高校水泳のシーズンは夏から初秋にかけてがピークだ。大会が終了するのに合わせて、三年生も正式に引退する。そして毎年一〇月か一一月くらいに、一年間の仕上げとしてプールの大掃除を行う。
この掃除は、何故か水泳部所属の生徒達主導で行うという悪しき習慣が私達の学校には根付いている。生徒達の自主性を重んじるだの主体性がどーのこーのとかいうもっともらしいお題目を盾にしてはいるが、その一方では校則で染髪やメイクやピアスや制服の着こなしなんかをガチガチに縛ってきている。結局のところ私達がどんな自主性や主体性を重んじるかは学校側が決めている。
水泳部のメンバーだけで行うプール清掃は、毎年朝から夕方までかかる。しかも清掃できるのは授業のない土曜か日曜。完全に休日を一日分潰すことになる。
しかし、もっと人員を導入できれば早く終わる——そう考えた次期水泳部部長の私は生徒会に掛け合いボランティアを募集するところまで漕ぎ着けた。募集をかける対象は私達の学校の生徒達だけではない。私達の学校は近隣の他校にもプールを貸し出しており、まあまあ恩を売っている実績がある。正直、一人でも二人でも人手が増えてくれればその分早く終わらせることができる——。
というわけで募集範囲を私達の学校のプールを利用したことのある近隣の学校にも拡大した結果、お集まりいただいた追加人員は約一名。一名!
まさか本当に一人しかいないとは思わなかった。お前ら私達の学校のプールで水泳の授業したよな? 良心が痛むとかそういうことはないのか?
しかし、参加を決めてくれた他校の生徒は、見るからに良心を痛めているわけではなさそうだった。
彼はサッカー強豪校でもある悪童学院高校の三年生、馬狼照英先輩(一応年上なので)だ。
馬狼先輩の噂はうちの学校にもサッカー部経由で轟いている。とんでもなく人相の悪いストライカーがいて、帝王として振る舞っていると。
帝王って何? って感じだっだけど、実際に会ってみたら確かに「王様」よりは「帝王」が似合いそうな顔つきだった。うちの水泳部の誰よりもガタイが良くて、目つきも悪い。髪の毛は逆立っていて、刈り上げたもみあげの辺りには剃り込みが入っている。かなり厳(いかめ)しいビジュだけど、プール清掃の名目で集合をかけたので馬狼先輩は体にフィットするタイプの手首や足首まで覆ったスポーツウェアの上から半袖のシャツを着ている。おかげでコワモテな見た目や近寄りがたいオーラがいくらか和らいでいる気がする。スポーツマン効果?
それでも部員達はみんなビビっていた。なんなら顧問の先生もちょっとビビっている。勿論私もビビっている。参加してくれた理由が全くわからないこともそれに拍車をかけている。確かに悪童学院にもプールを貸出してはいたけども。
そんな中で、私はこれから馬狼先輩にデッキブラシを渡さなければならない。プール清掃のリーダーは、新部長である私の最初の仕事だ。
私はプールサイドに集まった見知った水泳部メンバー一人一人にデッキブラシを渡していく。その列の最後尾に、馬狼先輩がいる。顔を顰めているけど、多分普段からそういう表情なんだと自分に言い聞かせる。舌打ちとかもしてないし、不機嫌そうではない。むしろプールサイドに上がってくる前に脱いだ靴を一番きちんと並べていたのは馬狼先輩だ。
私は可能な限りビビってる感を出さないよう努めながら、最後のデッキブラシを馬狼先輩に手渡す。馬狼先輩は私より頭ひとつ分くらい背が高い。目を正面に向けても、胸板のあたりしか映らない。
馬狼先輩に見下ろされると萎縮してしまいそうなので、私はスポーツウェア越しの胸板に向かって話しかけた。
「あの、これ……」
「おう」
胸板——じゃなくて馬狼先輩は短い返事と共に受け取ってくれた。まるでデッキブラシを釣竿か何かのように片手で軽々と肩に背負う。デッキブラシって、そんな簡単に片手で振り回せるような重さじゃない……。
全員に掃除道具が行き渡ったところで、開始の一言。
「ほ、本日はお集まりいただきありがとうございます! みなさんよろしくお願いします!」
「なあ、ちょっといいか?」
「はひっ!」
馬狼先輩が、開始に待ったをかけたので思わず声が上擦った。恥ずっ!
「どういう順番で掃除するつもりだ?」
「あっ、はい。えっと、まずはプールの水を少し残した状態にしてるので落ち葉とかを掬いつつプールの底をブラシがけ——」
「まず壁面からだろ」
馬狼先輩が凄みを効かせた目つきになって、空気が一気にひりついた。教室で騒いでたら突然先生が怒った時みたいに。
「いいか、いきなりプールの底から掃除してみろ。その後に壁面を掃除したら、また底が汚れちまう可能性があるだろうが」
「は、はい……」
「だから、壁面からプールの中心に向かって汚れを落としていくんだ。ブラシで壁を清掃するのが大変なやつは小さめのやつでも雑巾でもなんでもいいから持ち替えろ」
「わ、わかりました。皆さん、ではそんな感じで進めましょう!」
「待て、まだだ!」
「はい…………」
「手袋とゴーグルはちゃんとしろ。水質保持用の塩素は勿論だが、プール槽用の洗剤も家庭用のものより強力だ。半袖のやつはやる気あんのか?」
「ああ、ええっと、皆さん、ジャージとか着て、気をつけて、掃除しましょう……」
「ったく、こんな基本もなってねぇのか」
——逆になんで基本を知ってるんですかとは、口が裂けても言い出せなかった。
部員達も馬狼先輩に圧倒されて、完全に指示に従っている。
悪く言えば命令されて仕方なく従っているだけなのだが、馬狼先輩の言うことはもっともだった。むしろ、今までの自分達のやり方を顧みるいい機会とも言えた。
———
というわけで、馬狼先輩を筆頭にした我らが水泳部はプールの壁面の汚れから落としにかかった。
結局、デッキブラシで壁面を清掃できたのは馬狼先輩だけだった。後から聞いた話だが実のところ私達がデッキブラシと呼んでいたのはコートブラシと呼ばれるものでブラシの幅だけで一メートルくらいある大型のものだ。五キロくらいあるそれを、馬狼先輩はクイックルワイパーか何かのように平然と操り、地面と平行にしながらプールの壁面を磨いていった。私達は馬狼先輩の磨いた後を追うようにして、小さなブラシやスポンジで磨いて行く。ピ⚪︎ミンになった気分だった。
オ⚪︎マー馬狼先輩と私達青ピ⚪︎ミンはプールの内壁を二周して壁面の掃除を終えた。その間に顧問の先生が水に浮いた落ち葉などを掬い上げてくれていたので、完全に水を抜いて底面の掃除に入る。
ここでも馬狼先輩はリーダーシップを発揮してチームを四つに分け、プールの四隅から中心に向かって螺旋を描くように磨くよう指示を出した。中心にたどり着いたら、排水溝まで一直線だ。
その掃除は、秩序と統制が成立していた。馬狼先輩という圧倒的な個性を指針に私達は動いていた。
去年とはまるで違っていた。私が一年生の頃に参加したプール掃除は、なんというか、だらけていた。各自思い思いに気になるところを掃除して、誰がどこを磨いただの綺麗にしただの、しっかりと管理できていなかった。秩序の無い個の集まりに過ぎなかった。
馬狼先輩は私達がそうなってしまう前に、有無を言わさぬ筋道を示して統制した。結構強引ではあったが、まさに帝王と呼ぶに相応しいとも思う。バラバラだった私達は一つの塊——巨大な装置の部品のように動くことで、最大効率で掃除を進めていくことができた。
プール槽だけではない。プールサイドやシャワー、目を洗う水場や全体を囲うフェンス、コースロープなどの備品に至るまで、馬狼先輩の元で徹底的に掃除することになった。
馬狼先輩はからの指示は的確だったと同時に、要求レベルが高かった。拭く順番は当たり前で、洗剤と水の分量やスポンジのストロークの仕方にまで口を出す始末だ。鬼コーチとお母さんが合体したような感じで、態度は極端に悪い。最初のうちはみんなビクビクしながら従っていた。
しかし、夕方を迎える前には全ての工程が完了したのも事実だ。というか、今までのやり方がグダグダ過ぎたのだ。大まかな順番だけを決めてそれぞれが勝手に掃除をすることがいかに非効率的かを、私達水泳部員は思い知った。
プールに水を張るためのポンプが音を立てている中、プールサイドの隅に集まった部員+馬狼先輩を前に、私は言った。
「ええと、皆さんのご協力のおかげで、例年より早くに清掃を終えることができました。ありがとうございます」
私は一礼。
まばらな拍手が聞こえる。
目線だけを馬狼先輩に向けると、彼は黙って腕を組んでいた。
「今日はこれで解散となります。皆さん、気をつけてお帰りください。では、解散!」
部員達が雑談しながらプールを後にしていく。私はそれを見送りながら、自分が心地よい達成感に満たされているのを感じた。まるで一〇〇メートル自由形で自己ベストを——いや、四〇〇メートルメドレーで全員が自己ベストを更新した感覚だ。良いコーチの指導が目に見える形で身を結んだかのようで、疲労さえ気持ちいい——そう思っていた私の目の前を、馬狼先輩が通り過ぎていく。
「あ、馬狼先輩」
「あん?」
思わず呼び止めてしまったが、何を言えばいいのか全く考えてはいなかった。
「えっと、今日は色々とありがとうございました。その、参加していただいただけじゃなくて、リーダーシップを発揮していただいたというか……」
「お前らが俺の思う通りに動いてれば、もっと早く終わってた」
すっごい上から目線の返しに、早くも慣れつつある自分が怖かった。
「……あの、つかぬことをお聞きしても?」
「なんだ?」
「どうして、参加してくれたんですか?」
馬狼先輩の後方、帰ろうとしていた部員達が青ざめた顔でこちらを振り返っている。「そんなこと聞かんでいい」と、視線が語りかけてくる。いや相手を怒らせるかもしれないのはなんとなく分かってるけど、聞かずにはいられない性格なんだよな私。
幸い馬狼先輩の表情に、あからさまな怒りの感情は見て取れなかった。終始不機嫌そうな目つきが変わることもなかったのだけど。
その不機嫌そうな視線を、馬狼先輩は綺麗に掃除されたプールに向けた。
「三年間、このプールを使わせてもらって、ずっと気になってたんだ」
「……?」
私が黙っていると、馬狼先輩の視線が私に向いた。鋭い眼光に、私は目の前に刃物を突きつけられたかと思って後退りしてしまった。
「手入れがなってなさ過ぎるってな。そして今日、その原因がお前らの清掃がヘボカスだからってことがよく分かった」
「一応、ちゃんとした清掃もしてもらってるはずなんですけど……」
「だったらそいつらもヘボカスだ」
私の精一杯の反論は軽々と一蹴される。
確かに馬狼先輩の元で行った清掃活動は、プールを見違えるほど綺麗にしてしまった。逆に今までちゃんとした清掃してもらった業者はなんだったんだろう。
壁の水面あたりの高さによくできる黒ずみは全て綺麗になり、プールサイドの床面もワックスで磨きあげたかのような艶を放っている。色褪せたコースロープの"浮き"も、ちゃんと汚れを落とせば新品と遜色ない鮮やかさを取り戻した。こうして自分たちの力で実際に綺麗になったプールで、早く泳ぎたくてたまらないと思っている自分がいる。プールの方からなんか良い記録が出せそうな気配が漂っている。
「馬狼先輩は、綺麗好きなんですか?」
「使ったものを汚したり、散らかしっぱなしにするのは俺の流儀に反する。それだけだ」
そう言いながら、馬狼先輩は突然身を屈めた。何事かと思ったら、風に乗って運ばれてきた落ち葉を拾ってそのままフェンスの向こうに戻していた。
——色々言ってるけど、もしかしてただただ几帳面で綺麗好きなんじゃないだろうか?
私は何かお礼ができないか——掃除中もさっきもめちゃくちゃ私達のこと悪く言ってたけど——考えた。
「あの、本日来ていただいたお礼と言ったらあれなんですけど、馬狼先輩の学校でも何か掃除とかあれば、手伝いましょうか?」
そう言うと、馬狼先輩は驚いたように目を見開いて、すぐ元に戻った。
「——断る。そういうことは、もっと実力つけてから言え」
「そうですか……わかりました……」
実力? 掃除の実力って、何? 正直馬狼先輩レベルになるまでどれくらいかかるんだろうか。っていうか今私なんかフラれたみたいな感じにならなかった?
そんなことを頭の中で考えてたら、話は終わりだとでもいう風に馬狼先輩は立ち去って行った。
馬狼先輩とはそれっきり会っていない。
どうやらプール掃除のすぐ後に、サッカーの一大プロジェクト的な育成プログラムに参加したことで秋田も離れてしまったらしい。
それ以来、水泳部では定期的な清掃活動を行うようになった。これが意外といい息抜きというか気分転換になることがわかり、部員にも顧問にも評判だった。良いパフォーマンスは、良い環境が生む。もしかすると、馬狼先輩が綺麗好きなこととサッカーが上手いことには、そういう関係性があるのかもしれない。
私は馬狼先輩に改めてお礼が言いたかったのだが、まだその機会に恵まれてはいない。
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