タロ文庫の作品置き場
2025-05-06 22:31:39
5796文字
Public 作品
 

免疫の弊害

2020-06-20

 ちゅく、と濡れた音がしてウィンの唇が離れた。
 目を開けると伏せられていた瞼がゆるりと上がるのが見える。その目が弓形に細められ、今しがた散々食んでいた唇は横に引かれチシャ猫のような笑みを浮かべた。ティームは口の中に溜まっていた温い唾液を飲み込んだ。
 どうして、今まで気にしてなかったんだろう。
 ウィンの瞳の中は水分量が違うのか、たっぷり濡れてる表面に間接照明の淡いオレンジの光がキラキラと反射している。アーモンド型のそれに沿ったくっきりした二重の線も形の良い眉もすっとした鼻筋は影さえも完璧で、
「どうした?」
 優しい声色が出てくる唇は下唇が程よくふっくらしていてとてもセクシーだ。
 ティームは頬を包み指先で耳たぶをいじってくる熱い手をギュッと掴んで剥がし、ウィンを見つめながらその指の中程にチュッとキスをした。
「せんぱい」
 唇を這わせたまま、今日ずっと言おうと思っていた言葉を口に出す。
「今日はおれが抱きたい……かもしれない」
 
 
 
 ティームの気持ちの動きは六時間前に遡る。
「終わったー」
 今度発表するヨーロッパの経済史についてのレジュメをなんとかまとめ終えて、ティームは大きく伸びをした。肩から背骨の真ん中まで凝り固まった筋肉が伸びて気持ちがいい。
「おつかれおつかれ! ちょっと待ってな。こっちももうすぐ終わるから」
「あぁ気にすんな」
 対面に座ってるミューが忙しなくページをめくるのを手を振って制する。少し休みたいからゆっくりやってくれ。ティームはぐるりとあたりを見渡した。
 経済学部に置いていない参考資料を求めて部活仲間のいる学部の図書館へやってきたところ偶然ミューも課題をやりにきたという。お互い内容はわからないものの一人でやるより気分が楽なので付き合ってもらった。
 同じ大学内でも学部が異なると漂う空気が少し違う。ティームは物珍しそうに周りの生徒の様子を眺めていた。
「ミュー」
 そこに、ネクタイをティーム以上にだらしなく緩めた大柄な男子生徒が友人めがけてやってきた。ミューは顔を上げて、おうと手を振る。男子生徒はニコニコ笑いながらミューの隣の椅子に腰かけて彼の肩を抱いた。ティームも目で挨拶されたので軽く頷く。
「ミュー、この前のアレありがとな。妹めちゃくちゃ喜んでたわ」
「そりゃ良かった」
 男子生徒が挨拶だけしにきたわけではないことを察し、ティームはセルフォンを取り出した。今のうちにゲームのログインボーナスだけでも貰っておこう。
「俺さ全然知らなかったんだけど、超かっこいいのな。その、ウィンさんってひと」
 アプリを起動させようとした指が止まる。目をあげるとミューが完全にペンを置いて友人の方に体を向けていた。
「人気あるぜ。見た目あぁだし。部活中も結構写真撮られてるし。部長の次って感じかな」
「へぇ。妹のやつ、俺の学生ID使って大学のサイトに入って画像集めてんだよ。多分全部保存してる」
「めちゃくちゃファンじゃん」
「そうそう。でもお前から送ってもらった写真は見たことないって。泣いて喜んでた。確かにアレは男の俺から見てもイイわ」
 これ妹からお礼だって、とミューの前にシンプルだがラッピングされたクッキーが置かれた。ミューは目と鼻の穴がふわっと開き、早速袋を開けて口に放り込んだ。
「サンキュー! また何かあったら言ってねって妹ちゃんに伝えといて」
「あぁよろしく頼む」
 課題で脳が糖分を欲しがっていたのかミューが二枚目のクッキーを口に入れ、男子生徒に親指を立ててみせる。男子生徒は用事が全部済んだのかミューの肩を叩いて立ち上がった。
「そうだ。今度背中のタトゥーが見える写真くれよ。アレすげぇエロい」
 じゃあなと去っていく背中を追いかけたい衝動をティームは机に拳を押し付けることでやり過ごした。こめかみ辺りがひくついてるのがわかる。
 クソやろうが、アレアレ言いやがって。
 かわりにクッキーを貪っている目の前の友人に声をかける。自分が思ってる以上に低い声だった。
「ミュー、写真って?」
「見るか? こないだの合同練習の時のやつ」
 まだ見るとは言っていないのにミューがセルフォンを操作しこちらに向けた。自分の表情筋が固まってるのはわかっていたが、その写真を見て思考もストップした。
 ウィンが微笑んでいた。
 泳ぎ終わりで髪も肌も濡れたまま少し覗き込むように斜めを見ている。カメラ目線ではなく、画面の端っこに微かに写っている誰かに向かって。いつもの悪巧みをしている楽しそうな笑い方ではなく。
 ふわっと柔らかく、それはそれは愛おしそうに。
 これは。
「盗撮じゃないか! お前、消せよ」
「いやいやいや、たまたま撮れたんだって。すげー綺麗に撮れたろ? オレもまさかウィン先輩がこんなに綺麗だとは思ってなくてびっくりしたわ」
「綺麗じゃない」
「ティーム、よく見ろよ。オレたちの先輩はもともとイケメンだぞ。イケメンがこんな風に笑ったら、そりゃ女子は泣くだろ」
 ミューがセルフォンをこちらに押してくるのでティームはぐいぐいと押し戻す。もう充分だった。
「いいから消せよ。先輩にバレたら怒られるぞ」
 あと、と口の中で舌が一瞬まごついてからティームは言葉を続けた。先程の男子生徒の最後の言葉が耳の奥に残っている。
「背中の写真とかも絶対撮んなよ。さっきのやつに送るな。水泳部のSNSで我慢しろって言っとけ」
「わかったよ」
 バレたら怒られる、そして鬼のようにしごかれることをミューは察したらしく大人しくセルフォンを引き戻して画像フォルダーから写真を削除した。ティームはそれを見届けて、一度目を伏せ奥歯を噛み締める。それからすべての荷物を雑にリュックに詰め込み、ミューに帰ると一言だけ告げてその場を立ち去った。
 
 
 
 ティームは自分の部屋に戻りベッドに仰向けにダイブした。天井の照明の影をぼんやり眺めながら自分の中に湧いて出た感情の源をゆっくり辿る。
「綺麗……
 ティームはウィンの見かけの美醜について、はっきり言って考えたこともなかった。
 ウィンを目にした時は派手だなとは思ったが、どちらかというと泳ぐ時のフォームの綺麗さの方が印象強い。水の抵抗を最小限に抑えてぐんと伸び進む腕の動きが、無駄がなくて見ていて気持ちいいのだ。そういう綺麗さはティームもわかる。陸の上にいて服を着ている彼はいつも揶揄ってくるか厳しくしごいてくるかだし、服を着ていない時は覚えていられない。
 人気があることは知っているが理由を深追いしたことがなかった。
 ティームはベッドシーツの上を探って放り投げていたセルフォンを掴んだ。寝転がったまま徐に写真フォルダーを開く。スクロールしていると遊びに行った時や旅行に行った時の自撮りのツーショット写真が出てきて一度手を止める。見慣れた顔だ。整っている、とは思う。楽しそうにしてるな、とも思う。
 そのまま遡っていくとディーンばかりが出てくるゾーンに差し掛かった。
「パーム用のだ」
 遠征や練習中に撮った写真をパームに送りつけていた時の名残だろう。ティームは口元を緩めてその写真をタップする。厳しい表情の部長の横に金髪の毛束が微かに写っている。ティームは画面の下の編集欄から復元ボタンをタップした。ディーンのアップだった写真が少し引きになり隣にいるウィンの姿を蘇らせる。この頃のティームはパーム用ということもあり容赦なくウィンをトリミングしていた。過去の自分のことながら少し笑ってしまう。腕組みをして部長同様に厳しい顔をしているウィンの上に指を乗せて撫でる。指導している時の真面目な顔だ。アップにしてみると少し苛ついてるのが眉間の皺と口のへの字で見てとれる。
 ティームは次の写真も復元していった。この辺りは急いで撮っているので連写しているのだが元々表情が乏しいディーンの顔はほぼ動きがない。ティームはスワイプしてウィンの顔だけ見ていく。シュッシュッと何枚か送っていくとコマ送りのようにウィンが撮影に気づきこちらに視線を向けていた。遠くにあった視線がこちらを向いて怪訝に歪み、そして、笑った。その一枚の写真にティームの指が止まる。
 困ったような呆れたような、少し照れてるような、唇が僅かに上がり前歯がちらりと見えている。目線は完全にカメラを、ティームを見ていた。その細まった目が、甘い。
 ティームはコツンとセルフォンを額に当て、頭をシーツに沈ませた。細く長く息を吐く。突然速度を上げた動悸を外に逃すように息を吐き切る。
 今更考えるなと自分を止めようとしても無駄だった。ウィンのことを考えようと思って考えてたのだから止まらない。
 プールサイドでストップウォッチを睨みつけている顔、皆とのランチで口いっぱいに頬張ってる顔、自分の到着に気づかず眠そうに窓の外を眺めて待っている時の顔、ファンの子に声をかけられてにっこり笑っている外向きの顔、妬かないのかと訊いて揶揄ってきた顔、二人きりの時の顔、切羽詰まった顔、静かな寝顔。
「くそ」
 目が覚めると自分の頭を撫でている寝起きのふにゃっとした、綺麗な綺麗な、顔。
 自分の体温が上がったのを感じてティームはセルフォンで細かく額を打つ。
 今きっと誰にも見せられない顔をしている。先程ミューが見せてきたウィンの笑顔みたいに。あれはタオルを渡しに行った時の、自分に向けられた顔だ。他人が見ていいものじゃない。
 バクバクと大きく動く心臓の裏側がウィンへの愛しさでいっぱいになってしまった。
『ピロン』
 その様子を見ていたかのタイミングでセルフォンがメッセージを受信した。夕食を買って帰るから後で部屋に上がりに来いという内容のそれを、ティームは送り主の翼にするように指先で撫でた。
 
 
 
 こうしてティームは心をウィンで満たした状態で今に至る。
 向かい合って食事をしている時も麺を啜っては「これは当たりの店だな」と言ってきたところが子供みたいで可愛かったし、シャワーから出てのぼせて少しぼんやりしている姿も気怠げで色っぽかった。タトゥーを見せつけるような裸の上半身は何度も触れているくせに今とても手が求めていた。
 愛したい。
 それが一番の根底にある感情で、それをどう伝えたらいいかティームは考えていた。いつもウィンがするように自分もウィンを愛したい。
 ずっとそういう目で見ていたのだろう、ティームの動向に敏感なウィンがその熱っぽさを取り溢すはずもなく、早々に夜の雰囲気に持ち込まれた。絡んできた舌までもいつもより甘く感じて自分でもわかるくらい強めに吸った。
 その結果、「どうした?」である。
 自分の要望を伝えるとウィンは二度瞬きを繰り返し、ティームを押し倒そうとして前に持ってきていた重心を元の軸に戻していった。ベッドの端に半分座った状態で向かい合う。握っている彼の指はくたりと力が抜けたままだったので、ティームはそのまま指先をキュッと掴む。
 何も言わないウィンに、さて困らせてしまっただろうかとティームは目を伏せた。
「駄目なの?」
 答えがないことに少しだけ欲求が小さくなりかけた時、ティームの好きにさせてない方の指が顎を捉えて顔を上げさせられる。
 綺麗な顔が静かに笑っていた。
「まさか。俺はお前とならなんだっていい」
 いつもいつも、この人はどこまでも自分を受け入れる。
 そのままコツンと額を合わせてきたウィンに、急に自分の熱の違和感を感じてティームは腕を突っ張り身体を離した。
「なんかムカつくな。なんで即答なんだよ」
 顔にかかる金髪を掻き上げて小首を傾げる様子はやっぱりティームの欲をくすぐってくるがもっと奥底から違う何かを引き揚げてきた。ウィンの事をいつも彼が自分にしてくるように抱いてみたいと、さっきまで確かに思っていたのに。
 胸は同じようにドキドキしている。でも違うのだ。
 ウィンの長い腕が顔の両側から首に巻きつく。ゆっくり引き寄せられて鼻先が触れ合う時にまた小さく笑った。
 その息だけで笑う声がやけに煽情的で、ティームは誘われるままに鼻先を進めて唇を合わせた。無防備に晒されているウィンの脇腹に手を添える。何度か柔らかい下唇を食み内側の湿ってる部分に舌を這わせると、舌先を吸われてするりと彼の咥内に誘われる。そのままぬるぬると厚い舌をこすり合わせられ、ティームの鼻から声が抜けた。同時に背中に悪寒が走る。思わず縋るように指先に力を入れると唐突にウィンが口を離した。仕舞えていないティームの舌先からポタリと滴が落ちてシーツに吸い込まれる。自分から吐き出される息が荒い。
「で、するのか? しないのか?」
 ウィンは腕を首に巻き付けたまま至近距離でティームに問う。誘惑の声はとろりと甘い。
 腰から脇にかけてザワザワしだして、ティームは身体に灯された火をはっきりと感じた。
 愛したい気持ちは変わらずにある。けれどそこに、この人に愛されたいという欲求が大きく乗積された。お前とならなんだっていいって言っていた。それならウィンが好きなように動いて自分と気持ち良くなってくれれば良いと思った。
 その顔が見たい。
 ウィンの腰に添えていた手を背中に這わせ彼の肩に顎を乗せる。
「やっぱりやめた。いつもと一緒でいい。ウィン先輩がいつもやってる準備とか順番……覚えてないし」
「そうか」
 自分から言い出したことなのに前言撤回するのも、暗に抱いてくれと言ってるのも、何だか恥ずかしくなってつい減らず口も叩いてしまう。そんな心情などお見通しなのかウィンはティームの後頭部を一度くしゃりと撫で、体重をかけてティームと一緒にシーツの上に倒れ込んだ。
 ぴったり密着してウィンの熱を知る。艶かしく腰を押しつけられティームの腰も途端にグッと重くなった。思わず上がる顎の先に唇が降りてくる。目線を下げればウィンの目とぶつかって、それは既にだいぶ色っぽいことになっていた。
 綺麗だな。
 今日は目を閉じずにウィンの顔をいっぱい覚えていようと思うと、ティームは合わせてくる唇を迎え入れる為に口を開いた。