返却

伏羲と普賢。
神界にいる普賢さんが、楊戩にお届けものを頼む話です。普賢は絵を描くのが下手な設定。

「当たり前です。そして僕もお断りします」

風を切り、目標の地に降り立った。
地面は春の若い草に覆われていて、踏みしめた足の下がふかふかしていた。
ていねいに折りたたんだ地図の真ん中あたりに、「ここ」と自信満々に矢印が書かれていて、その方角を見れば聞いた通り、一本の大きな木があった。
いい季節だ。吹く風に草の良い香りが混じって心地よい。一歩一歩、足裏の感触を楽しむように歩んでいけば、木の根元に人の足が見えた。幹にもたれて寝そべって、どうやら眠っているらしい。
なるほどといったん感心してから、足音を立てぬよう歩み寄り、真上から覗き込んで
「お休みのところ、失礼します——太公望師叔」
意識して芝居がかった声を張り上げた。うっすら開いた目が次第に像を結び、そして見開かれるまで三秒ほど。
唸りとも叫びともつかない声を上げて、彼は飛び起きた。そんなにぐっすり眠っていたのか、こんな場所で、こんなに無防備に。
「なななななんでおぬし!」
あまりの慌てように、楊戩はため息をついた。別に来たくて来たわけではない。

神界に住まうその人が訪ねてきたのは数日前のことだ。手に桃を持ち、いかにもにこやかに「いつもおつかれさま、楊戩は働き者だね」と微笑む。
「なにかご用ですか、普賢師弟」
身構えてしまうのは、これまでなんどか同じように無茶な要件を引っ提げて来たことがあるからだった。案の定、普賢は話が早いとばかりにずいと身を乗り出した。
「お願いきいてくれる?」
「内容によります」
「きみにしか頼めなくて」
「他の人にも頼んだんですか」
「うん。でもみんなに断られちゃった。玉鼎にも」
ということは
……人間界へ行けと?」
すごい、と普賢は目をみはった。
「よくわかったね」
「当たり前です。そして僕もお断りします」
ええー、と普賢は口を尖らせた。子供か。
「ご自分で行けばいいじゃないですか。許可証なら出しますよ、条件付きで」
「それじゃあおもしろくないから」
「おもしろくするために、僕に行けと?」
普賢は力強く頷く。
「きみが行くのが一番おもしろいと思う」
「あのですね、」
からかうのもたいがいにしてほしい、そう言いかけたとき
「だって、望ちゃんに会いたいでしょう?」
ここぞというときに最強の切り札を出すのは反則だと思う。断れないことを知っているのだ。
普賢は「きみなら引き受けてくれると思ったよ」と満足そうだが、満面の笑みがうらめしかった。


昼寝を起こされた伏羲はしばらく逃げ出そうとじたばたしていたが、やがて観念したのか「なぜ居場所を知っておるのだ」と開き直って胡坐をかいた。地図を見せればちらりと一瞥し、さも嫌そうに眉を寄せる。
「おぬし、こんな子供の落書きみたいな地図でよく場所がわかったのう」
もしかしてここに来ることを知っていたのでは、とも考えたが、どうやらほんとうに寝耳に水だったらしい。あの人、いったいどうやって突き止めたんだろう。いや、それはともかく。
「普賢師弟から預かりものです」
つとめて平然と「それ」を差し出した。手のひらに乗るほどの大きさの、そっけない布袋だ。彼はじっとり疑いの目を向ける。
……なんだそれは」
「中身は聞いていません。借りたものを返したい、と」
警戒して手を出さない人に、楊戩は深いため息をついた。
「いいですか、師叔。この僕が、わざわざこんな辺境まで、届けもののためだけにやってきたんです。言ってる意味わかりますか」
受け取らないなんてのは絶対に許さないという圧を、たっぷりまぶして言い含めると、ようやくしぶしぶといった様子で手を伸ばした。胡散臭そうに指でつまみ、しばし無言で見つめる、そして
……んなもん、返さずともよかったのに」
ぼそりと口をついて出たのは愚痴だし、相変わらず眉を寄せている。それでもその声にはどこまでもまろやかな音が混じっていた。木の枝を揺らす風にだれかの声を探して耳をそばだてるような、遠くから呼ぶ人の姿を探すような。
「なんだったんです?」
興味本位で訊ねると「たいしたものではないよ」と返ってきた。
たいしたものではないけれど、わざわざこうして人をこき使ってでも返したかったもの。そしてそれにうっかり心を動かされてしまうもの、なのだろうか。
まあ、それはこちらがあずかり知るところではない。
「では、僕はこれで。普賢師弟に伝言を?」
彼はまたごろんと木の根元に横になり、目を閉じる。
「わしは昼寝で忙しいゆえ、そうひんぱんに起こすでない。それから」
ちらりと薄目を開けてにやりと笑う。
——もうちょっとマシな地図を書いてやれと言うておけ」
はいはいと苦笑し、一礼する。
広い草原を春の風がわたっていく。