マグノリアの微かな香りが届き、リビングのソファに座り読書をしていたリュカは思わず、窓の外を見た。窓から見える香りの主は純白の花で枝を飾り立て、耐え忍び迎えた春を喜んでいるように見える。プランターの花は咲いているものもあれば、まだこれからというものもあった。あそこで色づいているチューリップの蕾も、あと幾日かすればその花弁を綻ばせるだろう。少し遠くでミモザの黄色い房が揺れるのが見えた。
柔らかな風が窓を通り抜け、リュカの頬を撫でる。晴れた昼間ならば外で過ごしてもいい頃なのだろうと無意識に頬が緩む。色を取り戻した庭を眺めれば、何かインスピレーションが浮かぶかもしれない。開いていた本を静かに閉じ、リュカは立ち上がった。
「ただいま」
ルームメイトの声に視線をそちらに向けたものの、リュカは返す言葉を一度、喉にひっかけた。白いユリと白いカーネーションのささやかな花束を腕に抱え、壁のボードに己の鍵を引っかけているラビは、淡く幸せな春の空気にしてはやや重たい、黒のシャツと黒のボトムスを身につけている。
カジュアルではあったがそれはまるで――。
「……おかえり。どうしたんだ、それは」
頭に浮かんだ単語を打ち消しながらリュカは言葉を絞り出した。微かな戸惑いを孕んだ仲間の声色を聞き分けたかどうか、ラビは小さく首を傾げ微笑んでいる。
「飾るんだ」
「ここに?」
「ううん、オレの部屋」
春だからね。言葉を付け足しながらラビは小さな花束を、どこかから引っ張り出してきたらしいガラスの花瓶に飾り付ける。そうか、春だから。――とは言いがたい。恭しげに白い花を整えるラビの横顔から感じ取ったものを咀嚼できず、リュカは視線を彷徨わせた。
「良い天気だったよ。ずいぶんと暖かくなって、少し驚いたな。過ごしやすくなるな」
低く柔らかで、それでいて無機質にも聞こえる声だった。春が来た喜びのようなものを語るくせに、その喜びを拒むように、冷たく、暗いものを黒い服と共に纏っている。まるで取り残された冬がそこにあるかのような気がして、その中に彼が、哀しみと孤独を抱きながら佇んでいるように見えて、思わずリュカは手を動かした。それと同時、何かが落ちる音にラビの肩が軽く跳ねた。
「リュカ?」
大丈夫? と深いコバルトブルーがこちらへと眼差しを向ける。落ちたよ、と困惑する視線の先、リュカのつま先のあたりにはラビが帰ってくるまで読んでいた本が落ちていた。我に返ってそれを拾い上げ、埃を払うリュカをラビの視線は捉えている。
「……大丈夫だ」
「良かった」
本が無事であると受け取ったラビが頷く。またあとでねと言い残して花瓶を持ち階段をあがる恋人の背中を、リュカはぼんやりと眺めていた。
きっと今日、ラビはあの調子なのだ。こんなにも暖かく、柔らかで優しくて、そこかしこに喜びが満ちているような春の日なのに、彼だけが冬の、雪が吹きすさぶ暗闇の中でいる。それを嘆くこともせず、ただそこにいることが正しいといった様子で、とうの本人はただの日常を過ごしているように振る舞って。
それを、過去を偲んでいると言えばいいのか、過去に囚われているといえばいいのかリュカには判断がつかなかった。それに己はまだ触れてはならないものであることだけが、リュカには理解出来た。
当たり前ではあるのだが、夕食の席でもラビは黒い服のままだった。振る舞いもいつもと変わりなく、レオンが馬鹿なことを言えば笑いながら言い返し、朝陽の話に耳を傾けていた。自分の事――今日、白い花束を買った事は話題にも出さない。ラビが昼間、白いユリと白いカーネーションの花束を持ち帰ったことは、彼の帰りを迎え入れたリュカだけが知ることで、そこに感じた違和感も、己だけが抱いている。そんな事を考えていると、ノアが飴色の瞳と目が合った。
「どうしたんだい?」
「……いや、少し考え事をしていた」
「そう。……お味噌汁、冷めちゃうよ」
すっと目を細めて微笑まれ、慌てて椀を持つ。
ノアに昼のことを悟られてはいけないと、物思いにふけるのをやめてリュカは食事に集中した。
ただ、その焦りも無駄ではあった。
食事を終えれば、入浴の順番までの時間は各々勝手に過ごす。今日は暑くて汗をかいたからとレオンがいの一番に浴室へと向かい、朝陽は課題があるからと自室に引っ込んだ。ラビも後でいいよと言い残してやはり自室に戻り、リビングにはリュカとノアの二人が取り残された。
「心配?」
食事の席のこともあったので、リュカも自室へと籠もってしまおうと動いたところで、ノアが口を開いた。
その言葉を聞いた瞬間、胸を引っ掴まれたような心地になってリュカは数秒言葉を失って、ようやく言葉を絞り出す。
「……何が」
「ラビのこと」
「知ってたのか?」
「知ってはいないよ」
何もね。いつもの椅子に腰掛けながら、ノアは微かな笑みを浮かべている。王子様と称される整った顔をこの時ばかりは睨み付けると、ノアは肩を揺らした。
「でもラビにとって必要なんだろうね、今日のような日は」
「喪服のような格好で過ごす事がか?」
「白い花束を買ってね。……一日だけ、必要なんだ」
「…………オレは、別にそれが悪いこととは思っていない。本心だ」
「勿論。誰もそんなこと思っていない」
迂遠な会話だと思った。こういったやりとりはあまり得意ではない。口をへの字にさせて黙りこくってしまったリュカを、飴色の眼差しは見つめている。
「お前はどうなんだ」
「オレ?」
リュカに問われ、ノアがひとつ瞬きをする。少し驚いたような顔で考える姿も、どこか様になっていた。
「心配ではないよ。結局のところ……あいつはオレたちのラビだから。あいつもきっと、そう望んでいるからね。だから心配はしていない」
「そういうものか」
「オレたちが触れられないものがあるように――」
ノアが言葉を飲み込み、目を伏せる。数秒、思案の中に落ちてすぐに、首を横に振った。
「リュカ、もし心配ならば声をかけてやればいいよ」
「余計なことかもしれない」
「それも優しさだけどね」
好きにしなよ。どこか突き放したような言葉の声色は柔らかい。飴色の瞳もその声も己を見抜いているのだ。そう悟ってリュカは曖昧に頷いた。
シャワーを浴び、寝る支度を終えてようやく、リュカはその扉を叩いた。遅い時間にも関わらず、返事はすぐに返ってきた。
「リュカ」
扉を開け、遠慮がちに入ってきた男を見て、ラビは目を丸くしていた。どうした? と言いたげな眼差しから目をそらしながら、後ろ手に扉を閉める。
「たいした用じゃない」
ラビも既に寝支度を終えていて、あの〝喪服〟を脱いでいた。自分たちと揃いで買ったスウェット姿にリュカは無意識に小さな息を吐いて次の言葉を探し、しかしそれを掴むことは出来なかった。壁際のサイドボードに、あの白い花束を飾り付けたガラスの花瓶が置かれている。ああやって飾れば案外、なんの変哲も無い、綺麗なものに見えた。
「綺麗だな」
「うん?」
「花だ。お前が買ってきた」
リュカの言葉にそれが用なのかとラビは一瞬訝しがったが、そんな筈はないと打ち消す。そうしてようやく、この不器用な男がここに来た理由をラビは朧気ながら、察した。
「それなら良かった」
あいつも喜ぶだろうな。そんな言葉を身体の奥底に沈ませ、ラビは肩を揺らして笑う。いつまでも扉の前に突っ立っている恋人に歩み寄り、その手を掴む。
「なあ、リュカ。夜更かししてみないか?」
「……どれぐらいだ」
「そうだな、どっちかが寝てしまうまで。花を眺めながらどうでもいい話をしようか」
名案といった声色でラビはリュカの手を引いた。肉刺の痕が残る手が、同じくらいの大きさの手を強く握りしめている。その指先はどこか冷たく、やはり冬の名残のように思える。リュカはその身をされるがままに、ラビが導いたベッド、シーツの上に腰を下ろした。
「どうでもいい話か」
「そう。どうでもいい話。思いつかないなら歌を口ずさんでもいい。あとは、ああ、今度のテストの内容もいいな。とにかく、話そう。……どっちかが寝たら、おしまい。まだ起きてる方が寝ちゃった方にキスをするんだ。おやすみのキスだよ、軽めのさ」
リュカの隣にラビが座る。乾かしたばかりのムーングレイの長い髪が、灯りの下で鈍く輝いている。掴む手と掴まれた手はそのままで、シーツの上で重なり合っていた。
「いいだろう。だが――」
ラビの思いつきに、リュカは頷いた。頷いて、覗き込むラビの唇を己の唇で塞ぐ。触れるだけの口づけだった。口づけた瞬間、鼻先をユリのあの独特な香りが撫でた。
「オレは、今が良い。お前より先に寝るつもりはないが」
「…………」
青い目はあからさまに狼狽していた。一種の敗北感を抱いているようにも見えた。そして拗ねたように唇を引き結んで、ラビは手元のリモコンで照明を落としたのだった。
「ずるいよ」
「これくらい許せ」
リュカが笑ってやれば小さな嘆息と共にどさ、と隣でシーツに寝転ぶ音がする。暗闇の中、白い花はぼんやりとその輪郭を浮かばせている。隣の恋人は拗ねているのに、己の手を握る力は緩んでいない。指を絡ませて、離さないようにしている。
どうでもいい話をした。チューリップの花が咲きそうだとか、花束を買いに行った先で新しく開いた店を見かけただとか、明日の気温の話だとか。テストの話もした。
とりとめもないことを話すうちに、どちらの声も眠たくなっていた。絡み合っていた指も、その輪郭を曖昧にしていた。手のひらの熱が心地よかった。
「……あした、……」
その頃にはリュカもラビの隣で寝転がっていた。大きめのベッドではあるが流石に二人の体格ではやや狭い。
あした、もうあしたになっているだろうな。
うつらうつらとしながらリュカは考え、重たい瞼を閉じた。暗闇の中で隣り合う恋人の熱と、息づかいを感じる。ようやく、あの暗い冬の吹雪から、この男を取り戻せたような気がした。
しかし、きっとまた、お前は次の春の一日だけあの孤独な冬の中にいるのだろう。
微睡みの中で思う。それでもよかった。
こうしてこの冷たい手を掴んで、こちらのほうが暖かいと、呼んでやればいい。こいつがいつもオレを音色の坩堝から引き上げるように。そうしてやればいい。
次の春も、また次の春も。季節が巡るたびに。
翌日には捨てようと思っていたのだけどな、とラビはいくつかの花びらが落ちたユリと、色が褪せてしまったカーネーションの茎を纏めて掴んだ。もうユリも香りを殆ど発していない。翌日には捨てようと思っていたのに、結局水を換えたりと甲斐甲斐しく世話をしてしまった。それでももう、この美しかった花束は役目を終える。朽ちない花は無い。
明日に出すゴミ袋の中へそれを入れる。もう捨てるものはないかと周囲を見渡した。
「まだ空いているか?」
「うん、結構入るよ」
そこへリュカが自室のゴミを持ってきたので、ラビは手を止めた。開いた袋に、生活の残滓が転がり落ちる。ちり紙、チョコの袋、音楽になれなかったもの。
がさがさと音を立てて、花束を埋没させた。
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