タロ文庫の作品置き場
2025-05-06 23:07:11
5418文字
Public 作品
 

上昇するシンコペーション

2020-09-06

 水から上がると途端に重力を感じる。ひたひたと全身から水をこぼしながらプールエリアに誰もいないことを確認して、ウィンは照明を全て落とした。
 シャワー室に向かい水着の上から軽く塩素のきいたプール水を流す。疲れすぎて肌にぺったり張り付いている水着を脱ぐ気力が沸かない。普段はついでにここでシャワーを浴びて帰るところだが、そのまま大判のタオルを肩からかけてのろりと更衣室へと向かった。
 更衣室に入るとまだエアコンが効いており、目を上げた先にティームがいた。
 ベンチに腰掛けてセルフォンを弄っている。空いているスペースにはパームから貰ったであろう差し入れの包紙が転がっていて、セルフォンを熱心に見ている丸まった背中は黒髪と制服の白シャツと相まってまるでパンダの赤ちゃんのように見えた。
 ウィンはその丸みを見て、いつの間にか噛み締めていた奥歯と肩から力を抜いた。
「ティーム、まだいたのか」
「先輩」
 近づいて横から画面をのぞき見るとティームの顔がパッと上がる。見上げてくるティームの目に蛍光灯の光がたっぷり入り込んで、この角度の顔はやっぱりいいなとウィンは疲れてすり減った心に温かいものが入ってくるのを感じた。
「先帰れって言ったろ。よくこの時間まで飯も食わずに残ってたな」
「パームのお菓子が結構ボリュームあったからまだ平気。それにウィン先輩、今日あし無いじゃん。朝、バイクタクシーで行ったの見たよ」
 じっと見つめていると微かに黒目が揺れる。最初からバスで帰るつもりだったし、腹ペコが耐えられないティームのことだからさっさと帰っているものだと思っていたので、ウィンはそこにティームが居ただけで居残りの特別メニューをこなしたご褒美のように感じていた。
 ダメだ、相当疲れている。
「待っててくれたのか。ありがとな」
「まぁ……うん」
 日頃の行いが悪いので揶揄うことなく素直に礼を言うとティームはなんとも収まりの悪い表情で口をもごもごさせる。眉間にぐっと力が入るのを見て、ウィンは軽く笑い指でティームの前髪を混ぜた。生乾きの髪はいつもより毛束がまとまって乱れる。
 自分の身体を伝う水がティームの前に水たまりを作り始めたのでウィンは自分のロッカーへと向かった。
 次の大会で出場種目を追加したウィンは足りない部分を強化する為に最近ではこうして頻繁に追加のメニューをこなしている。今の自分に合ったメニューだったようで数字に結果が出るのが面白い。つい長めに水の中に居てしまう。
 ゆっくりと足元の水気をタオルで取っているとティームが身体を反転させてこちら向きに座り直す音が聞こえた。
 背中に声が当たる。
「金曜日にバスで終点まで行ったって聞いた」
「あー……
 週末に皆と海水浴に行くんだと浮かれて話すティームを早々に帰した金曜日。今日のように長めに泳いだ結果、バスで爆睡して知らない土地に降り立った。時間も遅く折り返す手段もなくやっとの思いで掴まえたタクシーで戻ってきた事を、親友に話すんじゃなかったとウィンは心の中で舌打ちをする。パーム経由で聞いたのだろう。
 ティームの声が少し低い。だから今日は待っていたのか。
「お前のせいじゃないだろう」
「そうだけど」
 ロッカーに入れておいたペットボトルのミネラルウォーターを一気に煽る。水泳は外側は濡れるが内側は乾く。一息ついて、腕を拭き胸をぬぐう。
 ベンチが軋み、ティームが立ち上がる気配がした。
 動きを止めてそのまま様子を伺うと肩甲骨の上に指先が触れる。まだ濡れたままのそこをそのまま翼のラインを辿るように背骨を下り、背中の真ん中で掌をべったりと付けられた。冷えた身体にティームの体温がじわりと染み込む。
「おれ、知らなかった」
「わざわざ言うかよ」
 そうだけど、とまたティームが繰り返す。指先だけが羽のひとつひとつをなぞるように動いた。ウィンの括った髪束の先からポタポタと水滴が背中を伝いティームの指先に触れ、墨に擦り付けられる。
 何してんだこいつ。
 首を後ろに動かして横目で見やると、背中を見ていたらしい目がくっと上げられた。別に熱っぽい色を帯びているわけでもなく平熱の目が少し見つめてきてまた背中に落ちる。
「先輩のタトゥーって、濡れると濃くなるよね。泳いでる時とか真っ黒で」
 外側の大きな羽をついとなぞられて腰が少し粟立つ。
「遊んでるなら拭いてくれ」
「ぶっ!」
 ロッカーの中から新しいタオルを出してティームに投げる。顔に当たったらしいそれをそれでもティームは黙ってウィンの肌に当てた。トントンとゆっくり押しつけられるリズムを感じながら、ウィンは水滴が溜まる髪からゴムを引っ張りとって頭をタオルで擦った。ピアスについた水分も耳朶ごと包んで吸い取る。
「そういえばどうだったんだ、パーム達と海に行ったんだろう?」
 この週末も泳いだり用事が入っていたりでティームとの時間が取れず、話を聞いてあげられなかった。ティームの声が少し弾ける。
「楽しかったよ。マナウとデルに泳ぎを教えて欲しいって言われたんだけどあいつらすぐに遊んじゃって全然駄目だった」
「っぽいな」
 パームとマナウとデル、そしてティーム。ウィンの頭に海辺ではしゃぐ後輩達の可愛い様子がすぐに浮かんできて自然と笑いが溢れた。自分やディーンがいないところでのティームはお兄さんぶって面倒見が良い。きっと頼られて真面目に教えようとして、その姿を茶化されて、うやむやになって遊んできたんだろう。
 背中を拭き終わったのかティームが左肩を覆っているタトゥーに指を這わせてきたのでタオルを受け取って好きにさせた。
「混んでたんじゃないか?」
「確かに家族連れよりおれたちみたいな学生のグループが多かったかな? ……あ!」
「何だよ」
「ナンパされた」
 その言葉にウィンの手が止まる。疲れているので思考も表情筋も止まってしまった。
「マナウとデルが。でもおれとパームでちゃんと守ったから!」
 続けられたティームの言葉にほっとため息をついて首を後ろに向ける。思ってた以上に至近距離にいたティームの見上げてくる顔が偉いだろうとでも言いたげに口端を上げた。一旦離れていたタトゥーを巡る指が今度は右腕の輪の上にも置かれる。
「まぁパームも危なかったけど、そこもおれがきちんと頑張ったよ。ディーン先輩に怒られるのも嫌だし」
「そうかそうか、偉かったな」
 ティームの指の動きを意識の片隅に置きつつ、普段通りの口調にウィンは首を横に振る。
「で、お前は声かけられなかったのか?」
「は? ないよ」
「男にも?」
 何言ってんのという声に、何言ってんだと目を細める。
「おれに男が寄ってくるわけないだろ」
 ウィンは水気を取っていた手を止めて、身体ごとティームを振り返った。ロッカーに寄りかかり腕を組んでティームと向かい、わざとらしく大きく鼻から息を吐いた。
 目と鼻の先にいたティームはタトゥーを触っていたであろう手をふよりと宙に浮かせた状態でウィンの目を見ている。
「今まさにお前とどうにかなってる俺の前で、それを言うのか?」
 眉を上げて顎をしゃくるとティームの目が一瞬まん丸くなってから黒目が左に流れて唇がぐっと引き結ばれた。
「そんな物好きはウィン先輩ぐらいだ」
 こいつ、新入生伝統のキュートボーイの自覚が全くないな。
 その自分への頓着のなさがティームの良いところであり自分が付け入った隙なのだが、ウィンは自分以外にも物好きがちらほらいる事を知っている。自分と同じような目で見ている輩もいればティームにどうにかして欲しいと思っている輩もいる。女も、男も。
 ウィンは疲れた身体には疲れる思考が頭によぎりやすい事を思い出し、靴の中の小石のような空想上の厄介をため息に混ぜて吐き出した。
「はいはい、お前が無事で良かったよ」
 これも揶揄いではなく本心から出た言葉で、大概のことはティーム自身で対処できると思っているが自分の目の届かないところで何かが起きる事を考えたくない。ウィンは心なしか膨れているようにも見える頬を笑いながら指先で撫でる。いつもなら顔を背けて手から逃げるはずがティームはウィンの顔に視線を戻し口を強くひき結んだまま、その指に逆に顔を押し付けてきた。上半身を屈めてウィンの鎖骨の下に唇をつける。
 着替えるタイミングを逃した身体はエアコンにあたりますます冷えていて、そこを数回ゆっくり食んでいるティームの唇は柔らかくて温かい。生乾きの髪が首元をくすぐる。
 来た時と同じくらい唐突に顔が離れて、また指がウィンの身体を滑る。
「先輩、は……その、海とか行くといっぱい声かけられてそう」
 少し跳ねた声がそれでも会話の続きを促した。本当に続けたいのはどちらなのだろう。ウィンは明確な回答が欲しそうに思えないそれに口だけで答える。
「どうだったかな、忘れた」
「ムカつく」
 背中の翼をなぞった時と同じようにティームの指は胸の真ん中を通り鳩尾を過ぎて臍に到達すると右へ逸れた。水着の縁から微かに見える鼠径部のタトゥーに触れる。
 ティームの黒目が一度伺うようにこちらを向いて、ウィンが何も言わずに見つめ返しているとすっと伏せられた。
 なかなか気づけない奥二重の線が薄い目蓋の上に見える。睫毛を揺らして瞬いたティームが指先で炎の揺らめきをなぞった。
「まだ濡れてる。タトゥーが真っ黒」
 お前がやたら触るから着替えが進まないんだろうが。
 足元にも小さく水溜りができている。
 それでもティームの好きにさせていたのは、公共の場で自分から触れてくることのないティームが何をどこまでするのか気になったからだ。何かを灯さないようにしながら、それでいて全く躊躇いなくウィンの身体に触れる。
 日常的な会話をしながらその日常のリズムからずれた行動をしていることにティームは気づいているのか。
 皮膚の色濃い部分をなぞっていた指が水着との境界線にクッと指先を潜らせたのを見て、さすがにウィンはティームの手に自分の手を重ねた。
「お前さっきから何してんだ」
 部室だろうと部屋だろうと咎める気はないが、理由は知りたい。ハッと小さく息を吸い込む音がしてティームは手を引こうとしたがウィンは重ねた手をそのまま腰骨に押し付けた。
「何って……ちょっとウィン先輩、手……
 始めたのはティームなのに。
 指を絡めて水着の縁に引っ掛けるように誘導するとティームは慌てふためいた。肌に指の背の感触が当たり、ウィンはティームの手を下に押した。
 ずれた水着から炎の揺らめきが露わになる。
「触りたい?」
 そのままタトゥーを覆うようにティームの指をべったりと肌に添わせて、顔を覗き込む。案の定目元が赤く染まっていて潤んだ目でじっとりと睨み付けられた。
 さっきまで普通の顔して好き勝手触ってたくせに、こちらが主導権を握ると途端に熱を篭らせるのはなんなんだ。
「おれはただ話したかっただけででも先輩が疲れきって弱ってるとこ見てたら、その、ちょっと……
「なんだよ」
 言いづらそうに口をモゴモゴさせるティームにウィンは鼠径部につけられている指を上から強く押した。ティームの腕がわななき、口がわぁと開く。
「調子狂ったの! いつもみたいに突っかかってこなくて素直で可愛かったし。水っぽい先輩のタトゥーも触ってみたかった! どっちもしたかった! これでいいだろ、もう離せよ」
 少し引っかかることを言われた気がしたがティームの本心が聞けたので手を離してやる。ティームはまるで自分の手がいやらしく弄られたかのように勢いよく胸元に引き寄せてぎゅっと抱き込んだ。指を全部内側に丸めてウィンに見せないようにしている。ウィンにしてみたら理不尽な事この上ない。
 忘れかけていた疲れが一気に全身に戻ってきた。
「ティーム」
 ロッカーに背中を預けてことさらゆっくりとウィンがティームを呼んだ。突っ込みどころの多いティームのどこを突いてやろうかと鈍い思考を巡らせると疲労によりいつもより瞬発力が足りなかったせいかティームの機動力に押し負けた。
「早く着替えろよな。おれ、外で待ってる」
「あ、おい!」
 ウィンを触っていた指先をもぞもぞ擦り合わせながら一歩一歩後ずさるとベンチ脇に置いてあった鞄を掴み更衣室を出て行ってしまった。
 エアコンの音だけが響く更衣室で、ティームへ反撃しようとして半分開いていた口をムッと閉じる。
 調子が狂ったのはこっちの方だ。半乾きの身体は冷え切って、エネルギーを出し切った腹はさっきからずっと飢えを訴えている。普通の会話をしていたはずのティームはこちらをかき乱すだけかき乱して、こんなつもりじゃなかったなんて放っていった。それもこの後、動く密室で二人きり。ご褒美かと思っていたティームはちょっとした拷問のようで、全く意図しないテンポのそれはウィンを奇妙に高揚させたが疲労しきった心身に大ダメージを残した。
「あいつ、大会終わったら覚えてろよ」
 ウィンは根に持つタイプだ。ことティームに対しては。
 盛大にため息をつくと、乾き始めて脱ぎやすくなったやや脱げかけの水着を脱いでのろのろと着替え始めた。