nenne000
2025-05-03 22:54:23
10697文字
Public
 

In your/my space


 「漣ジュン」はアイドルである。
 家族の中だけの、ではあったが。

 塗装の剥がれたビールケース。
 買ってとねだったマイクの形をした駄菓子。
 ステージと、マイクと、それから両親───お客さん。
 それだけあれば十分だと思っていた。誰かひとりでも自分をアイドルと呼んでくれるのならそれだけでいいのだと。
 夢までの距離を知らないこどもの錯覚。黒塗りされた苦い記憶の中で微かに輝く思い出。
 遠い過去の話だった。





「────っは、こんなもんですかねぇ~?」

 紐で結ばれた雑誌の束を廊下に運び出す。いつの間にか段ボールやら何やらで埋まっていて、どうやらかなりのめり込んで作業をしていたらしい。一度集中すると周りが見えなくなるというか、視野狭窄のきらいがあるとはいつだかに日和から指摘された気がする。もうただひたすら走っているだけでも許されていたこどもではないのだと───あの頃とは違って、自分の目の前にある道はいくつも分岐しているのだと知っている。そのどれかを選び取って生きていかなきゃならないことも。
 今日のこれもその一端である。都市の中心部からは少し離れた郊外にジュンの実家はあった。ちょうど年末ということもあり、大掃除の手伝いでもしようかと出向いた次第だった。勿論、年の瀬なので番組収録からライブ出演まで仕事は毎日みっちり埋められている。それでも、そこはコンプラ意識の高さが売りの我らがコズミックプロダクションなだけあって、きっちりと休暇をとらされているのだ(嵐の前の静けさとも言う)。今まで寄り付かなかった後ろめたさも手伝って、こうして合間を縫って実家に顔を出しているという訳だ。
 軽く手を払い、大方不要なものを纏め終わった自分の部屋を振り返る。空っぽの本棚や古ぼけた学習机はそのままなのに、いやに広くなった気がするのはきっと壁がまっさらになったからだろう。幾つも貼ってあったポスターや、雑誌のバックナンバーが積まれた一角。それらを取り除いた自分の部屋は、案外普通の子供部屋のように見えた。

(なんか……普通のガキ、みたいな───)

 選べなかった人生が意外と近くにあった、とか。

……あの頃に気付かなくて良かったことですよねぇ、これは……

 選択肢があることすら知らなかったから生きて行けたのだと思う。それしか道がなかったから、そうするしかなかったから。疑問を持たずに生きていくことは苦しくても迷いとは無縁だったから、ジュンにとっては今の方がずっと難しい。それでもこうして考え続けることに意味があるのだろう。

(いつか、)

 いつか。
 信仰を捨てた己は、神さまの御加護もなにも持たないただの人間でしかない。頭を回して、選択をして、それを積み重ねた先にあるものを正解にできるように。
 膝に力を入れて立ち上がる。明日の現場の入りもなかなかに早く、まして遅刻など以ての外だ。思考はとっくに未来の方角を向いていた。
 部屋を出る。振り返ることはしなかった。





……もうっ、待ちくたびれちゃったよね!!」
「ちょ、おひいさん!ここ公共の場なんだから少しは黙れないんですかねぇ~?てか変装ぐらいしろって毎回毎回言ってますよねぇ、あんたただでさえ目立つんですから……。おひいさんといるとプライベートがプライベートじゃなくなるから落ち着けないんですけど……!」
「あはは、今日のジュンくんはよく喋るね?うんうん、いっぱいお話ができるのはいいことだね、昔のきみなんか唸るか嫌味を言うかのどっちかだけで間違えて野生動物でも拾ってきちゃったかな?って思ってたぐらいだったからね!いやぁ、人間って成長する生き物なんだね、愛おしいね……☆」
「いちいちうるせぇ……

 既にどっと疲れているジュンとは対照的に、けらけらと笑いながらのんびりとカップを口に運ぶ日和。声量も態度も常と変わりない───しいて言えば伊達メガネをかけていることだろうか(これで変装だと思っているのだ、有り得ない)───彼を見て、周囲の席の視線が突き刺さるのを感じる。絶対に気のせいではない。
 ジュンが帰省をすると言ったら「ぼくも行くね!」と確定事項のように返された昨日。目的が大掃除と知れると少し落胆したようだが、前言撤回をするつもりはなかったらしい。何にそこまで興味を惹かれたのかは分からないが、ジュンの用事が済むまで律儀にカフェで時間を潰していたそうだ。

「それにしても、よく待ってましたよねぇ。結構時間経っちまいましたし……おひいさんからまだ待ってるって連絡もらった時は驚きました」
「そう……そんなに以外?」
「だってあんた、やりたくないことは絶対やらないでしょ」
「それは当然だよね!」

 ここに着いたのは丁度昼ぐらいだったが、今外を見てみると空の端の方から赤く染まり始めていた。優に四、五時間は待たせていたことになる。出先でもジュンの都合などお構いなしに「仕事が早めに終わったから迎えに来てほしいね、五分以内!え、そんなに暇じゃない?おかしなことを言うんだね!ぼくの出迎え以上に優先すべきことなんて無いよね?」などとのたまうような普段の言動からは想像も出来ないほどの忍耐力である。

「でも、待つのはそこまで嫌いじゃないね?その先になにか眩いものが存在するなら、手を差し伸べずにじっと耐えて待つことも大切な過程だからね」
……?なんて、」

 手元に目線を落とし、ぽつりと呟かれる。辺りの喧騒にかき消され、ジュンが意味を掴もうとした頃には日和はぱっと顔を上げていた。

……とにかく、このぼくがジュンくんを待っててあげたんだからもっと光栄に思うといいね!」
「あぁはいはい、感謝してますよぉ……
「うんうん、やる気のないお返事なら黙っていてほしいね!」
「え~……

 話している間にどんどん声のボリュームが大きくなっていたらしい。店員の刺すような視線を一身に浴びつつ、日和の腕を引っ張りながら店を出た。




 なるべく大通りを避けて駅へ向かう。一応自分たちは地上波に出れるぐらいには知名度はあるので、こんなところで目撃情報なんかが出て騒ぎになったりでもしたら堪らない。裏道を選ぶとなると必然的に街灯も少なく整備もあまり行き届いていないような道を通ることになり、日和は物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回しながら着いてきていた。

「何、あんた怖いんです?どうせなら手でも繋いでやりましょうかぁ?」
「は?ぼくのことなんだと思ってるの?こういった道を通ることがあまり無かったから興味深いだけだね」
「はぁ、やっぱりお貴族様なんですねぇ。都市部から離れたり一本裏はいればどこもこんなもんですよ。薄暗いし埃っぽくて……でも人目を避けるってんならいい抜け穴でしょう、ただでさえおひいさん変装下手くそなんだしさぁ」
「さっきからずっと失礼だね!このぼくの輝きを隠す必要性の方がそもそも無いよね?」
 
 日和と話しながら路地裏を進む。ここを右に、今度は左に。駅までの地図を脳内に浮かべながら進む方向を選び続けていた。ここら辺は通りが多く入り組んでいて、一つでも違う箇所で曲がると変な道に出てしまうのだ。正直、とっくに陽が落ちたこの時間に薄暗い裏道を歩き続けることへの心細さも多少あったが、日和が声を発しているだけで全く気にならなくなるから不思議だ。灯りなんて無くともきらきらと周りに光の粒でも散っているようだった。
 隣を歩く日和を見る。彼は光源も無いのに眩しかった。いつだって───こんな見窄らしい場所にいたってそうだ。少しも汚れてなんかくれない。
 自分の手元に目を落とす。辺りが暗いから当たり前だが、指先の輪郭はほとんど闇に溶けてしまっていた。こんなに近くにいるのに、どうしてこうも違うのだろう。どこまでいってもジュンは月でしかなかった。太陽の光を反射してようやく輝く月。

(おひいさんは、アイドル)

(オレも、アイドル……多分)

 アイドルになりたい。
 日和に拾われた今だってずっとそう思っている。"それ"になれないのならこの先どうしたらいいのか分からないから。

……あ、」

 足が止まる。ひとつ足音が消えたことに気付いたのか、暫くしてもうひとつの足音も緩やかに止まった。
 見つけたのはビールケースだった。多分どこかの居酒屋のものだったのだろうが、用済みとなり適当に放られ道の隅に転がっていた。メーカーロゴの塗装も剥がれ、全体的にすっかり色褪せて所々に傷も入っている。何の変哲もないそれに引き寄せられるように近付いた。

『おとーさんおかーさんはやくー!ライブはじまるよー!』

『きょううたうのはねー、───』

 ビールケースは昔のジュンにとってステージそのものだった。家の掃除をした時に物置にも押し入れにも、どこにも無いことに気付いてはいたがどこにあるのかと尋ねることは出来なかった。場所も取るし年季も入っていたし、きっととっくに捨てられているのだろう。それでも、あの頃の自分にとっては古ぼけたビールケースの上だけがアイドルになれる場所だった。幸せそうな両親の笑顔を一身に集められる場所。世界でいちばん綺麗な場所。ステージが無いのならアイドルにはなれない。家族のアイドルだったいつかの「漣ジュン」はもう自分の中にしか存在しないのだと示されたようで、どうしても聞くことが出来なかった。

(あぁ、思い出しちまいましたよ……ガキの頃の記憶。こそばゆくて生温い、バカみたいな思い出……

 昔の自分は紛れもなくアイドルだった。そういう生き物だった。だからだろう───性懲りもなくステージに惹かれてしまうのは。
 恐る恐る足を乗せ、バキリと音がしないことを確認してから体重をかけていく。両足を慎重に乗せて立ち上がり後ろを振り返ると、日和はただじっとこちらを見つめていた。今までの喧しさが噓のようで、こういうことはままある。大抵何かを見極めようとしている時だった。

(おひいさんは、どう思うんだろう。ステージに上がった漣ジュンを見て……

 本物のアイドルだと、そう思ってくれるのだろうか。

「ねぇ、おひいさん。……オレってアイドルだったんです。家族の中でだけの、でしたけど」

『ねー、ちゃんときいてたっ!?』
『ああ、聴いてた聴いてた。……はは、すっかりアイドルだなぁ、ジュン───』

 いつかの記憶。
 親父がどこかから拾ってきたビールケースの上に立ち、マイクの形をしたラムネのケースを握っていた。両親が喜んでくれるから歌っていたのは佐賀美陣の代表曲ばかり。歌詞は飛び飛び、音程だってちぐはぐだったが、そんなことは気にも留めずに両親はジュンだけを見て笑っていた。それがまた嬉しくて、毎日のように歌を披露していた気がする。
 脈絡なく零れてしまった言葉だったが、日和は何も言わずじっとジュンを見上げていた。

「アイドルになれるんだって、ガキの頃の自分は疑うこともしませんでした。……はは、とんだ大馬鹿者ですよねぇ、結局親の欲目越しでしかアイドルになれなかったのに……

 ジュンは家族のアイドルだった。それだけのただの人間だった。
 日和に路地裏から連れ出され、訳も分からないまま着いていく内にいつの間にか"アイドル"になっていた。なってしまった。選ぶことを知らないで生きてきたのに、日和はいつだって「きみはどうしたいの?」と問うてくる。どうしたいかなんて分からない。アイドルになれればそれだけで良かったからだ。だからそれすらも叶わないなら、本当にこの命に価値なんて無いのだ。

「───あんたの目に映る漣ジュンは、本当にアイドルですか?」

 アイドルになりたかった。死ぬほど。なれるのならどうなってもいい。スポットライトに選ばれるような、そんな特別な人間になりたかった。
 光明みたいなひとに問いかける。煩わしい屈託を吹き飛ばしてジュンをステージまで連れてきてくれた、眩しく尊い太陽。
きっと今の自分は縋るような目で彼を見ているのだろう。黙って話を聞いていた日和はゆるりと瞬きをし、ようやく口を開いた。

「さっきからぐだぐだぐだぐだ、何を言ってるのかさっぱり分からないね?」
……は?」

 心底呆れたとでも言わんばかりの、これまでのジュンの告白に不釣り合いなほどあっさりと投げられた言葉だった。

(結構オレ真面目な話してませんでした!?マジで信じらんねぇこのひと!!)

 思わず剣呑な視線を向ける。それを受け取ったであろう日和はジュンの憤りなどどこ吹く風といった様子で一歩、また一歩とこちらに近づいてくる。微かに点滅を繰り返していた防犯灯はばちっと音を立てたのを最後に消えてしまった。誰もいない暗闇の中、彼は確かに自分を見ていた。だからこそ、手と手が触れ合うほど近くまで歩み寄ることができる。いつだってそうだった。───そうだ、自分はこういった場面を何度も見てきたはずだろう。

「ジュンくんはぼくになんて言ってほしいの?それで満足する程度なら答えてあげないこともないけどね?」

 あぁ、見透かされている。
 本物のアイドルに───日和に許されたい。彼が信じてくれるのなら、その瞳に映してくれるのなら、きっとジュンだってもう一度アイドルとして生きていけるから。そんな浅ましさは今、他ならぬ日和によって彼の目の前に引きずり出されてしまった。

『おれのゆめは───』

 アイドルになるという夢は親に与えられたものだった。いつしかそれ以外の道は消えてしまって、他に何も知らないからずっと走り続けていた。日和はそれをいい加減やめろと言っているのだ。選ばされたんじゃない、選んだのだと。それが事実じゃなかったとしても"本当"にしなさいと。

「オレは……アイドルです。そう生きていたいから……ずっとそうだったから。いや、そうだったってことにしたい。ステージで生きるに値する人間だって、そう自分を誇りたい」

『───アイドルになること!』

 日和の目を見て言い切ってみせる。
 昔は臆面もなく口に出せていたのに、いつしか現実ばかり見せられるようになって忘れてしまったこと。瞼の裏にはいつだってこどもの頃の自分が焼き付いている。この「漣ジュン」は今の自分をどう思うのだろう。夢見た通りのアイドルだって、そう思ってくれていたら少しは救われるだろうか。
 ジュンの言葉を聞いて日和は満足げに笑う。彼の笑顔なんて散々見ているくせになぜだか久しぶりな気がした。

「アイドルは資格のいらない職業だってきみも知っているはずだね。皆目に見える証拠や許可を欲しがるけれど、そんなつまらないもの本当に必要?ステージの上で生きていたくて、自分をそう呼んでくれる誰かがいる。それ以外に求められるものなんて存在すべきじゃないね!」

 ね、ジュンくん。
 きっと日和の言うとおりだ。だから昔の自分は紛れもないアイドルだった。目の前のファンを笑顔にするために拙いながらも一生懸命だった。それをアイドル以外のなんだと言うのだろう。

「ジュンくんは少し忘れちゃってたみたいだけど……きみはずうっとアイドルだったんだろうね。昔から……今だってそう。EdenのメンバーでEveの片翼だということは不変の事実だし───大丈夫、ぼくから見たきみはちゃんとアイドルに見えるね」
「ッ……ほんとあんたって、」

 ずるいひと。
 歌う術、踊る術、自分の立ち位置、笑い方も夢も幸福のかたちも全部全部───ジュンがどうしようもなく欲しかったものは全てこのひとがくれた。「市民への施しは貴族の義務だからね」とか言いながら、自分のおさがりでも渡すみたいに何でもない顔でぽいっと。こっちは彼が気まぐれに寄越してきたそれらでとっくに人生を埋め尽くされてしまっているというのに!

……あれ、泣いちゃった?」
……目にゴミ入っただけです、マジなんでちょ、近づくなッ……!」
「あは、随分お粗末な誤魔化し方だね!」

 ずいと顔を覗き込もうとする日和から逃げるように体ごと背ける。ぼやけた視界は涙のせいじゃない、泣かされてなんかいない。そうじゃないと、こっちをからかう隙を見つけたとばかりに楽しそうで平然とした日和に対して今にも泣きそうなジュンだなんてあまりに不釣り合いだろう。

……お世辞じゃないね、全部。見事に美しく羽化した蝶が然るべき場所で羽ばたいている。それを見て綺麗だと言って何が悪いの?」
「その気持ちはありがたいですけど、おひいさんから見てそう見えるのは“そう見ようとしてくれているから”でしょ。オレはアイドルである自分を信じたいけど……漣ジュンを“それ”にしてくれるのはやっぱりあんたなんですよ」
「いつまでもそんな心持でいられるのは非常に困るけどね!───それに、そんなのぼくだって……

 そう言っていつもより低い目線の彼はさらに距離を詰めてくる。あっという間に日和はジュンの目前で、何を求められているのかと戸惑ううちに彼はこちらに向かって手を伸ばしていた。

……乗せてくれる?ぼくもそこに───」

 奴隷根性というべきか、いつの間にか染みついていた癖と言うべきか、考える前に日和に言われるままに手を差し出し、握り返される。そうしてジュンの乗っているビールケースの上に足をかけ、ぐっと身を乗り出し軽やかに飛び乗った。

……狭っ!落ちる──!)

 日和の手を引いた勢いで落ちそうになりどうにか踏ん張ろうとするも、支えきれずたたらを踏む。足を踏み外し一瞬血の気が引くが、今度は逆に日和に引き寄せられてしまう。
 吐息が交じり合うほどの至近距離。視界は日和の顔で埋まり、とりわけ彼の瞳に視線が縫い留められる。日が昇る前の、夜と朝の丁度境目の澄んだ空を思わせる紫。その中に確かにジュンは存在していた。日和を見ているのか自分と目を合わせているのか分からない。

(あ、そうか───)

 照明が点く前。センターステージの中央で、裏方の指示を聞きながらじっとその時を待っている瞬間。ずっと感じていた既視感は恐らくこれだ。
 視界の隅で光が瞬いたと思えば、ジジ……と微かな音とともに再び防犯灯がジュンたちを照らし出す。ふと地面を見れば、境目が溶け合っているような自分たちの影がくっきりと落ちていた。

「ぼくが選んだのはジュンくんだけだね。他の有象無象じゃない、きみだけだってそろそろ分かってほしいところだけれど。……ぼくにとってジュンくんはアイドルだけど───きみから見たぼくは、」
「アイドルですよ、オレの目に映る巴日和は最初から。誰より眩しい、正真正銘のアイドル……───」

 食い気味に答える。こういった返答が返ってくるとは思っていなかったのか、若干日和の肩が跳ねた。
 ジュンを拾う前から日和はアイドルだったから、そうじゃない彼を知らない。そうでなくとも日和以上アイドルに向いている人間をこれまで見たことがないくらいには、自分にとって巴日和がアイドルであることなんて至極当然のことだった。

……まあ、ジュンくんなんかに確かめてもらわなくてもぼくがアイドルだってことは疑ったことないけどね」

 でも、と少し落ちたトーンで続けられる。

「ぼくにとってアイドルは天職ではあるけど人生じゃないから……きみから見えるぼくが本当にそれに見えるか知りたくなったんだよね」

 日和は伏し目がちで困ったように笑っていた。こういう類の話をする時は決まってそんな顔をしていて、何故だかジュンはいつも落ち着かないような心地になるのだ。
 綻びがないこのひとも極々たまに、こうして隙を見せてくれることがあった。きっとジュンだけに曝しているのではないのだろうが、それでもよかった。日和のいちばんにはなれなくても特別の内側にジュンを置いていてくれるならそれでいい。曝してもいいと思ってくれているのならそれだけで十分だった。

……これから自分を疑うような日が来ても、おひいさんの目を見れば思い出せます、「ああ、オレはアイドルだった」って。だって───あんたの瞳の中にいる漣ジュンは本物のアイドルだから」
「だから、あんたも───、」

 そうだったらいいのに、なんて。
 ジュンから見た日和はずっと、それこそ憎たらしいほど完璧な偶像だった。だから───

「オレを見て、信じてください。「巴日和はアイドルだ」って、疑う隙もないくらいに……てか、あんた記憶力いいんだから忘れないでくださいよねぇ。オレたちがアイドルだって───それも、今週末にはこんな路地裏なんかどうでもよくなるようなドームでライブしちまうぐらいのトップアイドルなんだってこと!」

 今度こそ伏せられていた瞳はジュンを見た。二人の間をうっすら聞こえる人々の喧騒が通り抜ける。いつの間にか駅の通りの近くまで来ていたらしい。
 日和は一瞬目を丸くした後、少しだけ目尻を下げて破願する。こういう締まりのない笑顔の方が見ていて落ち着くなんて、本人に言ったら怒られるだろうか。

……ふふ、そう、そうだったね。ぼくたちにここはちょっと狭すぎたね」

 当たり前のことをおかしそうに、嬉しそうに呟く。
 これを聞いてジュンは今の自分たちの状況をようやく客観的に認識した。足の踏み場もないほどの狭い面積に大の男が二人もよく立っていられたものだ。ビールケースから降り、碌に身動きがとれなかったせいで凝り固まった体を軽くほぐす。
 声のする方を見てみれば、曲がり角の先からは灯りが漏れていた。人の気配も十分にする。

「あっちが駅?」
「はい……迷ったかと思ってたけど、案外うろ覚えでもいけるもんなんですねぇ」
「そう?きみは最初から正しい道を知っていて、正しい選択をし続けた。きっと全部それだけのことだね」
「?そうですか?」
「そうだよ。……ほら、何ぼけっと突っ立ってるのジュンくん、早くぼくを案内して!明日の入りも早いし夜更かしは美容の大敵だからね!」
「ちょ、引っ張らないでくださいって!ったくもう……

 日和に手を引かれ路地裏を抜ける。立ち止まることはしなかったが、ちらと後ろを振り返る。隅に置かれたままのビールケースは灯りに照らされ、そこだけやけにくっきりと浮かび上がっていた。

『───♪』

 偽物のマイクを握って調子はずれの歌を歌っていた昔の自分はもうどこにもいないけど、消えてしまった訳じゃない。あの頃から今はずっと地続きで、肥溜めを歩いてきたからこそ今こうしてあたたかい光に照らされることもあるのだ。

(現実に絶望して足を折らなかった、いつかのオレのこと───少しは誇りに思ってもいいですよね?)

 ステージの上にはこどもがひとり。
 ジュンを見て、眩しそうに手を振っていた。





 手持無沙汰に手袋を弄る。今ステージに立っているのは凪砂と茨───Adamの二人で、Eveであるジュンの出番はこの次だった。アイドルとして人前に立ち始めた最初こそ、本番前はうろうろと所在なさげに歩き回っていたものだが、今となっては(今日のケータリングのおかず旨かったな……)なんてどうでもいいことも考えられるほどの余裕がある。成長と言っていいだろう、多分。
 そういえば、と思い立ち日和を探してみれば、舞台裏に備え付けられているモニターを食い入るように見つめていた。

……なーに見てるんです?なんか特別なことありましたっけ」
「ううん、何もないね。───いや、客席を見てた……かな」

 客席。ジュンもモニターを覗き込むが、いつも通りAdamのユニットカラーである青に染まった空間が映し出されていた。

……青い、ですね?」

 何と答えればいいか見当がつかず、見た通りの感想を零す。常ならばこの間の抜けた応答に対して瞬時に四、五個ほどの嫌味が返ってくるものだが、この時は少し様子が違った。上の空といった様子で立ち尽くしている。

「───この光のひとつひとつに人生があって、ぼくたちを愛してくれているのも必然じゃなくて、奇跡みたいな空間だから。愛おしくって……もう二度と失いたくないって、そう思ってたね。……ここを永遠にしたいって思うのは我が儘?」
……それがおひいさんの“おねがい”なら、叶えてやりますよ」

 その言葉に振り返った日和の手を取って誓う。殆ど反射的な行動だった。
 どこだって───地の果てでも宇宙でも、地獄にだって着いて彼が行くなら着いていく。地上がいいと駄々を捏ねるなら、誰の手の届かないどこか遠くまで攫ってやったっていい。

(落ち合う場所は……どうせならステージの上で、)

 だって、ジュンの見ている”巴日和”はどうしようもなくアイドルだから。
 そこでしか息が出来ないようなひとだから。
 日和がジュンを見て、ジュンもまた日和を見ている。勿論それだけで何に認められなくてもアイドルではあるけど、もう二人で完結するような閉じた世界じゃ満足できなくなってしまった。
 世界を愛し、世界に愛される。

(アイドルってそういう生き物なんだって、おひいさんが教えてくれたことだ)

「アイドルでいたいんでしょう?───オレと同じで」

 陽の当たる場所に、愛で満ちた場所にいてほしい。
 それがジュンに出来る唯一のことだった。そのためなら他の何を捨ててもいいと思える。

「───そう、きみと同じ。なるべく長くずっと……ぼくはステージの上にいたいね。たとえ永遠じゃなくても」
「願うことぐらいは許してほしいもんですけどねぇ。……あ、そろそろ待機ですって」

 行きましょう、おひいさん。
 歩幅を合わせてステージ下の奈落に向かう。ここを上がればもう光の中だ。 
 
(ねぇ、ずっと願ってるんです。神さまとか、運命とか、そういうもの全てに───)

 こうして歌って、踊っていたい。ただそれだけを願っている。
 魔法が解けるまで。
 夜が明けるまで。
 あんたの隣でずっと───ずっと。