千代里
2025-05-01 08:22:44
10951文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その66


 曇った硝子がびりびりと揺れる。硝子すら震えさせる竜の咆哮に、ミラベルは思わず顔を顰めた。
 今日はやけに竜の声がよく聞こえる。町の近くを竜が通っているのではないかと思うと、いくら頑丈な市壁の中にいても不安を覚えてしまう。
「ミラ、硝子割れない?」
「ドラゴンたち、やってきたりしない?」
「大丈夫。そう簡単に割れるような弱い硝子を、職人さんたちは作ったりしないよ。それに、竜だってすぐに騎士がやっつけてくれる」
「本当?」
「本当だ。町に魔物が入ってきたことなんざ、一度もなかっただろ」
 不安げに問いかける子供たちを安心させるために、今日何度目になるか分からない言葉をミラベルは繰り返す。
 大丈夫。何事も起きない。それよりも、今日の勉強は終わったのか。
 そうやって目先のことに考えをそらさせて、子供たちの安寧を守るのが今のミラベルの仕事だ。
 いつ自分が竜に食われるかと震えながら、幼子までもが戦々恐々とした時間を過ごすなど、間違っている。そう信じているからこそ、詭弁だと分かりながらも、ミラベルは日常を保ち続けるための言葉を口にし続ける。
 手伝いに来てくれた青年に子供たちを任せてから、彼は束の間の休息の時間に身を委ねた。
 ちらりと見やった視線の先、堅牢だと先ほど話したばかりの窓の硝子が再びガタガタと嫌な振動を続けているのを目にしてしまった。
(本当に、近くに竜が来ているのか?)
 たとえ、そうだとしても、ミラベルにできることはない。
 イシュガルドのどの街でも、彼らの置かれた状況は変わらない。無力な町民にできるのは、貴重品を握りしめて、頑丈な建物の中に逃げ込み、竜が自分を見逃してくれと祈ることだけだ。
「だからこそ、こんな国にあんたが長居する必要はないんだ」
 数日前に別れた少女の横顔を思い出し、思わずといった調子でミラベルは呟く。
「ただでさえ、権力に取り憑かれた亡者みたいなやつがいるっていうのに。その上、竜なんていう脅威がその辺を彷徨き回っている国になんて」
 良いところなど一つもない国だ。
 そう言い切ってしまいたくなるのに、それならなぜ自分はこの国にいるのだろうという自問が生まれる。
 この問いかけ対する答えは、きっと皆違うのだろう。
 権力と財産がこの国に集っているから。あるいは皆を守る使命があるから。友人や家族を捨て置けないという意見もあるかもしれない。
(でも、あんたにはもうないはずだ。この国に、あんたが残り続ける理由はない。いや、理由ができる前に……旅立つべきだ)
 自分にとって、この国に居続ける理由――小さな子供たちの呼び声に、ミラベルは腰を上げる。
 彼は知らない。
 山脈を超えたその先、異端者の集落にて、すでにオデットは己の『理由』と対峙していることに。
 
 ***
 
「ゲルダ!!」
 異端者と騎士が争う声。剣戟の音。誰かの悲鳴。
 それら全てから目を逸らし、オデットは走る。
「ゲルダ、わたしです! 聞こえますか!!」
 彼女の耳に轟くのは、竜の咆哮のみ。
 体の芯まで痺れるような大音声に、オデットは何度目になるか分からない恐怖を覚える。
 自分よりも遥かに大きな存在が、彼女の前に難攻不落の城壁のように聳え立っている。
 爪のひとなぎで、翼で一度打たれるだけで、自分などあっさりと命を落とすだろう。そんな相手の元に駆け寄るなど、正気の沙汰ではない。
(でも、わたしは、ゲルダを止めたい)
 その気持ちだけを己の楔として、オデットは震え上がる自分の心に鞭打ち、荒れ狂う竜――ゲルトルーデへと距離を詰める。
 ヒューイはそばにはいない。彼には、少し離れたところで待ってもらっていた。
 ついて行くと言ってくれたのは心強かったが、戦う術を持っていない人間が周囲にいたところで、巻き添えにしてしまうだけだ。
「ゲルダ、見てください。ほら、わたしは大丈夫です。だから……そんな風に暴れなくても、もういいんですよ」
 ゲルトルーデまでの距離が、十ヤルムほどになったところで、更にオデットは声を張り上げた。人間ならば聞き取りづらい距離ではあるが、巨大な竜であるならば、人間の小さな声であろうとも聞き取ることは難しくあるまい。
 果たして、ゲルトルーデは緩慢に首を動かし、オデットを見やった。これまで近づく人間に手当たり次第に炎を撒き散らしていた竜が、明らかにこちらへと視線を合わせた。
「ゲルダが竜だったこと、ヒューイさんから聞きました。……ゲルダが、人間に殺されてしまったことも」
 竜は大きな瞳を一度瞬かせる。赤と黄金が混じったような瞳は、不吉な光を宿しており、そこにどんな感情があるのか――そもそも理性と呼べるものが残っているのかも、もう分からない。
「だけど、ゲルダはわたしを友達だって言ってくれました。わたしを庇ってもくれました。わたしは、そんなゲルダを知っています」
 一時的に怒りに取り憑かれているだけならば、見知った友人の声を聞いて我に帰ってくれるのではないか。オデットは、そんな糸のように細い希望に縋っていた。
(ゲルダが人の形に戻れなかったとしても、もう二度と一緒にいられなくても、こうやって暴れ回ってヒトを傷つけるよりはずっといいはずです)
 竜の顎が、呼吸に合わせてゆっくりと揺れている。そんな小さな挙動にすらも、微かに恐怖を覚えながら、オデットは続けた。
「わたしは、ゲルダが今みたいにヒトを傷つけるところは見たくありません。わたしを逃すためだって言ってくれたけれど、わたしはそんなこと望んでません。だから――
 オデットが言葉を紡げたのはそこまでだった。竜がゆっくりと顎を開くと同時に、その喉の奥から溢れんばかりの炎熱の光が生み出されたのを見てしまったからだ。
 咄嗟に前に手をかざし、使い慣れた魔法を用いて障壁を生み出す。そうしなければ、オデットはあっという間に丸焦げになっていただろう。
「ゲルダ、お願いです! わたしの話を聞いて!」
 ごう、と耳を焼く炎の音に、足が一瞬ふらつく。
 間近に迫った熱と、眩しすぎるほどの炎の光。暗闇の中に蠢く蛇のような炎の光に、一瞬オデットは既視感を覚える。
(わたしは……どこかでこんな風に炎を見たことがある)
 肌が一瞬炎を掠め、熱に皮膚が侵される感覚を知っている。
 オデットはノエに保護されたとき、軽度の火傷を負っていた。彼から手当を受けた覚えもある。では、この炎の記憶は、自分が記憶を失う前後のものなのか――
――――!!」
 一瞬、思考が過去に遡りかけたオデットを、ガラスを割るような甲高い音と、全身の内側に響いた衝撃が彼女を現実に引き戻した。
 炎の光は既にない。しかし、代わりに豪風と共に、巨大な爪がオデットへと迫っている。
――あ」
 炎で壁を打ち破れないと判断した竜が、直接爪で敵を切り裂きにきたのだ。それを理解するより前に、オデットの柔らかな体を竜の爪が貫き――
「オデット!!」
 衝突音。直後、オデットの体を大きな影が覆う。
 自分の前に立つヒトの形をしたものは、誰か。すぐにオデットは気がついた。
「兄さん!? でも、どうしてここに――
「話は後だ! それよりも、今は下がっていてくれ!」
 オデットが使っていた以上に堅牢な魔法の障壁が、ノエの盾に光の壁として浮かび上がる。
 壁は堅牢ではあれど、オデットのものより長続きはしない。だから、すぐに下がるように言ったのだ。
 ノエの指示に従い、オデットは竜の爪が届く範囲から離れる。すかさず、何かが弾けたような音と共に、ノエが後ろに飛び退ったのが見えた。
 すぐさま姿勢を立て直し、竜の様子を伺う彼の横顔は、明らかにゲルトルーデを『倒すべき敵』として見据えている。
「兄さん、待ってください! この竜を殺さないで!!」
「何を言ってるんだ、お嬢ちゃん! 気でも触れたのか!?」
 返事をしたのは、後ろに下がったオデットのそばに駆け寄ってきたルーシャンだった。
「だって、この竜は、ゲルダなんです! ゲルダが竜だったんです!」
「ゲルダさんが……!? じゃあ、彼女が、竜の血を飲んだということなのか?」
「違います! 話せば長くなってしまうので、全部は説明できないのですけれど……とにかく、今ここにいる竜は、間違いなくゲルダなんです!!」
 オデットの必死の説明など嘲笑うかのように、竜は大きく口を開き、嵐の如き猛火をノエたちへと叩きつけた。
 ルーシャンに手を引かれ、瓦礫の裏側に逃げ込まなければ、オデットは燃え滓すら残さず消えていたことだろう。
「事情はよく分からないが、もともと竜だったゲルダが人間の姿をしていて、元の姿に戻ったって言いたいんだな。じゃあ、二つ目の質問だ。どうして、ゲルダが俺たちを攻撃している?」
「ゲルダは、人に殺された竜だったんです。ですけど、今までは死ぬ前のことを忘れていました。だから、人間であるわたしたちと一緒にいられたんです。でも……
「だけど、何かの弾みで思い出しちまって、ってことか?」
「簡単に言うと……そういうことになります」
「だから、俺たちはゲルダ嬢ちゃんにとっては憎き人間であり、まとめて焼き殺されそうになってるってわけか」
 オデットの説明にはかなり突拍子もない部分もあったが、緊急時において、ルーシャンは疑問を全て飲み込みオデットの意見を受け入れる方を選んでくれた。
「ノエ、お嬢ちゃんの話ではそういうことらしいが。それで、どうする?」
 リンクパールの通信を開いて、先ほどの話をノエに伝えていたのだろう。ノエからの返答はすぐにはなかった。代わりに、竜の咆哮轟き、この場にいる全員の体を震わせた。
……オデット』
「兄さん」
『ゲルダさんが竜になってしまって、正気を失くしているのなら、僕たちはすぐにでも引き下がるべきだ。そうすれば、少なくともゲルダさんはオデットを傷つけずに済む。ゲルダさんも、仲良くしていたオデットを傷つけるような結末は望まないはずだ』
 その言葉の裏には、かつてグレンという少年が竜になったときの顛末を思い出していることは、オデットにもすぐ分かった。
 グレンは、竜に変じた後、最も親しくしていた友達を殺しかけた。そのような終わり方だけは迎えさせてはならないと、ノエはグレンを止めようとした。
 結果、ノエは竜に変化した少年を殺した――
「でも、兄さん。そうしたら……ゲルダは、どうなるんですか」
 ノエが何を思って今の言葉を口にしたか、オデットにも分かっている。けれども、言わずにはいられなかった。
「このまま、ゲルダをここで暴れさせたままにしておくんですか。……ゲルダに、人を傷つけさせたままにするんですかっ!」
 ノエの言っていることが正しく、自分は間違っている。ノエはただ、オデットを護るために、逃亡を提案してくれているのだ。
「わたしは、ゲルダを止めたいんです。何とかして、傷つけずに……
『それは無理だ、オデット。止めるといっても、ゲルダさんは僕らを攻撃している! ここは引き下がるべきだ』
 けれども、オデットは叫ぶ。
「そうして、またどこの誰とも分からない人間に、ゲルダは殺されるんですか……!」
 慟哭めいた叫びで、オデットはノエに縋った。
 ノエならば、何かができるかもしれないとオデットは信じたかった。彼の正しさはオデットと同じ方向を見ていると、たとえオデットの願いを完全に叶えることはできずとも、ノエならば――そう思いたかった。
 だが、ノエの返事はない。代わりに、ずん、と重たい足音が響く。
「しまった、もう見つかったか……!」
 それは、竜が瓦礫の裏に逃げ込んだ人間たちに向けて、竜が突進してくる音だった。
 ルーシャンが立ち上がり、レイピアを構える。だが、彼がいくら優れた魔法を扱えるといえども、竜の巨体は人間の前ではあまりに圧倒的だ。竜の頑丈な体に比れば、レイピアなどまるで枯れ枝の切れ端と変わらない。
 覚悟を決めて竜と睨み合っていたルーシャン。しかし、不意に竜は前進を止め、その首をゆるりと明後日の方向に動かす。
……助かった。ノエがやってくれたか。だけど、あれじゃいつまでも保つか分かったものじゃないぞ」
 目を凝らせば、竜の後足の方から近づいたノエが、光の魔法で竜を誘ったのが見てとれた。
 きーんと耳の奥に残るような音も聞こえたのは、彼が竜を誘うためにわざと音を魔法で生み出したからだろう。
「俺には詳しい事情は分からないが、あれがゲルダで、オデットがどうしても友達を殺したくないっていうのなら、俺はノエの意見に賛成だ。さっさと俺たちは引き下がって、あとは騎士団やら領主様お抱えの騎兵やらに任せればいい。彼らは竜退治の専門家だ」
――――
 ルーシャンの言葉の正当性に、オデットは唇を噛み締めることでしか応えられない。
「だけど、ゲルダが他の連中に仕留められるのが嫌だっていうのなら。お嬢ちゃんは覚悟を決めろ」
「でも、わたしは……
「悪いが、駄々を捏ねた姫さんのたわごとに全部付き合ってやれるほど、俺もノエも万能じゃないんだよ」
「たわごとなんて、わたしはそんなつもりじゃありません!!」
 ルーシャンの声音は堅かった。まるで、石を相手にしているかのようだ。
 常ならば、オデットの意見に困った顔をしつつも、最後には頷いてくれたルーシャンが、まさかそのようなことを言うわけがないと振り返ったオデットは――言葉を失う。
 自分を見下ろす魔道士の瞳には、いつもの茶目っ気など、どこにもなかった。
「たわごとじゃない? 竜を助けたいなんて、どっからどう聞いても、たわごとに決まってるだろ!」
 今まで聞いたこともない叱責に、オデットはゲルダが竜に変化したときとは異なる驚愕に、一瞬身を竦めた。
「いいか。これでも、俺はかなり譲歩してるんだ。本当なら、お嬢ちゃんが見つかった時点で、お前の首ねっこ引っ掴んで町に戻りたいって思ってるんだ」
 だが、ルーシャンはオデットの意思を尊重して、いまだにここに踏みとどまっている。
「俺もそれなりに腹はくくっている。だったら、オデット。お前も覚悟を決めろ」
……ゲルダが他の人間に殺されることを認める覚悟を、ですか」
「そうじゃない。他の人間に殺されるのを見たくないっていうんなら」
 ルーシャンはオデットの手を掴む。その手を握る力は、常のそれより強く――痛い。
――せめて、自分の手で止めてやる。そういう覚悟だ」
 ノエに任せるのではなく、ルーシャンに泣きつくのでもなく。
……そうでした。わたしは、最初はそのつもりだったのに)
 ゲルトルーデに近づき、彼女から殺意を向けられた恐怖に晒され、あっという間に忘れてしまっていた。ノエが助けに来てくれた姿を目にして、彼に全て委ねてしまえば何もかもが解決すると思いこんでしまった。
……わかりました」
 今は、震え上がっているときではない。ノエに泣きついてばかりの子供は卒業すると、随分前に決めたではないか。
「わたしが、ゲルダを……止めます。だから、お願いです、ルーシャンさん。わたしを……『手伝って』くれませんか」
「死なない程度にな。俺にも、まだやることがあるんだ」
『僕は最初からそのつもりだよ、オデット』
 リンクパール越しに、ノエの穏やかな声が申し訳なさそうに響く。己の力がゲルダを救うのには足らないことを、ノエも心苦しく思っているのだろう。
 だが、今は彼にその重荷を背負わせるつもりはない。
……いいえ。わたしが、その荷物を持ちたいのです)
 こればかりは、ノエに任せるわけにはいかないものだった。
 
 *
 
 竜を仕留めるには、まず弱点を探る必要がある。ゲルダは火の属性を強く持つ竜のようだが、冷気にも十分耐えうるほどの強さもあるようだ。そのため、雪原の只中に蘇ったものの、動きそのものが極端に鈍るようなことはなかった。
「でも、翼があるのに飛ぶ気配がありません。そこが弱点なのでしょうか」
「いや、これと同種の竜を目にしたことがあるが、空を飛ぶ機能はあったようだ」
 竜の隙を狙い続けているルーシャンが、苦々しげに答える。
「あの竜について、お嬢ちゃんは他に何か知らないのか」
「もしかしたら、ヒューイさんなら……何か知っていたかもしれませんが」
「どうしてあの先生が出てくるんだ?」
 オデットは、ヒューイがゲルダという竜に固執した結果、彼女を蘇らせるためにあれこれ画策していたことを簡潔に伝えた。ルーシャンはもの言いたげに唇を歪めると、
「で、その先生は今どこにいるんだ」
「今は、少し離れたところで様子を見てもらっています。ゲルダに、これまでと違う変化がないか見たいと言っていたんです」
「能天気なものだな。ったく、こっちの気も知らずに」
 もし、ゲルダが本当に討たれたら、ヒューイは悲しむのだろうか。
 だが、あの無機質な瞳を持った錬金術師は、再び竜の眼を取り出して、ゲルダを蘇らせようとするかもしれない。
 そこまで思い至り、オデットはハッとする。
「そうだ、『眼』です! ヒューイさんは、『眼』にゲルダの魂が宿っていると言っていました!」
 ゲルダに人格を与えたのが片眼なら、両眼が揃うことで彼女は竜の体と記憶を完全な形で取り戻した。
 それならば、今こうして暴れている竜の眼窩から眼を取り除くことで、彼女を止めることができるのではないか。
 オデットの発案には、当てずっぽうとは言い難い確信があった。
 話を聞いたルーシャンも、一考に値すると眉間に皺を寄せて素早く勝算のほどを確かめる。
『だったら、竜の眼を狙って眼を抉り出せば、彼女は止まるということか?』
 ノエの確認に、オデットは「恐らくは」と肯定を返す。
 ゲルダ――ゲルトルーデという竜の肉体自体は、すでに滅ぼされているのだ。止めるべき心の臓は失われていると考えるならば、その動力は他にあるのだろう。それが『眼』というわけだ。
「だが、眼は頭にある。頭なんて、早々相手も攻撃させてくれないだろ。気をつけろよ、ノエ」
『ああ、分かっている』
 肯定を返すと同時に、激しい衝突音がリンクパール越しに響く。わざわざ確認するまでもなく、オデットの目からもゲルダがノエの盾を前足で強く打ち据えているのが見えた。
「四つ足であそこまで素早く動かれちゃ、一対一で眼を狙うなんて夢のまた夢だ。俺はノエの援護をしてくるから、嬢ちゃんは援護と防御を頼む」
「はいっ」
 素早く役割を確認して、ルーシャンはノエへと向き直った竜の死角へと向かう。高速で放たれた冷気の魔法は、竜の後足を氷漬けにするだけでなく、竜自身に不愉快な感覚を齎していたらしい。
 鬱陶しげに半ば振り向いた竜の尾が、ルーシャンを打ち据えようと振られる。間一髪交わしたものの、一撃を受ければ強烈な一打になるのは目に見えていた。
(わたしの作る魔法の壁では、きっとその場しのぎにしかならない)
 竜の爪の一撃で破られた、先だっての一幕は、オデットの瞳にも焼き付いている。
 だったら、ここはルーシャンのように守りに徹していては、事態を動かすことはできない。
 竜は前方と後方のノエたちを、それぞれ爪と尾で追い払っている。火の息は吐き出せずにいるようだが、それでも十分に脅威であることに変わりはない。
 四つ足で踏ん張り、その巨体を持て余すことなく駆使している竜。歴戦の勇士を思わせる堂々とした佇まいをじっと観察していたオデットに、ある閃きが電流のように走る。
「四つ足で体を支えている……それなら……!」
 天球儀がないので、胸の前に手を合わせて祈るようにして、彼女は己の魔力に触れる。
 呼び起こすのは、星の魔法。その中でもより強大な、星そのものが持つ重力を操る魔法だ。
「どれでもいい、体の重心を崩せるなら……!!」
 ざっと視線を走らせ、ルーシャンともノエからも離れている前足の一つに魔法の狙いを定める。間を置かず、空気が歪む音と共に狙った箇所に灰色の球状の空間が生まれた。
 ガクンと傾ぐ、竜の巨体。四つの太い足で巨体を支えていた竜に対して、その一つの足に過重を与えるのは、単に攻撃を加える以上の意味を与える。この好機を、ノエが逃すわけがない。
『ありがとう、オデット……!』
 リンクパール越しのお礼と共に、遠くに見えるノエの影が姿勢を崩した竜へと肉薄する。
 *
 眼前に立ちはだかる竜の猛攻に対して、ノエは一撃一撃を凌ぐことしかできなかった。牙や爪を必死で盾で受け止めるばかりで、その頭部――しかも、顔の両側に位置する目など、到底剣が届くわけもない。
 いつ訪れるかもわからない隙が巡り来るのを、ただただ待っていたときだった。
 竜が踏み出そうとした前足の一つが、鈍色の球体に包まれる。刹那、空気そのものが歪むような異音と共に、竜の足が見えない巨人の腕に引かれでもしたかのように地面へとのめり込んだ。
「これは、もしかしてオデットが……?」
 ぐらりと重心を崩した竜の頭部は、今までにないほど無防備だ。すかさず、ノエは盾ではなく剣に魔力を集中させ、攻めの姿勢へと切り替える。
「ありがとう、オデット……!!」
 友人であった少女を止める――半ば殺すも同義の選択をしたというのに、彼女は背を向けずに戦い続けている。その決意に、ノエは無言の賞賛を送った。
 握り込んだ剣の柄に、これでもかと魔力を注ぎ、足の裏で爆ぜた魔力を踏み台に、横転しかかっていた竜の頭へと飛びつく。さながら、差し出された贄のように空を睨むばかりとなった竜の頭部にノエの足が届いた。
 巨大な竜の顔面に飛び移ったノエは、唇を噛んで、剣先を鱗と目玉の隙間に突き入れる。
……!!」
 刹那、竜の咆哮がノエの耳を打つ。至近距離での竜の唸り声は、破城槌で頭を殴りつけるような衝撃をノエに与えた。
 目玉を抉り出そうとするノエを振るい落とそうと、巨体がのたうちまわる。足に魔力を這わせ、踏ん張っていなかったら、間違いなくノエは振るい落とされていただろう。
「まずは、一つ……!!」
 夥しい魔力の渦を孕んだその眼は、ただの生き物の目を抉り出すよりずっと難しい。それでも渾身の魔力を込め、眼窩に沿うように剣を動かし、眼と虚像の肉体を繋ぐ何かを――絶った。
(よし、同じようにもう一つを――
 だが、一瞬緩んだノエの隙をつくようにして、竜の体から強大な殺気が膨れ上がる。
「おい、すぐに下がれ!!」
 ルーシャンに警告されるまでもない。このままここにいては、何かまずいことが起きる。そう判断したときには、すでに遅きに失していた。
「ノエ、伏せろ!!」
 刹那、ノエが思い出したのは、暖炉の熱気だった。
 幼い頃、火の恐ろしさを知らなかったがために、赤々と燃え盛る炎に無防備に手を伸ばしたことがある。ぼんやりと感じていた温もりが、やがて熱に変わり、これ以上は危ないと感じる前に使用人に引き戻された記憶。
 取り留めもない思い出が脳裏を巡ったのは、走馬灯に近かったのかもしれない。
……っ!!」
 意識が現実に戻った瞬間、ノエの体は竜巻に煽られた紙切れのように吹き飛ばされていた。宙を飛ぶ浮遊感を感じたのは、ほんの数秒。すぐに全身を叩きつける衝撃に、意識が飛びかけた。首と背骨を守るために反射的に防御の魔力を集中させていなかったら、どこかを折って命を落としていたかもしれない。
(今、何が……
 衝撃が通り過ぎた後、全身の痛覚が衝撃とは異なる痛みを感じて悲鳴をあげている。
 体を切り裂かれたような傷ではない。まるで体を丸ごと暖炉に投げ込まれたかのように全身が熱を帯び、高温が肌を舐めて皮膚を害しているのが感じられる。ひりひりと全身を苛む痛みは、火傷を負ったせいだと理解するのには、数秒を要した。
 激痛を訴える瞼を無理矢理開けば、竜の周囲一帯の雪が、まるでそこだけオーブンに突っ込んだかのように全て溶けて地面が露出している。
(地面が、燃えている……?)
 ただ雪が溶けるだけでなく、燃料もないのに土が燃える。それほどの高温の熱波を、眼を抉り出された直後、竜が全身から放ったのだ。
 リンクパール越しに聞こえる、微かな息遣い。恐らく、これはルーシャンだろう。彼もまた、同じように熱風に吹き飛ばされてしまったようだ。
 膨大なエーテルを持つ竜だからこそ許される、ただ己の力を乱暴に放出するだけの一撃。しかし、全方位に放たれた強力な熱風は、非力な人間を一撃で叩きのめすには十分すぎた。
 回復せねばと、自分に向けて癒しの魔法を発動しようにも、すでに竜は雄叫びを上げていた。重力の魔法の影響もかき消え、竜は難なく己の体を引き起こしている。
(今襲われたら、逃げられない……
 辛うじて動く瞳で、せめて竜の動向だけを探ろうとしたノエを嘲笑うように、残った竜の片目がノエの視線とぶつかる。
――――
 全身の血の気が引いた。これまで潜り抜けてきた死線以上に明確な『終わり』がノエの前に立ち塞がっている。走ってきた竜に爪で引き裂かれ、炎で焼かれる未来図がありありとノエの脳裏に思い浮かぶ。
 その予想の第一歩のように、竜は動き――踵を返した。
「え……
 ノエに、背を向けて竜が目指した先は、ノエから最も遠いところに転がっている、小柄な少女。そちらへと、竜の首が動く。
……待ってくれ、それだけは」
 魔法で壁を作ったためか、オデットはノエほど致命的な傷は受けていないようだ。
 しかし、突然放たれた熱波の余波を完全に防げなかったのか、彼女はよろよろと立ち上がったところだった。
 そんな頼りなげなか細い存在の前に、竜の影が落ちる。
「オデット!!」
 焼けた喉が裂けて、叫ぶと同時に咳き込んでしまった。どうかこの声が彼女と竜の間に聳える壁となってくれと願った。
……ゲル、ダ?」
 叶わぬとわかっていても、少女に向けて爪が振り下ろされる瞬間を止めたくて。
 オデットの矮躯に、爪が振り下ろされる。
 ノエの目が見開かれる。
 ルーシャンが何かを叫んでいる。
 オデットはただ、それを見ていることしかできなくて。
 肉を切り裂く音が。
 ――やけにはっきり聞こえた。
 
「ゲルトルーデ。今度こそ、約束は……守りましたよ」
 
 オデットは目にする。
 自分の前に立ち、その体で竜の爪を受け止めた、一人の男の姿を。
「ヒューイさん!!」
 全てを忘れていた竜が、自分に残った絆をよすがに、青年に託した約束。
 
 ――「オデットのこと、ヒューイに守ってほしい」
 
 自分のことを覚えていなくとも。
 青年は、彼女の再びの約束だけは守ると決めていた。