足元がふわふわする気がする。座っているときにはなんてことなかったアルコールが、立ち上がった途端に脳みそに回ってきたみたいだ。一之倉は小料理屋のトイレに入ってズボンの前をくつろげてから、はあっと酒くさい息を吐いた。
古い店構えの割に水回りがきれいな店は、「小洒落た店なんて気恥ずかしい」というベテラン社員から「小汚い店なんて絶対にイヤ」という女性社員までを納得させてくれるありがたい存在だ。おかげで、猛烈な就職氷河期で凍りついた新入社員たちの心も溶けそうである。
店内に流れる有線の音楽が漏れ聞こえてきて、一之倉はふんふんと鼻歌を歌った。人気バンドの曲で、何かのテレビ番組のテーマにもなっているやつだ。街なかでもよく耳にするせいで、いつのまにかメロディーが頭に染みついている。小料理屋には似つかわしくないが、今日の新入社員歓迎会の雰囲気に合わせて有線のチャンネルを選んでくれているのだろう。
一之倉は用を足しおえて手を洗い、ついでに目の前の鏡を睨んだ。すっかり見慣れたツーブロックの髪をちょいちょいと整える。高校生の頃は月に一度バリカンをかければ済んでいたのに、今は営業職のたしなみとして髪を毎日セットしなければならない。自分の趣味でおしゃれをするのは好きだけれど、自分の好みとは違うスタイルを維持するのはなかなか面倒だ。
トイレを出て元いたカウンター席に戻ると、隣に新入社員が回ってきていた。酒と緊張で顔を赤くした彼が、さっとお銚子を持ち上げる。
「あの、一之倉さん、どうぞ」
「ありがとう」
お猪口で冷酒を受ける。一之倉は鷹揚な先輩に見えるように営業スマイルを作った。
「あんまり硬くなるなよ、って言っても緊張するだろうけどさ。今日は新入社員が主役なんだし」
「はい! あの、今日は幹事してくださってありがとうございます」
「いえいえ、どういたしまして」
刺身のツマをシソの葉にくるんで口に運ぶ。刺身本体も美味いが、しゃきしゃきしたツマもきちんと美味い。お猪口の中身を舐めると、これがまたよく合った。
「あと、あのー、一之倉さんバスケやってたって聞いて」
「まぁね」
「ここの板前さんもでっかいですもんね。バスケ関係のお知り合いですか?」
一之倉は板場にちらりと目を向けた。真剣に包丁を使う板前見習いは、確かに料理人にしておくのはもったいない体格の持ち主だ。
「うん、まあ直接の知り合いってわけじゃないんだけど、俺の元チームメイトと、あの板さんの元チームメイトが、元チームメイトで」
「へえ」
元チームメイトだらけの説明で伝わったとは思えないけれど、新入社員らしい素直さで彼は頷いた。
「でも一之倉さんはあんまり体育会系って感じしないですね。……あ、いや、いい意味でですよ! さっきの鼻歌も上手かったし、むしろ音楽とかやってそうな、おしゃれな感じっていうか!」
「そんな焦んなくていいよ」
あははっと笑って見せて、今度は一之倉がお銚子を持ち上げた。一拍遅れて持ち上げられたお猪口に、なみなみと冷酒を注ぐ。
「たとえば俺が高校時代の先輩に会ったとして、先輩にこんなふうに酒を注がせたら腕立て伏せ百回とか言われるかも」
「えっ」
さっきまで赤かった新入社員の顔からさっと血の気が引く。
「でも自分が先輩からそういう理不尽を受けたからって後輩もおなじように苦しめるのはやめようって、俺たちの代は決めたの。だから安心して飲め」
「はい!」
ぐいっとお猪口をあおる新入社員の飲みっぷりを眺めながら、一之倉も冷酒を舐めた。BGMはもう変わって、最近流行りのアイドルソングになっている。
それでも一之倉の頭の中では、先ほどまでのバンドメロディーがぐるぐる回り続けていた。その歌詞があまりにも、高校時代の自分のようだったから。
座敷に座っていたベテラン集団に呼ばれて、隣の新入社員くんは席を立った。それで今度は、さっきのメロディーを遠慮なく口ずさむ。
「戸惑い 学んで 汗を流して」
相当酔っ払っていると思われたのか、でっかい板前見習いが水の入ったグラスをそっとカウンターに置いた。
「大丈夫か? あとは最後に鯛めしを出す予定なんだが、今のうちにタクシー呼んでおくか?」
「ありがとう。でも大丈夫、松本が迎えにきてくれるから」
そう、大丈夫。一之倉と松本はあの歌詞の未来の世界を生きている。また逢えるその日はちゃんとやってきた。
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