怪異課事案【辻道婚】

捏造だらけのとうらぶホラー
メインは山姥切国広
なお書きかけ

【終】

「夕顔」
 政府の組織である歴防本部に就く際に与えられたその諱に、彼女がようやっと慣れてきた矢先。怪異課への異動が決まった。上司から告げられた時、夕顔自身も「そうしなければならない」と思い、そうして納得した上での人事だ。
 今まで所属していた庶務課のある建物――本館の隣。歴防本部別棟と呼ばれる建物の中に、その怪異課はある。別棟は、主に本丸の審神者たちと直接関わることの殆どない、特殊な部署が置かれていた。刀剣男士保護シェルターや、政府直轄の特殊な本丸へ繋がるゲートなどもある。別棟に足を踏み入れると、本館のように明るく人に溢れているような雰囲気はなく、夕顔にとっては少しばかり物々しく感じられた。
 そんな別棟のセキュリティチェックを抜けても、怪異課の入口ではまた別のセキュリティがある。部署のセキュリティについて、配属初日に怪異課で登録すると説明を受けている夕顔は、怪異課の扉の脇にあるインターホンを押した。
「本日より怪異課に配属された、夕顔です」
「ああ、君が。ようこそ、怪異課へ」
 出迎えたのは一人の男だった。彼は怪異課の長たる者らしく、人の良さそうな笑みを浮かべて夕顔を部屋の中へ迎え入れた。
「お、思っていたより、少数精鋭、ですね」
「はは。本丸内で片付いたり、祈祷課だけで済む案件が多いからね。届いた報告書のチェックとか、聞き取り調査が主な仕事だよ。対処しに行く案件もたまにあるけど、そう多くはないし」
 課長の言葉通り、報告書のチェックをしているのだろう。デスクに向かって仕事をしている者が二人、夕顔に気付くと軽く会釈を送ってきた。空いているデスクは八つ。うち一つは課長のだろう。そして、課長が「君のデスクはあそこね」と示したので、夕顔を含めて怪異課は十人のようだ。庶務課は何十人もいる大所帯の部署だったせいか、夕顔にとっては余計に小ぢんまりとしているように感じられる。
「十時には君の紹介も兼ねたミーティングをするって言ってあるから、多分他の皆もそのうち戻ってくるよ」
「そうなんですね。ええと、怪異課は刀剣男士様が何振いらっしゃるんですか?」
「おっ、君が新人か?」
 課長に尋ねた矢先、夕顔は突然背後から声をかけられ、飛び上がるほど驚いた。なんなら、実際に悲鳴だってあげていた。もしかしたら実際に飛び上がっていたかもしれない。課長は夕顔の背後に、嗜めるような声をかける。
「鶴丸」
「すまんすまん。だが、良い驚きっぷりだったぜ」
 夕顔が恐る恐る振り向けば、そこには刀剣男士がいた。鶴丸国永だ。他の部署の鶴丸も、何かと驚かせることが好きらしいと話には聞いていたが、まだ歴防本部に就いて長くない夕顔にとって、まじまじと姿を見るのは初めてだった。
 鶴丸は夕顔に詫びを入れて、改めて名乗りを上げる。しかし、夕顔の中で怪異課と鶴丸はあまり結び付かない。怪異や鬼、山姥など、様々に人ならざるものを斬った逸話のある刀剣男士や、御神刀と呼ばれる刀剣男士はいるが、鶴丸にそういった逸話はなかったはずだと、夕顔は思い返す。
「そう言えば課長殿、アイツには会わせたのかい?」
「まだですよ。これから、怪異課の人間と刀剣男士の人数を説明するところだったんですから」
「なら俺に任せてくれよ。――ほら、研究課連中からの資料、次の会議までに目を通しておいてくれだとさ」
……下手に驚かせないようにお願いしますよ」
 鶴丸の持っていたメモリスティックを受け取った課長は、彼にそう釘を刺すと、デスクに向かった。去り際、夕顔に「度が過ぎると思ったら、遠慮なく叱っていいからね」と言い置いて。
 鶴丸は肩を竦めてから、夕顔へ向き直る。
「怪異課の人間は、君を含めて六人。刀剣男士は、アイツを含めれば五振いる」
……えっと、その『アイツ』というのは?」
 デスクは合わせて十。鶴丸の言う数を合わせれば十一。夕顔の配属に合わせてデスクを用意する猶予がなかったわけではないだろう。それなのに、デスクの数が一つ足りない。恐る恐る尋ねた夕顔に、鶴丸はニヤリと笑う。
「怪異が見える、理解がある。そんな奴らが怪異課に来るってのは夕顔も薄々気付いてるだろう?」
「そ、れは」
「神霊科学とやらで実存が証明されつつあったところで、怪異が見える奴らが増えるわけじゃない。だが、実地任務で怪異が見えなきゃ話にならないからな」
 夕顔は、鶴丸の金の眼に全てを見透かされているような気さえした。夕顔がこの時期外れの異動となった出来事の一切を知ってるかのような。けれど、鶴丸の声音に悪意はない、責め立てるような色もない。
 夕顔の表情が強張っていることに気付いたのか、鶴丸が彼女の肩を軽く叩く。
「まあ、俺も含めて、ここには怪異絡みで訳ありの奴がいるのさ。――その中でも一際に訳ありなのがアイツだ」
 鶴丸は夕顔を責め立てる気も、突くつもりもなかったのだろう。ただ、ここにいる皆、似たような事情を持っているという事実を伝えるだけのつもりだったのかもしれない。夕顔がまだ、彼女の身に降り掛かった出来事を「過ぎたこと」と割り切れていないと、鶴丸は知りようがないのだから。
 小さく息を吐いた夕顔は、鶴丸のそのフォローのような言葉に、密かに動揺していた。怪異課にいるのは、訳ありな者ばかり。果たして本当だろうか、と思う。『あんな思い』をしたのが、自分だけではないのか。怪異課の者は『追いやられた』わけではないのだろうか。夕顔の中には、そんな思いが澱みのように沈んでいった。
「ああ、まず、あっちの扉が給湯室。茶だの菓子だの、皆好きに持ち込んでいるが、記名がないと勝手に食われちまうぜ」
「は、はい」
「それで、こっちの扉についてだが」
 鶴丸に言われて、夕顔は初めて、怪異課の部屋の中に扉があることに気が付いた。片方には鶴丸の言う通り『給湯室』と札が掛けられている。もう片方は何の札もなく、その扉の先がどうなっているのか分からない。
 何も知らなければ、怪異課の書庫か倉庫かと思ったかもしれない。しかし、これまでの話から、そんな用途の部屋でないことは、夕顔にも分かる。
 所属している人間や刀剣男士の数より少ないデスク。アイツと呼ばれている誰か――十中八九、刀剣男士。鶴丸の後をついてその扉に近付くにつれ、夕顔の表情は強張っていく。
「入るぜ」
 二度のノックの後、鶴丸は件の扉を返事も聞かずに開いた。流石に失礼では、と思っている間にその部屋の全貌が明らかになっていく。
――は」
 夕顔は思わず息を漏らした。
 窓から差し込む明かりだけでも、その部屋は十分に明るい。何もないまっさらな、夕顔にと充てがわれたのと同じような状態のデスクが、部屋の半分を占めるほど狭い部屋だ。
 デスクの前で椅子に座っていたのは、夕顔の予想通り、刀剣男士だった。ただ、その在りようは、虚ろと呼ぶ方が正しいような雰囲気だ。ぼうっと窓の先に目を向けているのに、果たして外を見ているのかすら分からない。部屋の扉が開いたことにも気付いていないようで、夕顔と鶴丸に視線の一つも寄越さない、彼は。
「や、まんばぎり、国広、様?」
「怪異課の中でもとびきり訳アリの、な」
 歴防本部――政府に所属する刀剣男士の中でも、修行を経て極の姿となっている者はそう多くない。歴防本部に就いてから日の浅い方である夕顔は、滅多に見かけることもなかったが、その堂々たる振る舞いは印象深かった。
 けれど、この山姥切国広はどうだ。椅子に座る姿勢こそしっかりとしているが、まるで精巧な蝋人形のように、彼の『中身』がない、外側だけ整えられた空虚な殻のように見える。鶴丸の言う『とびきり訳アリ』の事情でこうなってしまったのだろうことは、夕顔にも察せられた。
 鶴丸が国広に近付いて、肩を叩く。そこでようやく、国広は鶴丸の存在に気が付いたのか、ゆっくりと鶴丸に顔を向けた。目は虚ろで、変わらない表情からは感情が伺えない国広に構わず、鶴丸は話しかける。
「怪異課に新しい人間が来たから、国広に紹介しておこうと思って連れて来たぜ」
「あっ、ゆ、夕顔と言います。よろしく、お願いします」
 慌てて頭を下げた夕顔は、その時に国広がどんな表情で彼女を見ていたのか分からない。何も、変わらなかったのか、或いは何か反応したのか。恐る恐る顔を上げれば、国広の瞳が夕顔に向いていた。だがそれだけだ。
 国広は何を口にするでもなく、翡翠色の平坦な瞳を夕顔に向けているだけ。
 夕顔の背に冷や汗が滲む。国広のその虚ろな目。それに良く似た目を、夕顔は見たことがある。彼のように翡翠色ではなかったが、それでも、その中身がどこかへ消えてしまったかのような、意思も感じられない目を、夕顔は知っている。
―― 山姥切国広様も、あの人のようになっている。
 脳裏に浮かぶ、病室で横たわるだけの存在。芋蔓式に溢れ出そうなあの出来事の全てを、夕顔は必死に押し留めようとしていた。罪科の刻印のように、まだ過去になりきれないものを、夕顔はまだ懺悔のように口にする勇気もない。
「取り込み中かな? 失礼するよ」
 部屋の扉、夕顔の背後から声がして、彼女はハッと我に返った。慌てて振り向くと、そこには山姥切長義の姿があった。彼も怪異課の刀剣男士だろうと思うが早いか、夕顔は頭を下げる。
「今日から怪異課に配属された、夕顔と言います! すみません、気付かずにご無礼を」
「固くなる必要はないよ、夕顔殿。ミーティングまでまだ少し時間がある、鶴丸国永に他の所も見せてもらうと良い」
 夕顔が一歩横にずれると、長義が国広へ近付く。彼と入れ替わるように、鶴丸が夕顔の方に近付いてきた。鶴丸はこそっと耳打ちをする。
「あの長義は、ああ見えて国広を気に掛けてる筆頭なんだ」
「そう、なんですね」
 夕顔も思わず小声で相槌を打つ。本科、山姥切長義。その写しとして打たれた刀である山姥切国広の、刀の持つ逸話としての確執は、夕顔も研修で教えられていた。けれど、怪異課の二振に限って言えば、また違った理由で長義は国広を気に掛けているのだろう。
「さあ、給湯室の使い方でも教えようか。凄いぜ、ここの給湯室は」
 鶴丸が敢えて大きめの声で夕顔にそう告げて、部屋から出ようと彼女の背を押す。去り際に少し振り返ると、長義が国広に何かを耳打ちしているようだった。
―― 憑いているのか」
 部屋から出る寸前、平坦で静かな声が落とされた。
 思わず足を止めた鶴丸でもない。長義でもない。夕顔も思わず足を止めて、そうして改めて振り返る。何せこの声は、部屋の中から聞こえた。国広の、声だ。
 国広が、長義を見つめて口を開いていた。
「おいおい、ミーティングまでに終わるのかい?」
―― 今日の午後に向かう案件だよ。俺だってそこまで働き詰めじゃないからね」
 鶴丸の呆れたような言葉に、長義は静かに返す。国広はもう、口を閉ざしている。視線は長義に向いたままだ。
 夕顔はよく分からないまま立ち尽くしていた。国広は、怪異課の刀剣男士だ。彼がああして反応をする、それを期待されているから、あの虚ろな様子でも怪異課に配属されているのだろうか。
 鶴丸がそれ以上なにかを言い募ることもなく、夕顔の背を押してとうとう部屋を出た。これが、怪異課にとっては日常なのだろう。これに、慣れていくのだろうか。夕顔はその自問に、慣れるしかないと自答することしか出来ない。
 ここにしがみ付くしかないと、それが償いなのだと、夕顔はそう思い込んでいた。
「怪異にも、種類があるのは知ってるか?」
「あ、はい、事前に頂いた資料にありました。――確か、物の変質、魂の変質、それから、思念の変質でしたよね」
 給湯室の扉を開けながら問いを投げかけた鶴丸に、夕顔は昨晩まで何度も読んだ資料の内容を思い起こす。神霊科学という学問の進歩で生まれた、怪異の区分だ。怪異課は実際に起きた怪異の事件を、種類ごとに分類し、編纂して、対応策をデータとしてまとめている部署だとも書かれていた。
「国広は、アイツは――思念の変質による怪異の気配には反応するんだ」
……そう、なんですか」
「ま、君もおいおい分かるさ。あんまり肩肘張らなくても良いんだぜ?」
 鶴丸はそう言って笑う。その笑みの中に、あの部屋で国広に向けたような、慈愛とも取れそうな色を感じて、夕顔は困惑した。己に、そんな目を向ける価値はあるのだろうかと。それを悟ったのかどうなのか、鶴丸は眉根を下げて何かを呟いた。
「君の目は、うん、あの時の国広に良く似てるなぁ」
――え?」
「いいや、何でもない。――ところでこの棚の中にはな、課長殿秘蔵の菓子があるんだ!」
 わざとらしく話を変えた鶴丸に、夕顔はそれ以上問うこともできず、けれど聞こえてしまった言葉がやけに耳に残ってしまう。

―― あの時とは、なんだろうか。




【壱】

――えっ」
 突然、いつもの通学路から景色が変わり、夏生は慌てて辺りを見回した。夕暮れ時、いつものように下校していたはずだった。そう、まだ茜色が空に見える頃合いだったはずなのに、辺りは墨で塗り潰したような黒い空。夏生が父と暮らしている本丸の入り口のような大きな門の前にいた。
 振り返っても、元いた道は見当たらない。それどころか、夏生の背後には、地面も何も見えない。通り過ぎたはずのマンションも、住宅も、コンビニもない。空と同じように、真っ黒に染まった空間があるだけだ。門の中に誘うかのように、石畳の道があり、その両脇に点々と灯籠の灯りが並んでいる。
「と、父さんに、電話」
 自分に言い聞かせるように、震える声で呟いてから、夏生は父から「何かあったら連絡するように」と渡されていた端末を、ランドセルから取り出した。その青い子供向けの端末は、けれど電話もメールも繋がらない事を示す「圏外」の文字が表示されている。
 一人で、ここを出なければいけない。
 夏生はランドセルを背負い直して、意を決する。中に入って、もしも誰かがいれば帰り道を聞こうと。どうなってしまうか分からない黒い空間に飛び込むよりは、と子供ながらに考えたのだ。
 恐る恐る、門の中に足を踏み入れる。するとどうだろう、まるで夏生を誘い込むかのように、石畳の道の先に、一軒の古い屋敷がぼうっと浮かび上がる。その造りも、所々壁が崩れかけて穴が空いているが、夏生の暮らす本丸にどこか似ていた。
 父親が「これは刀剣男士たちの本体――刀があった頃のお屋敷に似せてあるんだよ」と語っていたのを、夏生はぼんやりと思い出していた。随分と大昔の刀の神様だとも聞いていた夏生は、目の前のボロ屋敷もそれくらい昔のものなのだろうとぼんやり考える。本丸をあちこち歩くのは探検をしているような気持ちにさえなった。この屋敷を歩くのも、探検のようなものだろう。
 夏生はそう己を鼓舞して、建物へ向かって進んでいく。随分と長く続きそうだった石畳の道は、けれどまだ小学生の夏生ですら、たったの数歩で屋敷の玄関口に辿り着いてしまった。唖然としながらも、僅かに開いている玄関の扉を恐る恐る開ける。古いからなのか、その木戸はところどころヒビが入り、建て付けが悪くなっていた。ガタガタと音がやけに響く扉を、夏生は小さな体でどうにか開け切ることができた。
 そこは、広間だった。
 三和土もない。扉を開けて、すぐに畳敷きの部屋が広がっている。その中央に、何かの花のようなものが描かれた行灯が二つ並んでいた。その後ろには誰か、黒いものが平伏するように座っていて、何か、衝立のようなものに真っ白い着物が広げられていた。夏生は、その白い着物の意味するものが分からない。初めて見るようなものだった。
「す、すいません」
 蚊の鳴くような声で、夏生は扉の外からその誰かに声をかける。すると、その誰かは動いた。それが顔を上げたことで、黒いと思っていたものが長い髪だと分かる。ずるりと動くように揺れた髪の隙間から覗いた顔は、少し離れている夏生にも分かるほど青白いものだった。
「あの、ぼく、家に」
「明日また、いらっしゃい」
 帰りたいのだと告げようとした夏生に被せるように、鈴の転がるような声が聞こえた。まるで夏生の目の前にいるかのように、耳の近くではっきりと。けれど、夏生の側には誰もいない。部屋の中にいるあの誰か以外、夏生の目に写るものはいなかった。

「祝言をあげましょう。あなたと、私で」

 夏生が何かを言って遮る間もなく、その誰かは喜色を乗せてそう続けた。祝言、という言葉を夏生は初めて聞いた。けれど、その言葉に従うのはきっと良くないことだと、それだけは分かる。明日、ここに来てはいけないのだと、夏生は根拠もないのにそう確信していた。
「お待ちしておりますね」
 うっとりとしたような声がしたかと思えば、夏生はいつもの通学路に立っていた。空はまだ茜色で、慌てて端末を見れば最後に見た時から一分と経っていないようだ。あれはなんだったのかと深く考えるより先に、夏生は衝動的に駆け出していた。あの屋敷を、あの女を、振り切ってしまいたかったのだ。何せまだ、頭の中で女の声が響いているような気がして仕方がない。一年前に亡くした母親とも違う、もっと若い女の声が。
 審神者である父親のいる本丸へは、政府の施設からゲートを通る必要がある。本丸というのは亜空間に存在しているからだ、というのは夏生も聞いた。それを理解できたかはともかく。夏生のように、本丸で生活をしながら現世の学校へ通う者、審神者の他に副業として現世で働いている者、その他にも現世へ赴く者は政府の許可証を持っている。それで施設のゲートを起動させて本丸へ帰るのだ。
 夏生が施設へ戻ってきた時には、ゲートの入り口にいる警備員以外は誰もいなかった。お帰りなさいと笑う警備員に、少し息を切らせながら、夏生はいつものように「ただいま」と返す。上手く言えていたのか自信はなかったが、それでようやく、少し日常に戻ってきた実感が湧いた。ゲートの前で、許可証を機械にかざす。そうして開かれたゲートの中に飛び込むようにして、夏生は本丸へ帰ってきた。


 本丸に戻ってきた夏生は、ランドセルを放り投げんばかりの勢いで、脇目も振らずに父親の元へ駆け込んだ。文机に向かっていた父親と、近侍であった歌仙兼定は、そんな夏生のただならぬ様子に無作法を咎めることが出来なかった。どうしたのかと問えば、夏生は緊張の糸が切れたかのように父親に飛び付き、大泣きをしてしまった。
 変な家が、女の人が、変なことを。夏生はとにかく伝えようと、泣きながら支離滅裂に言葉を吐き出した。その様子に、父親は歌仙と視線を交わして頷き合いながら、宥めるように夏生を撫でる。歌仙はそっと部屋を辞して、本丸に残っている刀剣男士たちを集めに向かった。

 夏生の父親――杜若は、息子を落ち着かせ、水を飲ませて話を聞くと、みるみる表情を強張らせた。現世での歴史修正主義者の襲撃ではないことは、夏生の許可証になんの変化もないこと、ここに至るまで本丸になんの連絡もなかったことが証明している。現世に刀剣男士を伴うことが許されているのは審神者だけだが、本丸に家族と共に暮らしている場合には、現世へ行く許可証に緊急用の刀剣男士召喚ができる陣が付与されているのだ。歴史修正主義者の手の者がいれば、自動的に発動する。
 けれど、それは反応していない。かと言って、夏生の話の通りであれば、生きている人間―― 不審者でもない。そうなると杜若が考えられる原因など、怪異だけだった。それも、現世に現れるもの。そうなると厄介なのが、審神者を取りまとめている時の政府歴防本部だけの話では終わらないところだ。政府は現世での怪異対策も行っているが、その部署は歴防本部とは無関係。けれど審神者とその関係者が関われば、歴防本部も何もせずにいることは難しい。
 杜若は、夏生の拙い説明からして、彼の出くわしてしまった怪異が、まだ何も終わっていないことを悟る。妻だけでなく、みすみす息子まで喪ってなるものか、という決意を固めたが、杜若は審神者であるだけで、怪異など門外漢だ。刀剣男士の中に、件の怪異らしきものに心当たりがあるものでもいれば、と願うしかない己の無力さが情け無い。
 泣き疲れて眠ってしまった夏生を優しく撫でている杜若の元に、歌仙が数振の刀剣男士を連れてやって来た。
「主、ご子息は?」
「ああ、泣き疲れて眠ってしまったよ」
「それじゃあ、僕はご子息の寝床を整えておくよ」
 歌仙はそう言うと、杜若の部屋を後にした。怪異斬りの逸話もない歌仙は、元より話に深く入らないつもりだったのかもしれない。杜若はそれを咎めるでもなく、膝に眠る夏生を乗せたまま、集まった刀剣男士を眺めた。本丸の中でも練度が高い方であったり、歴防本部に少なからず詳しかったり、本丸でも古株であったり、ということに加え、人ならざる鬼や山姥を斬った逸話の強い男士たちだった。
「しくじったな、石切丸や太郎太刀、青江を遠征に送ったばかりだったね……
 御神刀と名高い大太刀の二振や、幽霊を切った逸話を持つにっかり青江の不在に、杜若は己を責めた。出陣や遠征の采配は、審神者の責だ。怪異など他人事と、杜若は心のどこかで思っていたのかもしれない。その、自身の知らずの慢心が、息子の危機に手をこまねくしかないのかと、杜若はひどく落ち込んだ。
「鬼だったら僕がスパスパーって斬っちゃうんだけど、これは鬼じゃあなさそうだねぇ」
 そんな杜若の心情を知ってか知らずか、鬼を斬った逸話を持つ髭切は、眠る夏生をじっと見ながら肩を竦める。部屋の入り口に近い場所に立っていた鬼丸国綱も、髭切のその言葉に頷いた。彼もまた、鬼を斬ったとされる刀だ。
「主、まず御子息から聞いた経緯を教えてくれないか。それから俺たちで考えよう」
 山姥切長義がそう進言する。彼もまた、山姥を斬ったという逸話を己の内に持っている刀剣男士だ。長義のその言葉に頷いた山姥切国広は、長義の写しとして打たれた刀であり、いつしか山姥を切ったとまで語られている。当刃はそれを自身のものではないと思いながらも。それに、国広は杜若の本丸では古株の部類だ。怪異に対することの他、杜若と刀剣男士たちとの間を取り持つことを歌仙に請われていた。
「ああ、夏生は――
 杜若が、夏生から聞いていた話を彼らに伝えると、皆が一様に難しい顔になった。確かに怪異だろうことは分かるのだが、彼らもそのような、祝言をしようという女の霊の話など知らないのだ。刀であった頃の記憶にも、そのような霊の話は聞いたことがない。
「主、遠征連中の帰還予定は?」
「あ、あぁ、明日の昼頃になるはずだよ」
 国広の問いかけに、杜若は答えた。
「その怪異は、明日に祝言を上げると言ったらしいが、必ずしも今日と同じ時間とも限らない。昼頃までに何もないとは言い切れない」
……そうだね。俺も偽物くんと同意見だ」
「本丸の結界を越えられるお化けだと、どんな手を使ってでも息子くんを呼び寄せられそうだねぇ」
「屋敷の中では俺のような太刀では不利だ」
 それぞれの見解を告げる彼らに、杜若は冷や汗を垂らした。なんとも間が悪い。しかし、妻を喪った杜若にとって、夏生は唯一の家族だ、肉親だ。息子まで喪ってしまえば、杜若はもう生きる意味すら消えてしまうのと変わらない。歴防本部への報告も必要だが、本丸での対応はまず杜若が考えるべきことだ。
 自身を落ち着かせるため、思考を巡らせるために、杜若は一度、深い呼吸をした。
……不幸中の幸いだけど、夏生は明日と明後日は休みで、学校に行くことはない。長義か国広、どちらかが夏生についていて欲しい」
「主が政府とも連絡を取り合うなら、俺があいつに付く方がいいだろう」
「なに……いや、そうか、御子息は現世で怪異に遭遇したんだったね。主は現世の方の、俺が歴防本部の窓口になる方がやりやすいか……
「僕たちも、本丸での気配に気を配るようにしておくよ」
 髭切は言う。刀剣男士とも、時間遡行軍とも、人間とも違う気配を感じ取れるのは、何も人ならざるものを斬った逸話を持たずとも可能だと。しかし、怪異の本体が本丸に侵入するとは限らないだろうとは、鬼丸の見解だ。
 夏生と怪異の間には、既に縁が出来てしまった。縁を断つことは難しいが、縁を辿った本体が本丸に侵入する可能性は低いだろうと。更に鬼丸は続けた。
「だが、干渉はするだろうな」
……夏生が干渉を受ける前提で考えよう。もし夏生が出かけてしまうようなら、なるべく引き留めて……それが難しいなら、国広が付いていってくれ。その時は後から何振か編成して追わせよう」
 杜若の指示に、国広は頷く。国広は古株であり、杜若がどれだけ家族を大切に思っているのか、夏生を拠り所としているのかをよくよく知っている。だから、この時にはもう、夏生を無事に守り通すことを覚悟していた。山姥、怪異の退治など国広は全くの門外だが、それでも斬れるものならば斬って捨ててしまえばいいのだ。刀装を融通してもらう算段を立てながら、国広は杜若の、そして夏生のための刀として改めて決意を固めた。
「髭切と鬼丸は万が一に備えた警戒のために出陣や遠征はなし、長義は明日の近侍を頼むとして……
「短刀の何振かに、偵察と伝達をさせようか。偽物くんが端末に目を向けている隙に御子息が消える、なんて可能性もあるからね。偽物くんは御子息からもう少し話を聞き出してみてくれ」
「ああ、髭切と鬼丸も、誰かに手伝ってもらっていいからね。国広も、疲労を感じたら誰かに代わってもらっても良いんだよ」