お湯を注いで蓋の上に箸を乗せて三分。それだけで一食出来上がるのだから、カップ麺というのは偉大だ。都会に来てから感動したもののうちの一つがレトルト食品だが、特にこれには一番驚いた。少々味が濃いがそれも魅力である。なんにせよ、空腹を手早く満たせるのだから、それに勝るものはない。
深夜、共有のダイニング。一彩はキッチン部分だけ電気をつけて、インスタントな夜食が出来上がるのを今か今かと待っていた。
星が瞬き月が空に浮かぶ夜更け、いつもの一彩なら、というか大体の人間は寝ているような時間になぜ起きているのかというと、次のイベントに向け少し調べ物をしていたからだ。色々なモチーフが散りばめられた衣装を着るということで、その一つ一つの意味を調べていた。どれも由縁が興味深く、本題から逸脱して様々な書籍を読みふけってしまった。幻想的な小説、あるいは学術的な文献のページを捲る手は止まらず、ようやく現実に戻ったのは、もうとうに消灯時刻を過ぎた頃だった。
机の上に積み上げた本を棚に返して、そのまま部屋に帰っても良かったのだが、暗い廊下を歩いている時にふと、部屋での会話を思い出した。
ニキとひなた曰く、夜中のカップラーメンというのは背徳の味がするらしい。
入り口に近いダイニング部分の照明を点けると、ここでこそこそ夜食を食べようとしているのがバレてしまう。なのでそっち側はつけていないが、キッチンの照明で明かりを賄った。
一方向からの光を浴びて妙に感傷深い陰影がついたカップ麺のパッケージ。時計の秒針はまだ一周半。三分は、何もしないで待っていると少し長く感じる。周る針を眺め、そわそわして待つ。
あと半周くらいまで来て、もうすぐ食べられると腹の虫と内心はしゃぎあっていると、何者かが部屋に近づく気配に気付いた。壁向こうからビニール袋の音が聞こえるのは、一彩の耳が良いからだ。
がちゃ、と扉が開かれたそこには、やっぱり思った通りの人影。
「兄さんっ!」
「うわっ、なんでいンだよお前……」
「夜食が出来上がるのを待ってたんだ!兄さんは?今帰ってきたの?仕事?それとも」
「あーうるせーうるせー!ちったぁ落ち着け!」
まさかこんな時に会えるなんて思っていなくて、露骨に顔を歪めた兄に駆け寄り、飛びつこうとする。深夜だからと声量は落としていたはずだが、それでもうるさかったのか、はたまた恥ずかしいのか、懐に飛び込む前に肩を掴まれて引き剥がされてしまった。兄の腕でガサガサと揺れている白いビニールの中にはペットボトルと、今し方自分が食べようとしていたものと同じようなパッケージが覗く。隠そうともしていない嫌そうな表情を見上げた。
「何か買ってきたんだね、晩ご飯?」
「そうだよ、悪りィかよ」
「ううん、僕も夜食を食べようとしていた」
テーブルに置いてきぼりにしてしまったものを指差すと、へぇ、と少しだけ目が細められる。その視線はカップ麺から壁の時計へ巡った後、再びこちらへと戻ってきた。
「弟くんも飯食いっぱぐれた感じ?」
「まあそんなところだね……あっ」
「あ?」
この短い間にすっかり頭から飛んでいたカップ麺の完成時刻。もう数十秒前に過ぎていることに気がついて、話の途中にも関わらず素っ頓狂な声を上げてしまった。慌ててテーブルに戻ってカップの中の様子をみるが、特に変哲もなく、見るも美味しそうなカップラーメンが出来上がっている。ほっと胸を撫でおろして蓋を全部めくり取ると漂う、美味しそうな醤油と人工的な脂の溶け込んだ香り。思わず頬が緩んでしまう後ろからひょいっと覗き込む影が手元に落ちる。
「あぁ、もう作ってたのか」
「ウム。放っておいたらお湯を吸い過ぎて伸びてしまうから、時間は必ず守ることって言われていたんだけど……大丈夫かな」
「そんくれぇなら大丈夫っしょ」
なに心配してんだか、と言って、兄はキッチンの電気ポットに近づく。何やら平べったいパッケージの包みを破いて、つい数分前の自分と同じようにお湯を注ぎ、箸を手に戻ってきた。どこかに行くのかと思ったら、そのまま目の前の椅子に座った。思いもよらない展開に戸惑っていると、不思議そうに見つめられる。
「弟くん食わねぇの。できたんだろ」
「あ、ああ……うむ、いただきます」
促され、困惑しつつも箸を手に取り、箸先を入れて少しほぐしてから口をつけた。
醤油の味と塩味の強いスープが絡んだ麺は、複雑な味はしないが空腹にガツンと来る旨味がある。健康に悪いと言われることもあるが、疲弊に塗れる現代社会に生きる者として、この強い味覚が欲しくなるのも頷ける。手軽に出来ることもあり、食事の作法に気を払う上品さもついつい無くなってしまうが、それも良いところの一つだろう。
夢中になって大きな一口分を啜ってもぐもぐ咀嚼していると、正面から視線に気付く。頬張ったものを飲み込んでから、その主に尋ねた。
「なにか、おかしいかな」
「いや?こんな夜中にカップラーメンなんて、弟くんも悪くなったねェ。晩飯は?」
「食べそびれたんだ。さっき自分で聞いてきたじゃないか」
おかしなことを聞く。同じような問答を繰り返す意味はわからないが、素直に答えて麺を啜った。
「仕事?」
「うーん……仕事で着る衣装のモチーフについて調べていた」
「ふゥん、真面目なこった」
「僕は知らないことが多いからね。ブックルームで色々と読んでいたら、いつのまにか消灯されていて、お腹が空いていた」
「一個のことに集中したら視野狭くなるからな、お前」
「ふふ、そうだね。悪い癖だ」
「悪かねェけど、加減を知れって話。寝食忘れてお勉強なんて、頭おかしくなっちまう」
「そうかな」
瞬きで頷いて、兄はチラッと時計を見た。まだ待ち時間は過ぎていないらしい。テーブルに頬杖をついて他意なく見つめてくる顔は、手の甲で頬がむにっと潰れている。それがすこし可愛らしく思えて笑ってしまうと、怪訝な目がなんだと問う。
「なぁに笑ってんだァ?」
「いや。兄さん、顔柔らかいんだね」
「はァ?なに、いきなり」
「なんだか可愛らしく思えてしまって……ふふ、ふっ、はは、あはは!」
「え……マジで何」
「ごめ、ふふっ」
「……疲れてんの?弟くん壊れた?」
怪訝そうな顔に困惑と、ほんのちょっとだけ心配そうな色が混ざる。弟がなにか変なツボに入ってしまって、食べるのも忘れて笑いだしたら、そりゃそうもなるだろう。
確かに疲れているのかもしれない。ネジが二、三本飛んだのかもしれない。それは元からなのかもしれないが、夜中に間食しようだなんて発想に至るくらいだ。なにかいつもと違っても仕方ないと許してほしい。
ひとしきりくすくす笑っているうち、兄の方も出来上がったのだろう。眉をひそめたまま、箸で押さえていた蓋をぴーっと捲り取る。
「兄さんはそれ、晩ご飯?」
「そ、撮影押しちまってさァ。ニキ今日いねぇし」
「あぁ、そういえばそうだね」
同室であり、そして兄がいたく気に入っている彼は昨日から二泊で地方ロケだ。なにやら幻の食材を探しにいくらしく、絶対に見つけるのだと息巻いて出立するのを見送った記憶は新しい。
「飲みには行かなかったの?」
「そりゃ行きてェのは山々だけど、明日朝から用事あんだよ」
「そうか。飲んできたんじゃなくて安心した」
「あのな……俺っちが毎日酒飲んでるみてェな言い方すんな」
「分かってるよ。でも今してることも不健康に変わりはないよね?耳に入る兄さんの噂がこんなのばっかりなんだったら、僕だって小言くらい言いたくなるよ」
兄に関しては聞く話届く噂、全部碌なもんじゃないのだ。パチンコでスったと騒いでいる、酒飲んだ店で寝てる、SNSで炎上……最初こそ訳も分からなかったが、段々その内容が褒められたことじゃないと分かってからというもの、機会があれば軽く諌めてやろうと思っていたのだ。
ちょっとだけチクリと刺してやれば、兄は大袈裟に顔を顰めた。
「ちゃんと気使ってるって!お前に注意される謂れはねェっつの」
「それはアイドル活動に支障がない範囲だろう?僕は兄さん自身を心配してるんだよ」
「っせぇなァ……いいだろ、美味いんだから。ていうか今日はお前も同罪だろうが」
言い返しつつもバツが悪そうに目の前のカップ麺を啜る兄。
深夜の静かな空気の中で、部屋を半分暗くして即席な食事をしていると、なんだかすこし悪いことをしている気がしてちょっと落ち着かない。
「お前だってこんな時間にこんな飯ばっか食ってたら、背伸びねぇぞ」
「いつもだったらもう寝てる。今日だけだから構わないんだ。それに椎名さんとひなたくんも、深夜のカップラーメンは背徳の味がするって言ってたよ」
「お前はそれを真に受けたってこと?」
「真に受け……ちょっと気になっただけ」
本当にその背徳とやらの味がするとは思ってない。だけどあんなにも楽しそうに言われては、好奇心を唆られてしまうじゃないか。今度はこっちが恥ずかしくなって、残り少ない中身を掬う。兄はと言うと、にやにや笑って箸先を向けてきた。行儀が悪い。
「んでェ?背徳の味はするかよ、弟くん」
「……醤油ラーメンの味だ」
「まぁそんなもんだわな。ほら、お兄ちゃんの背徳もお裾分けしてやんよ」
「え、要らないよ。味が混ざる」
「いいからいいから」
「あぁぁ……」
醤油味のラーメンの中に、塩味のラーメンが一口分移される。これじゃあ塩味の方が負けてしまう。何がしたいのかと窺い見ても、平然とずるずる自分のを食べているだけ。仕方がないから、おそらくこれだろうなという麺を選り分け、兄から押し付けられた分を啜る。塩ラーメンに醤油ラーメンのスープは馴染まず、なんだかちぐはぐな味だ。
「ンだよ、そんなしょっぺえ顔して」
「合わない」
「えー、そんなに?ちょっと俺っちにも頂戴」
「うむ」
兄がしてくれたのと同じように、自分の分から兄の器に一口分移した。それを啜ると、ちょっと期待した顔はなんとも言いがたい微妙な表情に変わる。
「……」
「だから言ったじゃないか」
「不味くはねェよ」
「不味くはないよ。合わないだけだ。食べ物で遊ぶのは良くないと思うよ」
「なんだよ、物欲しそうに見てた弟くんに分けてやっただけっしょ」
「……兄さんは背徳とは縁が無さそうだ」
罪悪感がないなら、徳に背くことに価値も無いだろう。破ることへの高揚は、決まりを破ることへの忌避感と比例する。それなら、兄は背徳感なんてものからは一番遠く思える。
自分と兄以外には誰もいない部屋でそわそわする感覚や、響かないように少しひそめて行なわれる他愛もない会話のこそばゆい感覚。それをこそ背徳の味と呼ぶのなら。
「背徳の味には病みつきになってしまうかも」
「は?そんな話の流れか?」
「兄さんには分からないかもね。さて、僕は食べ終わったから部屋に戻るよ。兄さんも帰るなら、後片付けは僕がしておくけど」
「……いらね」
空になった容器を前にして席を立っていなかった様子に、手を差し出して尋ねる。釈然としない表情のまま、渡されるのを催促する手は無視されて、兄はキッチンの流しへ向かう。片付けといってもゴミの分別くらいだから、すぐに終わる。出遅れたと後ろを追って、同じように行動をなぞった。兄が冷蔵庫を漁るうちに、箸くらいの洗い物をしてしまって、横から覗き込む。
「なんか要んの?」
「いや、特に必要なものはない」
「じゃあなんで来たんだよ……」
機を逸してなんとなく離れ難くなったから、とは言いづらい。取り出したペットボトルの蓋を回す兄には誤魔化すように笑って、自分も中から飲み物を拝借し、喉を鳴らして飲む。塩分で渇いていた体はそれを美味しいと解釈した。
「うむ、これも背徳の味かな」
「ただの水だろ。変なこと言ってねェで部屋戻んぞ」
「ふふ、そうだね」
もう此処に用はない。さっさと出ようと、ダイニングの扉へ向かう。
背徳は、醤油ラーメンと水の味。そして、兄が分けてくれて混ざってぼやけてしまった塩味。
一彩は要らない知識だけを増やし、ダイニングの電気を消した。
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