シノハラ
2025-04-24 20:48:13
2863文字
Public アルカヴェ♀
 

原因:うっかりした 対策:しっかりする

うっかりしてるまだ付き合ってないアルカヴェ♀

 市販の薬で十分な程度の打撲が脇腹にできていた。昼休みの時間を使って軟膏を手に入れて塗ったものの、ふとした瞬間に少しばかり痛む。
 仕事で荒事があったわけでもなければ、日常生活でアルハイゼンに目立った手落ちがあったわけでもない。諸悪の根源もはっきりした負傷であるものの、責めるのも難しいタイプの代物だった。
 さっさと仕事を終えて退勤し、短い帰路に就く間に昨夜の出来事を思い出す。昨日もいつも通り帰宅して、カーヴェの用意してくれた夕食を食べた後に筋力トレーニングのメニューをこなした。汗で体が冷える前に風呂に入った後は完全な自由時間なので、就寝の時間まではじっくりと読書をして眠気を覚えた頃には布団に潜り込む。普段と変わらぬ最適化された快適な時間の過ごし方だったと思う。
 一方でカーヴェは大分慌ただしく過ごしている様子だったと記憶している。仕事の期日が迫っているわけではなかったが、どうやら作業が乗りに乗っていたらしい。ぎりぎりのところで文化的な人間は食事を取る必要がある事を忘れずに済んでいたようで、肉と野菜をざっくりと炒めた所謂名もなき料理の類を出してくれはした。
 けれど、それから後は台所の片付けもままならず、ぶつぶつ言いながら私室に引っ込んでしまったのである。放っておいても明日のカーヴェがどうとでもしたのだけれど、アルハイゼンは食器を洗って乾かしておくことにした。朝出かける前には食器は綺麗に棚に片付いていたので、翌朝には正気に戻っていたのだろう。
 酒に酔っ払ったカーヴェも大概だが、ああいう時の彼女もなかなかにやっかいなのだ。常に考え事をしているせいで食べ物はもちろん飲み物も零し、ドアや曲がり角にめり込むことも珍しくない。
 彼女一人の被害で収まれば良いのだが、時折アルハイゼンにも影響を及ぼす事があった。その証拠が脇腹にできた打ち身である。
 昨夜は生憎ぐっすりと眠ってしまったので、と言いたかったのだけれど、自分の部屋でぐっすり眠っていて何が悪いのだとも思う。とにかく、夢も見ない深さで眠っていたアルハイゼンは彼女がアルハイゼンの部屋の扉を開ける音にも気がつかなかった。
 とんとんと床を蹴る音も聞き逃して、マットレスのコイルの軋みすら聞いた覚えがない。ただ、体が傾いた感覚で覚醒したので、多分コイルが変形して音を立てていたはずである。
 闇夜に目覚めると、廊下の常夜灯の明かりを拾って日中よりも温かく見える髪色が見えた。それから遅れて、そのまなこが赤い色をしているのに気がついて息が詰まる。
 その光景が現実か否かを判断しようとしてしまったのがいけなかったのだ。その隙を突くようにして、カーヴェがベッドに膝をかけて上がってきたかと思ったらアルハイゼンの上に崩れ落ちてきた。
 どれだけ彼女の体が軽かろうが、五十キロ台の半ばは超えるはずの肉の塊が落ちてきたのだ。まず初めは衝撃が勝った。ぐ、とアルハイゼンの喉の奥で悲鳴が上がるのも気にせずに、カーヴェはもぞもぞと体を動かす。そうすれば体のあちこちがアルハイゼンに擦り付けられて思わず体を強張らせてしまう。
 それからいくら居所を定めようとしてもうまくいかないのを不思議に思ったらしいカーヴェが小さな思案の声と共に首を傾げて、あ、と小さな声を漏らした。ぱっと彼女が顔を上げたので、至近距離でカーヴェと視線が合う。
 まちがえた。そうぽつりと口にした彼女はアルハイゼンの胴をぎゅうと押さえ込みながら起き上がってベッドから降りて、そのままアルハイゼンに目もくれずに部屋を出ていった。廊下の先のことは推し量るしかないが、音からするに自分の部屋に戻ってしっかりと扉を閉めたらしい。アルハイゼンの部屋の扉は開けっ放しだったのが惜しまれるところだが。
 とりあえず自分もベッドから降りて、扉を閉めるついでに鍵もかけてベッドに戻った。一体どこの誰と間違えたのだと憤慨しかかったが、すぐに自身の思い違いだろうと考えを改める。恋人がパートナーにしかける夜這いにしては、あの落下はあんまりにも攻撃力が高かった。
 だからきっと、部屋を間違えただけなのだろうと結論付けてからアルハイゼンは寝床に戻って目を閉じた。そうすると自身にこすりつけられた彼女の肉体が思い出されて、なかなかに難儀してしまったのだけれど。そう考えて、布団でぬくもっていたアルハイゼンよりも幾分かひんやりとしたすべらかな肌を思い出しそうになって、アルハイゼンは一度思考を止める。
 とにかくそういう事があって、打ち身が出来ていると気がついたのは翌朝の事だった。かといって、昨夜君が寝込みを襲ってきたから怪我をしたなんて不満を表明するのも憚られる。
 幸い負傷は日常生活に支障が出るレベルではなかったので、心に秘めておけばいいだけの話ではある。今後アルハイゼンが戸締まりを徹底すれば、再発も防げる内容だった。原因はうっかりしていたのだから、対策はしっかりすればいいだけの話である。以上。
 家に辿り着けば、カーヴェがすでに配膳をほとんど済ませて待っていた。簡単な帰宅の挨拶を済ませた後に、温かさが重要な肉の煮込みを盛りつけた皿をテーブルに用意してくれる。
「アルハイゼン、付かぬことを訊くんだが」
「何か?」
「僕、昨日君の事をマットレス扱いしたか?」
……ああ、俺の夢でなければそうなるな」
 神妙な顔で尋ねられて、一瞬迷ったものの結局ごまかさずに答えてしまう。アルハイゼンの回答を聞いたカーヴェはぎゅっと瞼を落として重々しい呼吸を一つ披露してくれた。
 それから踵を返したかと思うと、いつもよりも足早に台所に消えてしまう。それから早々に戻ってきた彼女の手には、小さなガラス瓶が握られていた。
「これ、母さんが美味しいって言ってたフォンテーヌのお菓子で、君の事だから硬めの奴の方が好きなんじゃないかと思って作ってみたんだけど……
「カスタードプディング?」
「そう、それ」
 アルハイゼンの元に献上された瓶の中には黄色いものが入っていて、カラメルソースがかけてあった。フォンテーヌを舞台にした小説から心当たりのある名称を掬い上げたところ、正解だったらしい。
「いや……その……お詫びだと思って」
「明日はシャフリサブスシチューが食べたい」
「それ、僕が今思ってる料理じゃない気がするな。ちゃんと作り方を教えてくれるなら作ってあげてもいいけど」
 言いづらそうに告げる彼女に追加のリクエストを出すと、カーヴェは軽く眉を顰めながらも応じてくれた。アルハイゼンが作る度に食べてはいるので味に不満はないようだが、名称と実態の不一致には思うところがあるらしい。
 再現性がある料理なのだし、ちゃんと従来の料理と区別できる名称をつけてやっても良いのかもしれない。そんなことを思いながら添えられていたスプーンでカスタードプディングを掬い上げて口に運ぶと、昨夜の彼女を思い起こさせる柔らかさと冷たさが舌先に乗った。