物心ついたときから、海を眺めるのが好きだった。砂浜を横切るヤドカリに、水平線を跳ねる魚。肌を焼く陽射しは好ましくないけれど、さざ波の子守歌は荒んだこころに寄り添ってくれる。どんなに辛い出来事があっても、母なる海はすべてをかき消してくれた。
海を、愛していたのに。そんな海に殺されようとしているのだから、この世は無情だ。
こどもの頃からの夢を叶えるのが人生なのだとしたら。なにひとつ叶えられずに死んでいく俺のこれまでは、一体どんな名前が付くんだろう?
沈みゆく意識とともに、泉はまぶたを閉じる。しかし、僅かに残った視界の片隅で、透明な泡が弾けた。消滅間近の命を引率するように、光の輪を携えたくらげが舞っている。
お迎えに来てくれる天使って、ほんとうに存在するんだ。
泉は安息を求めて、おもむろに腕を伸ばした。
「ん……」
頬を撫でる潮風に目を覚ますと、騒がしいカモメの鳴き声がした。朦朧とした意識をすこしずつ研ぎ澄ませれば、なにやら唇に柔らかな感触がする。泉はすぐさま声を荒げた。
どこの馬の骨とも知れない奴に、キスされている!
状況を把握してから三秒も経たないうちに、強気の拳を繰り出した。
「俺の唇は、安くないよ!」
「痛ってぇ!」
美しい容貌に惹かれて、くちづけを求めてきた男は山ほどいるが───不埒な野郎は、とことん成敗すべきである。泉はとっさに突き飛ばしたが、響き渡った声は舌っ足らずの幼い声であった。
照り返す砂浜に、大の字で倒れる影。泉が凝視すれば、セーラー服を着た少年がむう、と頬を膨らませていた。王冠を模した帽子を被り直して、不機嫌そうに抗議している。
「なんだなんだっ、海神レオさまがせっかく助けてやったのに!」
「はあ? ……『助けてやった』?」
黄昏色のしっぽを振り乱して、レオと名乗る少年がぶぅぶぅと文句を垂れている。完全に意識を取り戻した泉は、やかましいレオをよそに周囲を見渡した。呆れ返るほどの青空に、ヤシの木が揺れている。『仕事場』の船ではなく、『客』の姿もない。眼下に広がる世界には、レオが立ち尽くしているだけだ。
幼くして両親と離ればなれになった泉は、富豪の男に買われた。少年の時分にして既に完成されていた容姿は、歳を重ねるごとにみるみる美しくなっていく。そうして泉が十八歳を迎えたとき、主人は泉に仕事を与えたのだ。紙が擦り切れるほど読み尽くした本に載っている、憧れの職業───胡蝶の踊り子として、美しく舞ってほしいというのである。
箱庭生活を送っていた泉は、たいそう喜んだ。しかしその実態は、物心ついた頃から憧れていた『マリーナ劇場』の演目とは、程遠いものだった。
主人が気まぐれに開催する裏社会の小劇場で、欲望のまなざしを向ける男たちに舞い続ける仕事。処女信仰の強い男の意向で性行為は禁じられていたが、そのくせストリップまがいの淫らなショーは許可されている。泉は、性に飢えた男たちの慰み者として、ひたすらに肌を露わにしてきたのだ。
世界で一番美しい俺を、どうか欲しがってね。楽屋裏で幾度も唾を吐きながら、虚しい舞いを披露する日々。
しかし気の強い泉は、己の生きざまを憂いてなどいられなかった。客の男たちに肌をまさぐられても、ねちっこい接吻を強要されそうになっても───富豪の元から逃げ出すことを、決してあきらめなかった。
だから、大富豪が集まるクルーズで船内劇場をオープンすると聞かされたときは、神様がくれた贈り物だと思った。泉は監視の目を盗み、ボートに飛び乗って、大海原に脱出した。だが、素人が航海できるわけもなく───運悪く嵐に見舞われて、希望の船は転覆。荒れ狂う波に放り出された泉は、そのまま海の藻屑と消えるはずだった。
しかし今この瞬間、息をしている。泉は呆然としながら、文句を連ねるレオを見やった。「海神レオさまに不敬だぞ~!」だの「もっとおれを褒めろ! 称えろ! 敬え~!」だのご高説を垂れているが、どうやら泉を助けたのは、この少年であるらしい。
てっきり客にキスされていると錯覚していたけれど、あれは人工呼吸だったのだ。
「あんたが助けてくれたの?」
海水を吸いこみ、肌に張りついた衣装を絞りながら、泉が尋ねる。するとレオは、若葉色の瞳を輝かせて「うん!」と頷いた。
「果てしない海をふわふわ渡り歩いてたら、綺麗な人魚姫を見つけたから!」
「ふわふわ……? ……でもまぁ、ありがとう。お礼をしなくちゃね」
高額紙幣を支払ってくれた客には、感謝を込めて頬にキスをしていたが───いつもの仕事でもあるまいし、一体どうしたものかと考えあぐねる。泉はもういちど周囲を観察した。おおよそ三十秒もあれば、走って一周できるほどの狭苦しい無人島だ。頼みのボートも波にさらわれてしまって、脱出する術はない。
死ぬこと以外はかすり傷とはよく言うけれど、このままでは食料にもありつけずに死んでしまう。どう転んでも止められない悲劇の歯車に、泉は青ざめた。
「待って……。ここってもしかして、無人島?」
「うん! おれたちだけの楽園!」
「あんたは、ここの住人……じゃ、ないよねえ?」
「うん! 気ままに漂流してる!」
「……。……やだやだっ、こんなところで野垂れ死ぬってのぉ!?」
あれほど覚悟していた死が、急激に恐ろしくなってきた。砂浜に生えるヤシの木は、潮風に誘われるままに踊っている。イカダを作ろうとも考えたが、そもそも太い幹を切り倒す道具もなければ、豪快にへし折る腕力もない。
うなだれる泉の肩を、レオは人差し指で「なぁなぁ」とつついた。
「おれが、おまえの望む場所まで送り届けてやるよ!」
「あんたが? ……あてでもあるの?」
「そりゃあ、おれは海神レオさまだから!」
レオは腰に手を当てると、得意げに振る舞った。えっへんと胸を張って『海神さま』を連呼するレオに、泉は不思議がる。だって、幼い頃に絵本で読んだ海神は、もっと怖かったのだ。
海を汚すな。さもなくば、海神さまの怒りに触れるぞ。ゴミを投げ捨てる海賊の船が、鬼の形相をした海神にひっくり返されるページ。あの禍々しい雰囲気とは、似ても似つかない少年だというのに。
泉の訝しげな視線を察知したのだろう。静かに揺れる波際に立って、レオは堂々と笑った。
「まぁ、見てろって!」
レオが大きく息を吸い込んで、ぴゅーっと口笛を吹く。晴れ渡る空を引き裂くような地響きが起きて、穏やかな波が揺れ動いた。尋常ではない震動に、泉はとっさにレオの腕にしがみつく。
「ちょっと何ぃ!?」
海の中心部がまるく膨れあがり、ざぶんと波を打つ。顔面に飛んできた水しぶきに、泉はきゅっと目を閉じた。
ふたたび訪れる静寂。頬を濡らす潮水をぬぐって、泉は恐るおそる視界を確認する。
「うひゃ〜っ!?」
そして、裏返る声とともに腰を抜かした。水面に浮かぶ、真っ黒な物体───巨大なくじらが現れたのだ。くじらは「ぐぉん!」と鳴いて、噴水のシャワーを散らす。果てしない青空と透き通った海のあいだに、鮮やかな虹が架かった。
「え? え? ええ〜!?」
「こいつが、送っていってくれるってさ!」
「いや嘘、嘘、何これ? 夢? 俺、やっぱり死んだ……?」
「わははっ、紛うことなき現実だ! おまえは生きてるよ! ほらっ」
レオが劇場の指揮者のように人差し指を振ると、海面から魚の群れが現れた。橙のクマノミと蒼のナンヨウハギが仲睦まじげに踊り、泉の周囲にまとわりつく。
ここは陸上なのに、まるで水中に潜っているみたいだ。泉はぽかんと口を開けながら、宙をくるくると舞い続ける魚に釘付けになる。
「魚たちが、空を泳いでる……」
「おまえのこと、特等席まで運んでくれるって!」
「うわっ」
陽気に飛んでいる魚たちがクッションになって、泉を持ち上げた。軽々と抱えられた泉はエレベーターのごとく浮上し、頼りがいのあるくじらの背中にポンと乗せられる。
夢なのか現実なのか、境界線があやふやだ。想像よりもずっと柔らかいくじらの肌に困惑していると、七色の球体がふわふわと通り過ぎる。レオがシャボン玉の階段をスキップしながら、泉の隣に着地した。
くじらは何? とか。どうして魚が飛んでるの? とか。シャボン玉、どうして割れないの? とか。海の泡よろしく疑問が浮かんだが、きっと考えるだけ無駄なのだろう。恐らくは、たったひとつの言葉ですべてを解決できる。
レオは、ほんとうに『海神さま』なのだ。
「出発準備は完璧だ! なぁなぁ、セナはどこに行きたい?」
「……どうして俺の名前を知ってるの?」
顔見知りの相手みたいに笑うので、泉は戸惑った。『海神さま』の名前は一方的に知らされたものの、自身の素性は明かしていないはずなのだから。
レオは、無邪気な向日葵のように笑った。
「知ってるよ。だっておまえは、嬉しいとき。悲しいとき。苦しいとき。寂しいとき。……おれによく会いに来てくれたから!」
そんなわけあるか。富豪の男に朝から晩までこき使われていた泉には、頻繁に会える間柄の友だちなんていなかった。泉は「人違いじゃないの」と返そうとして───愛嬌にあふれる八重歯がきらめいて、優しい波の音が響き渡る。
そっか。こいつ本当に海神さまなんだ。
泉は妙に納得をして、くじらの背を撫でた。事あるごとに訪れていた海。海神のレオが見守ってくれていたからこそ、落ち着ける場所だったのかもしれない。
太陽を浴びた瞳を輝かせながら、レオが返答を待っている。そういえば、どこに行きたいのか尋ねられていたんだったか。返事に困った泉は、レオに苦笑いする。富豪の男から逃げることばかり考えていて、自由を手に入れたあとの未来は深々と想像したことがなかった。
「……わかんないや。とりあえず、あんな場所から抜け出すことだけ夢見てたけど。俺には、帰る場所なんてないし」
「夢でもいいよ。おまえの行きたいところなら、どこでも!」
夢ねえ───泉は、静かに目を閉じる。
欲望にまみれた客に愛想笑いしてきたけれど、ほんとうは穢れとは無縁の、美しい舞いを披露するのが夢だった。ページの端っこに折り目がつくほど読んだ本。潮騒のステージで、喝采を浴びる踊り子たちの写真。まっすぐな瞳をきらめかせて、胡蝶の舞いに憧れていたあのころ。華々しい舞台の上で、瀬名泉の誇り高き生き様を証明するのが夢だった。
今からでも間に合うかな。でも、もう遅いかもね。泉が自嘲気味に笑うと、くじらが「ぐおん!」と咆哮した。大人しく座っていられないほど激しく動きはじめたので、泉はまたしてもレオの腕にすがりつく。
レオは王冠の帽子を被り直して、青空いっぱいに拳を掲げた。
「よぉし、出発進行だ! セナが思い描いた、夢の先へ!」
「はあ!?」
春に旅立つ蒸気機関車のように、くじらが潮水を噴いた。虹のアーチが光って、頭のてっぺんに七色のシャワーが降り注ぐ。
波打つ海から、つがいのイルカがひょっこり現れた。更にはイカ、タコ、しかめっつらのフグまで、あらゆる水生生物が近寄ってくる。
「お〜! おまえらも付いてきてくれるのか〜! わははっ、こいつらみ〜んな、セナを見送ってくれるんだって!」
「……。非現実的なことばっかり起きるから、どこから突っ込んでいいのかわかんないけど……。……あんたにえらく懐いてるんだね」
こんにちは、と挨拶でもするみたいに近づく小魚のくちびるをつついて、泉は微笑む。するとレオは振り返って、「違うぞ」と返事した。
「おまえが、ずっとずうっと海を好きでいてくれたから。みんなお礼がしたいって言ってる!」
「え~? 何それぇ……」
「あっ、まだ信じてないな! これは夢じゃなくて、現実!」
「うん……わかってるよ。海神さまって、ほんとうに、いるんだねえ……」
船を飛び降りたあと───雷雨まじりの嵐に巻き込まれて、溺れ死ぬはずだった。奇跡的に命が拾われて、海神と名乗る少年と旅立とうとしている。
疲労がどっと押し寄せて、まぶたが重くなってきた。泉はうとうとしながら、レオに身を預ける。
「いいよ。すこしのあいだ眠っとけ」
閉じたまぶたの裏側に、優しい波音が響き渡る。
辛くて悲しい出来事に見舞われたとき、何度も聞いた子守歌。太陽のような温もりに抱かれながら、泉はもういちど目を閉じた。
どれほど眠っていただろう。次に意識が覚醒したときには、周囲はすっかり暗くなっていた。
泉は目尻を擦りながら、上半身を起こす。途端に、まばゆいランプの光が横切った。部屋の電気を消し忘れたのだろうか? 寝ぼけながら目を凝らせば、ふくよかなフォルムが視界いっぱいを覆い尽くす。竿の先端を発光させて、チョウチンアンコウが浮いていた。
無邪気な海神さまと愉快な魚たち。あれは夢ではなくて、紛れもない現実なのだ。泉が飛び起きると、薄明かりに照らされた黄昏色のしっぽが揺れるのだった。
「お客さん。高速船くじら号の寝心地は、いかがですか?」
おどけて尋ねるレオの周りに、透明なくらげが踊る。自慢のはさみで力比べをするエビとカニ、なぜだか宙に生えているサンゴで無邪気にかくれんぼするクリオネ。まるで人魚にでもなって、海の世界で暮らしているみたいだ。
わんぱくに跳ねる小魚たちを人差し指であやしながら、泉は口元を緩めた。
「魚のお友達が、多いんだ」
「うん! 海の生き物は、み〜んなおれのともだち!」
「神さまって、孤高の存在だと思ってたけど……。これだけの奴らに囲まれてたら、寂しいとは無縁かもね」
「うん! セナが居るから、もっとも〜っと寂しくないっ!」
「……出会ったばかりの男に、軽々しくそんなこと言わないでよ」
表向きは突っぱねてしまったけれど、胸に高鳴る鼓動は、どうしようもなく温かい。泉は照れ隠しにうつむいた。
イズミ、好きだよ。愛しているよ。
幾度も肌に触れてくる男たちの言葉より、何倍も嬉しかった。衣装の裾を握り締めて唇を噛みしめると、レオは泉の肩を強引に抱き寄せる。
「見ろよ、お月さま! 綺麗だろ?」
頭上を仰げば、夜の帳にひときわ美しい満月が輝いていた。漆黒の夜空には、星の欠片が幾重にも散らばっている。乱雑に敷き詰められたビルのやかましい明かりとは、大違いだった。
月光のきらめきに見惚れていると、レオにまじまじと観察されていることに気がついた。泉がなぁに、と問えば、レオは困り眉を浮かべて笑う。
「セナがあんまり綺麗だから、つい夢中になっちゃった」
「海神さまとやらが、人間なんかにうつつ抜かしていいわけぇ?」
「海神さまだって、ひとめぼれぐらいするさ」
よくもまぁ恥ずかしげもなく口説けるものだ。頬を熱くする泉を気にも留めずに、レオは手の平ぐらいの貝殻を取り出した。夕焼け色に染まった貝のふたを軽快に開ければ、透き通った泡が弾けて───瑞々しいココナッツが現れる。音符の形をしたストローを刺して、レオは屈託のない笑みを咲かせた。
「くじらも、そろそろ疲れちゃったみたいだし。今晩はここらで休憩! セナも喉が渇いたろ、おれからのプレゼントだ!」
「魔法使いみたい」
「だぁかぁらぁ、おれは海神レオさま!」
「ふふ、わかってるってば。……それじゃあ、ありがたく飲ませてもらおうかな」
耳たぶに髪を掛けながら、ちゅっと吸う。とろける甘さが舌の表面に広がって、泉は満足げに「おいしい」と呟いた。
無邪気に泳いでいた魚たちが、胴体をこてんと傾げながら近寄ってくる。人間の飲み物に興味津々なのだ。
「なぁに。おまえらも飲みたいの? ……んっ」
礼儀正しい魚たちが列を成して、泉のくちびるに順番にキスをする。愛らしいくちづけを交わすたびに、虹色のシャボン玉がぽこんと弾けた。
自然と穏やかな笑みがこぼれる。泉は、魚の尾ひれを小指でつついた。
「あはは、チョ〜可愛い。ん……もぉ、これで終わりだってばぁ。俺の唇は、安くないってのぉ」
「おまえら! 海神さまを差し置いて、ずるいぞ~っ!」
「ずるいって、何がぁ? ……ははあ、さてはあんたも俺とキスしたいんだ」
「うん、したい! おまえのこと好きだから!」
「正直なやつ。……でもまぁ、あんたになら……キスしてあげても、いいかもね」
不特定多数の客と交わす、穢れたくちづけ。情欲まみれの男たちとは違って、レオは純粋に愛を説いてくれる。
皆、あんたみたいな奴だったらよかったのにね。
泉は膝を抱えながら、レオを見つめた。無垢な子どものように笑っていたレオが、押し黙る。
なぜだか話したい気持ちになった。夕陽の海に語りかけていた、あの頃みたいに。
「俺はね。……ずっと男たちの欲望を相手にする仕事をしてたの」
「……うん」
「俺のこと、綺麗だよ。好きだよ、愛してるよって褒めてくれる男どもは、山ほどいたけど……あいつら、みんな俺の身体に触れたいだけで、純粋に俺を想ってくれるやつなんていなかった」
「……そっか」
「踊り子として舞える時間なんて、ほんのわずかだし。……メインのショーはもっと別。服を脱がされて、ベタベタ触られたり。無理やりキスされたり……」
「それは……辛かったな」
「別にそれは今更、どうでもいい。ただ……あんたは、あんな薄汚い人間どもとは大違いって思っただけ。あんたの『好き』には、邪念がなくて。まっすぐで……」
「うん」
「俺も、最初っから海で生まれたらよかったのかも」
「そうだな。おまえみたいな人魚姫がいたら、おれはきっと毎日楽しいな」
レオは立ち上がって、食い気味に振り返る。泉の肩を揺さぶりながら、深翠の瞳を輝かせた。
「なあなあ。踊り子ってどんな舞いを披露するんだ?」
「え?」
「おれ見たい! 見せてっ」
泉の手をぎゅっと掴むと、レオは「見たい! 見たい!」と人懐こく揺さぶった。
海神さまのくせに、子どもみたいにはしゃいじゃって。愛おしく感じる一方で、後ろめたさが忍び寄る。踊り子とは名ばかりの汚い仕事をこなしてきたのだ。美しい海の守り神にふさわしい舞いを披露できるかどうか、わからなかった。
泉はまぶたを伏せると、ちいさく首を振った。
「残念ながら、俺の身体は穢れてるの。あんたみたいに心の綺麗な神さまに見せられるような、美しい舞いじゃない」
「どこが穢れてるんだ? おまえは綺麗だよ。……おれにはわかる」
出会ったばかりの男に、またそうやって。泉が言葉に詰まっていると、レオは繋いでいた五本指を優しく絡めた。絵本に登場する王子みたいに手の甲にキスをして、静かに顔を近づける。
「それでも、おまえが自分のことを穢れてるって思うなら。これからもっと綺麗になればいいさ。だっておまえには、立派な二本足があるだろ」
「え?」
「おまえは人魚じゃなくて、人間だから。二本足がある限り、陸では決して溺れない。おまえは、地に足をつけて……おまえが思う、美しい人生を歩めばいい」
夢をひとつも叶えられない虚しい日々に、名前なんて付かないと思っていた。富豪の男に飼われていた人生だって消せない。身体の穢れだって、そう簡単には落ちないだろう。
それでも───瀬名泉の人生は、これから時を進めることができる。二本の足があるのなら、どこへだって。力強い瞳に見つめられて、泉はこくりと頷いた。
踊り子になりたい。太陽に照らされたマリーナ劇場で、美しく舞いたい。海の底に沈んだはずの夢が、希望の泡となって浮かび上がった。
「……踊れるかな?」
「もっちろん! ……おれが一番目のファンになってやる! なぁなぁ、こっちに来てっ」
レオに手を引かれたが、泉はぎょっとして立ち止まる。上機嫌に笑うレオが誘導しているのは、真っ黒に染まった海なのだ。
このまま進んでいけば、暗闇に着水してしまう。泉はかぶりを振って、渋った。
「落ちちゃうよ」
「だいじょうぶっ!」
レオが一足先にぴょんと飛び降りる。泉は、水しぶきが跳ねるのを警戒して瞳を閉じようとしたが───唇をまるく開けて、ぽかんと驚いた。レオが水面を歩いているのだ。
「おれの手に捕まって! 溺れ死んだりしないから安心しろ、だって海はおまえのことが好きだから!」
薄暗い海から手を伸ばすレオに捕まって、泉は恐るおそる海面に片足を乗せる。足の裏はひんやりと冷たかったが、優しい波紋が広がった。
水面に沈むはずの身体は、羽のように軽い。不安に震えていたつま先が軽くなって、泉の歩幅は意気揚々と広がっていく。
波風のランウェイを、チョウチンアンコウが明るく照らす。色とりどりの魚たちが集結して、海のすべてが虹色に染まった。
「よぉ〜し、おまえら! 踊り子セナのお披露目パーティーだ~っ!」
レオが指揮者のごとく指先を振ると、夜空に弾ける泡とともに竪琴が現れる。月光のカーテンを揺らすように、レオは緩やかな旋律を奏ではじめた。
泉は背筋を伸ばし、つま先を揃える。美しい弦の音に寄り添うようにして、艶やかなステップを踏む。
イルカのつがいが「ぴゅ~い!」と鳴き、ペアを組んだイカとタコが複数の足を絡ませながら踊る。なぜか意思を持っているワカメが左右に揺れ、小魚たちが楽しげに円を描いた。泉の傍らではまるで優美なステージ衣装のように、くらげが舞っている。
曲を踊り終えたら、男たちとの接待が待っている。そんな地獄の虚無が、すべて夢であったかのように上書きされていく。
踊るって、こんなに楽しかったんだ。汗が滲む目尻に、火照った頬。ともすれば火傷してしまいそうなほどに熱い。海の仲間たちと触れ合っているうちに、ほんとうに人魚になってしまったのかもしれない。そんなことを考えたが、自分はやっぱり人間なのだと思い直した。
二本足で踊っている。そしてその足で、明日を生きるのだ。
海神と踊り子のひそやかな宴は、夜が明けるまで続いた。
一晩限りのショーが終わり、しばらく経った朝のこと。ようやく陸が見えてきたとき、泉はひどく驚いた。
少年時代から、幾度も憧れていた潮騒のステージ。あのころ夢見た島が、すぐそこに迫っているのである。
美しい朝焼けが照り返す波を進み、浜辺に到着する。レオの手に支えられて砂浜に着地した泉は、美しいアイスブルーの瞳を輝かせた。
「ねえ! 踊り子の聖地なんだよ、ここ!」
「ふふん。どこにでも連れていくって、約束したろ〜♪」
えっへん、と胸を張るレオに、泉はたまらず抱きついた。まさか抱擁されるとは予想していなかったのか、レオは「わわっ」と体勢を崩しそうになる。王冠の帽子が、砂浜に落っこちた。泉はそれを拾い上げるついでに、レオにそっと口づけた。
ちゅ、と音を立てると、レオは道端の石にでもなったみたいに硬直する。天下の海神さまも、美しい踊り子のキスには動揺するらしい。
しっかりしろ! と言わんばかりに仏頂面のフグにどつかれて、レオはやっと意識を取り戻す。泉は静かに微笑んだ。
「俺の唇は安くないけど……。……ふふ、お礼だよ」
「ニンゲンって、大胆なんだな……」
「あはは、俺とキスしたがってたくせに。……それにしても、ほんとうに夢みたい」
「夢じゃなくて、夢の先だよ」
不安な夜に寄り添う波音にも似た、優しい声色。レオの身体がすっと離れる。泉はきょとんと首を傾げながら、固まった。
せっかく辿り着いた場所。できればもっと傍にいたくて、腕を引っ張る。困ったように笑うレオは、立ち尽くしたままだ。
「ねえ。一緒に行こうよ」
「そうしたいのは山々だけど、できない」
「どうして?」
「おれは、海神さまだから。海からは、離れられない」
「……そっか」
「でも、セナ。……手ぇ出してっ」
レオの指示どおりに手の平を出すと、なにやら固いものを握らされた。
黄昏色の貝殻が、朝陽にきらめいている。レオは目尻をしわくちゃにして告げた。
「おれからの贈り物!」
「ペンダント? ……ありがとう」
「つけてみてっ!」
「うん。……もちろん」
質素なひもで括られているそれを、首筋にぶら下げる。
小汚い客たちが贈ってくれるアクセサリーよりも、泉にとっては価値がある。一晩の、大切な思い出が閉じ込められた宝物。レオは「似合う!」と人懐こく笑ってみせた。
「困ったときには、貝殻の波音に耳を澄ませて。そして、おれのことを思い浮かべて! 波に乗って、誰よりも早く駆け付けるから!」
「うん、わかった」
「約束!」
「うん。本当にありがとうね……れおくん」
最初で最後の、愛おしい名前。レオはくじらに飛び乗った。元気なくじらは港を出発する船の汽笛のように潮を噴き、魚たちが短いひれをちいさく振る。
「果てしない海は、いつだっておまえのそばにある! おまえのこと、おれはずっとずう〜っと見守ってるからな~っ! こいつらと、一緒に!」
「……ありがとう」
「じゃあな、セナ!」
「うん。またね」
泉はバイバイ、と手を振って、砂浜を歩き始める。
潮騒の島に辿り着くことがゴールではない。新たな人生はここからスタートする。きっと苦労するだろうけれど、簡単にへこたれてはいられない。
瀬名泉の人生。いつかは堂々と胸を張れるように、がむしゃらに生きるのだ。
「あ、そうだ」
俺がトップスターに登り詰めたそのときは、もういちど舞台を観に来てくれる?
改めて確認しようとして、振り返る。静かな波と美しい朝焼けが、泉を照らした。すべてが泡沫の夢であるかのように───海神とくじらたちは、影も形も消えていたのだった。
「……ったく。俺の唇は安くないんだからねえ」
確かに残るくちびるの温もりに微笑んで、泉は砂浜を踏みしめる。一歩ずつ、明日を生きる希望をたぐり寄せながら、島の入り口に進んでいく。
だっておまえには、立派な足があるだろ。
そっと抱き締めてくれたから。この先たとえ挫けても、立ち上がれる。真夏の太陽にも負けない八重歯のきらめき。優しい波音の残響。
きっと、死ぬまで忘れない。
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