tokeyukumikan
2025-05-05 13:17:19
9638文字
Public ヒスムル
 

お互いさまとは言いたくない

捏造もりもりの7️⃣ヒムが相棒やってる世界線のあれこれ。
止める前に走り出しちゃう⛈️と止めても止まらねぇ🌇の話
互いの手綱を握りあってわちゃわちゃしてる7️⃣⛈️🌇が書きたかった

 待てやゴラァ!!という突然の怒号に顔を上げたところで視界が濃い緑に侵食される。容疑者を引き渡すために必要な書類にサインしていた手を止め、自分と同じだがややくたびれたセブン協会のジャケットを顔から剥がすと、多少身軽になった相棒の怒り狂いながら拘束を振り切った容疑者の一人を追う背中が見えた。少し手前では、逃走した容疑者を拘束していた同僚の一人が血の滴る前腕を押さえて蹲っている。
成程、と状況を把握して小さく頷いたムルソーは、負傷者の背を支える別の同僚に持っていた書類を半ば押し付ける形で手渡し、投げつけられた相棒のジャケットを数秒無言で見つめ、溜め息と共にそれを肩に羽織りながら口を開いた。
「ここを任せてもいいだろうか」
「え、あぁそれは構わないが追うのか?」
「ヒースクリフが既に追跡を開始している」
「そうじゃなくて、あの野郎義足に仕込み入れてやがったんだ。生身じゃ逃げられちまうんじゃないか?応援を待った方が、」
「把握している。問題はない」
 不安げな同僚の言葉を遮ったムルソーはそのまま背を向けて、おい!?と動揺しきった制止を無視し逃走方向とは真逆の進路をとって歩き出す。背後から聞こえた方向音痴にもほどがあるだろ!?という見当違いな叫びを訂正しても良かったが、説明する時間も必要性も感じなかったので反応しなかった。



 薄暗い路地を通り抜け少し広い通路に出たところで、言い争う声と殴打の音が響き、ガシャン!と金属が何かにぶつかるけたたましい音の後「よっしゃあ!!」という聞き慣れた男の勝ち誇った声が続く。
声のする方へと歩みを進めれば、逃走した容疑者の背に馬乗りになって「くそったれ」「手間かけさせやがって」「ざまぁみろボケが」などと呼吸を荒らげつつ吐き捨てているヒースクリフの姿が見えた。全力疾走の余波が残っているのか、歩み寄るムルソーに気がついた様子はなくぜぇはぁと大きく肩を上下させながら「こいつ一人くらい、やってもバレねぇか?」などと不穏なことを呟き出した辺りで声をかける。
「可能な限り全て生け捕りにしろ、という依頼だったはずだが」
「!?」
 声に反応してぱっと跳ね上がった顔に元からある以外の傷は見当たらなかった。何故か鼻の頭に盛大に煤をつけていることだけ気になったものの、洗えばすぐに落ちるだろう。その前にうっかり顔を拭って被害が拡大する可能性はあるが。
 知覚していなかった第三者の介入に一瞬警戒に彩られた紫の目が、ムルソーを認識して険がとれ子供のようにまぁるく見開かれるのを他所に、ヒースクリフが再び拘束した容疑者の男を見下ろす。背中の真ん中に膝を強く押し込まれた挙句、後頭部を掴んでそのまま地面に叩きつけられたであろう男は、それでも何とか逃れようともがいていたが、トドメのように義足の接合部分である膝にヒースクリフの剣を突き立てられていたので二度目の逃走が叶わないことは明白であった。だというのに往生際悪く足掻くのを止めない男の足元に立ったムルソーは、機械の膝の隙間に深々と突き立てられた剣の柄を握り地面に突き刺さった分だけ少し持ち上げ、脹脛にあたる部分に足を乗せてそのまま剣を自分の方へと勢いよく引き倒す。ばつんっという裁断の音と男の悲鳴が重なり、膝上と膝下で綺麗に分断された義足の火花を散らす接合部を眺めていると、「おい」と低く呼びかけられたので視線を向けた。
 子供のように丸くなっていた紫色が、何故か不機嫌そうに小さく眇められていて、その理由がわからずムルソーは首を傾げる。
?動力源は断った。こうすれば少なくとも、走って逃げるという意思は削げる」
「そこじゃねぇ」
「??生け捕りに、という依頼にも抵触はしていないはずだ」
「そこでもねぇ。つーかこいつの足のことなんぞくそどーでもいいわ。魚にでも食わしとけ」
「鉃屑を食す魚類は近郊に生息していないし、これも一応証拠品の一部になる」
「ただのたとえだろうが食いつくんじゃねぇよ!!そうじゃなくて、」
 直近で心当たりのある事柄について説明してみたもののどうやら外れたようで、募る苛立ちにやっと整いはじめた呼吸をまた乱しだしたヒースクリフをただ見つめていると、ふーと深く鼻から息を吐き出した彼は立ち上がり際に既に虫の息の容疑者の後頭部を張り倒して昏倒させ、黙ったまま動向を見守るムルソーの眼前に指先を向けた。
テメェ、何でここにいる?」
「バディを組んでいる君が単独で逃走犯を追跡し、現場の人員は十分であったため君の補助を優先すべきだと判断した」
「聞き方が悪かったか?何で『俺たちが向かっていた方向から』のこのこ歩いて来てんだって言ってんだよ」
 それを聞いたムルソーはぱちぱちと何度か瞬きをして、なんて事ないように平然と答える。
「推測した結果、ここに辿り着いた」
端折るな、もっと言え」
「逃走者の進行速度と君の身体能力、思考の癖などを総合的に分析した結果、この場所を君たちが通過するのが最も可能性が高いと判断した」
「俺のことはともかくあの野郎の分析まで完璧に出来たってのか?よく分かんねぇ義足までつけてたってのによ」
「あれは彼に誂えられたものではなく、路地で拾ったか他者から奪ったもので左右差が顕著で、片足は生身であることから長時間の使用を考慮していない。かつ日ごろの手入れも杜撰だったのか逃走した瞬間から接合部が軋むノイズが聞こえていた。中の部品が錆びついているのだろう。それから、」
「長ぇきめぇうるせぇもういい」
 一個聞いたら千返ってきやがる、と詳細な説明を求めたのはそちらなのに鬱陶しそうに眉を顰めてムルソーを遮ったヒースクリフは、ムルソーの肩から自分のジャケットをむしり取るように奪い、ついでと言わんばかりにその広い肩を拳で殴ると、突然の暴力に眉間に皺を寄せたムルソーを睨みつけながら口の端を歪に吊り上げた。
「次はテメェが馬鹿みたいに走れよ。優雅にコーヒーでも飲みながら追っかけるから」
 そこでようやく、ヒースクリフの不機嫌が彼の労力と時間を消費してムルソーが楽をした(とヒースクリフが受け取った)、という不公平感から来るものだと察したムルソーだったが、それは違うと首を振る。先程とは違って今は訂正する時間の余裕があった。
「私が君に命令した訳ではない。逃走に気づいた時点で君は既に走り出していただろう」
「だけどテメェの分析力とやらなら、テメェも全力で追っかけてたらもっと早く俺たちと合流出来てたんじゃねぇの?」
「不可能ではなかった」
「ほらな!」
 自分の予想が当たったことに鼻を鳴らしたヒースクリフの機嫌が少し上昇したようだったので、ムルソーはそれ以上このことについての反論は無駄だと判断し口を噤んだ。ヒースクリフの能力がムルソーの想定より優秀であったので、補助に向かい辿り着いた時には既に容疑者は確保されており、ムルソーの存在は蛇足であったと、君一人で解決できた事柄だったと、ヒースクリフが聞けば嫌味か?と言いつつむず痒そうに喜んだであろう見解を、全部飲み込んで。
 犬じゃねぇんだぞ全く、と零して視線を逸らして唇を尖らせたヒースクリフが再びこちらを向いた時には、紫色の両目に不機嫌の残滓はなかった。けろりとした様子で取り返したジャケットを羽織り直し、昏倒したままの容疑者の膝下を持ち上げて肩に乗せたところで立ち尽くしたままのムルソーを振り返る。
「あとはお前が持てよ」
「確保した君が連行すべきでは」
「テメェが増やした荷物持ってやってんだろ?」
「昏倒させたのは君だ」
「黙って運ぶか『無駄に走らせてサボってごめんなさい』って言うか選べ」
「サボってない」
「じゃあ運べ」
「無駄でもない」
 しつけぇ!と吠えたヒースクリフは打って変わって何故か楽しげで、その理由がやっぱりわからないムルソーは、それでも不機嫌でいられるよりはいいと黙って従うことにした。膝下分だけ軽くなった男を大人しく担ぎ上げるのを見たヒースクリフが機嫌良さげに歯を見せて笑ったので、どうやら対応は間違っていないようだと思った。
 その後汗で身体の冷えたらしいヒースクリフが盛大なくしゃみの後鼻を擦ってしまい、ムルソーの懸念通り煤の被害が拡大したことを詰められたことには納得していない。今も。



 そんな記憶を思い返しながら、これは果たして彼の言う『次』にあたるだろうか、と向けられた銃口を見ながら考える。ムルソーは馬鹿みたいに走ってはいないし、おそらくヒースクリフはコーヒーを飲んで追いかけてきてはいない。確認は出来ないが。
 己の人生の生きづらさを社会へと転嫁した男が選んだ手段は爆破だった。不仲な両親がいる実家、自分を虐げる職場の上司の自宅、振られた恋人がよく行くカフェと私怨に満ちた標的は段々とエスカレートしていき、最終的に無辜の人々を大勢巻き込む形まで肥大した。
 ムルソーたちが所属するセブン協会に依頼が来た時には既に犯人候補の中に男の姿はあったものの、確たる証拠を見つけることが出来ず調査は長引き、その間も犯行を成功させ続けたことは、男の自身の能力は社会にもっと認められるべきだという歪んだ承認欲求を満たしたのだろう。自尊心は膨れ上がり、ムルソーたちを挑発し出し抜くことが目的にすり変わって、もっと大それた、人々の注目を集める大きな事件を望むようになった男からは、当初の臆病から来る慎重さは失われ、そして暴走した。
 興奮で揺れる銃口をこちらに向けたまま、もう片方の手の中に握った爆弾の起爆装置を掲げて男は吠える。町中に爆弾を設置した、路地にも、フィクサー事務所にも、一般の民家にも。お前たちでは全ての被害を食い止めることは出来ない、だから自分に許しを乞い、負けを認めるべきだと口端から泡まで飛ばして恍惚と叫んでいる。ムルソーは身じろぎ一つしなかった。しかしそれは恐怖や緊張のせいではなかった。ふらふら揺れる銃口から視線は逸らさなかったが、端的に言ってしまえば、少々飽きがきはじめていた。この茶番に対して。
 三回目にもなる『自分の人生がいかに不条理なものであったか』の語り出しを男が口にしたところで、ムルソーは右の掌をすっと上げて見せ「黙れ」の意思を示した。ここに踏み込み銃口を向けられ、男が好き勝手己の持論を振り翳すのを約七分間もの間聴き続けたムルソーの初めての挙動に男は黙り、まるで目の前に立つ存在のことを今初めて人間だったと気づいたかのように狼狽える。対するムルソーはどこまでも平坦に男を見返した。平坦で、落ち着き払った、目の前の人間に欠片も興味のなさそうな空虚な眼差しで。
「発言しても良いだろうか」
「な、なんだよ」
「まず、貴方が我々を撹乱するために設置した偽の爆弾は既に回収を終えている。残りはこのビルに設置した本物だけだ」
……え」
「爆弾の位置を特定する時間はなかったが、私と貴方以外の住民を避難させる時間は稼げた。貴方がお喋り好きなおかげで」
ハッタリだ!そうやって僕を騙そうとしてるんだろう!!そもそもいつから偽物だって知った!?精査する時間なんてなかったはずだ!!」
「貴方の犯行声明が出た瞬間からだが?」
 何をそんな当たり前のことを聞くのだろう、と言いたげな仕草で首を小さく傾げて見せるムルソーに、男は狼狽を隠せず口をぱくぱくと開閉させ言葉を詰まらせる。
「爆破予告が出される前に、貴方が入手した爆弾の材料とそれらで製作出来る総数の予測は済んでいた。威力を抑えて個数を限界まで増やしたとしても、貴方が望むような被害を与えられる場所は半数にも満たないとわかった。そして貴方の『自身の能力を証明したい』という動機を考えれば、威力を抑えて小火程度の被害を複数出しても意味はない。よって、最大限の被害を出せる場所に捜査を絞り、私の担当箇所であるこのビルに貴方の姿を確認した時点で住民の避難指示を出した」
「そんな、全部、確証のない推測じゃないか。ここに僕が来たからって、爆弾がここにある保証なんてない、僕も死ぬんだぞ」
「それが目的ではなかったのか?」
 ムルソーは目の前の銃口が不安定に揺れる様を見て、自分の言動によって男が酷く混乱し、追い詰められているのを理解していたが、追撃の手を緩めるつもりは微塵もなかった。興味のない身の上話や恨み言を堂々巡りで聞かされていた先程よりは、狼狽し得体の知れない怪物を見るような目を向けられている今の方が、いくらか楽しめそうだったから。
「貴方の犯行は当初自分を虐げ正当に評価しなかった者たちに向けられたものだったが、最終的には貴方を追う追跡者を出し抜き、その信頼を貶める方向にシフトしていた」
…………
「このビルは私たちの事務所からそう離れていない。目と鼻の先にある場所で最大の被害を出した上で被疑者死亡となれば、大衆の怒りは私たちに向くことになるだろう」
 退屈な七分間に、何度も何度も男が繰り返していた「見返してやる」「後悔させてやる」という言葉を思い返しながら、嫌になる程饒舌だった男が唇を噛み締めて沈黙し、握り締めた銃の引き金にじわじわと圧がかかり、いつ火を吹くかわからない銃口に目を細めながらムルソーは続ける。
貴方個人の分析については、私の相棒の方がより正確だろうな」
 虚空を澱み見開いた目で凝視していた男の視線が向き直るのを待って、ムルソーは抑揚のない無慈悲さで言った。
「『自分が世界に必要な存在だと思い込みたい負け犬』」
 青ざめていた顔に瞬時に熱が集まり男の顔が真っ赤に染まる。
『お前が思うより、お前は賢くない。勝ち負けの土俵にすら立ってない』」
 銃口の揺れがぴたりと止まった。ドス黒い顔色になった男が明確な殺意を持ってこちらの眉間に真っ直ぐ照準を定める。抑止力だった銃が凶器に変わったことに気づいていながら、ムルソーはなお恐怖を抱かない。指先一つで命を絶つそれが、自分に放たれることはないと知っていた。猟犬の足音が聞こえていた。
 だからムルソーは淡々と、崖っぷちに立つ男に唯一残された自尊心にとどめを刺した。
「『お前の不幸は結局、全部お前の責任でしかない』」
 黙れ、と力の限り吠えた男が怒りのまま引き金にかけた指先に力を込める。乾いた破裂音、閃光、きん、という一瞬の耳鳴りが治った後一拍を置いて、どさりと質量のある物体が倒れ込む音がビルの一室に響いた。
 剥き出しの灰色のコンクリートの床に、じわじわと広がる赤色を見下ろす緑色が、ほんの少し満足げに細まる。眉間の中心を後頭部から綺麗に射抜かれ事切れた男から視線を外し、ムルソーはまっさらな賞賛を口にした。
「腕がいいな」
 弾丸が都市でも安価であったなら常用してもよかっただろう、と続くはずだった言葉に、返ったのは無言とかつてないほど冷えた怒りに満ちた相棒の紫の視線だったので、ムルソーは本当に珍しく純粋な困惑で口を噤んだ。その瞬間に理解出来たのは、どうやら今度は死体を運ぶ程度では許されないだろうということだけだった。



 男の自白を記録した録音機を提出し、被疑者を発見後単独で先行したことなどをウーティスとファウストに詰められ、とりあえず今日は帰ってもいいと解放されたムルソーが荷物を取りに自分のデスクまで向かうと、本来は向かいのデスクの住人であるヒースクリフが堂々と天板の上に尻を乗せて座りこんでおり、無言のまま近づくムルソーを睨みつけていた。彼の下敷きになって皺になっているだろう諸々の書類に眉を顰めながら、ムルソーはデスクに腰掛けたまま睨み上げてくるヒースクリフの眼前に立つ。
 そのまま数秒の沈黙が流れた。話があるわけではないのか?とムルソーが小さく首を傾げて見せるとヒースクリフは片眉を跳ね上げて反応したが、口は固く閉ざしたまま開く様子はない。
 すぐ側に転がった被疑者の死体に目もくれずムルソーの胸ぐらを掴み上げた時の怒りが、珍しいことにまだ続いているようだった。突発的な怒りの発露が常の男だが、それが長い間尾を引くのは珍しい。大抵はその場で大小様々な暴力と共に解消してしまうのだが、それが対象であるムルソーに向かう前に他のフィクサーたちが部屋に雪崩れ込んできてしまったので消化不良を起こしているのかもしれなかった。
「殴りたいか?」
「あ゛?」
 とりあえず最短でヒースクリフの怒りを鎮められる可能性の高い提案は、眉間の皺が深まり鋭い犬歯を覗かせて低く唸るように返答されたことにより却下される。何言ってんだ馬鹿かお前?という怒りと呆れの入り混じった視線を受け、少々不服に思いながらムルソーは再び思考に沈んだ。
 良い意味でも悪い意味でも短絡的な思考を持つヒースクリフのやり方にしては遠回りな怒りの向け方をされている。顔も見たくないほど機嫌を損ねたから無視をしているのだと思っていたが、彼はわざわざここでムルソーが戻ってくるのを待っていた。ムルソーのデスクに見せつけるように腰掛けて、彼を無視して帰宅出来ないよう未処理の書類たちをわざと踏みつけながら。
 自身が怒っていることを理解させたいようだ。そして、何かを自分に求めている。暴力ではないことは先程確認した。ならば何を?思考に沈んだまま視線を正面に向けると、ゆらゆらと怒りを燃やす紫の目とかち合う。その色が、あの埃と血の匂いに満ちたビルの中で向けられたものと異なることに気づいた。沸騰寸前の強い怒りを内包しながら、感情の一部を凍り付かせたように冷え切った眼差し。そんな目も出来るのか、と考えたことを覚えていた。今にも溢れ出しそうな感情を煮え立たせたままムルソーの胸ぐらを掴み上げた左手は、血管が浮き出るほど力を込めすぎて震えていた。階段を駆け上ってきたのか呼吸を荒げて、額に汗を浮かべ、必死に。
 必死だった、と思い立ったところで、被疑者を見つけた直後報告のために繋げた無線越しに「一人で行くな」と怒鳴った声を思い出し、その声も今思えば初めて聞いた声音だったという思考のまま、ムルソーはことりと首を傾げて口を開く。
……心配を、かけてすまなかった、?」
 確信に至らないまま口に出した言葉にムルソー自身が戸惑う前に、ヒースクリフの両目がいっぱいに見開かれて口もぽかりと間抜けに開いたまま固まった。びっくり、を絵に描いたような顔で自分を見上げるヒースクリフにこれも違うか、とムルソーの意識が再び内側に向かいかけたが、彼が盛大な溜め息と共に片手で顔を覆い俯いたことで意識はそちらに集中する。数秒下を向き喉の奥で低く唸り声を上げて、顔を覆った右手でそのまま自身の前髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、鋭い舌打ちの後再びムルソーを見上げた紫色の視線に、先程まで渦巻いていた怒りの揺らぎは見られない。代わりに幼い子供を叱る時のような、呆れと庇護が入り混じった半目が向けられていた。とっくに成人している自分が何故そのような視線を向けられるのかわからず眉間に皺を寄せたムルソーに、ぐしゃぐしゃにした髪を適当に撫でつけながらヒースクリフは「お前なぁ」と呆れた声で言う。
「なんで疑問系なんだよ。謝る体なら上っ面だけでもそれらしくしとけば良いだろ」
「確信には至っていなかった」
「よくわかんねぇけどとりあえず謝っとけって?」
「謝罪の意思に偽りはない」
「理由はわかってねぇんだろ」
「君自身も、怒りの理由がわかっていなかったのでは?」
 それも推測に過ぎなかったが、痛いところを突かれたようにヒースクリフが渋い表情で押し黙ったので間違いではなかったようだ。正しい思考の道筋に乗れたムルソーの脳がくるくると滑らかに回転し始める。
「一人で行くな、という制止を私は聞かなかった。問題ない、という答えだけでは君の懸念を払拭出来なかったようだな」
「うるせぇちょっと黙れ」
「被疑者の追跡を優先し君への報告を怠ったことは私の落ち度だ。そのことで君の心配を煽ったことは認めよう」
「黙れって心配なんかしてねーよ!」
「その前提を否定すると君の抱いていた怒りの理由が不明瞭になり、私をこの場に引き留める理由も同時に消えるが」
 淡々としたムルソーの返答にヒースクリフは反射的に何か言いかけて、しかし何も言えないままぐっと押し黙り、悔しげに歯噛みしながらムルソーを睨み上げた。反論を思いつかなかったようだった。それらしくしとけ、という数秒前の呆れ声は記憶に新しい。
 怒り、という彼の最大の原動力が萎び場の主導権を失ったヒースクリフが右往左往する感情を抑えきれなかったのか揺らした脚が、デスクの棚にぶつかる音が静かな室内に響く。ムルソーはその音で、男の眉間を綺麗に撃ち抜いた弾丸の軌道と、振り返ったほんの一瞬に彼の顔に浮かんだ、恐怖にも似た安堵の表情を思い出していた。
「心配をかけた」
 ムルソーはもう一度同じ言葉を繰り返した。先程よりはっきりとした口調で。居心地悪そうに逸らされていた視線が戻る。
 ヒースクリフの怒りを、ムルソーは正確には理解出来ていない。確かなことは、ヒースクリフは身内と認識した相手に情をかけるということだ。ムルソーが想定していたよりも強く。なのでムルソーは真摯に謝罪する。五体満足で二人でここに立っている以上彼の不安も心配も杞憂であったが、それは結果論に過ぎず、そうさせたのは確かにムルソーであったので。
 不意にネクタイを引かれたムルソーが咄嗟にヒースクリフが腰掛けるデスクに手をついて上体を支えると、鼻先が触れ合うほどの距離で真っ直ぐに互いの視線が交わった。チカチカと奥底で火花のような光を散らす三白眼に、いつもの顔の自分が映っているのを眺めるムルソーに、ヒースクリフはまるで手綱のように握ったネクタイをぐっとより己の方に引き寄せて言う。
……二度とやるなよ」
「何を」
「俺が待てって言ったら止まれ、行くなって言ったら行くな。難しい話じゃねぇだろ」
 それに答えを返す前にヒースクリフは掴んでいたネクタイごとムルソーの胸をそれなりの強さで殴りつけるように押し退けてひょいっと立ち上がった。突然の暴力とくしゃくしゃにされたネクタイを見下ろして眉間に渓谷を築くムルソーに構わず、ぐっと上体を伸ばしながら事務所の出口へと足を向けたヒースクリフは、先程までの問答などなかったかのようなけろりとした様子で留まるムルソーを振り返る。
「何突っ立ってんだよ、もう用ねーんだろ?」
「ここに残ってまで片付けなければならない案件はない」
「んじゃ、さっさと帰ろーぜ。腹減った」
 ピザでも頼むか、お前の家でいーよな?と夕食とその場所すら承諾なく決めて、拒まれるなど微塵も考えていなさそうな邪気のなさで答えを待つヒースクリフに、ムルソーは皺のついてしまったネクタイを外してジャケットに仕舞いながら言った。
「君が奢ってくれるなら」
 本当にそうして欲しいわけでもない戯れのような返答に、ヒースクリフは流れるように中指を立てながら『NO』を返して笑った。機嫌はどうやら悪くないようで、これ以上引きずるつもりもないらしい。なのでムルソーもそれに倣って思考を切り替えた。当初の目的であった荷物をやっと手にして、先を歩く腹を空かせたヒースクリフが、自分の家の食卓をピザ以外の食べ物で埋め尽くすのを阻止するためにくるくると思考を回しつつ彼の後に続いて事務所を後にした。

 申し訳ないとは言ったが、「二度とやるな」にムルソーが肯定を返さなかったことをヒースクリフが後悔することになるのは、もう少し先の話だった。