レオナールに余計な羽音を聞かせる虫は多い。無礼が過ぎればその羽虫の何匹かはミランが叩き落とすこともできるのだが、身分や立場によってそれが叶わない場合も少なくなく、ミランは努めて眉間から力を抜いて主人の後ろに控えざるを得ない。
今日の羽虫はレオナールへ執拗に兄弟の話を振っていた。それも兄弟間の対立を煽ろうとするものばかりだった。
レオナールは秀麗な面差しを平静に保っているが、内心はどうだろうか。エルヴェシウスの兄弟は関係が複雑だ。周囲によって複雑にされている。ミランも見方によってはその周囲の一人である。だから、今日は余計に苛立ってしまうのかもしれない。
「……今日は一時、不機嫌そうだったな」
夜、しっとりと濡れたレオナールの髪を魔法で微風を起こしながら乾かしていると、レオナールがぽつりと呟くように言った。彼の声に諌める響きはなかったけれど、内容は相槌で終わるようなものではなく、ミランは申し訳なさと恥ずかしさに一瞬手を止めてすぐに再開させる。
「……レオナール様の下にありながら、感情をあからさまにするなど……申し訳ありません」
「いや、いい。俺以外は気づいていない。ただ、珍しいから気になっただけだ……ああいう手合いは少なくないだろう?」
なにが気に障ったのかと鏡越しに不思議そうな顔を向けるレオナールに、ミランはなんと言うべきかと考える。言葉の応酬に瞬発力がないことは貴族にとって痛いことであるが、この場は腹の探り合いをしているのではない。
レオナールは「ああいう手合い」と一括りにしたが、今回ミランが感情を波立たせてしまったのは内容が兄弟関係に触れるものだからである。それこそ、ただでさえ複雑な間柄を波立たせるためのものだった。レオナールに取り入ろうとするものは掃いて捨てるほどいるし、そういうものの薄っぺらい阿り言葉も聞いていて愉快ではないが、ミランのなかでは別の話だ。
王侯貴族に限った話ではないが、人間は派閥を作る。身分の伴うものになれば掲げる御旗として出生の前後などは分かりやすく、それが正妃腹、側室腹と分かれるのであれば尚更のことである。自らの属している派閥が力を持っているのに越したことはなく、思惑や利益に沿うものであればあるほど望ましい。
今日、飛んできた羽虫はレオナールに印象操作を仕掛け、彼の意向として自らの利益を招こうとしたのだ。王太子であるレオナールを浅慮僭越にも動かそうとする無礼も許し難いが、ミランの怒りはそれだけではない。
兄弟間で派閥が分かれることはある。あるが、当然のこと一枚岩になっていることこそが最良である。
長子ルイゾンはミランの兄に嫁いだ。聖女である妹のベランジェールもミランの弟に嫁いだ。幽閉されていたルイゾンとは既に長い間離れて暮らしていたが、影響力の強いベランジェールと顔を合わせる頻度が減り、弟であるベルトランとも確執などできようものなら側室腹のレオナールは孤立しかねない。周囲に私欲で彼を唆すものが多いなかであまりにも危険だった。
それを、そのまま伝えることは難しかった。
レオナールにとってルイゾンの話は繊細だ。平素、ルイゾンを嫌っているかのように見せるレオナールであるが、それが本心のものであるかは分からない。彼の周囲には彼の意思を歪める羽虫も囀り鳥も多すぎた。そんなレオナールにルイゾンとの仲を迂闊に慮るようなことを言うのは憚られたし、ルイゾンが闇属性であることを考えると王太子であるレオナールの立場にも響く。立太子している彼にベルトランとの仲を深めるように進言するのも、まるで力不足だと言っているように聞こえかねない。
──それに、兄と良好な関係を築くのが難しい心情も理解できないわけではない。
ミランも現在は兄であるルネと複雑な関係にある。嫌っているわけではないが、まだまろい頬をしていた頃から人が変わったようになったルネになにも思わないわけはないし、ミランがレオナールの下につくと決めたとき、ルネはそれはもう冷ややかであった。そういう感情の面だけではもちろんない。「王太子の嫌う闇属性の兄弟を娶った兄」と「王太子に信頼されるミラン」が以前のような関係に戻ることは難しいのだ。
「……あの伯爵には嫌われているもので。あくまで個人的な事情です」
「……なにか手出しをされているなら正直に言え」
「いいえ、そういうことはなにも。嫌味を聞こえるように話される程度です」
嘘ではない。伯爵もとい羽虫は爵位こそリリアル家と同じだが歴史は下手な高位貴族よりも古いため、王太子から重用される伯爵家次男のミランを面白く思っていないので嫌味を言われる場面が間々あった。
考えていたのとは別のほんとうの話をしたミランに、レオナールは振り返り明眸をきりきりと吊り上げる。
「なんだそれは。俺は聞いていないぞ」
「レオナール様の前では言わないでしょう」
機嫌に左右されることが許されない立場であろうとも、気に入っているものを貶されれば気分を害する。
「違う。お前から聞いていないと言ってるんだ」
「それは……私がどうにかする問題ですから」
レオナールの眉がぎゅっと寄り、それから夜のように黒い目がふっと床に落とされる。
「ミランが……自分でどうにかできるのは分かっている。だが…………俺は、頼りないか」
思わず止まった風。レオナールの頬を銀糸の髪がはらりと撫でるのが、ミランには胸を掻き毟りたいほどに切なく見えた。
「頼りないなどと……! ただ、レオナール様を煩わせるようなことではありません」
「俺は髪を乾かすのにも使用人じゃないお前の手を使っているのに?」
「それは話が別ですし、そも私がしたいと申し出たことです。喜んでしているのだとお分かりではありませんか?」
「……知っている。だが、俺だってお前に……いや、分かっているんだ。俺が動くほうが問題なのは。困らせたな。す……」
ミランはレオナールの頬を両手で持ち上げ、その唇をかぷりと喰んだ。
唐突な口付けにびくりと跳ねるレオナールの体を抱きしめて、ミランは唇を擦り合わせ、少し離してはまた押し付ける。
レオナールの体から力が抜けるまで繰り返した小さな口付けは最後にちぅっと唇を吸うことで終わり、ミランはレオナールのとろりと潤んだ目元を撫でて瞼にもキスを落とした。
「愛しい方、どうかその先は言わないでください。あなたが私になにかを申し訳なく思うことなど一切ないのです」
「だ、だが……っ」
「困ってなどいません。レオナール様に気にかけていただいて私は幸せです……嘘だと思いますか?」
レオナールの目がゆらゆらと揺れるのを見ると、口付けで誤魔化すようなずるいことをしてしまったように思う。ただ、レオナールの口から出そうな言葉を止めたかったのだ。
「……嘘だとは、思わないが……お前は、その……ほんとうに困っていても言わないだろう……」
「私はずるいので、レオナール様に甘やかしていただけるのであれば言いますよ」
「俺に甘やかされたいのか……? それにそもそもミランがずるい、とは……?」
「はい、このようにレオナール様の言葉を奪ってしまいますから」
不思議そうに見つめてくるレオナールにミランはもう一度彼に口付ける。
くっと喉を鳴らして咄嗟に口を結んだレオナールに微笑めば、彼は頬を染めながら少し悔しそうな顔をした。
「確かに、お前はずるい……」
「レオナール様にだけですよ」
「それは……いいことなのか?」
「どう思われますか?」
くすくすと笑いながら訊くミランにレオナールはむぅと表情を難しいものにさせ、それが可愛らしくて仕方のないミランは気持ちを宥めるように彼の髪に指を通す。
「よかった、もう乾いていますね。櫛を通しますから後ろを……」
「ミラン」
「はい、如何なさいましたか?」
レオナールに手首をやわく掴まれて目をまたたかせていると、彼は先ほどよりも深く染まった顔で短く言う。その花も肩身を狭くするような美しさ。ミランは目を奪われてレオナールの唇が小さく開くのを固まりながら待った。
「悪くは、ない」
「は……」
なにが、と一拍考え、すぐに自身の言った「どう思われますか?」の答えなのだと気づく。
レオナールはぷい、と顔を背けるように後ろを向いて、鏡越しにも目を合わさない。だが、不機嫌ではないのを察するのは鏡に映る表情からも、銀色の髪の間から覗く耳の色からも易かった。
ミランはゆるりと目を細め、櫛を取ってレオナールの髪を梳かしながらそうっと囁く。
「今夜は、お召しになられますか?」
レオナールの肩が跳ね、横に向けられていた目が正面を向く。
「っそういうところがずるいんだ……!」
キッと睨まれても羞恥に潤んだ目では恐ろしくない。ただ愛おしいという気持ちがひしひしと募るばかりである。
(ほんとうに……この方の周囲には悪いものばかりだ)
羽虫も囀り鳥も、自分も。
けれども、自分は決して傷つけるようなことだけはしないから、とミランは言葉にせぬまま思う。
「ミラン……?」
「いいえ、なにも……なにもかも、あなたの思う通りです」
不思議そうに首を傾げるレオナールの背中を抱きしめて、ミランは彼の耳元で囁いた。
玉座も、ルイゾンとの関係も、自分も。レオナールが望む限り望むがままだ。
どうか、この気持ちがレオナールにとっての毒にならないように。
願いを込めながらレオナールの耳に口付けて、ミランは鏡に映る彼を見つめた。レオナールの心を見失わないように真っ直ぐ。決して逸らすことなく見つめ続けた。
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