中にあったアイスの片方を、またウィンが口にしている事が、それだけなのにティームを素直にさせる。
「ずっと持ってたから、ごめん」
 ウィンがティームの手首をそっと掴む。びっしょりと濡れている手を自分のTシャツに擦り付けて水気をとると、首に押し付けた。そのまま躊躇いなく指を絡ませる。
「いつから持ったままだったんだよ。冷えすぎだ」
「ごめん」
 感覚がなかった手にじわりじわりとウィンの体温が移ってくる。強張りが溶けていく。
 ウィンはティームのもう片方の手にあるアイスの蓋を器用に毟り、ティームの口元に持っていく。ちらりと目だけ動かして伺うとウィンはいつものように眉を上げて食べろと促してきた。
 ティームは先端をそっと口に含む。既に液体と化している甘いコーヒーの匂いと仄かなチョコレートの味が、口の中に溜まっていた苦い唾液を中和して、ティームは鼻をすすった。
……ごめん」
 やっと本来出すべき言葉が口から出る。
 抵抗感や見栄が邪魔をして甘えの引っ込みがつかなくなり、気まずい雰囲気になった時にいつもあるウィンのさりげないきっかけを見て見ぬふりをしてしまった。ウィンをどうにも引けない状態にさせてしまった。
「俺も悪かったな」
 ウィンでも動けなくなることをティームは知った。彼は年上で甘やかしてくるのが性格だとしても、平等に憤ったり傷付いたりする感情もある。
 ウィンの熱でだいぶ温くなった手を握られたまま彼の頰に押し付けられる。見た目より柔らかいそれにずっとずっと触れたかった。ティームが見つめたまま小さく頷くとウィンは綺麗に笑った。掌に表情筋の動きとその感情が伝わってくる。
 そのまま手を引かれベッドの端に二人揃って腰掛けた。ウィンの手は離れない。
 繋いだ手が二人一緒の温度になるまでこのままでいたくて、ティームはすぐに食べ終わってしまいそうな溶け切ったアイスをわざとゆっくり吸い込んだ。