タロ文庫の作品置き場
2025-05-06 22:40:28
3920文字
Public 作品
 

健全な懐柔

2020-07-26

 一体何をしてるんだろう。
 通話が切れたセルフォンの画面をぼんやり眺めながら、ティームは奥歯を噛んだ。
 静まりかえった寮の廊下は空調の微かな音だけが響いていて、自分の心臓のバクバクしている音が嫌でも大きく感じる。主のいない部屋のドアに額をつけてため息をついた。
 三コール目で通じた先は音の渦だった。鼓膜から奥歯まで響くくらいの重低音に、人のざわめきと集音マイクを触る指のガサガサした音が続き、通話相手を呼ぶ他人の声がした。その時点で切れば良かった。
 出先ならいいと言ったのに待ってろとだけ言われて切れた。
 しばらくそのまま心音を聞いていたがのろりとメッセージアプリをタップして一番上の人物とのやりとり画面を開き文章を打ち込んでいく。
『やっぱり今日はいい』
 送信ボタンを押しにいく指がここに来て躊躇した。そんな勢いのない自分に嫌気がさして心の中で舌を打つ。
 エレベーターの稼働音がして自分のいるフロアに止まる音がする。走ってくるスニーカー。荒い息遣いに振り向くより早く肩に置かれた手が強くティームを引っ張った。
 白熱灯の下、ウィンが口で大きく息をして肩を上下させている。汗がすらっとした首筋を伝った。
 私服だ。
 ティームは微かに黒目を揺らす。
「来る時は、言えって、言っただろ」
 消灯間近の寮の廊下は既に人の気配はない。部屋にいる者は静かに過ごしてるし、他は目の前の人物のように消灯時間を遥かにすぎてからこっそり帰宅する予定の者だ。もしくは朝に帰ってくる。大学生の週末の過ごし方としては普通のことである。
「だから言いました」
「部屋の前で言うな。……いつもより早いな、何かあったのか?」
 乾いた唇をひと舐めして息を整えたウィンが大きく開けたシャツを仰いで風を送っている。その空気の流れでウィンが纏っていた匂いがティームの鼻に触れた。アルコールと食べ物の油分と花のような匂い。白くなだらかな胸元がチラチラ覗いて、ティームは腹の奥から熱い塊がせり上がってくるのを感じた。肩に置かれた手を払う。
「もう大丈夫だから帰る。先輩は店に戻ってください」
 邪魔してごめん、という言葉は何とかとどまれた。どこか嫌味っぽくて未練たらしい。
 ティームは代わりに鼻に残る篭った匂いを消すように指で擦り、ウィンが何かを言うより早く背を向けて走って階段を下りた。
 ウィンは、追ってこなかった。
 自分の部屋のベッドに仰向けに倒れ込む。ひとつ大きく息をついて片腕で目を覆うと外の街灯の灯りも遮られて視界が真っ暗になった。
 自分は一体何をしてるんだろう。
 ウィンは私服だった。寮に戻り一度着替えてから出かけている。おそらく制服を着た学生のままでは入れない店にいた。ティームからの着信を通話ボタンを押してから彼の手に渡した人間がいる。ウィンくーん、と間延びした女の声と複数の男女の声がした。彼の呼気からも仄かにアルコールの匂いがして、他にも色んな匂いがしたシャツはボタンが多く外れていた。
 だがどれも大学生の週末にはありふれていることで、騒ぐことは何もない。
 ティームの心を騒つかせているのは、それをウィンも普通にするということを失念していた己の傲りだった。
 ウィンにも付き合いがある。ディーンとパームの事でよく行動を共にする事も多いが他のコミュニティを持っていて当たり前だ。ティームにだってある。自分にあるものを何故ウィンには無いと思ってたのか。
 いや違う。
 あの部屋でいつでも自分を迎え入れてくれると、思ってしまっていた。
 いつもの顔でいつも通り揶揄って羽交い締めにされる。
 だから今度から先に言えと言われていたのを無視して部屋の扉をノックしたし、電話もかけた。そもそも今夜は寝ようとしていなくて眠れなくなる前に確実に眠れる行動をとっていた。
 馬鹿だ。全部。
 背中と心臓の間がギュッと収縮して指先が痺れている。
 ティームは目を覆っていた腕を外す。圧迫されてぼやけた視界が正常に戻る前に目を閉じた。
 ドンッ、ドンドンッ
「っ!」
 意識をそのまま沈ませようと息を吐いた瞬間にドアが大きな音を立てた。ノックじゃない。扉の下の方で重たい音がしている。それはティームが開けるまで止める気はないと言うようにドアを揺るがしていた。
 ティームの部屋があるフロアも大概静まり返っており、あと数秒でも続いたら苦情が来る。
「ふざけんな」
 ドアを蹴り続けてる人物は、ティームが今の状況を誰にも知られたくないことを充分理解した上で行動している。ティームは飛び起きて扉を開けざるを得なかった。
 施錠を外し勢いよく扉を引く。目の前の顔を睨みつけてやろうとしたティームの視界は、しかし茶色いもので覆われた。
「え、あ、わぁ!」
 それは大きくて柔らかく、ティームを部屋へと押し戻した。そしてそのまま一緒にベッドへと倒れこむ。慌てて引き剥がすとウィンがドアに鍵をかけているところだった。
 ティームは言いたいことがありすぎて逆に全て喉元でつかえてしまい、口をぴたりと閉ざした。そのかわり目に非難を込めてウィンを見上げる。
 ウィンは先程とは違いTシャツに寝巻きがわりのスウェット姿で、髪は下ろして片側を耳にかけている。ティームがウィンの部屋でよく見る彼だった。
「暑い」
 ウィンは眉間にシワを寄せて、壁にあるエアコンのリモコンを勝手に操作した。電子音が何度かして設定温度が下げられる。吹き出し口から部屋を冷やそうと強めの風が吹き、ティームの髪を揺らした。
「何なんですか。勝手に入ってきて」
 ウィンはティームの声には反応せず徐に着ていたTシャツを脱ぎ、椅子の背に放る。漏れ入ってくる街灯のわずかな灯りが露わになった彼の翼を照らす。
 ティームは反射的にぎくりと身体を揺らした。
「ウィン先輩」
「ドライヤー借りるぞ」
 ティームが身構えた事も気づいているはずだが飄々とした声は家主の許可を待たずに部屋の奥へと歩いていく。シャワールームの電気が付き、しばらくすると騒音が聞こえ始めた。さっきより明るくなった部屋でティームは握りしめていたものに目を落とした。滑らかでひんやりしていて気持ちがいい。自分はこの感触を知っている。自分をベッドに押し倒したのは、ウィンによく似た彼の寝具だった。
「何で来たんだよ。店に戻ってって言ったじゃん」
 ドライヤーの音に負けないように声を張ったがウィンの声は聞こえない。寮の壁は厚くない。あまり大きな声は出せなくてティームは同じ問いを繰り返すことを諦めた。掌でゆっくりシーツを撫でる。
 濡れた髪のまま掛け布団を抱えてやってきたウィンの真意を、頭が勝手に測り出す。
 違う。自分の良いように決めつけるな。まだ聞いてないんだ。
 奥歯を噛み締めて耐えているとドライヤーの音が消えた。途端に部屋は静まりかえる。エアコンの風が冷たすぎる事を理由に、布団を被って寝転がった。腕や頬に当たるシーツのとろみが気持ちいい。ウィンの部屋の匂いがした。呼吸を繰り返すうちに、まるでウィンの部屋で寝ているかのような錯覚に陥り、気分が自然と凪いでいく。脳はもうこれを「安心」と覚えてしまっていた。落ち着いていく気持ちと甘く切なくなる気持ちが身体に広がっていき、違うんだと喚く自分が追いやられていった。
 ウィンは戻ってくるとベッドから本来のティームの掛け布団を引き摺り出し、軽く折ってまた椅子に置いた。そしてそのままベッドに乗り上げティームの隣に潜り込んでくる。
 肌が触れ合わないギリギリの距離を保ち、ウィンが一息ついた音がした。ティームがウィンの顔を見つめるとウィンもひたりと視線を合わす。口元にはいつもの笑みはなく暫くすると静かに開いていった。
「さっきの飲み会は俺じゃなくてもいいんだよ」
 低く穏やかな声は耳触りが良い。
 ウィンから雑多な匂いが全部消えている。自分が走り去った後、どんな気持ちでシャワーを浴びて歯を磨いたのだろうか。何を考えて、布団を抱えておれの部屋に来たの?
「でも、お前は俺を呼んだ」
 どうしてそんな、大事なことのように囁くんだ。
 尋ねたいことは沢山あるが、知りたいことはただ一つ。
 入浴後の熱が含まれているウィンの掌が顔にかかる髪を払い、冷たい頬を包む。じわりと溶け出して互いの温度を馴染ませてくる。親指に下瞼の薄い皮膚を優しく辿られてティームは目をゆっくり閉じた。そのまま上瞼の上もウィンの指が通り過ぎていく。何度も撫でられて眠気が誘発された。
「先輩はなんで……
 布ずれの音がしてウィンが動いた。額に柔らかく唇が充てられる。羽のように軽く、眉間から鼻を沿い口の端に触れる。微かに漏れる温かい吐息を掬い取るようにティームは顔をずらして唇を合わせた。ただ触れ合わせるだけで火を灯すものではなく、ウィンは一度柔らかく啄んで離れていった。
「もう寝ろ」
 布団をティームの肩まで引き上げる。そのまま腕を置かれ、シーツの肌触りの良さとウィンのちょうど良い温度と重さに、意識がとろとろと沈んでいく。
「先輩はおれに甘すぎる」
 自分の口から溢れていく言葉にもう虚勢が張れない。自分とウィンの間に折り曲げられている彼の腕を指先でやんわりと触れる。
「特別なんだから普通だろ」
 ウィンの声が一段と耳に心地良くて、言葉が正確に入ってくる前にティームは小さく寝息を立て始めた。
 廊下からは空調の音が響き、時折遠くで物音が聞こえる。週末の学生寮ではよくある夜がゆっくりと過ぎていった。