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うずめび
2025-04-25 21:47:19
14994文字
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水底のローレライ
メトハルで夏と蛍の話です。Xで頂いていた素敵なリクエストから。旧ツイッターからのリクエストで随分お待たせしてしまいすみません🙇
画像化でも投稿したのですか、長いためこちらにも置かせていただきました。難産でしたが書き上げられてよかったです。ありがとうございます。
水底のローレライ
明暗も音もない意識の空白から自身の存在を意識した瞬間、眠りは徐々に遠ざかって体は目覚めに向かっていく。ゆらゆらと揺れる意識に体、何度も同じ声がするのは名前を呼ばれているのだろうか。
「
―
オ」
「
――
ルオ」
途切れ途切れに聞こえる声と合わせるように意識は浮上して、それと同時にどうしようもない熱さを感じる。額から伝って首筋に落ちる汗がどうにも気持ち悪くて眉間に皺を寄せれば、やわらかな感覚が肌に触れるとともに優しく汗をぬぐわれた。
「
―――
起きて、ハルオ」
かけられていた声の意味を理解した瞬間にハルオはぼんやり目蓋を開いた。目線をさ迷わせれば、窓辺から入るレースのカーテン越しの穏やかな日差しの中、乾いたフェイスタオルを持って心配そうにこちらを覗きこむ人と視線が合う。
「
……
メト、フィエ、ス」
呼んだはずの名前は掠れてざらざらとした音をしている。それを聞いたメトフィエスがフェイスタオルをサイドテーブルに置き、ハルオの背に手を回してゆっくりと抱き起こす。上半身が起き上がったところで水の入ったペットボトルを渡された。
随分と過保護だと思いながらも受け取って口をつければ、こもった熱を冷ますような冷たい水が体にゆっくりと落ちていく。額にあてられる少しばかり低い体温の手も心地いい。
「いつもの時間に起きてこないものだから体調が悪いのかと心配した。先日は遠出したから少し疲れているようだね」
「
……
遠出?」
出かけていたのだと言われて思い出そうとするのに寝起きのせいか、これといった情報がどうしても出てこない。寝起きとは言えど、ここまでぼんやりとすることはあっただろうか。いつもなら断片的にでも記憶にあることが思い出せるのに。
言葉につまって戸惑うハルオを見て、額へあてていた手を外してメトフィエスが持っていたスマホを取り出した。深緑色の手帳型カバーを開き、ロックを解除してこちらへ差し出す。
「君も私も今は夏休みだから、たまにはと言って二人で山の方に行っただろう?」
ベッドの端へ座ったメトフィエスの傍へ体を寄せてハルオは受け取ったスマホの画面を覗き込む。君が撮って送ってくれたのだという写真には様々な光景が広がっている。背の高い木々に覆われた森林に、大小様々な岩が転がる草木のない山道。微かに光る苔のようなものがある洞窟。確かに見た実感はある、けれどもそれが昨日かと言われるとなんだかはっきりとしない。
メトフィエスの言うように疲れているのだろうかとカメラロールを眺めていれば、ふと一枚の画像に目が引き付けられて手が止まった。おそらくは山頂で取られた金色の空。夜明け前なのか、太陽が雲間を裂いて辺りを静謐に照らす様が鮮やかに心を焼いた。
「
………
なんで」
きっと二人で行ったのだという山の上で見た時も感嘆のため息をこぼして、形に残しておきたいと写真を撮ったはずで。
――
それなのに。どうしてこんなに胸が締め付けられるのだろう。
なぜだかその写真を見るほどに悲しくて、訳もわからずに涙腺から涙が溢れる。嫌だと、行かないでとただそれだけに感情が埋め尽くされて、画面に雫が落ちてしまっているのも拭えない。嫌なのは、行かないで欲しかったのかが何なのかもわからないのに。それがわからない事こそが悲しいのか、それとも。
「泣かないで、ハルオ」
隣で急に泣き出したハルオから落ち着いた様子でスマホを優しく取り上げ、メトフィエスが涙を拭う。触れる指先の温かさに余計に込み上げるものがあって、喉がひくりと鳴った。嗚咽が落ちるよりも早く抱きしめられて、背中を撫でられるのが嬉しい。あの時も本当は抱き返して欲しかった。あんな事をしたかった訳じゃなくて、俺は
――
あの時?あの時というのはいったい何の。
ぐちゃぐちゃに入り交じる感情の中で瞬くささやかな疑問は目の前の人の穏やかな体温に溶けてしまう。今は答えを求めるよりもこの人の体温を感じることがずっと大切な気がして。背中に回した手に力を入れれば、宥めるように軽く叩かれて体を離された。
「っ、メトフィエス」
なんで離れるのだと名前を呼べば、大丈夫と囁いてメトフィエスがベッドに入って横になる。上掛けをめくってハルオを呼んだ。
「体制的にこちらのが楽だと思ってね。
――
おいで」
恥ずかしいと思うよりも離れたくないという気持ちが勝った。招かれた腕の中は確かに温かくて、それがまたどうしようもなく涙腺を刺激する。穏やかに抱き寄せて背中を叩く様はまるで幼子をあやすようで。ハルオでさえこうなってしまった理由もわからず、メトフィエスからしたらいきなり泣かれて困惑しているはずなのに何も言わず傍にいてくれるのが優しい。
「なんでこんな。あんたに迷惑をかけるつもりはなかったのに。すまない、メトフィエス」
しゃくりあげる声は酷く聞きづらかっただろうに、聞き取ってメトフィエスが穏やかに笑声を落とす。
「謝られることなど何もないよ。私がハルオにしたくてやっていることだからね。だから今はおやすみ」
ベッドボードにおかれていた空調のリモコンを押してメトフィエスが囁いた。不快な体の熱さと寂しさが両方共に穏やかに凪いで、とろとろとハルオはつかの間の眠りに落ちていく。
一筋の光さえもない暗闇の中、遠い場所から誰かが名前を呼ぶ声が聞こえている。
(
――
まるで焼け落ちるようだ)
他人事のように感じるくせ、確かに体は熱を感じているようだった。心地よい体温や日だまりと違い自らを内側から焼く熱は強烈で自我を保つことも難しい。さながら生きながらにして焼かれているようで。
この熱に身を任せてしまえばきっと帰れなくなる。漠然とそんな予感がするものだから抗おうとするのに、意識は徐々に揺らいでは深くへと沈んでいく。目を開けるのも億劫なほどに。
(だれか)
呼べる名前などないくせに衝動のままに手を伸ばした時だった。まるですくいとるように何かに触れられる。
自身の体でさえうまく認識できないはずなのに、触れられたのがどうしてか優しい手のひらだとわかる。あやすように握られるのはきっと初めてではないはずだ。だって知っている、幼い頃からずっと傍にいたこの手の持ち主を。
「 」
助けを求めるそれははたして音になっていたのか。熱で溶けていく意識では自らが発したはずの声でさえうまくわからない。ただかろうじて感じたのは握った手を握り返されたことと、やわらかな音で呼ばれた自身の名前。
「
―――
」
感覚の薄れる体をかたどるように、焼け落ちる自我を繋ぎ止めるように呼ばれた名前に閉じかけていた目蓋を確かに開いた。指先すら見えなかった暗闇はすでになく、あたりには淡い緑色の光が微かに瞬く。
明かりを頼りに手の先にいる人を反射的に探して、見覚えのある姿に安堵の吐息をついた。
――
ああ、やはり。
「
―――
」
手を繋いでくれているひとの名前を呼んだ瞬間、緑色の光が羽ばたくように散り、そして
―――
しなやかな手が髪をすき、顔にかかった髪を邪魔にならないようにそっとより分ける。露になった額に触れるだけの甘やかな熱を感じて、ハルオは目蓋を開いた。
「
―――
目が覚めたようだね。おはようハルオ」
おはようには少し遅い時間かな、と至近距離でメトフィエスが微笑む。何か不思議な夢を見た気がすると寝起きの頭でぼんやりと思いかけて、それよりも寝る前に起きた事に思い当たって顔が一気に熱くなる。わけもわからずに泣いて、抱き締められて寝かしつけられるなどまるで幼子のようで。
とんだ醜態を晒したと呟けば、メトフィエスが小さな笑声をあげて宥めるように頬を撫でるのが恥ずかしいのに、心地よく感じてしまうのから質が悪い。されるがままに頬を撫でられていれば、くぅと気が抜けるような音があたりに響いた。自分のでないとすれば答えは一つしかない。
「これで恥ずかしいのはおそろいかな?そろそろ朝食にしようか」
恥ずかしさを感じてなさそうないたずらっぽい笑みを浮かべて、ベッドから先に降りたメトフィエスが手を差し出した。君もお腹が空いただろうという言葉に頷いて手を差し出せば、ゆっくりと手を引かれて体を起こされる。
ベッドから降りて、そのまま手を離すこともなくメトフィエスが歩きはじめてしまうから繋がれたままにハルオも少し後ろを歩く。今さら子供扱いだとなんだと言う気も失せてしまって、ただ穏やかな手に繋がれるままにする。静かな足音とともに微かに揺れる背中は見るだけで落ち着いた。穏やかで優しいハルオの道しるべ。許されるならこうしてずっとなんて思うのは甘えたがすぎるだろうか。
そんな事を考えながら二人で階段を下りてしばらく廊下を歩いたところで歩みが止まり、リビングのドアを開けたメトフィエスがハルオを中に入るように促した。ハルオの部屋に来るまでにすでに朝食の準備をしていたのか、少しばかり遅い朝の日差しに照らされる部屋の中にはふわりと料理の香りが漂う。
「後は軽く火を通して皿に盛り付けるだけだから、ハルオは先に席で待っていてくれないか」
そうは言われても全てを任せきりにするのも気がひけてキッチンに向かう背中に手伝いを申し出れば、ガラスのコップと水が入ったピッチャーを渡された。透明な容器に氷とともに入れられた水がなんとも涼しげで。テーブルにコップを運び、椅子に座ってピッチャーから水を注いでいると準備ができたのか、後ろから声をかけられた。
「待たせてしまったね。一緒に食べようか」
トレーに乗せられた皿を配膳してメトフィエスが対面の席に座る。シンプルな白いスープ皿に入れられた淡い色のクリームスープに、ガラスの器に切られたリンゴがみずみずしい。ハルオも水の入ったコップを差し出せば穏やかに微笑まれた。
「
―――
頂きます」
どちらともなく口にした食前の言葉とともにハルオはスープに口をつける。濃厚かと思いきや豆乳でできているのかさらりとしたスープは口当たりが穏やかで、やわらかく煮込まれた玉ねぎや人参、ほうれん草がおいしい。底の方からすくえば、食べやすいようにと一口大に切られた鶏肉と螺旋状のパスタがスプーンの上に乗る。
今さら空腹だったことを実感して二口、三口と食べ進めていたらどこか安堵したようにメトフィエスが口を開く。
「君の口にあったようで良かった。夏バテとはいかずとも少しばかり疲れているようだったから、胃に優しいものを、と」
ここのところ二人でずいぶんと出かけたから、とテーブルの隅に置かれていた卓上カレンダーを引き寄せた。アイボリーの枠の中にはプラネタリウムや映画といった予定が書きこまれ、それだけ二人で過ごした時間があるのだと知る。確かに二人で見た星の記憶やシアタールームに行った記憶があるのだから、ようやく寝起きの頭も働いてきたらしい。
「今日はどこかへ行くのか?」
カレンダーを見ながらハルオがなんとはなしに浮かんだ疑問を口にすれば、メトフィエスが穏やかに首を横に振った。
「ここのところずいぶんと二人で出かけたからね、今日はゆっくりすごそうか」
君との休みもあと三日だから。穏やかに微笑んでメトフィエスが指差すのは八月の二十九日。ハルオは大学の長期休みで、メトフィエスも会社の長期休暇のシーズンなのだという。
「大学の休みは八月が終わってもしばらくつづくだろうけれど、会社はそうもいかなくてね」
君の傍にずっといられなくなるのは残念だとリンゴを食べながら困ったように呟くものだから、大げさだとハルオは小さく笑った。夏休みが終われば確かに時間は減るだろうが、傍にいることはかわらないのに。言われた言葉にメトフィエスが瞬いて、あまやかに微笑む。まるで心底幸せだというように。
「
―――
ああ、そうだね。私はずっと君の傍にいるよ、ハルオ」
朝兼昼食を終え、互いに洗濯や掃除などの家事を済ませ、少し前に話題だったのだという映画をのんびりと二人で見ていれば時間はあっという間に過ぎていった。
映画を見る合間に夕食は済ませていたから後片づけにキッチンで洗い物をしていれば、ふとカウンターの片隅に置かれていたチラシに気づく。朝はなかったものだから、メトフィエスが掃除の合間にでも置いたのだろうか。
「蛍
…
?」
手を動かしながらも覗き込んだ涼しげな青を基調としたデザインのチラシには近くにある自然公園が載っていた。蛍と一緒に水辺を巡ろう、という文字にいくらここが都心部より郊外であるとは言えど公園に蛍などいただろうかとハルオは首をかしげる。もっと綺麗な水辺にいるイメージの生き物であるのだが。
「ああ、少し前にポストに入っていてね。近頃市が公園の池をビオトープとして整備して、蛍の保護活動を進めていたようだ。今ではそれなりに繁殖していると」
お披露目がてらというところだろう。祭り、というよりは鑑賞会に近しいようだ、景観や環境維持のために屋台はでないとのことだからね。
隣で皿を水切りに並べるメトフィエスから付け足された言葉にハルオは頷きを返す。公園よりも建物に備え付けられた中庭や植物園を二人で訪れた記憶の方が印象深く、思えば近くにあるのだという公園に訪れた事はなかったかもしれない。
「良かったら一緒にどうかな。開催する日も八月の最終日だから、夏の思い出を締めくくるには悪くないだろう?」
水辺で淡く灯る光の光景は確かに美しい夏の思い出になるだろう。了承を返せばメトフィエスがやわらかに微笑むのが嬉しい。
「申し込みは私の方でやっておこう。明日買い出しついでに一緒に必要なものを買いに行こうか」
公園とはいえ、野外だからねと言いつつ皿を並べ終えたメトフィエスがタオルを差し出す。濡れた手を吹いてタオルハンガーにかければ、手を緩やかに取られて握られた。
行く先はどこだと聞きかけて、こんな時間では自室しかないとハルオは内心で小さく苦笑した。なんだか妙なことばかり考えてしまうのはメトフィエスが言うように少し疲れているのだろう。
リビングを出てそのまま連れ立って歩き、互いの自室に向かおうとしたところでそのままメトフィエスと共に彼の自室に連れ込まれてしまう。
「メトフィエス?まだ何かあるのか?」
言外にもう寝るだろうと見つめる先には少しだけいたずらっぽい笑み。
「今日君が寝る場所はここだよ、ハルオ」
存外にしっかりした力でそのまま手を引かれ、あっという間にベッドに連れていかれてはそのまま横にならされてしまって。慌てて抜け出そうとしたところであっさり退路を塞がれて、上掛けをかけては抱き込まれてしまった。
「
……
お前、俺を幼児かなんかと勘違いしてないか?昼間は確かに助かったが、さすがに夜は一人で寝れる」
なんでこんなことを言わなければいけないのかと言う思いはさっぱり伝わってないらしい。むしろ楽しげに目蓋をゆるりと瞬かせて、喉奥から圧し殺した笑声を落とす人がいる。
「その言葉自体が子供のようだが、それは理解しているのかな」
「わかっていても言いたいことはあるだろう」
「君のそういった素直さは好ましいとは思うがね」
何が面白いのか抱きしめたままに笑うメトフィエスに手を伸ばし、八つ当たりがてらにぐしゃぐしゃと頭を撫でた。美しく束ねていた髪が乱れるにも関わらず、くすぐったいよと笑っては振り払わないのは昔からで、それを許されている距離感が嬉しいと思うのは何度繰り返しても変わらない。
「まったく
……
買い出しに行くなら明日もそれなりに早くから行動する予定なんだろう。ここで寝るのはわかったから、照明を落としてくれないか」
自室に戻ることを諦めて寄り添うハルオを見て、メトフィエスがやわらかに微笑んではベッドボードに置いていたスマホに触れて照明を落とした。ぼんやりとした薄暗がりで耳をつけた胸元から聞こえる心臓の音が心地よい。
「おやすみ、メトフィエス」
「ああ。おやすみ、ハルオ」
さらりと大きな手が頭を撫でる感覚に身を任せればあっという間に意識は溶けていく。意識が途絶える刹那、穏やかに笑われたのはきっと気のせいではないのだろう。
薄くも確かにあちらとこちらを隔てる紗幕の向こう側から感じるものがある。ぱちぱちと火の中ではぜる木の音に、微かな衣擦れとぽたぽたと水の滴る音。ついで聞こえるのは男女の話し声。
―――
これで
……
も
…………
ぶ?
―――
どうかな。私は
……
では
……
。あとは
……
次第
……
。
途切れ途切れに聞こえる声はさながら周波数の合わないラジオにも似て。うすぼんやりとした空虚な空間で耳を澄ませるほどに音は遠ざかるようで、けれどもその声の持ち主を知っているような気がした。無邪気な瞳を持つ女の子と、好奇心が旺盛な男の人だったような。
どちらも優しい人でその優しさに救われていた事を覚えているのに顔と名前ばかりが曖昧で。いつもなら思い出せないなんてことはないのに。
(どうして)
受けた印象と思い出ばかりが浮かんでは、いざその人たちの名前を掴もうとすると泡のように消えてしまう。思い出せないならそれでよいのでは。特に必要なものではなかったのだよと優しく脳裏で囁く声に頷きかけて、けれども素直に頷けないのはどうしてだろう。本当にそれは必要なものではなかったのだろうか、むしろ思い出さなければいけないものではなかっただろうか。わからない。忘れていいものなのか、あるいは忘れさせられようとしているものなのかすら、なにも。
―――
判断するのはお前だがな。それでいいのかよく考えろ
刹那響いたノイズのない声に目を見開いた。不確かな記憶の中でも確かに刻まれた喪失感を呼び覚ますそれはきっと共に育ち、けれども先に行ってしまった人の声。
「っつ、」
唇はその誰かの名前をかたどり、たしかに呼んだはずなのにそれもすぐに曖昧になって消えていく。待ってと手を伸ばした先で優しく握られた手はきっとその人の者ではなく。
―――
やれやれ。存外あの大佐も過保護なものだな。
手を繋いだ誰かが呟いて、緩やかにそのまま手を引かれてしまう。あの人を探さないと思うのに、繋がれた手を離すのも怖くて。どうすればと思う間にも足は先に進みだしてしまう。
(俺は)
いったい何を、あるいはどうすればいい。どちらともつかない疑問を浮かべた瞬間に意識はゆっくりと混沌に沈んでいく。闇の底で響いた金属が擦れる音にも似た鳴き声は果たしてなんの鳴き声であったのか。
夏休みもあとわずかの週末ともなればショッピングモールは様々な人で込み合っている。子連れの親子や休暇の学生たち、買い物ついでに涼を求めて訪れているのだろう高齢の夫婦など、高く明るい天窓から穏やかに差し込む日差しの中で歩く人の群れにハルオは静かに目を瞬かせた。
―――
あまり無理をしてはいけないよ。
メトフィエスの運転する車に揺られ近隣にあるショッピングモールに来たはいいものの、ここ最近の夢見の悪さのせいか買い物をしてしばらくもしないうちに頭痛が出てしまって。久々に人が多いところに来たから人酔いでもしてしまったかな、と来たばかりなのにすぐに帰ろうとする人をどうにかとどめてハルオが向かったのはモールに併設された屋内庭園だった。それなりに大きいショッピングモールであるせいか所々に休憩スペースが設けられており、屋内庭園もその一環で設けられているらしい。
「悪いことをしたな
…
」
庭園の木陰に置かれたベンチに座り、一人呟く。来月からまた仕事だからとまとまった食料品の購入も含めて来たはずなのに、荷物持ちどころかまるでハルオ自身が荷物のありさまだ。体調が落ち着いたら合流するとはメトフィエスには伝えたものの、頭痛は未だに鈍く続き収まる様子はあまりみられない。
(それにしても)
痛みであまり回らない頭ながらも連日の夢について思考を巡らせた。夢というのは一般的には脳が記憶したものや感情を整理する過程で見るものとされているが、見るものに対して覚えがあるような無いような何とも曖昧な感覚が付きまとう。水鏡に映るものがごとく夢のことを思い出そうとするほどにその輪郭はほどけ、むしろ形を失うようで。捨て置くべきか、あるいはそうではないのか。たかだか夢というにはあまりにも。
わからないと首を振り、頭を冷やすがてらに飲み物を売っている自販機でもないかと立ち上がろうとした時だった。ひらひらと視界の端を色鮮やかなものがよぎる。
「
…
蝶、いや蛾なのか?」
どこからか紛れ込んだのか、あるいは庭園で飼育しているのか。極彩色の羽に目玉のような模様を持つ生き物がベンチの端にとまっていた。虫が苦手な人であれば思わずたじろぐような姿をしているが、空色の複眼から受ける印象はどこか優しく温かい。
相手は虫であるのに不思議と視線が合ったと思った瞬間にゆるりと羽をはためかせて、ふわりと宙に浮く。くるりとハルオの周囲を回る様に飛び、ゆっくりと庭園の奥へ飛んでいく。まるで付いてきてというように。
少しばかり馬鹿馬鹿しいとも、虫を追いかけるなんて子供のようだと思わなくもなかった。ただそれよりも何故かこのタイミングを逃してはいけないという直感に追い立てられるようにハルオは立ち上がり、不思議な色の羽を追いかける。木陰を通り、庭園に用意された小道を通ればショッピングモールへ抜けるドアにたどり着く。自動ドアの前に佇めば、静かにドアが開いて蝶とも蛾とも知れぬ生き物が向こう側へと羽ばたいた。
「どこに
…
なんだ、ケーキショップ?」
抜けた先にあったのは小ぎれいな佇まいのケーキショップだった。木で組まれたあたたかな外観と星空をイメージしたのだろう内装はどこか夜の森にも似ている。どうやら期間限定での出店らしく店先にはその旨が描かれた看板が掲示され、ガラスケースには様々なケーキが並ぶ。天体や夜空をイメージした美しいケーキに目を引かれて、ふと目にした店のポスターに書かれたキャッチコピーにハルオは目を見開いた。
「星を食べる
…
」
―――
どこにだってあるよくあるキャッチコピーのはずだ。それこそ星をかたどったお菓子であれば思いつかない方が不思議なくらいの。けれどもなぜかその文字列がどうしようもなく恐ろしくて。
「っ、つ」
割れるように頭が痛い。たまらず閉じた瞼の裏で確かにハルオは一つの光景を見た。
―――
暗雲の垂れ込めた空から鼓膜を揺さぶる雷(いかづち)の音が響いて、あたりには強く風が吹き荒ぶ。平地でも髪を揺らしたそれは山の上ともなれば頬をなぶり、視界の中にいる人の緩やかな服を靡かせた。
ばたばたと音をたてる様子に寒そうだと場違いにも思って、けれども寒さを感じているのはむしろ気密服を着た自分の方だった。紫と白の見慣れた色を着たその人は、冷え行くこちらとは対象的に高揚した様子で言葉を紡ぐ。文明の発展、収穫の季節。神への捧げ者と英雄。
種族差による価値観の違いなのだとどこかで理解しつつも、どうしてばかりが浮かんで、けれども思考を止めて何も考えずに頷くのはそれが楽な道とは知りつつもどうしても出来なかった。だってそうしたら自分は、皆はなんのために今まで。
自らを鼓舞するようにふざけるなと啖呵をきって、その背中に手を伸ばす。なぜだか幼い頃の思い出がちらついた。優しい大きな背中を追って手を伸ばした懐かしい記憶。薄暗く寒い船の通路を緩やかに歩む人を呼び止めるために手を伸ばして名前を呼ぶ。まって、行かないで
―――
。
そうやって名前を呼ぶといつだって優しい人は立ち止まり、振り返って屈んでくれた。どうしたんだい、ハルオと目線を合わせてくれるのが嬉しくて。星のように瞬く美しい瞳に見つめられるのが何よりも好きだった。それなのに。
ゆっくりと振り返った人の右目からは赤い雫が流れて頬を濡らす。嫌だとどうしてが心を染めて、小さく声にならない吐息が唇から漏れた。どうして、どうして、俺の好きな瞳を無くしてしまったんだ。
―――
。
「っハルオ、ハルオ!」
「ぁ、メトフィエス
…
?」
ひどい耳鳴りの合間から確かにメトフィエスの声を聞いた。おそるおそる開いた瞼の先に広がる視界には荷物を持ちながらこちらを心配そうに覗き込む人がいる。
「買い出しが終わったから戻ると連絡したのに、中庭にいなかったから随分と探した。体調は大丈夫かね」
「
…
ああ、少し眩暈がひどくて。勝手に出歩いて悪かった」
「それは構わないが」
何かあったのだろうかと聞こうとしたのだろうメトフィエスの言葉が不自然に途切れる。何をとハルオが視線をたどれば、店の看板の先に庭園から追いかけていた極彩色の羽の生き物がいる。
「
―――
」
「メトフィエス?」
「君が気にするようなことは何も。体調もあまり芳しくないようだから、今日はもう帰ろうか」
感情の伺えない瞳で不思議な生き物を一瞥すると、ハルオの手を繋いでメトフィエスが少し先を歩いて行く。繋いでくれる手はいつもなら安心させてくれるはずのものなのに、今に限ってはどこか不安を掻き立てるようで。それは体調がすぐれないからか、あるいは。
(ああ、俺が忘れていたものは)
前日、夢を見ないぐらいにぐっすりと眠り迎えた夏休み最終日。先日体調が悪かったのだからと引き留めるメトフィエスを説き伏せて、訪れた夕暮れの公園にはそれなりの人でにぎわっている。子連れを想定したビオトープの管理人をガイドに水辺を回るコースもあれば、入場証さえあれば通常は解放されていない場所を自由に散策できるコースもあるようで、メトフィエスが申し込んだのは後者のようだった。
公園の入り口にいる係員に入場証のスマホの画面を提示し、ビオトープで過ごす際の中事項を受けるとハルオはメトフィエスと連れ立って歩き出す。大きな湖を中心にぐるりと囲むように整備された小道を歩く中、隣で声をかけてくるメトフィエスに対する返事は自身でも自覚できる程度にはどこかうわのそらだっただろう。それでもメトフィエスが話しかけてくるのは、おそらく彼もこれから先に起こることを知っていて少しばかり惜しんでいるからだと思うのはあまりに都合がよかっただろうか。
「ほら、ハルオ着いたよ。ここが蛍の見える桟橋だ」
元よりさほど大きくない公園であるせいか、蛍が見えるのだという湖の桟橋には三十分もせずについてしまう。ハルオたちよりも先に歩いていたはずの人もいたはずなのに、夏の終わりの深い夕暮れに照らされた桟橋の上には二人だけしかいない。まるで世界がそこだけ切り取られでもしたかのように。
「
…
メトフィエス」
名前を呼んで、けれどもそれきり続ける言葉が出なくて立ちすくむハルオの手をメトフィエスが優しくとって桟橋の奥まで歩く。湖を囲む桟橋の一番先で立ち止まると静かに手を離し、やわりと一つ頬を撫でる。
「少し話をしようか。君は蛍が光る意味を知っているかな?」
「
…
仲間とのコミュニュケーションのためじゃなかったか」
「主な理由はそう言われているね。光の強弱や感覚を利用して仲間に危険や位置を教えているというのは有名な話だ。もう一つの理由としては求愛行動か。オスがメスに対して発光することで位置を伝え、光によって求愛をする。いずれにしてもその光はなにがしかの意思を乗せているというのが通説と言えるだろう」
ふわりと背後の湖から蛍が光りながら飛ぶ。確かに夏の終わりにふさわしい光景なのだろう。あるいは一つの夢の終わりにしても。
「さて、これまでは生物学の話だがここからは科学から逸れた話になる。かつての人は蛍が光る意味に様々な意味を見出したという。物思へば沢のほたるも我が身よりあくがれ出づる魂かとぞみる、というのは君の国の歌人の言葉だったね。相手を焦がれるばかりに抜け出た魂を蛍と例えるのは随分と興味深い。転じて蛍というのはその姿から昔から人の魂そのもの、あるいはその身に宿して死者の魂を運ぶものと考えられてきたのだね」
さて、ここまで言えばわかるだろうとでも言うようにメトフィエスが宵闇の中で微笑む。この人はいつもそうだ、答えなどとうにわかっているだろうに、ハルオが答えることを望む。答えが大切なのではなく、そこにたどり着き自ら答える意志こそが尊いのだというように。あのときもそうだった、彼の言う神を受け入れないとその何よりも愛しい目を潰すと決断した時でさえ。愛しい人に望まれたなら、どんな醒めたくない夢でも答え合わせをしなければならない。終わらせるのはハルオの意思でなければならないから。先に歩むと決めたのも。
「
―――
ここは本当の世界じゃない。だってお前は俺があの時に殺した」
ギドラと一緒にお前は確かに終わったはずだというハルオの言葉と共に湖の水が全てを飲み込んで、いつかに沈んでいった深く緑色の空間へ変わる。あの時と違うのはハルオとメトフィエスが向かい合って立っていることだろうか。
「これはお前が望んだことなのか」
争いも怪獣もいない地球、二人だけの優しい家に飢えることも乾くこともない穏やかな日々。夏休みという名の虚飾のモラトリアムの中で過ごす時間は確かに愛おしくて。最初からどこか掛け違っている感覚があったのにも関わらず、決定的な記憶に揺り起こされるまで不自然に思わなかったのはハルオがそう思いたくなかっただけで。それはメトフィエスも一緒だったのかと。
「
―――
わからない。ただ、君とこういう時間を過ごしてみたかったのかもしれないね」
私には君が本当の意味で望む地球での暮らしはわからない。ただ、君が穏やかに過ごして欲しいと思ったのは事実だよ。その言葉に耐えきれなくてハルオはみっともなくもメトフィエスに縋りつく。どうしてそんなことを言うのだろう。
「っ、いまさらなんで、おれはおまえがそばにいれば、あんなことをしなければ、こんなやさしいばっかのゆめじゃなくても、あのほしでいっしょに」
確かにあの星はゴジラがいる時点でハルオが本当に帰りたい星ではなかったのかもしれない。ただそれでもメトフィエスがタニのじいさんの乗った船を落とすことがなければ、ギドラを呼ぶことを目指さなければもっと他の道はきっとあったはずで。けれどもそれはすべては今更にすぎる話だ。そもそもメトフィエスがギドラを信奉するエクシフだからこそあの船で巡り合ったことを思えば、最初から共に生きることなど。
しゃくりあげる背中を撫でる手ばかりが在りし日のように優しくて、だからこそ余計に涙が止まらない。しらしらと背を撫でるがままにメトフィエスがたおやかに微笑んだ。
「
―――
今更ではないよハルオ。大丈夫、私は君を待っているから」
どういう意味だと眼前のメトフィエスに声をかけた時だった。瞬間、無数の蛍が足元から上に向かって飛び立つ。飛び交う光に紛れるようにしてこの夢から覚めるのだという感覚ばかりが強まり、メトフィエスの姿が水底に沈むように薄れていく。待ってという声はまた届かないまま。そして。
神経の束をつかまれ、そのまま引きずりだされたような奇妙な感覚と共に目を覚ます。意識が目覚める性急さとは反して、体の方は緩慢でどうにかハルオは瞼を開く。状況を理解しようと見慣れない洞窟の天井を見つめて瞬きをしていたら、入り口の方だと思われる場所から慌てた足音がした。
「ハルオ!」
「ああ、よかった。目が覚めたのか」
二つの足音が駆け寄ってきて頭の近くで止まる。視線をそちらにやれば、フツアの里の衣装に身を包んだミアナとマーティン博士がいる。
「っ、おれは」
「ああ、無理にしゃべらない方がいい。ミアナ、水を貰ってもいいかな」
背に手を添えて半身を支えて起こすマーティン博士の声に応じて、ミアナが持っていたg素焼きの水差しから木の器に水を注いでハルオの口元に近づける。おぼつかないながらも礼を言って器に手を添え、水を口に含めば乾ききった喉が潤うとともに意識もゆっくりと明瞭になっていくのを感じた。
「俺は一体何を」
「君は三日の間、ずっと眠り続けていたんだよ。今まで暮らしていた環境とがらりとかわったからかな、元アラトラム号の船員では体調を崩すものが増えていてね。君もそれになったというわけだ」
だいたいは一日、二日軽い微熱が出る程度なんだが君は随分とこじらせてしまったようで随分と心配した、という声にハルオはぼんやりと記憶を掘り起こす。確かにここ数日どこかだるいような関節が軋むような感覚が続いていて、体調を崩し気味だなという自覚はあった。あまり心配をかけてはいけないと記憶に残る最後の日には早めに休むと洞窟の奥で横になって、それきりずっと寝ていたということなのだろう。
「ハルオ、いつものように起きてこなかった。だから」
心配したとミアナに眉を下げられてしまって、かえって負担をかけてしまったことを知る。すまないと謝れば小さく首を振られて、澄んだ瞳に見つめられる。まるで夢の中で見た美しい羽を持つあの生き物のように。
「ハルオがだいじょうぶならそれでいい。けど、ひとつだけきいてもいい?
―――
ハルオ、ねつでとてもあつそうだった。けれど、くるしんでいるようすはなかったの」
とてもすてきなゆめをみたの?響いた声に鮮やかに思い浮かぶのは夏の日々。熱にうかされた脳が生と死の狭間で見た幻覚と言い切るにはあまりにも優しく穏やかな時間は、あって欲しいと誰かがどこかで願った美しい楽園だった。穏やかに共に生きるという、叶うはずもないありうべからずのとても素敵な。
「
―――
ああ、とても素敵な夢だったよ」
一つ間違えれば目覚めてしまいたくないようなとても素敵な夢だったとハルオは胸中で呟いて、器を受け取るとあおる様にその水を飲み切った。とぽりと水と共に喉の奥へ落ちていったのは果たして後悔か涙かどちらだったのだろうか。
発光する地衣類が繁殖する洞窟の中は昼夜がわかりづらいが、日々を過ごすうちに時間の流れが掴めるようになっていくものだ。昼間の人がたてる様々なざわめきが落ち着き、洞窟内にしんとした静寂が満ちる頃。ハルオは静かに身を起こし、与えられた部屋を出てユウコが眠る診療室に向かう通路を独りで歩いて行く。
常であれば夜に出歩く理由など気晴らしか、あるいは部屋の外に水を取りに行くかといったところだが今回に限ってはそのいずれもが理由ではなかった。人の手で整えられた土の道を踏みしめながらハルオの脳裏によぎるのは昼間に聞いた彼方からの声。
「
―――
お前が言った待っているとは、こういうことだったのかメトフィエス」
ユウコの体からナノメタルを採取し、再起動するヴァルチャーを見て無邪気に喜ぶマーティン博士の横で確かに聞いた声。いずれ来る収穫の季節を待てばいいと歌うように告げられた声に、ハルオはいつかに聞かされた魔物の話を思い出す。
(まるでローレライのようだ)
かつてドイツと言われた場所にあった伝承だったはずだ。有名な川の中流にある奇岩の上には水の精霊が住んでいて、その美しい歌声を聞くと溺れてしまうのだと。水底から待っているという声はまさしく溺れさせる声で、今のハルオの行動はその声に魅了されていないとどうして言えるだろう。
―――
だが、その一方でハルオは思うのだ。
(最初にお前を溺れさせたのは俺だったのかもしれない)
ハルオが幼い頃、そして大きくなっても時折メトフィエスがハルオの姿や声を聞いてどこか眩しいものを見るようにすることを知っていた。なんでそんな顔をするんだと幼い頃に聞いた時、君の感情の熱量が私にはひどく得難いものに見えると言われたことがある。
あの頃は意味が分からなかったが、今になって思えばそれはハルオの存在に惹かれていたということなのだろう。
(そうだとしたら俺もお前に)
最初にメトフィエスが暗く凍えた船の中でハルオを見出し、そうして見出されたハルオもメトフィエスに惹かれていた。互いに惹かれていたことだけは確かなのに、共に生きることだけは叶わなかった。共に死ぬこともまた同じく。
「
―――
連れていくなら連れていけ」
お前が水底に引き込むというのなら逆らいはしない。ただ連れていくのは俺だけだとハルオは深夜の通路を行く。
―――
ああ、水底から声が聞こえる。
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