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千代里
2025-05-02 11:08:57
12678文字
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リーブラ14話
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リーブラの針は問う・14話・その67
ゲルダが
――
竜が突進してきたとき、もう駄目だとオデットは思った。
辛うじて全身に火傷を負うことは免れたものの、竜の放った熱波に吹き飛ばされた衝撃で体を強く打ち、全身のあちこちが酷く痛んだ。
ようやっと体を起こした直後、目の前へと迫ったゲルダだった竜。
その片目には、オデットへの親愛などまるでなかった。あったのは、憎悪と怒りのみ。
殺してでも止めると、そう覚悟を決めたはずなのに。オデットの覚悟など取るに足らないと言わんばかりに、竜の鉤爪は振り下ろされ、オデットはなす術なく倒れ伏す
――
はずだった。
オデットを押し除けて、その爪の前に身を投げ出す人がいなければ。
「ヒューイさん!!」
魔法の壁など持たないヒトの体など、竜の爪の前では薄紙も同然だった。爪は、あっさりとヒューイの肩から腹を斜めに抉り取っていった。
夜陰の中でも目立つヒューイの白衣が、あっという間に赤黒く染まっていく。竜が目の前にいることも忘れて、オデットは地面に倒れ伏すヒューイの体に駆け寄った。
癒しの魔法を施そうと手をかざし、意識を集中しても、傷が一向に塞がる気配がない。それと同じ現象を、オデットは前にも見たことがある。
「
……
なるほど。これは確かに、人が忌避するものなのでしょうね」
「ヒューイさん
……
?!」
痛みのあまり、かえって錯乱したのではないかと思うほど、ヒューイは冷静だった。さながら自分の傷を第三者の目線で分析しているかのような口ぶりで、自身の傷口に手を当てる。その仕草は、彼が薬を作っているときの手つきに似ていた。しかし、当然ながら、どれだけ傷口を圧迫しようと、手のひらよりはるかに大きな傷から溢れ出た血が止まることはない。
「しっかりしてください、今、わたしが治しますから!」
「いいのです。ここまで損壊した肉体を戻すことは、魔法でも難しいことぐらい、私はよく知っています。それよりも
……
」
傷による痛みがひどいはずの体を無理に動かし、ヒューイはある方向に首を向ける。
視線の先にあったのは、一体の竜
――
ゲルトルーデだ。
先ほどの怒り狂った形相はどこへやら、竜はどこか困惑した様子でヒューイを見つめているようだった。
「ゲルトルーデ。私は、あなたに会いたかったのです。たとえ、惨たらしく殺されたあなたが、ヒトを憎悪するようになってしまっていたとしても。もう
……
今となってはそのことしか、覚えていられなかったとしても」
荒れた息を混ぜながら、ヒューイは言う。
「ですが、今のあなたは、狼狽えているようにも、見えるのです。
……
それが、私にはとても、嬉しい」
今まで、自分の気持ちすらよく分からないと語っていた男は、目を細め、心底から己の歓喜にその身を浸していた。
ゲルトルーデという竜が、ヒューイというちっぽけな男一人を傷つけたという事実に動揺している。その一点だけで、ヒューイの心は歓喜に包まれる。
「あなたの中に、私が傷として残るのなら
……
あなたの眼に、私が焼きついてくれるのなら、それだけでも、あなたに再会できた意味はありました」
もう思い残すことはない。そう言わんばかりに目を閉じようとする青年に、オデットは「ヒューイさん!!」と大きく声をあげる。
「だめです
……
! だって、ヒューイさん、まだちゃんとお話できていないじゃないですか! こんな
……
ずっと怒っているゲルダじゃなくて、ヒューイさんが知っているゲルトルーデさんを、もう一度
……
!」
もう一度。そう思っていたから、オデットは眼を破壊しようとはしなかった。竜の本体に、新たな恨みを刻み込むのを避けようと考えた。
竜の眼を抉り出し、またやり直す。何度でも。そうすれば、またゲルダに会える
――
そう信じていたかった。
けれども、ヒューイはうっすら瞼を開き、問いかける。
「私は、私の願いに従って
……
一度眠った彼女を、呼び起こしました。その結果が、これでも、私は
……
後悔はしていません。ですが、オデットさん。あなたは
……
私と同じになれますか」
わずかに動いた眼差しの先には、いっときの衝撃から立ち直ったのか、かぶりを何度も振り、咆哮をあげる竜の姿があった。
彼女は、いまだに怒りと憎しみに取り憑かれている。眼に宿った記憶に穏やかな思い出があったとしても、死という最も深い絶望を上書きできるほどのものではなかった。だから、ゲルトルーデは憤怒という名の狂気に取り憑かれ続けている。
「わたしが、ヒューイさんと同じに
……
?」
なれる、とも。なれない、とも。今は、言えなかった。
代わりに、ヒューイは小さく頷いた。オデットの躊躇を肯定するかのように。
「眼を失えば
……
今蘇ったゲルトルーデは、霧散するでしょう。その後、どうするかは
……
あなたが決めると、よいでしょう」
――
彼女の、最も新しい友人であるあなたが。
そう言うと同時に、彼の体から力が抜ける。瞬きすらしなくなった半眼の瞳は、最期まで竜を見つめていた。
少しずつ重みを増していく男の体を、オデットはそっと横たえる。瞼を閉ざしてやることはしなかった。彼はきっと、たとえ己の眼が蒸発したとしても、その直前まで自分が最も親しんだ竜の姿を瞳に収め続けることを望むだろうから。
「
……
ゲルダ」
苦しげに頭を振っていたゲルトルーデが、オデットのか細い声に、自分が向けるべき視線を定める。
ごつごつとした赤い鱗。オデットを一飲みできそうなほどに大きな口。
片目がはまっていた眼窩は今は空洞を晒し、もう片方の眼には灼熱と黄金の輝きを凝らせた瞳が、赤黒い憎悪の魔力を纏ってオデットを見つめている。
今まで、イシュガルドを襲ってきた竜そのものの姿で、ゲルトルーデはオデットを睥睨している。
(なのに、どうしてでしょう)
竜の表情などわかるわけもなく。ノエのように竜の声を聞いたわけでもないのに。
(
……
彼女が、泣いているような気がするのです)
己の罪悪感を殺すための幻覚かもしれない。それでも、オデットは己が感じるものを信じていたかった。
「ゲルダ。もう、戦うのは終わりにしませんか」
声をかける。しかし、返ってきたのは
――
咆哮だった。
この怒りは、世界の全てを八つ裂きにしてもなお収まらないだろう。生きた者ならば一瞬に通り過ぎる怒りだったかもしれない。いつかは他の喜びが上回る日が来たかもしれない。
しかし、彼女はすでに死んでいる。死んだものは、未来を得ることはない。
どれだけ、オデットと共に穏やかな時間を過ごしていたとしても。結局は、うたかたの果てに消える夢に過ぎない。
「
……
分かりました。でも、わたしは、あなたが誰かを無為に傷つけるのは嫌だと話していたことを、知っています」
異端者をいたずらに増やし、帰る場所を失わせるのは間違っていると語った、初対面のときの彼女を思い出す。
「あなたが、わたしのことを心配してくれたことを、知っています」
古い知り合いに再会し、蘇る記憶に翻弄されていたオデットの手を握っていた彼女を思い出す。
「わたしの幸せを願ってくれていたことを、知っています」
オデットを庇うために身を呈してくれただけでなく、彼女の逃げる道を作るために、竜の眼を受け入れた瞬間を思い出す。
「ですから、わたし、ゲルトルーデさんの怒りに応えてあげることはできません」
そっと手のひらを差し出す。さながら、そこに扱い慣れた天球儀があるかのように。
たとえ武具を持っていなくとも、オデットにとって、これは戦う意思を示す構えであることに変わりない。
ヒューイを傷つけた衝撃から完全に立ち直った竜が、前足をオデットへと振り下ろす。攻撃の意思を持った一撃を、オデットは魔力でできた糸で己を引っ張ることで回避する。続けて、自身が立っていたところに楔を打つように、魔力の中継地点を残すのも忘れない。
技法としては、ルーシャンが得意としている突撃と後退のための技と一緒だ。魔力を楔にして、自信を釣り上げるようにして己の体を迅速に運ぶ。さながら目障りな羽虫のように、あちこち飛び回るオデットに、竜は巨体をなんとか巡らせて少女を叩き潰さんとする。
だが、いつまでも単調な攻撃を繰り返すほど、竜は愚かではないはずだ。
(もう一度、重力の魔法を使えば
……
そうしたら!)
跳ね回りながらも、オデットは竜の隙を見つけようとした。だが、竜の首が最初にオデットが立っていた位置と逆の方向を向いた瞬間、その喉の奥から咆哮とは異なる炎熱の渦が輝き始めていた。
「また、炎が
……
!」
炎の息だけならば、オデットの魔法の壁で防ぐことは可能だ。しかし、竜もすでに気がついているはずだ。炎を浴びた直後に、爪で切り裂かれれば、魔法の壁は長く保たないということに。
しかし、炎そのものを避けられるほど射程範囲は狭くない。扇状に開く火の海を防ぐために、やむをえず、オデットは自分を中心に大きく半球状の壁を展開する。
「でも、これを凌いだところで、ゲルダに踏みつけられたら
……
」
「
――
そう思うなら、少しぐらい他人に頼るってことをしてほしいものだな」
するりと、オデットの横を通り抜けていく影。同時に、熱波がおさまり、代わりに巨大な影が振り下ろされた前足という形を伴って急接近する。
「
――
!」
真っ直ぐに振り下ろされた足を、一条の真っ赤な光が貫く。以前、凍りついた川の上で戦った時も目にした、紅の閃光。その魔法の使い手を、オデットは知っている。
「ルーシャンさん!?」
「こっち見てる暇があったら、今のうちに竜を止めろ!!」
「はいっ!」
平手で頬を打つような激励に、オデットはすかさず各地に楔として残していた魔力を一気に凝縮する。
先ほど、ノエのために隙を与えたときよりも大きい重力の渦が、竜の体を包み、膨大な圧となって竜を地面へ縫い付けた。
竜そのものの体重は支えられても、その何倍もの力がかけられれば、四つの足では到底体を支えられなかったのだろう。
地べたに倒れ伏す竜。それでも、近づく者全てを噛み裂かんと暴れる竜に接近して眼を取り出すのは至難の業に思えた。
だが、オデットが前に踏み出す前に、竜の前に光が弾ける。目眩しとなったのか、暴れ回っていた竜が一瞬硬直した。
「この光は
……
兄さん!?」
「ごめん、オデット。体勢を立て直すのに、時間がかかった」
言いながら、ノエは剣を竜の首へと向ける。
その先端にエーテルの高まりを感じたオデットは、彼が得意とする光剣の魔法で竜を縫い止めようとしていることに気がついた。
「待ってください! ゲルダを攻撃しないで!!」
「だけど、オデット。体の動きは止められても、今の彼女は危険だ」
「分かってます。だけど
――
……
だけど、きっと、もう
……
大丈夫です」
これは我儘であり、根拠のない自信であった。オデットは、ただ見たくなかっただけだ。剣に首を縫い止められ、さながら水に打ち上げられた魚のように無様に地べたに固定され、動けない状態で眼を抉り出される
――
そんな友人の姿を、目にしたくなかった。
それではまるで、ゲルトルーデが人間に殺されたときの再演のように思えてしまったから。
光が収まり、再びゲルトルーデが吼える。その姿を前にして、オデットは無防備なまでにゆっくりと竜の頭へと近づいていく。
「ゲルダ、こんな風に押さえつけてごめんなさい。すぐに
……
すぐに、終わりにしますから」
翼や前足は重力魔法に捉えられ、いまだに竜が動き出す気配はない。けれども、その首だけでも、ひとたび牙に切り裂かれれば、大怪我にも繋がるほど危険な代物だ。
竜を地面に縫い止める魔法に集中しているため、オデットはいつもの光の壁を自分の周りに作る余裕すらなかった。
近寄る少女に、竜は首を伸ばし噛みつこうとした。届かない距離であっても、鼻息から散った炎が少女の肌を焼きかける。
しかし、彼女の肌を焼く前に、少女の前に生まれた光の壁が炎を退けてくれた。
「
……
ありがとう、兄さん」
それが、ノエがかけてくれた障壁の魔法だと察して、オデットは小さくお礼を言う。
「ゲルダ」
ついに竜の頭の前にたどり着き、オデットは声をかける。唸り声をあげ、届くようになった牙を向けようとした竜は、
「わたしを守ろうとしてくれて、ありがとうございます。でも、わたしは
……
わたしのためであっても、ゲルダが誰かを傷つける姿を見ている方が、わたしが傷つくことよりも何倍も苦しい」
彼女の声に、竜の動きが止まる。
「わたしは、ヒューイさんみたいに、ゲルダのために死んであげることはできません」
我儘でごめんなさい、とオデットは言う。彼女の手が、ローブに結えつけてあるナイフに伸び、その柄に触れる。
「だから、わたしがあなたにできるのは、一つだけです」
ノエが負傷したときに、彼を護る力が欲しいと買い求めたナイフを、抜き放つ。
力を込めて握りしめたいのに、全く違う生き物になってしまったかのように、指がうまく動いてくれない。ナイフが落ちないように、指と指を絡め合わせ、柄を握りしめる。鋭く尖った刃に、魔力を重ね
――
ゲルダへと向ける。
一つになった眼が、青ざめた小さな少女をその視界に収め、
『
……
あなたが、私を止めるというのね』
聞き覚えのない、しかしどこか馴染みのあるような声がオデットへと響いた。
「ゲルダ
……
? もしかして、正気に戻って
――
!?」
『ありがとう、どこか愛おしく想える貴方』
思わずナイフを取り落としかけたオデットは、一瞬胸によぎった歓喜とは異なる意味で硬直する。
どこか愛おしく。ゲルトルーデはオデットのことをそう呼んだ。今まで何度も口にしてきた名前ではなく。
『うたかたの夢の欠片に、貴方の姿を見たようにも思うの。でも、それも所詮は
……
束の間の夢にすぎない』
竜は頭を巡らせ、オデットの前にその顔を置く。ノエが力任せに眼を抉り出したときとはまた異なる、厳かとも言えるほどに静謐な時間が、二人の間に流れていた。
『今この瞬間も、一抹の奇跡のようなものね。私の友人が導いてくれた、瞬きのうちに消える安息』
「
――――
」
『それなら、この世界への憎しみをまた思い出す前に、私は眠ってしまいたい。名前も知らない愛おしい貴方、私はどうやらそれを貴方に望みたいと感じているようなの』
そんなことを言わないで。
正気に戻れるのなら、またやり直そう。
そんな言葉が、喉の奥から次から次へと湧いては、消えていった。
けれども、オデットも承知していた。
竜の言うように、暴れ回る力を一時的に抑えられ、ヒューイを失った衝撃を引きずった今だからこそ、彼女は一時的に我に帰った。
そのどちらかを失えば、彼女はまた暴れ出す。彼女自身望んでいるとは言い難い殺戮が、再び繰り広げられる。
「
……
ゲルダ。わたし」
『さようなら。私の翼。私の友人。私のために泣いてくれる、愛しい貴方』
眼を見開いたまま、わずかに宿っていた理性の光が虚に消えていく。竜の喉の奥から咆哮が湧き上がる前に、
「わたしは
……
わたしも、ゲルダと一緒にいられて、幸せでした
……
っ!!」
エーテルを纏ったナイフが、竜の眼窩を貫いた。
***
抉りでた眼が地面に落ちた直後、竜の姿はそれ自体が幻であったかのように薄らと消えていった。
まるで、これまでの戦いそのものが夢であったかと思うほどに、亡骸すら残らない消失。それは、ゲルトルーデと呼ばれた竜が、すでにこの世界にいるものではないと示す結末でもあった。
「
……
オデット」
気遣わしげに呼ぶノエの声に、オデットは我に返る。転がり落ちた竜の眼を、ひたすらに見つめていた彼女は、無理矢理顔を上へと向ける。
周囲はゲルトルーデが放った炎により中途半端に雪が溶けて、何年ぶりになるか分からない地面が外気へと己の姿を晒していた。
周囲の家屋は倒壊しているか、あるいは彼女が残した炎によって、いまだに黒い煙をあげているものもある。だが、目立った被害者
――
遺体は見つからなかった。それが、辛うじての救いと言えるだろうか。
「最初にあの竜に飛びかかった連中以外で、怪我をした奴もいなさそうだな」
「
……
そう、ですね」
ルーシャンが口にした被害状況は、オデットにとって喜ばしいことではあった。
ゲルトルーデに
――
ゲルダに、誰かを傷つけるような真似はさせたくない。その一心で、オデットは竜となったゲルダを止めることを選んだのだから。
振り返ったオデットは、自分を見守っているノエが横抱きにしている人物を目にして、小さく息をのむ。そこには、先の戦いの最中で竜の爪にのり命を落とした青年がいた。
「
……
ヒューイさん」
「うん。あそこに残しておくは
……
流石に偲びなくて」
「竜があれほど派手に動き回っていたって言うのに、遺体に損壊がないなんて、まさに奇跡だな」
労わるようにそう言うルーシャンの言葉の通り、ヒューイの体には竜の爪以外の傷がなかった。あれほど激しく暴れ回りながらも、ゲルトルーデは最初の一撃以外でヒューイを傷つけることを無意識下でも避けていたのだ。
「
……
奇跡ではないと思います。竜のゲルダにとって、ヒューイさんは
……
友達、だったそうですから」
ヒューイ自身は、ゲルダの爪にかかって死ぬことをどこか望んでいるようにも見えた。彼は、竜であるゲルトルーデの心に消えない形で己を刻むために、自らの命すら使った。
だが、竜のゲルダにとって、ヒューイを自らの手にかけたことは、到底許し難い行いだったのだろう。だから、彼女はヒューイを殺めたという状況に置かれたことで、一時的に我に返り、オデットに幕を引くことを望んだのだ。
「それで、どうするんだ」
半ば放心状態だったオデットに、ルーシャンがこの先を問う言葉を投げかける。
「さっきの話じゃ、そこに転がっている竜の眼が、さっき暴れていた竜や、俺たちの知っているゲルダの核みたいなものなんだろ。それを知って、お嬢ちゃんは、その眼をどうするつもりなんだ」
彼の問いかけは、至極もっともなものだった。
このまま眼をここに残していくわけにはいかない。だったら、これから何をするべきか。
オデットは転がっている眼に向けて歩み出そうとして、その足を止める。
(これがあれば、またゲルダに会える
……
?)
ヒューイがそうしたように、錬金術を学び、人の器を作り上げて、眼を閉じ込めて呼び起こせば。また、あの天真爛漫な友人に会えるのではないか。
そんな希望が胸を一瞬掠めた。
同時に、最期に言葉を交わした竜の影の姿がよぎる。
世界に怒りをぶつける己を忌避して、眠りたいと望む竜の言葉が蘇る。
「わたしは
――――
」
オデットが何かを言う前に、大きな羽ばたきの音が空気を打った。
刹那、オデットたちの前に、暗い影が落ちる。ずん、と重たい響きと共に姿を見せたのは、
「あなたは、先ほどの
……
!」
すでに疲労困憊のオデットを庇うようにして、ノエはヒューイの亡骸をルーシャンに預けて、前に出る。
姿を見せたのは、先だってノエの前にも立ちはだかった蒼い鱗の竜
――
ゲルダの母親を名乗っていた竜だった。
しかし、ノエの予想に反して、竜は先ほどのように暴れるような真似はしなかった。
痛ましいものを見るかのような眼差しで、転がっている二つの眼を見つめる様子に、オデットはハッとする。
「あなたは
……
もしかして、ゲルトルーデさんの友達の竜
……
ですか」
『その名を誰から聞いたかは、問わないでおきましょう。いかにも、私はエレオノーラ。ゲルトルーデの片割れの翼です』
竜は首を巡らせ、オデットを正中に捉える。
すぐさまノエがその視線に割って入るが、竜はノエを眼中に入れていないようだった。
『あなたですね。眼だけとなった彼女の影のそばにいた人間は』
「はい。そうです。わたしは
……
ゲルダの友達、です」
でした、と言うにはまだ抵抗があった。これで全てが終わったとは、まだ受け入れられなかったのだ。
『あの男は、逝きましたか』
エレオノーラの目が、ルーシャンの腕の中にいる青年に向かう。血の気をなくした彼の顔に何を見出したのか、エレオノーラは暫し瞑目してから、
『彼は確かに、一時的に、一面的な形であるとはいえ、私の片翼を蘇らせました』
「それを壊してしまったわたしに、エレオノーラさんは怒っているのですか」
『最初はそのつもりでした。ですが
……
』
エレオノーラの眼差しが、転がっている竜の眼
――
ゲルトルーデの一部だったものへと移る。
『あなたに問います。ゲルダの友を名乗るあなたは、あの男のように、再び彼女を蘇らせようと考えるのですか』
竜の質問は、ルーシャンと全く同じものだった。
ゲルダに会いたい。もう一度話をしたい。
友人との再会を望む気持ちは、オデットの中に確かにある。
ヒューイに問われ、仲間に問われ、竜にも問われた。ゲルダともう一度会うことを望むのかと。
三重に重なった問いかけに、オデットは漸く答えを出す。
「
……
――
いいえ」
『何故、そのような答えに至ったのですか。あなたにとって、あの娘は所詮その程度の存在であったと?』
「そんなことありません! わたしだって、もう一度ゲルダに会いたいです。でも、きっと
……
わたしがまた同じことをしても、そこにいるゲルダは、わたしの知っているゲルダじゃないでしょう」
竜の眼が二つ揃った時点で、彼女は竜であった頃の記憶を核として、竜の姿を一時的に取り戻した。それと同時に、ゲルダとして人間の殻に閉じ込められていた時間は、竜にとっては夢の一幕へと逆転してしまった。ちょうど、人間の器にいたゲルダが、竜として生きていた頃の記憶を夢と思ったのと同じように。
「それに、ゲルトルーデさんは、世界を恨むことを思い出す前に眠りたい、と
……
言いましたから」
だというのに、彼女は今回のことも覚えていないだろうからと、もう一度呼び起こすのは。
それこそ
――
我が儘(エゴ)というものだ。
「それでも、エレオノーラさんはもう一度ゲルトルーデさんに会いたいですか」
エレオノーラは、じっとオデットを見つめた後、深く息を吐き出した。彼女の吐息の余波で、ゲルトルーデの炎が露わにさせた土に薄く氷が積もっていく。
『
…
あなたは、あの男と違う考えを持っているようですね。私は、少なからず、あの男の切望に同調しました。何も覚えておらずとも、ただ怒り狂うだけの存在であったとしても、ゲルトルーデが生きて動く姿をもう一度と願う己自身を優先しました』
「でも、それは
……
すごく、当たり前のことだと思います。誰だっていなくなってしまった人に会いたいと望むでしょうから」
『ですが、それだけではありません。私は、彼女が怒り狂う様をどこかで見たいと願っていたのでしょう』
エレオノーラは首を振りあおぎ、いまだに争いの火を燻らせ続けている集落へと視線を向ける。
一同が立っているのは、集落の最も奥まった地点であった。そのため、そこからは眼下に広がる騒乱の様子がよく見えた。
集落の戦いには、最初ほどの勢いはもうなかった。武具を整えた兵士が優勢を得た戦いは、事態の収束に向けて動き始めている。
「エレオノーラさん。あなたはヒトを憎み、嫌っていると話していました。だから、異端者にもわざと手を貸し、人間同士の内紛を誘った。あなたの友人の竜を蘇らせたのも、同じ理由からですか」
ノエの質問に、エレオノーラは人同士の争いを見つめながら答えた。
『私は決して、彼女を自分の味方に引き込むために、蘇ってほしいと願ったのではありません。ですが
……
同調してほしいとは思っていたのかもしれません。あの子は、ヒトへの憎悪を口にすることなく、私の前からいなくなりましたから』
エレオノーラの前足が、竜の眼にかかる。ゆっくりと足元に転がってきた二つの眼。彼女は、それを自身の前足で抱え込む。その所作は、彼女がもう眼をヒトに渡すつもりはないと示していた。
『あの子も怒り狂う姿を目にして、私は己の怒りを正当化したかったのかもしれません。ヒトと竜は決して相入れない生き物なのだと、ヒトを友と言ったあの子すら、ヒトに憎悪を抱くのだという証明を』
「
……
ゲルトルーデさんのことを、わたしはよく知りません。ですが、ゲルダは誰かを傷つけることを嫌う子でした。少なくとも、自分のそばにいる人が、悲しむような結末になるのは嫌だと思う。それが、わたしの知るゲルダです」
「
…………
」
オデットの言葉に、ノエはゲルダと語ったある日の朝のことを思い出していた。
異端者になってしまった無辜の犠牲者のために、彼女は一人の司祭を異端者へと転じさせた。そのことを、彼女はどこかで受け入れているように見えた。ゲルダは決して、オデットが思うほど、無垢な善人ではない。しかし、ゲルダなりに己の善悪を信じ、前に進もうとしていた。彼女の歩みを、ノエもまた見守っていようと思っていた。
だが、その成長の日々すら、所詮死者の夢に過ぎなかった。そして、竜は二度と目覚めない幕引きを望んだ。
「ゲルダさんは、このような結末を選びました。では、あなたは、これからどうするのですか」
オデットの感傷が混じった呟きに重ねるようにして、ノエは尋ねる。もしヒトに牙を剥き続けるというのなら、ノエは目の前の竜と一戦交えることも視野に入れねばならない。
果たして、竜は薄く目を伏せ、
『あの子を奪った人間を、私は許さない』
「
…………
」
『ですが、怒りを、憎悪を、人間に対して抱き続けるのは、果てがない。その道なき道が、私にもようやく見えてきました。そこに終わりがあるというのなら、私に終わりを運んできてほしいものです』
どこか疲れたように呟くエレオノーラに、
「
……
随分と勝手なことを言ってくれるな」
吐き捨てるような語調で、ぼそりとルーシャンが呟く。
これまで竜に殺された人々を目にしてきた者にとって、エレオノーラの倦み疲れたような物言いは、強者の傲慢のようにも感じ取れたのだ。
しかし、彼女の言葉が帯びる倦怠の感情には、ここにいる者たち全員にとっても覚えがあることでもあった。
「それなら、ゲルトルーデさんのように仲良くはできなくても、せめて
……
心に封じることはできませんか。ゲルダは、わたしに、幸せになって、と言ってくれました。きっと、もっと古い友達のエレオノーラさんにも、同じことを言うはずです」
『忘却とは、人の短い時間だからこそ許されることです。今こうして、私はあなた方と話をしていますが、きっかけがあれば、再び私は牙を剥いてしまうでしょう』
「
……
きっかけ?」
『我が祖の憎悪の咆哮。ニーズヘッグ様の一千年続く怨嗟の嘆きは、私をどうしようもなく怒りに駆り立てる』
たとえ、いっときは「もう終わりにしよう」と思えても、あのときの怒りを思い出せと急かされれば、再び怒りの芽は芽吹いてしまう。
ヒトのように短い期間で全てを忘却に押しやることができない竜であるからこそ、邪竜の咆哮は起爆剤としてあまりに効果がありすぎる。
『しかし、今はまだ、私は私の考えを優先できます。あなたがゲルトルーデの復活を望まないのなら、この眼はもう誰にも委ねるつもりはありません』
「わたしも、エレオノーラさんに持っていて欲しいです。たとえゲルダが蘇らなくても、その眼にはとても強い力が宿っていました。それを、他の人に使われるようなことがあってはいけませんから」
ヒューイが語ったように、竜の眼にはヒトに超常の力を授けるのだろう。しかし、その力は間違いなく竜を殺すことに使われる。そのような扱われ方は、決してゲルダは望むまい。
蒼き鱗の竜は大きく一度頷くと、眼を抱えたまま翼を大きく広げた。後足で蹴り上げた雪がオデットたちの視界から一瞬エレオノーラを隠し、気がついた時にはすでに彼女の姿はどこにもなかった。
「竜はいなくなった。あちらさんの方も
……
決着はそろそろ着きそうだな」
ルーシャンが見やった先では、人と人の争いが少しずつ終結を迎えていた。
彼らの中の何人が、この争いを望んだのだろうか。そして、この混乱の中から抜け出せた者はどれほどいるだろうか。
問いかけたところで答えはない。故に、ノエもルーシャンも沈黙するしかなかった。
誰もが言葉を口にするのを憚るような沈黙の中、とさり、と軽い音が響く。オデットが、糸の切れた人形のようにその場に頽れた音だった。
「オデット」
怪我をしたわけではない。傷を負ったわけでもない。そんなものは、ノエたちの負傷に比べたら瑣末なものだ。
「
……
わたしは」
少女は、震える己の指先を見つめる。
ナイフを握り、渾身の力で振り下ろした瞬間を、今更になって思い返した。
「わたしは、ゲルダを」
実際にオデットは友人を殺したわけではない。なぜなら、彼女はすでに死んでいたのだから。
それでも、彼女の一撃は、ゲルトルーデがこの地にいるという夢を
――
消し去った。
「ゲルダを
――
……
っ」
胸に手を当て、必死に己が為したことを受け止めようとする。だというのに、心のどこかで今この瞬間に起きた全てを幻にしたいと、駄々をこねる自分がいる。
それらが衝突し、胸の奥がずきずきと膿んだように痛んで、痛んで。
息がどんどん短くなる。浅い息で呼吸をするのは、ひどく苦しい。いっそ息を止めてしまいたかった。そうしたら、この苦しみから逃げられる。そうしたら
――
。
「オデット」
もう一度、ノエが少女の名前を呼ぶ。だが、今回はただ呼びかけただけではない。
オデットの腕を掴み、自分の腕の中に隠す。そして、彼は言う。
「君が今感じていることは、無理に抑えなくていいから」
かつて、自分も違う形で仲間に
――
傍らにいる男に心の重石をずらしてもらった。
「だから、全部吐き出していい」
その時間くらいなら、僕が守るから。
ノエが口にした言葉が耳に、こころに届いた瞬間。
「あ、あぁ、うぅ
……
っ」
オデットは嗚咽と共に言葉にならない言葉を吐き出していた。
「
――――
っ!!」
ゲルダの名前を叫んだ。
ごめんなさいと喚いた。
どうしてと憤った。
誰ともしれぬ相手を罵った。
その怒りは、ゲルダをただの器として作り上げたヒューイに向けてのものだったかもしれないし、自分たちを攫った異端者へかもしれない。オデットをはめたアガテルに宛てたものかもしれないし、異端者たちを追い詰めた騎兵かもしれない。
そして何より。
ゲルダがここにいるという夢を否定した己に向けてのものだった。
自分を宥めるノエの手を振り払い、オデットは彼の鎧の胸当てを何度も拳で叩いた。叩きすぎてその手が赤くなっても、彼女にはやめられなかった。
ノエにその手を掴まれ、止められる瞬間まで。
彼女が慟哭を止めることはなかった。
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