吾妻
2025-04-24 01:05:20
6639文字
Public アークナイツ
 

サイレン

ウル博。博の性別不問。
色気はあんまりないですが、そういうことをしている関係性の言及があります。

 歌が、聞こえてくる。
 潮風に乗って、かすかに。
 夜も更けた、かつての埠頭から。
 大して上手くもなく、かといって調子はずれでもない鼻歌が。

 聴力には自信がある。
 幻聴ではないはずだ。
 そしてなにより――

 ウルピアヌスは、その歌を誰よりもよく知っていた。


            *


 イベリアの海岸線沿いにある寂れた町は、かつては巨大な灯台を戴く港だった。
 海路の要衝として栄え、数多の船が行き交った埠頭も、大いなる静謐を経たのちは凋落の一途を辿り、無惨に崩れた灯台が墓標のように聳え立っているばかりだ。

 もはや、昼間ですら人も寄り付かぬ、真夜中の埠頭。
 街灯のひとつすら灯っていない暗闇の中に、佇む人影がひとつ。
 鼻歌は、その人物から発せられていた。

 想定よりも随分と早かったな、とウルピアヌスは思った。
 ハンターたちに教えを乞うたのか、それとも本当に独力で読み解いたのか。
 とぼけているようで、恐ろしく頭の回転が早い人間だ。遅かれ早かれ習得する確信はあったのだが。
 〝エーギルの楽譜の読み方〟をこれほど早く身につけるとは。
 その人影が小さく口ずさむ歌は、前回の〝情報交換〟時にウルピアヌスが渡した楽譜に記されていたものだった。

 冷え冷えとした海風が、人影の纏う上着の裾をはためかせた。
 双月が海面に光の帯を敷き、朧げに大地を照らす。
 その光に照らし出された生き物の、あまりに頼りない痩躯と言ったら――

 存在を気取らせるために、ウルピアヌスは敢えて足音を立てた。
 呑気な鼻歌が止んで、前方に立つ人影が肩越しに男を振り返った。

「こんばんは、ウルピアヌス」

 低くもなく、高くもない。
 特徴に乏しいはずなのに、やたらと耳に残る声だった。
 頭部を覆い隠すフードやマスクも、本来は個人の特定を阻害するために身につけるもののはずだが、もはや個性のひとつにしかなっていない。
 顔が見えなくとも、種族の特定すらままならなくとも。
 漂う気配までは隠せない。
 だからこそ、ウルピアヌスには確信があった。
 目の前に立つ人物が紛れもなく、本日の待ち合わせ相手だと。

「本当に一人で来たのか、ドクター?」

 呆れを隠さずに呼び掛ければ、〝ドクター〟はマスクの奥で小さく笑ったようだった。
「『俺のことは誰にも悟らせるな』と言ったのは君だろ」
「本艦が近くに停泊しているはずだ」
 絶対に安全な本拠地が目と鼻の先にあるにも関わらず、なぜこのような場所を密会場所に選んだのだろうか。

 確かにこの町は、イベリアの海沿いでは比較的集落としての体裁を保っている。
 だが、わざわざ海のそばに寄りつく必要があるのか。
 たとえ自らミリアリウムを訪れ、海との距離が縮まった今であっても。
 いや、だからこそ、以前よりも身構えるべきだというのに。

「裁判所があちこちの灯台を再調査している。それにロドスも協力しているんだ。そのくらいは把握しているんだろう? 君だって毎回こっそりと本艦に潜り込むのも面倒だろうし、たまには趣向を変えてみるのもいいかと思ったんだ」
「お前たちが数日前からこの街に滞在しているのは知っている。だが、戦う術を持たぬ者が、護衛もなく海に近づくのは自殺行為でしかない」
「君がいるだろ。君は時間に正確だから、私も計画通りに行動できる」
 珍妙なマスクの奥から、探るような視線を感じる。
 もしも危険が迫っても、君が排除してくれるだろう? 視線が含む意図は、そのあたりだろうか。
 揺るぎない自信に裏打ちされた言葉だった。
 化け物どもがひしめく水際に自ら歩み寄り、呑気に鼻歌などを歌っていたのは、虚勢を張っているわけではなく。
 かけらも恐れていないからなのだろう。
 待ち合わせ相手がどんな脅威からも守ってくれると信じて、疑いもしない。

 ウルピアヌスは苛立った。
 舌打ちこそ堪えたが、眉間には深い皺が寄った。
「俺を手放しに信用するな」
 声に苛立ちが混ざるのを止められなかった。
 常に冷静に、自分の足元を確かめつつ進まなければ、一瞬で大群に飲み込まれる。
 だからこそ、ウルピアヌスは自身の感情を制御する。理性で本能を――思考を阻む直情を抑え込む。そんな生活に、もはや慣れたはずだった。
 それなのに、眼前に立つ生き物と向き合うたびに、心の奥底に沈めたはずの情動が煽られて仕方ない。
「俺が今もまだ〝まとも〟だという保証はどこにもない」
 外見だけで判断するのは不可能だ。
 模倣は奴らの――海の化け物の常套手段だと、お前も知っているはずだ。
 奴らの遣り口を熟知していてなお、どうしてそれほど無防備でいられるのか。
 大群の内に自ら踏み込んだモノが、今もまだ堕落を免れていると、どうして信じられるのだろうか?

 ドクターは、半ば捻っていた体をしっかりとウルピアヌスの方に向け、ゆっくりと歩み寄ってきた。
 手を伸ばせば届く距離で向き合えば、互いの差異がより一層浮き彫りになる。
 背丈も、体の厚みも、何もかも違う。ウルピアヌスがその気になれば、腕一本で制圧できる。首をへし折ることすら可能だろう。
 それでもなぜか、実行に移せる気がしなかった。
 飄々として掴みどころがなく、呆れるほどの夢想家。そんな姿には、らしくもなく苛立ちを覚えるものの。
 侵し難いと感じるのも、また事実だった。
 この痩躯から漂う、奇妙な存在感はなんなのだろう?

「君のほうこそ」
 グローブに包まれた指先が伸ばされ、ウルピアヌスの胸にそっと置かれた。
「君の方こそ、私が〝まとも〟だと、なぜ信じられるのかな」
……?」
「私は、自分が本当は何者なのか、何を忘れてしまったのか、未だにわからないんだ。これまでに得た情報の断片をつなぎ合わせれば、それなりの絵は見えてくる。君だって、その程度は推察できているんだろう?」
……
 確かに、この得体の知れない人間が何者なのかについて、情報はかなり出揃っている。点と点を線で繋げば、ある程度の推測も立つ。ウルピアヌスですら感づいている〝答え〟に、本人が気づかぬはずはない。
「でも、実感は全然追いついてこない。だから私には判断できないんだ。今の自分が〝まとも〟なのかどうか」
 マスクの奥から聞こえるくぐもった声には、自嘲の響きが混じっている。
 自我を持つものとしての、ごく当たり前の揺らぎ。
 あまりに人間らしい迷いと弱音。
 時折ドクターが垣間見せるそれらの感情に触れるたび、ウルピアヌスはわからなくなる。

 〝これ〟が本当に〝神〟なのだろうか?

 旧人類。造物主。呼び名はどうあれ、目の前に立つこの生き物が自分とは違う種族であることなど、ウルピアヌスはとうに知っている。
 海の底に未だ眠る数々の遺物。エーギルを発展させ、傲慢に育て上げた遺産。それに連なる、神とも呼べるモノ。
 多くのエーギルたちと同様に、生きることへの諦観と、鼻持ちならない傲慢さを持っているのだろう。直接ドクターと関わりを持つまで、漠然とそんなことを考えていたものだが。
 今はどうだろう? わからなくなってしまった。
 戦術指揮や策謀の腕前には目を瞠るものがある。それは認めざるを得ない。いささか化け物じみていると感じることすらある。
 だが、人並みに憤り、人並みに嘆き、人並みに喜ぶ姿からは、超越者の気配を感じ取ることができない。傲慢というなら、今のエーギルたちのほうがよっぽど傲慢だ。

 脆弱な体躯に、奇妙な気配を漂わせ、かと思えばあまりに人間らしい振る舞いをする。
 アンバランスで、危うい。

「私のほうこそ、君が知らないうちに、君の知らない化け物になっているのかもしれないよ」

 楽しそうに笑ってみせる素振りすら、次の瞬間には消えてしまいそうなほど。
 朧げで、危うく、歪に見える。
 そしてその儚さを、なぜか、惜しむような感情が生まれてくる。

 胸元に置かれた細い指。折れそうな手首を捕まえる。
 かすかに身構える気配を感じたものの、顔が覆い隠されているせいで、たじろぐ表情を確認することができなかった。
 それもまた、惜しいと思った。

「マスクを外せ」
……顔を見ればわかる、なんて言うつもりか?」
「早くしろ」
「片手では難しいな」
 言外の要求を飲んで、ウルピアヌスは捕まえていた細腕から手を離した。
 ドクターは慣れた手つきでフードを下ろし、顔を覆うマスクを取り払う。
 顕になったのは端正な顔立ちだ。他者の目を引くに足る容姿には違いないのだが、顔色の悪さと目の下の隈が、美しさよりも先に拭いきれぬ疲労を伝えてくる。
「どうかな?」
 何物にも隔てられぬ声が、先程よりも明瞭にウルピアヌスの耳に届いた。
 面白がっているような声音だが、気だるげな憂いは隠しようがない。
 やはり、やけに揺らぎを見せていたのは疲労が原因と見える。
「そんな無様な顔で、なぜ来た」
 魔物の棲まう水際まで。なんのために。
 連絡を取り合うだけなら、これまで通りこちらが本艦を訪ねればいい。
 最悪、顔を合わせずともメッセージを残す方法ならいくらでもある。
 僅かな休息の時間を削ってまで、なぜ。
「君に会いたかったからに決まっているだろ」
 少し拗ねたような口ぶりでドクターが言った。
 マスクに覆われていないので、子供っぽく尖らせた唇もよく見えた。
 柄にもなく癇癪を起こしている様子から察するに、自制心もそろそろ限界なのだろう。
 それなのに、わざわざ。会いたかったから――などと。

 気づいたら、体が動いていた。
 片手で自分の口元を覆うマスクを引き下ろし。もう片方で相手の顎をつかまえて。
 噛みつくようにくちづけた。
「ん、ン……っ」
 舌先を捩じ込み、舌を絡ませる。
 やや強引な遣り口でも、ドクターが体を強張らせたのは始めだけで、濡れた舌先を擦り合わせるうちに、折れそうな体からは力が抜けていった。
 顔を傾けて唇を開き、蹂躙にも似たくちづけをあっさりと受け入れ、あまつさえ小さな舌先で男の上顎をくすぐってみせるその様は、あまりにもこのやり取りに慣れ切っている。
 決して少なくない回数、互いの間で交わされたコミュニケーション。
 芸術を解さぬ化け物たちには到底真似のできない、非生産的な戯れ。

 胸に二度、力の入っていない拳が叩きつけられる。
 苦しい、という合図を受け入れて、ウルピアヌスは唇を離した。
 ドクターは恨みがましそうな目でウルピアヌスを見上げたものの、〝なぜ〟とは問わなかった。
「お前がなぜと問わないのは、既に俺の遣り口を知っているからだ」
「君のやりくち? 案外君がねちっこいということかな」
……この行為に何の意図も理由もない。そのことを、お前は既に知っている。それを受け入れ、疑問を抱かないということは、お前がバケモノではないという証拠だろう」

 かつてウルピアヌスは、目の前の人物から問われたことがある。

――シーボーンが芸術を理解できないというのなら、生殖のためでなく、愛情交換や娯楽として交わされる行為についても理解できないのだろうか?

 進化に必要のない行為。
 群としてではなく個に対して抱く愛情や欲望。
 それらをシーボーンは解さない。
 非効率的であり、非生産的だからだ。
 ましてやそれらの快楽を楽しむなどと。
 そのような無駄を、彼らは決して理解も許容もしない。

――じゃあ、試してみようか? お互いがまだ人であるのかどうか。

 体温の交換を、まだ愉しめるのかどうかを。
 持ち掛けてきたのは、相手が先。しかし、ウルピアヌスもそれを拒まなかった。
 なぜだろう? 今となってはもうわからない。
 しかし、始まりがどうであるにせよ、その後も関係を続けているからには、互いにそれなりの情があるのだろうと想像がつく。
 恋だの愛だの、甘ったるい言葉で修飾できるものではないとしても。
 うっかりと手を伸ばしてしまう欲が、確かに存在しているのだ。
 ただ、回を重ねるごとに、一つの疑問が頭をもたげる。

 〝まとも〟かどうかを確かめるために肌を重ねるのなら、それは義務と何が違うのだろう? ある種の検診と同義ではないのか?
 そして、そこまで考えて、毎度舌打ちをする。
 馬鹿らしい。これではまるで、ふれあう〝意味〟や〝理由〟を欲しているかのようだ。
 感情の確認や、情の籠もった約束を求めているとでも?
 大群のうちに分け入り、答えを持ち帰るためには、僅かな願いも隙になる。
 堕落の淵を覗き込むなら、身軽であるほうが望ましい。
 彼にとって錨とは、不条理に撃ち込むための得物であって、此岸に残す未練ではない。こんなところに下ろしてはいけないのだ。それでも。
 潮風を縫って耳慣れた歌が聞こえてくれば、足が止まる。
 向き合えば、手を伸ばさずにいられなくなる。
 もしかしたらこれも、一種の堕落だろうか。

「私が君に会いに来るのも、別に意味も理由もないんだ」
 コートのポケットに両手を突っ込んで立ち、ドクターがいたずらっぽく笑った。
 突然何を言い出したのだろう。時折妙に持って回った言い回しをするやつだ。本人曰く、会話を楽しんでいるのだそうだが、本意を察するまでに時間がかかる。
「職務上は、意味や理由があるほうが望ましいんだろうけど、私はただ、君に会いたいだけなんだよ、ウルピアヌス」
……
「意味も理由もなく誰かに会いたいと思う感情は、人間らしいものだと思うんだけど? ――それとも君は、こうやって会ったり、一晩中抱き合うことに、約束や名付けがほしいほう?」

 すべての感情に、理屈や答えが用意できるわけではない。
 いずれは滅びる肉体に、不条理と混沌を飼っている。
 それならば、危険を承知で、疲労を押して、夜の海に歩み寄ることもまた、人である証なのかもしれなかった。
 少なくとも、合理性を優先するシステムにも、群体を優先するパーツにも、その判断は下せない。今はそれで充分に思えた。

「君も気乗りがしないなら、わざわざ顔を突き合わせる必要もないし、今日はこのまま情報交換だけしてお開きでもいいんだ。どうせ君のことだから、生存確認のために義務感で寝るのは健康診断みたいで嫌なんだろ?」

 心を見透かされたようで面白くなく、ウルピアヌスは特に返事をしなかった。しかし、その沈黙は肯定に他ならず、ドクターは今度こそ楽しそうに声を上げて笑った。

……お前は違うとでも?」
「違うに決まっているだろ。私にしてはちょっと気の利いた誘いをしたつもりだったんだけど、もしかして伝わっていなかったとか? 君はその気もない相手と、義務感で何度もできるのか?」
「そうは言っていない」
 売り言葉に買い言葉をした。
 口にしてしまってから、余計なことを言ったと居心地が悪くなった。
 これでは〝その気があった〟と白状したも同然だ。
 ドクターは特にその点に言及するでもなく、渋い顔をしているウルピアヌスを見上げて、血色の良くない唇の端を僅かに緩めた。

「私としては、このまま帰るのはちょっと残念ではあるけど、君が乗り気じゃないなら今日は早めに切り上げるが」
 持って回った言い回しも、相手の言うところの〝気の利いた誘い〟の一種だろうか?
 断るのは簡単だ。一言「帰れ」と言えば、奴は素直に踵を返すだろう。
 だが、このまま帰してやるのも癪で、同時に惜しいとも思った。

 その感情がどこから生まれてくるのか。
 なんという名前をしているのか。
 無理に探る必要もないだろう。今はまだ。

……そうは言っていない」

 回りくどい返答をすれば、ドクターは少しだけ安堵したように息をついて。「それはよかった」と言った。

 港へ戻るための歌を教えたつもりで、歌声に捕まったのは自分のほうかもしれない。
 だが、その歌に惑わされる感情があるうちは、求めてみるのも悪くはない。
 これもある種の堕落かもしれないと頭の隅で考えながら、ウルピアヌスは目の前の獲物に手を伸ばした。


【おわり】