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那須野
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寿月
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19:32,p.m.
【寿月】数年後同棲プロ時空*一緒に暮らし始めて少し経ったころの二人と、ファンブックの例の件。
その日の帰宅は、すっかり日が暮れてからのことだった。
練習後のコーチ陣とのミーティングに想定外に熱が入ってしまい、最終的にはコーチともども事務スタッフにやんわりと追われるようにして会議室を出た。
コーチと別れふたりきりになったところで毛利が「そういや、めっさ腹すいてますわ」と言って笑って、夕飯の相談をしながら帰路につく。自身が毛利と同じ家に帰るようになってから、ちょうど半月ほどが過ぎていた。
明日は二人揃っての休養日だ。午前中のうちに家事を済ませて、午後からはゆっくり過ごせると良いのだが。頭の中で予定ともつかぬ予定を組みながら、やわらかな中低音に耳を傾けているうちに自宅へ辿り着く。ドアを開ければセンサーライトが足元に控えめな明かりを落として、家主の帰りを静かに出迎えた。ただいま、と重なる二人分の声が、自分にはまだすこしだけ面映ゆい。
玄関を上がり、廊下を抜けてリビングへ向かう。歩みに合わせてぽつりぽつりと点っていくフットライトは柔らかく絞られたあわい暖色で、リビングへ入ってすぐの壁にあるパネルに触れない限り強い明かりは灯らない。日が沈んでから帰ったときに窓の外に綺麗に月が見えるのを、男も自身もいたく気に入っているからだ。
ラケットバッグを置いて、揃って窓辺へ歩み寄る。(二人ともやや背を屈めるようにしなくてはならないが)窓越しに夜空を見上げた男が、そっと相好を崩してみせた。
「満月は昨日やったけど、今日もええ月やね」
「ああ」
満ちて欠け始めたばかりの月は今日も明るく、端に掛かった薄雲を透かして澄んだ光を投げかけている。
今夜は風があるぶん、雲の流れも少し早い。硝子越しにひんやりと染みてくる夜気に、ひとまず半分だけでもカーテンを引こうと片手を伸ばしかけたところで、男がぽつりと口を開いた。
「
……
でっかいお月さん、好きですわ。なんや手ぇ届きそうな気がして」
「
…………
、」
手を止めて男を見る。こちらが視線を向けたことに気付いていないのか、硝子に映りこんだ無防備な表情はやはり素のままのそれで、踏み込むことを一瞬躊躇う。
あまりにも静かに響くその声は、どこか穏やかな達観を帯びていた。
――
まるで、届かぬことすら慈しんでいるように。
「毛利」
男の名を呼ぶ。カーテンの端を掴みかけていた五指をほどいて、幾らか精悍さを増した頬の輪郭に触れた。柔くうねる癖毛が指先を擽るのが心地好い。
驚いたように目を丸くして自身を見上げる男の額に、唇を寄せる。そのままの近さで、そっと零した。
「俺は、ここにいるだろう」
「
――
、」
「わからないか」
男がちいさく息を呑むのが聞こえる。このごろであれば思うさま抱き竦められるはずの距離だというのに、ウェアの裾に触れたきり、男はまだ動かないでいる。
この男が以前言っていた「恋人の権利」とは何だろう。あの日確かに互いに受け渡したはずのそれを、ひとつ屋根の下で暮らすようになってからもなお持て余していることには気が付いていた。
「毛利」
抱き締める、口付ける、素肌にふれる。それをゆるしあうことを、その先にあるものをただあるがままに受け入れあうことを、そう呼ぶのだと思っていた。そしてまた、そう望んでいると思っていた。
もう一度尋ねる。わからないか。
自分がここに、傍らにいることが。
間違いようもなく、目瞬きひとつ掛からぬ距離にいることが。
「
……
っ、」
唇と指先でふれたままの額と頬が、じわりと温むのがわかる。もうり、と、声のかたちになりきったかも定かではないほどのひそやかさで名前を呼べば、ようやくかすかに男が身じろぐ気配があった。
「わからんわけ、ないやないですか」
硝子から染みて五感を撫でる夜気に溶けてしまうような声が、それでもたしかに鼓膜を揺らす。
熱い手のひらが空いている片手を掴み、こちらへ踏み込みながら引き寄せられる。重心の移動を受けきれず、わずかにたたらを踏んだ自身の背中が硝子に当たる。痛むほどのものではなかったが、がた、という硬質な物音のなまなましさにどきりとした。
「っは、
…………
ん、」
名前を呼ぶために開きかけた唇を早々に塞がれて、声帯の震えははっきりとした声にならない。
どちらのものともつかない呼吸が膚に触れるたび、どこか空腹に似た情動がじわじわと背すじを這い上がる。得体の知れないさざなみに揺られながら、唯一知った感触の男の手をさがして溺れてしまわぬよう掴み返した。あつい。
どれほどの時間そうしていたかもわからなくなったころ、ぽつり、微熱に掠れた中低音が耳朶を打つ。
「わかっとるよ、
月光
つき
さん」
「
…………
っ
……
」
「
月光
つき
さんがここにおるって、俺やってちゃんと、わかっとる」
……
わかっとるから、困るんです。
出会ったころの素直さとあどけなさが残るひとみの底で、まだ知らぬ切実な色彩が揺れている。初めて見るそのいろを、ほしい、と思った。
おそらくこれは自分のためだけのものだ。
けれども同時に、自分にも縛ることはできないものだ。いまここにあることが、当たり前ではないものだ。
「さしあたって、問題はない」
「
……
つきさん、」
暗いままのリビング、窓際にそそぐかすかな月明かりのなか、男の肩越しに寝室の方向を見遣る。視線の先を察して揺れる気配が何よりの答えだった。
「全部寄越せ」
体温が上がっているからか、硝子戸の冷たさはすでに背中に感じない。「話はそれからだ」とだけ付け足して、男の体をもう一度引き寄せる。くらりとするほど熱い呼吸が首筋を掠め、それからやわく歯を立てられた。