ちゃしぶ
2025-05-02 17:49:33
11454文字
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隠者趙さんと龍魚いっちゃん

隠者趙さんと龍魚いっちゃんの物語。if。全て許せる人向け。



 趙天佑には噂がある。

 詳しく言うと、趙天佑には複数噂がある。それは例えば拳法を極めただの隠し財産を持っているだの横浜流氓の総帥の座を退いたのはその隠し財産を守るためだのがあるが、どれも単なる噂に過ぎない。その真偽は謎だ。だがただ一つ、真に正しい噂がある。

 趙天佑は人魚を飼っている。

 噂は事実だ。
 正確には、龍魚を飼っている。

 それは本当に偶然が為した奇跡だった。趙のもとへ闇商人が不思議な瓶を売ったのだ。瓶の中は海水で満たされ、小指の先にも満たない白っぽい何かが浮いていた。
 闇商人はそれを『龍魚』と言った。
 龍魚は何も食わずに生きる事も出来るが、餌を与えると半人半魚の美丈夫に育つと言う。そして人と同じく知性も持つと言うのである。
 趙はそれを信じて言い値で買った。それは娯楽半分だったが、早速小瓶から小さな水槽へ移した次の日、商人の言う通り『それ』が趙の与えた果物の切れ端に食らいついているのを見て、趙はまず巨大水槽を特注する事にしたのだった。

 闇商人が去り、数ヶ月経った。
 趙が隠遁する部屋には、人の背丈程もある縦に長い巨大な水槽が壁の一面を埋めていた。自浄機能も備え付けた最新機能付きの水槽で、静かな室内にぽこぽこと水泡の音が小さく響く。
 果たして、闇職人の言葉は正しかった。
 水槽には、ギリシャ彫刻のような美丈夫が収まっていた。腰から下は鱗が連なり、長く尾鰭が続いている。まさしく『それ』は半人半魚の生命体だった。

 「君は俺の一番だから。だから君は『一番』だよ」

 その言葉通り趙はその半人半魚を一番と名付け、ひたすら言葉を教える事に没頭した。最初は半信半疑だった。闇商人が知性も備えて成長するとは言っていたものの、それが人間と同程度になるかどうかまではわからなかった。しかし餌の果物を与えるたびに一番は趙の顔を覚えて、笑顔まで見せるようになった。
 じきに餌の時間には水槽の上に顔を出すようになった。水中でも息が出来るが、陸上でも呼吸出来るらしい。最初は子供に与えるような、あいうえお表を与えた。風呂場に貼れるようにビニールで出来た表だ。それを水槽の上部に貼った。半分水に浸かるそれを指差し、あいうえおを教えた。
 そして餌の時間にもそれ以外にも、一番にとにかく趙は話しかけた。
 龍魚は雑食だと聞き、趙は果物を与えた。何故か肉を与える気にはならなかった。その頃から趙の中で、一番は特別な『一番』だったのだろう。
 それからは一番を隠れ家にしつらえた大きな水槽に入れて、愛でる毎日が続いた。最初は顔を認識しているな、と思う程度だったのが、それから成長が著しく、日に日にみるみるうちに美丈夫に育っていく。その姿に見惚れた趙が水槽の前に立つと、もうすっかり懐いた様子で一番も趙の前に泳いで立つ。見事な尾鰭が美しい。そのうち餌をやる時には必ず水槽から顔を出すようになった。ふわりふわりと水中で靡いていた黒髪はぴったりと背に張り付いて伸びていて、艶やかだ。綺麗な灰褐色の目で趙を真っ直ぐに見るから、趙はそれだけでもういいと思えてしまって幸せを感じる。

 そう、趙は幸せだ。一番を得た。

 餌を与えるたびに「ぴきゅ」とか「ぎゃぴ」とか「きゅきゅ」とか何か口から声を発声しているから、声帯はある。知性もあると闇商人から聞いていたので、物は試しに貼っていたあいうえお表を指差して発声してみる。

 「あ」
 「………あ」
 「すごいよ一番! わかるんだね!」
 「キュキュ」

 そうして発声を教えるのに、絵本も数冊。餌をやる時に少しずつ読み聞かせた。初めてあいうえおを言えたのは初日から。趙が目一杯誉めると嬉しそうに一番が微笑むから、愛しくて思わず抱きしめる。濡れるのも構わずに。すると一番は驚いたもののすぐに抱き締め返して来てスリスリと頬を摺り寄せる。その経験したことのない無償の愛情表現に、趙はポツリと溢す。

 「好き。一番好き。だから一番。君は一番だよ」

 腕の中でキョトンとしている一番に改めて名付ける趙。趙の中では最初から変わらないけれど、一番はその日から趙の一番になった。
 絵本の読み聞かせもあっという間に空で覚えて、逆に読み聞かせられる事にもなり趙は一番の知性に驚く。すぐにまた本を選び直す。今度は小学生が読みそうな本を中心に選んでみる。そして順調にカタカナ、漢字の読み、書き、アルファベットへと餌やりと共に教える日課は順調に進んでいく。

 一番が最初に覚えたのは「ごはん」、その次が「いちばん」。そして「ちょー」。発声出来た日は特別趙が喜ぶから、一番も嬉しさにますます読み聞かせに熱心になる。次第に単語を話せるようになって、やがて滑らかに会話が出来るまで、そこまで時間はかからなかった。
 漸く辿々しい会話が出来るようになってから、趙が用意していた本を見ていた一番。そこにあったのは一冊の洋書だった。
 ペーパーバックのそれはSFで、男が宇宙を旅する話だ。その話の中で最も純粋な愛に溢れた生物が出てくるのが水星だ。水星に棲み、振動を食糧とし、淡い光を放ってたった二言の言葉を交わして生きている生物。ハーモニウム。
 「here I'm」、『わたしはここにいる』と、「so glad you're」、『君がそこにいてよかった』。
 その二言で通信するハーモニウムにあるのは愛だけだ。その言葉を、一番は見つけて趙に言う。

 「ひあ、あいむ」
 「それを俺に言ってくれるの? 一番」
 「ひあ、あいむ!」
 「so glad you're」
 「ちょー、ちょー」
 「うん、大好きだよ」
 「たい……だい、すき。だいすき」

 次第に言葉を交わして行くふたり。趙は崇拝にも似た愛情を抱くようになっていた。無垢な愛情に慣れなくて、一番がどんな感情を趙に向けているのかは、本当はわからない。それでもこのささやかな幸せの時が続けばいいと思った。少なくとも続くはずだった。馬淵が戻ってくるまでは。

 馬淵はどんな手を使ったのか、趙の隠れ家を探し当て強襲した。頭を殴られて昏倒する。がしゃん!と言う音と共に潮の香りが部屋中に充満する。水槽が割られたのだ。どっと水に浸る感触がある。非常時に水を排水できるよう排水溝を作ってあったのは役に立ったかもしれない。これもまた非常時のためにタイル張りにした床へ頬を押し付けぼんやりとそんなことを考えるが、どっと何か人が倒れるような音に一気に血の気が引いた。一番だ。馬淵は一番を手にかけようとしている!
 一気に血の気がひく。体が動かない。それでも力を振り絞って視線を巡らすと、床に倒れて初めて見る馬淵に鋭い視線を向ける一番がいた。

 「逃げ……て、いちばん……

 叫んだつもりが弱々しい言葉にしかならない。馬淵が銃口を向ける。やめて。俺の一番を、取らないで。必死に手を伸ばすと、馬淵は何故かかくりと首をおかしな方向に曲げた。
 その場にばたりと倒れる馬淵。趙は酷く頭痛を覚えた。気が遠くなる意識を必死に手繰り寄せる趙。そんな趙へにじり寄る一番の見事な尾鰭は割れた水槽のガラスでズタズタに切り裂かれていた。趙の手をその水掻きと鉤爪のある手で握る頃には、辺りに血の匂いが漂う程だった。

 「いち、ばん」
 「ちょう、ちょう」

 深く、泣きそうな声だ。握る手をしっかり握り返して、その泣きそうな一番の顔を見て言う。

 「これから来る人間がコミジュルの人間なら、安心して。味方だから。もしそれ以外なら、俺を捨てて逃げて。さっきみたいに。出来るね?」

 ふるふると頭を振る一番。ああ君は、こんな時まで優しいんだね。だんだんと薄れゆく意識の中で、ハン・ジュンギの叫び声と、一番の悲鳴が重なり趙はそこで意識が途絶えた。
 
 次に目が覚めたのは、無骨なコンクリの上、ベットに横になっていた。そして傍にはバスタブ。そこから見事な尾鰭を出しながら海水に浸る一番がいた。疲れているのか眠っている。趙はこの上なく安心した。コミジュルの情報力が馬淵を上回ったのだ。痛む額を押さえながら、ベッドから起き上がる。丁度そこで扉がノックされた。

 「失礼しますよ」

 ハンだ。

 「ソンヒは大変心配されています」

 ハン・ジュンギの基準はソンヒとコミジュルだ。その言葉にベッドへ腰掛けながらあらゆる言葉を尽くそうと覚悟を決める。

 「助かったよ、有難う。彼も助けてくれて」
 「彼は名は?」
 「一番って言う」
 「では一番の能力をあなたは知っていましたか?」
 「は

 静かに眠る一番の胸は上下して、時折尾鰭がふるりと震える。部屋中に広がる潮の香りが何故か郷愁を誘う。尾鰭……そう、尾鰭が綺麗だ。何故だ。彼の尾鰭は、体は、水槽のガラスでズタズタになっていたはずだ。その傷は見事になくなっている。跡すらない。

 「傷が消えてる?」
 「それだけじゃない。貴方の傷もです」
 「え?」

 まだ痛む頭痛の元を、馬淵に銃の台座で殴られたこめかみを探る。そこは綺麗に塞がっている。一気に血の気が引いた。

 「これは、どういう事ですか?趙」
 「ソンヒとも話したい。俺も知らない事だ」
 「今はともかく、彼についていて下さい。彼の嘆きようは酷かった。私も咄嗟に撃てなかった」

 ベッドの傍らから眠るバスタブの一番をハンが少し目尻を下げて流し見る。

 「それと彼の食事についても教えて下さい。何を食べるのかわからないんです」

 一番の食事は果物である事と、基本は雑食だと言う事を伝えると、ハン・ジュンギは困った顔で「統一してくれませんかね」と言って来たので、果物で、と頼んだ。自分の分は何でもいい。
 ハンが下がると同時に一番が目覚めた。ハンによると怪我した自分と一緒に3日も寝ていたらしい。バスタブへ駆け寄ると、一番は弱々しく薄らと目を開いている。何かがおかしい。ゾッと血の気が引く。

 「一番、俺だよ。わかる?」
 「……ちょう、ちょー!」

 弱々しいながらも嬉しげな声を上げて、一番は趙へ飛びついた。どうっとコンクリの床に二人して寝転ぶ。逞しい肩の隆起が浅い呼吸で揺れている。

 「一番?どうしたの?苦しいの?」

 趙は言葉を選んで恐る恐る尋ねる。

 「ちょっとだけ。疲れた」

 一番はそれだけ言うと趙の胸に顔を埋めて丸くなる。その背を掻き抱いて趙はこれからの事を考える。
 そもそもが馬淵を戦意喪失させた力も、傷を塞いだ力も、一番がやった事だ。その力の喪失が一番の生命力と繋がっていたら?
 まともに飯も食えない状況では睡眠で回復するしかないだろう。全ては一番がやった事。それに気付いて切ない程胸が熱くなった。抱きしめる力を強くした。
 
 その日の晩、コミジュルが用意した大量の果物を、一番はペロリと平らげた。普段の2〜3倍の量をだ。趙自身は渡されたハンバーガーを2〜3個食べて漸く人心地がついた。一番も漸く安心して趙にいつもの読み聞かせをねだる。だが本がない。趙は一番が嫌がるかもしれない事を聞かなければならない。まずは手始めに、馬淵の件から聞いてみた。

 「馬淵が……男が俺を襲って、それを一番が助けてくれたんだよね?どうやったの?」
 「いなくなれって言った」
 「言った?」
 「うん、男に言った」

 これはどう言う事だろう。

 「ガラスで傷ついた一番の体は大丈夫?俺の傷も治してくれたよね?」
 「大丈夫。ちょっと疲れるけど、傷治す。だからちょーも大丈夫!」

 一番は無垢な笑顔を向けて笑う。その体をそっと包み込んで抱き締めながら思う。もしかしたら俺はとんでもないものを手に入れていたのかもしれない。指向性の戦意喪失する声(一番が言ったが趙には聞こえなかった)、そして傷を治す力、どれもまるでお伽話で現実感がない。そう言えば、人魚の肉は不老長寿を得ると言う。そこまで考えてゾッとした。

 「ちょー?」

 抱き締めた一番の肩に顔を埋めていた。

 一番が眠った頃に、ソンヒはハン・ジュンギを連れて部屋へやって来た。既に一番を十分観察したのだろう、部屋へやって来てから特別一番を見る事もなく趙へ視線を向けている。

 「趙、厄介ごとを持ち込んでくれたな」
 「ソンヒ、まずは助けてくれて有難う。でもどうしてわかった?」
 「馬淵が異人町へ戻ったと連絡があってな。暫く各所の監視を重点的に行なって来た。だが狙いはどうせお前とわかっていたからな。それ程遅れずにお前達を助け出せたが馬淵は取り逃した。すまん」
 「いいんだよ、助けてくれただけで有難い。一番の事は、もう調べたの?」
 「大体は。ずっと意識を失っていたのだが治療は殆どしていない。目を覚ましたのも自身の生命力だろう。類い稀な生き物だな」

 最後にほんの少しソンヒの本音が溢れた。だが何故かその言葉は趙には耳障りに聴こえた。その想いを隠しながらソンヒへ尋ねる。

 「俺らはどうしたらいいかな?結局、馬淵は俺目当てで来てるんだろうけど。彼の安全も確保したいし」
 「その事なのですが」

 ハンが会話に入ってくる。

 「一部で人魚を探している輩が現れているとの情報が出て来ています。恐らくは馬淵が流した情報でしょう。あなた方を炙り出すつもりでしょう」
 「偽の情報って流せる?」
 「はい、既にソンヒと共に候補地はピックアップ済みです」
 「じゃあまずは馬淵に踊らされた連中を炙り出そう。俺が流氓の部隊出すから。俺も入れてね」
 「当たり前だ、お前の落とし前だろう」
 「痛いところ突くねソンヒ、有難う」

 今は恐らく体力回復に寝入るバスタブの中の一番を見る。あどけない、幼い寝顔だ。彼を守る為なら神でも殺す。そんな趙を見て、ソンヒもハンも目を見合わせた。

 夜。彼と二人きり、夕食がわりのジャンクフードと果物を差し入れしてもらい、起きた一番と一緒に食べる。水掻きと長い鉤爪のある手で器用にシャインマスカットを一粒ずつ美味しそうに頬張る彼を見て、ほっとする。

 「ひあ、あいむ、ちょー」
 「うん、so glad you're」

 あの本を彼はお気に入りで、たまにこうして他愛無いやり取りをするのだが、それだけでこうも胸が温かくなる。

 私はここにいる。君がそこにいてよかった。

 ただそれだけでいい。彼がそこにいてよかった。彼と出会えてよかった。彼と、俺はたった一つの尊い感情で繋がっている。

 馬淵の襲撃から一週間後、『掃除』は行われた。その日だけは嫌がる彼をひとり置いて行くのが、心を重くした。だけれど血に舞い踊る自分は見せたくなかったし、毛程も一番を危険に晒したくなかった。一番を探しその血肉を喰らおうとする亡者ども。今こそコミジュルと流氓の力を見せつける時だ。この異人町で好き勝手にはさせない。誰であろうとも。
 ハン・ジュンギとソンヒと三人で決めた、浜北公園に程近い山の裾野にある廃洋館。その庭園に流氓部隊は配置された。館内はコミジュル担当だ。何人たりとも逃しはしない。噂を聞きつけた輩どもを出来るだけ残忍に殺す。今回は見せしめだ。次はない、と万人に見せしめるための殺戮だ。若い奴らは仮面の下で興奮と恐怖に息を荒げて、逃げ惑う奴らを追いかけて、じわじわと青龍刀で体を削ぎ落とす。趙は全体を指揮して自ら出る事はないと思ったが、どうやら違ったらしい。運悪く趙の真正面へ出て来た被害者が、短く悲鳴を上げ洋館の庭園へと駆け戻る。趙は誰よりも鼻が効くから、そいつを茂みに追い込んで殺した。まずは鼻、耳、腕を落として、返り血に塗れる。

 もう俺は狂っているのかもしれない。

 念の為と着ていたレインコートが役に立った。被っていたフードを下ろして片付いた庭園を見回す。廃館の庭園内は血みどろになっていた。今回はわざと死体は残す。その代わり身元がわかる首と手は残さない。部下達に後始末を任せ館内のコミジュル組を見に行くと、館内も血みどろだった。意外と多かったらしい。

 「撃ち漏らし過ぎですよ、趙」
 「ウチの子達は十分やったよ〜。人数が多かったんだね。それだけ本気だったって事だ。これで諦めるとは思えないね」
 「後始末をしてからまた考えましょう。取り敢えず今夜の事は情報として流します」
 「その前に明日になればテレビに映るでしょ。それで引いてくれれば良いんだけど」

 着ていたレインコートを脱ぎ用意されていたゴミ袋へ入れる。首と手もだ。後で薬で溶かす。全員静かに車へ乗り込んで廃館を後にした。

 「ちょー、怪我してる?」

 部屋へ戻るなりそう言う一番にヘラヘラと笑って首を振った。

 「俺じゃないよ。これは悪い人の血の匂い。一番を害する悪い奴らの」

 一番が心配そうな顔をして俺へ両手を伸ばしてくる。趙は一度その腕に甘えて抱き締められた。

 「いたいのいたいの、とんでけ」

 一番の声は甘い。

 あれから一週間が過ぎた。趙は相変わらずコミジュルの一室、一番と一緒の部屋で、一番の世話をしてそれなり楽しく暮らしてる。だが外界は放っておいてくれなかった。
 あの『掃除』は大々的に報道されたがその後事件に進展があったとは聞いていない。コミジュルの徹底した統率のおかげだ。流氓の部下達も良くやってくれた。しかし噂話は相変わらず流れているようだ。時折コミジュルの網に掛かり、流氓が人を消す。この一週間で二人が消えた。そして馬淵は地下に潜ったままだ。一番への危機はまだ消えない。

 「いい加減、気付いているのだろう?」

 ソンヒが部屋へ来て言った。いつもなら一番へ会う事なく寝ている隙に来る彼女が、もうそれすらも気遣わずに驚く一番へ姿を晒しているのが、彼女の答えなのかもしれない。ハン・ジュンギを扉の外へ待たせているのは、彼女なりの最後の仁義だろう。怖がる一番を宥めるべく、バスタブの隅へ腰を下ろし一番を抱き寄せる。趙の腰へぎゅっと抱きつく一番は頑是ない子供のようでただそれだけで趙の中での答えは出ていた。

 「わかってる。ソンヒの考えてる計画もわかってる。俺らを囮に馬淵を捕らえたいんでしょ?」
 「それだけではないのはお前も気付いているのだろう?」
 「なら、両方いっぺんに済ませようか」
 「………本当にいいのか、趙」
 「いいよ、それが異人町の、流氓のためなら、俺はいいよ」

 ただ違うのは、趙はきっとこれから孤独に生きて孤独に死ぬのだろうと言う事だけ。何も知らない一番が趙を見上げて泣きそうな顔をしている。そんな酷い顔をしているのかな。一番には隠せないな。ああ、だから。君と離れたくなかったのに。
 一番を抱き締めている内にソンヒは部屋を出た。扉の外で待っていたハン・ジュンギが素早くソンヒの傍へ駆け寄る。

 「趙は説得出来ましたか?」
 「奴はわかっていた。自然な流れだ。しかし………酷な事をするのは、辛いな」
 「ソンヒ………

 蜘蛛の女王が心なしか肩を落とすのを見て、ハン・ジュンギはこの厳しくも心優しい姉を抱き締めたくなった。
 それから数日間、趙は一番とつきっきりで部屋に詰めていた。一番が眠い時にはそばで見守り、本を一緒に読み、あの二言を言い交わす。それだけで輝くような笑顔を見せる一番を、趙は守りたかった。だからソンヒや自分の選択は正しいと、そう思いたかった。だが一番は?

 「趙、それなんだ?」
 「これはね、レインコート。今日はおでかけするよ」
 「おでかけ?趙といっしょに?」
 「そう、海に行くんだ。でも人に見つかったらまずいから、これ着て、こっそりとね。出来るかな、一番」
 「うみ?!できる!………趙、うれしくなさそう。なんでだ?」

 何故一番には見抜かれてしまうのか。趙は何とか笑ってバスタブから一番を起こして、レインコートを着せる。見事な黒髪も隠すようにフードをしっかりと被せた。

 「よし、行こう。海だよ、一番!」
 「うみだ!」

 楽しげに笑う一番を抱き上げて部屋を出る。もうこの部屋には来ない。外で待つバンに乗り込み膝上に一番を抱える。バンにはソンヒとハンももう乗り込んでいた。一番はまた見る見慣れない人間に俺とソンヒ達を見比べている。

 「ソンヒ、計画通りよろしく頼むよ」
 「わかっている、このハン・ジュンギがいれば問題ない。予定通りだ」

 趙以外の人間には慣れない一番が、じっと二人を見詰め趙の体を抱き締める。緊張する一番を抱き締めて宥めながら、埠頭へ向かう。馬淵もこの車について来ている筈だ。ソンヒは馬淵をもう許さない。

 「ほら、一番、海だ」

 スモークの貼られた窓からも見える海で、一番の緊張を紛らわせる。一番はその一言でぱっと顔を輝かせた。

 「うみだ!一番、ねてたとこ!趙、およごう?」
 「うん、いいよ」

 そんな気はない。だがそうしたかった。だから嘘をついた。一番は趙の顔をじっと見詰め、柔らかく笑った。まるで何もかも知っている母のような顔をして。車が埠頭の先に停まる。ハンとソンヒが趙へ頷いて、一斉に銃を取り出す。

 「馬淵が来る前に一番を海へ還す。いいな?」
 「後ろは頼んだ」
 「趙!かえすってなに!趙!」

 その一番の悲痛な声と表情に、ハン・ジュンギは何故か兄を思い出していた。趙が暴れる一番を何とか抱えバンから降りる。すぐに変化は起きた。埠頭へ続く路面を猛スピードで迫る白のセダンだ。趙の足元を何発か跳弾が音を立ててコンクリを削る。

 「趙、走れ!」
 「無理言うよね!」

 それでも趙は一番を抱え埠頭の先端へ走った。ハンとソンヒはセダンへ銃で応戦する。埠頭の先端を閉じる柵の扉を開けて本当の先端へ立つ。

 「趙?」

 泣きそうになっている一番への最後の顔は笑顔で。趙は笑顔で一番を海へと投げて、その胸を背から撃たれた。

 バシャン、と恐らくは一番が海へと着水した音を聞き、背後から見ていたハン・ジュンギは即座に柵へ走った。援護をソンヒに任せて。扉を駆け抜ける。海へと手を伸ばすように倒れ伏した趙を抱き起こす。笑顔の趙の脈を探る。ない。

 「趙!趙!生きるんです!」

 必死に呼びかける意味をなさない行動に、何故か涙がこぼれた。

 「かえして」

 静かに聞こえたその声に、ハッと顔を上げる。静かな笑みを湛えて、一番が海面から両腕を伸ばしていた。

 「趙、かえしてくれ。趙、いきるから」

 かえす?その言葉にハッとする。脅威の生命力を持った彼なら何とかなるかも知れない。ハンは抱き起こした趙をそっと埠頭の先端から下ろした。バシャン、と水音が上がる。彼はすかさず海の中で受け止めて、海面へと上がる。一番の両腕に包まれた趙は本当に寝ているだけのように見えた。そして一番は趙の両頬を両手で包み、趙の唇へキスをした。永いようで一瞬だったのかもしれない。ハンにはそれがとても神聖で、永く思えたのだ。そして一番の水掻きのついた手が趙の首を優しく摩ると、そこには何か傷でもついたかのような三本線が出来ていた。そうして趙は目覚めた。

 まるで永い一瞬の時、一番が趙へ口付けている時は全てが止まっていたかのようだった。その一瞬の後、タイヤが路面を滑る音がする。ハンが後ろを振り返ると、白のセダンが柵へと激突する所だった。急いで脇へ身を寄せ地に伏せる。その瞬間、声なき叫びが響き渡った。頭痛がする。一番が鳴いている。そしてその声に操られたかのように、ひしゃげた車から馬淵がよろよろと這い出して来た。

 「た、助けて……お願いだ、頼む、悪かった……

 馬淵は泣き笑いのような顔で頻りに呟き、ジリジリと埠頭の先端へと這いずって行く。ハンは理解出来ずにただ見送る事しか出来ずにいる。海面には趙を抱いた一番が、片手を馬淵に差し伸べていた。

 「お願いだ……あなたが、神だ」

 馬淵がそう縋るように言うのが聞こえたと同時に、一番が静かに言った。

 「おまえはかえらない」

 そしてまた声亡き声で叫び出す。馬淵は半狂乱でもがいて足掻き、やがて自らにじり寄った埠頭の先から海へと落ちた。ハンは頭痛を堪えその一連を見ていたが、一番の叫びが消えてハッとした。もう既に一番はこちらを見ていない。腕の中の趙と笑い合っている。そして二人は海に消えた。

 「ハン・ジュンギ!返事をしろ!無事か!」

 女王の声にハッとして振り返る。もう既に馬淵の手下は始末したのか、潮騒の音が今はうるさい。銃を片手に彼女は静かな表情で海面を見ている。そこにはもう誰もいない。

 「趙は……車から見ていた。詳しく聞こう。車内でな。今はここを離れるぞ」

 ハンの無事を確かめて肩を叩く彼女に、ハンは一時安堵のあまり女王へ傅きたくなった。コミジュルへ戻る車の中で、ありのまま話す。例え信じられないと言われようが、見た通りの事を言うのがハンの役割だ。聞き終えたソンヒは窓に指で触れ、文字を書いている。

 「彼が言った『かえして』は、『還して』だったんだ。だから馬淵は『還らない』」
 「ソンヒ………
 「趙が最後笑い合っていたとお前が言うのなら、そうなのだろう。趙は彼と共に還ったのだ。海へと。今日見たこの事は口外秘だ。私達だけで処理する。ヨナ、お前もわかったな」
 「わかりました」
 
 運転手を務めていたコミジュル要員が短く答える。それからは車内に静けさが降りる。遠ざかる海を見ながら、ハンは笑い合っていた二人を思い出していた。あんなに想い合っていた。それがハンには、少し羨ましい。

 気付くと、一番の腕の中にいた。意識が朦朧としている。でも一番がこんなに綺麗に笑うから、きっとそれでいいのだろう。趙は確かに撃たれた。だがこの趙の魂の片割れとも言える一番に、確かに救われた。胸元を探ると、ポロリと銃弾らしき平べったい弾頭が指の隙間からこぼれ落ちた。海中へ落ちて行くそれよりも、趙は一張羅に穴が空いた事が悲しかった。一番が趙を抱えて一気に海へ潜る。凄い勢いで泳ぐから最初気づかなかったが、水中で趙は息が出来るらしい。首元へ手をやると、三本線のようなエラが首の左右に出来ていた。趙を抱く腕を緩めずに、一番は海の中で煌めいた笑顔を見せた。そして確かに頭の中に一番の声が響く。

 「ひあ、あいむ、趙」

 趙もそれに応えて行ったつもりだが、海の中では発声の仕方が違うようだ。ガボガボと泡を吐いた趙を見て、一番が慌てて海面へ向かう。ざばりと海面から出て、漸く止まった一番へ趙もしっかりと抱きしめながらその顔を笑顔で覗き込む。

 「so glad you're」
 「ひあ、あいむ、趙!」
 「一番、擽ったいよ」

 改めて抱き付く一番を抱えながら随分離れた埠頭を見る。そこにはもう誰もいなかった。