啓徳河の畔で殴り合うことにした(洛信)

フィッシュボール作りで戦い合う洛信の話。

「いったい何の騒ぎだ……?」

 明らかにはいつもと違う城砦の様子に、洛軍は前のめりになりながら屋台通りを跳ね歩く。
「戻ったか」
「十二」
「信一の奴がお待ちかねだぜ」
「信一、が?」
 十二が顎でしめす道の向こうを見つめ、あまりの人の多さに洛軍は途方に暮れて肩を落とす。一体何が起こっている? 配達を頼まれ、ここを出ていく前はいつもと変わらなかったのに。
 通りはさまざまな匂いで満ちていた。
 鶏蛋仔や蛋撻のあまい香り。それとは違った方向から香ってくる、出汁や白米のいい香り。
 人一人すれ違うのにも気を遣う隘路だ。
 段差が多く、屋台通りにおいては運搬用の通い箱やら配達用の自転車やらがさらに道幅を狭くしている。
 そこに、この信じられない人だかり。
 騒ぎの発生源となっている場所、つまり信一が自分を待っているという場所もぱっと見ではわからない。
「どのあたりだ?」
 蒸し物の器が鳴り合う道をどうにか潜り抜けて聞くと
「俺はお前に張るからな」
 と、十二が思わせぶりに言ってきた。
「え?」
 張るって何を……
 訝しむ洛軍をよそに、十二は洛軍の体を盾にしながら悠々とついてくる。そして十字路前の人ごみに顔を歪めた後、良く通る声で「洛軍が戻ったぞ!」と住人たちに叫んだ。
「洛軍が?」
「洛軍だ!」
 な、なんだこの先行きが不安になる歓迎モードは……
 困惑しながら足を運んだ先に居たのは、同じく困惑気味の燕芬姐。すぐそばでは魚蛋妹が桜色に色づいた練り物を丸めている。勝手知ったると言っていいだろう、そこはこの壁の中に来てからずっと洛軍が世話になっている仕事場だった。魚蛋妹が丸めているのは、魚のすり身に刻んだ海老を混ぜた練り物、蝦丸はーゆんだ。
「洛軍帰ってきた!」と、ゆで卵のようになめらかなおでこを上げながら言ったのは魚蛋妹。しかし洛軍の視線はその隣に座る男の顔にくぎ付けだった。
「信一……。なにしてるんだ」
「おい。お前の穴を埋めてるんだろ?」
 身体はすでに長靴に履き替え始めていた。調理場に入るときの反射のようなものだ。壁に引っかかっているエプロンを取り、席へと向かう間に腰ひもを結ぶ。
「おい、はじまるぞ!」
 という声は店の外に集まる住人達から上がって、だから何が始まるんだと洛軍は困惑しきりだ。とるものもとりあえず、この場の上司である燕芬姐を見る。
「実は……、城砦の外から大量の注文が入ったんだ。それで通りがかった信一に相談したら……こんなことに……
「こんなことにって言うなぁ」
「どんなことになってる?」
「私がね、洛軍とボール作るのどっちが早い? って聞いたら『じゃあアイツが戻ったらアイツと勝負する』って信哥が」
「まあ、魚蛋妹が一番じょうずだから城砦二位決定戦ってとこか?」
「は、はあ~?」
 洛軍はさすがに、さすがに信一を見た。
 言いたいことならたくさんある。お前、こんなところで油を売っていていい人間じゃないだろう。それは燕芬姐や魚蛋妹にとても失礼なことで、そしておそらくはこの城砦にいる全ての住人たちに失礼なことだった。あの人の後継者であるお前には、こんな仕事場はふさわしくない。でも本当にそうか? あの人は宰相だったろうか? 信一は高貴なのか? まったくもって、そんなことはない。自分たちもまた、ただここの住人であるだけ。そして彼は城砦福祉委員会の副会長であって、きっとこれも彼の仕事の範疇なだけ。
 信一と魚蛋妹の前には、蝦丸のボールがもう大量に出来上がっていた。洛軍は思わず、信一の利き手の様子を見る。作業の邪魔になるため黒のグローブは右手になく、二本しかない彼の右手は魚の脂にまみれて白っぽく光っていた。
「十二に会ったか?」
「え? ああ……
「なんか言ってたろ、アイツ」
「なあ、本当に勝負するのか? ボール作りで?」
「俺もさ~、ナメられたままは嫌だと思ってるんだよな」
 飄々と言ってのける彼を前に、だからって何もボール作りで勝負することはないだろうと洛軍は思う。
 というか、ナメられていると思っているのか、信一は。それは一体誰にだろう?
 男同士で見つめ合っていれば、「ここ、いいよ!」と言って魚蛋妹が立ち上がった。れんげをまな板の上に置き、信一と洛軍を交互に見上げてふふふと笑う。
「おし。座れよ。時間がない」
 そう言われて、洛軍は信一の前に仕方なく座った。彼の整った顔を、頬についた傷を、真正面から見つめられる席だ。電球の下でやる作業に集中していたせいか、彼の額にはうっすらと汗が滲んでいる。それは洛軍の目に、どこか稚く映った。
「洛軍~~~!! お前に懸けたぞ!!」
「信一さんっ!! 負けないでー!!」
 洛軍の登場で一度は落ち着きかけていた観客が、加工場の前に陣取ってまた声を張り上げはじめた。信一は椅子から仰け反って、閉店後の阿七冰室でしていたような顔つきで集まった野次馬を見まわした。胸がどきりとしてずきりとする。この無責任で穏やかな笑顔を引き出せるのは、まだ自分ではないんだということに。
 生魚のにおいがたちこめる加工場の奥から、燕芬姐が氷を浮かべた酸梅湯を持ってきて信一に手渡した。「お、さんきゅ」と微笑みながら受け取る信一の横顔に、呼吸を詰まるような、言いようのない焦燥が胸に生まれた。驚くほど突然で、驚くほど自然なことだった。
「勝負っていうのは?」
 洛軍は、もう腹を括りながら椅子に腰かけ、信一に問うた。
 信一は酸梅湯のコップのふちを、唇で挟むようにして飲みながら、蠱惑的で挑発的な目を洛軍に向けた。
「十二はお前に賭けたか?」
……うん」
「妥当だな。いいか? 俺とお前の真剣勝負。配達用のつみれを、どっちが早く作り終えられるかだ。負けたほうは勝った方の言うことをなんでも一つ聞く。悪い話じゃないだろ?」
「いや! そんな急に言われてもな」
「なんでもいいんだぜ。俺が叶えられることなら。ボスになりたいとかでも」
「ごめんだぞ」
 願うはずのないことをさらっと言われて、洛軍は少しだけ瞳に怒りを浮かべた。
 信一はうっすらと笑んでいる。
 悪気があるようでないような。彼らしい表情の一つではあった。
「わかった……
 洛軍は嘆息気味にそう言って、まっすぐに信一を見た。
 胴元は多分、十二と信一その人だろう。この賭け遊びに洛軍と住人たちを巻き込んで、ずる賢く儲けようとしている。まあ大量注文されたつみれがこれで納品できるのならば洛軍も協力しないわけではない。問題は勝つべきか負けるべきか。それは洛軍に委ねられている。だって三日に一回はここで働いている洛軍が、信一に負けるはずがないのだ。
(それに信一には、ハンデもある
 もう二本しかない信一の右手のことを思うと、自分の分を早く終わらせて、彼の分の仕事を手伝ってしまいたいとも思ってしまう。
「願い事は?」
 目を伏せ、うっすらと微笑みながら言った信一に、洛軍は「デート……。してほしい」と少し口ごもりながら答えた。
「そんなの願わなくたってしてやるのに?」
 目を輝かせて信一が言う。
 願いを得て、流れ出す準備をはじめた星みたいだと思った。紅色のつやつやした唇。うっすらと光っている瞼も、きれいで。
 洛軍は見惚れながら、疼く願いを宥めながら信一を睨みつけた。
「デート、の中に色々含まれてるかもしれないぞ?」
「ハ、そりゃ楽しみだ」
「お前は?」
「俺?」
 触れたいパーマ頭を見つめながら、洛軍は往来から聞こえる住人たちの声を無視した。見合ってねえで始めろだとか、馬鹿おい踏むなだとか、しゃがめよ見えないだとか。うるさいうるさい。
 彼を見つめれば見つめるほど、洛軍の心は炉のようになる。
 叶える力なんてないくせに、どうしようもなく誓いたくなる。
 信一はやがて、危険牌を切るときの表情で言った。
「俺は、そうだな、『できる限り長く俺を支えてくれ』にする」
 勇を鼓すような聴牌宣言。
 洛軍は笑いだしたくなって、怒ってやりたかった。
 それこそ、こんな賭け遊びで願うことか! そう叫んでやりたくなった。

――よし、始めるか」
 麻雀台とは似ても似つかない魚蛋屋の作業机で見合いながら、
「勝つ」
 と、洛軍は、目の前の男を完膚なきまでに負かしてやるつもりで、そう言った。



啓徳河カイタックがわほとりで殴り合うことにした』









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