千代里
2025-04-22 12:56:16
11755文字
Public リーブラ14話
 

リーブラの針は問う・14話・その64


 つい数十分前の穏やかな空気が嘘のように、集落は混沌の坩堝と化していた。
 どこからか押し寄せてきた魔物――竜の下僕と化したと思しき一団が騎兵に食らいつき、させじと騎兵も魔物を斬りつける。その隙に、異端者たちが得物を手に騎兵に殴りかかり、彼らをまた騎兵たちが押し除け、捕縛する間もなく切り捨てる。
 その様をなるべく視界に入れないようにしたくても、ノエの青銀の瞳は血生臭い光景を拾い上げてしまう。誰かが家屋に火をつけたのか、それとも灯りとして松明を持つものが増えたからか、暮れなずむ空の下であっても争いの様子がありありと目に焼き付けられる。
……っ」
 オデットを探すべきだ。第一の目標はそうだと分かっている。だから、ノエはなるべく多くのものから目を瞑ろうとした。
 しかし、それでも無視できないことはある。
「何を、しているんだ」
 乱暴に開かれた扉から、子供が一人逃げ出してきたのを見てしまった。その横顔に、ノエは見覚えがあった。
 集落に初めて来たときのことだ。ノエたちを侵入者とみなして追い払おうとした、あの子供。行く当てのない自分たちの最後の砦を守ろうと、見知らぬ冒険者たちに立ち向かおうとした少年。
「おい、どこに逃げる気だ!!」
 彼の後を追いかけて扉から姿を見せたのは、どう見ても家族や知り合いではないだろう。
 妙に黒ずんだ――それが何の色かは考えたくもない――甲冑を纏った騎兵は、もはや義務とは違う意味の嘲笑を浮かべて、腰を抜かした子供に剣を振り上げていた。
「何をしているんだ! お前は!!」
 これ以上騎兵の凶行を無視することなどできず、ノエは剣を抜き、騎兵と子供の間に割って入った。
 突如姿を見せたノエに、騎兵は訝しげに眉を顰める。
「何だ貴様、異端者の一人か?」
「そういうわけじゃない」
「はっ、無関係な旅人を気取るんなら大人しくすっこんでろ!」
「断る! そっちこそ、抵抗もできない子供を殺すことが、騎士のやることか!」
 ノエの真っ当な反論に対して、しかし騎兵は眉を寄せて鬱陶しそうに鼻を鳴らすだけだった。
「異端者を一人残らず殺し、その首を教皇猊下の前に並べることこそが我らに与えられた役割だ!」
「この子が、異端者であるという証拠がどこにある!!」
 己の発言が詭弁でしかないことは、ノエも分かっている。
 イシュガルドが定めた異端者とは、すなわち竜に味方し、竜の血を飲んだ者だ。だが、竜の血を飲んでも、その外見は人と変わらないままでいる場合も多い。ちょうど、ノエが数ヶ月前に助けた人々も、竜の血を飲んだものの人の姿を留めたものだった。
 故に、自分が庇った子供が異端者かどうかなど、ノエにもわからないことだ。それでも、彼が殺される姿を見過ごすことなどできなかった。
「こいつが異端者かだと? この家にいた者は、竜の血を飲もうとして抵抗を図った! ならば、その子供も異端者の身内として異端審問にかけられるべきだ」
「ち、違う! 母さんはただ、薬を持っていただけだ!」
「そうやって虚言で我らを惑わそうとするなど、異端者の浅知恵とは醜いものだな――
 騎兵の言葉が最後まで終わる前に、ノエは盾ごと騎兵にぶつかっていった。騎兵の視線を、少しでも子供から逸らすためだ。
 不意打ちを受けて、相手がその場にひっくり返る。その間に、子供が背後から去っていく気配を察して、ノエは内心でひとまず安堵の息をついた。
「貴様、何をする……! やはり、貴様も異端者なのだろう!!」
「僕は異端者ではありません。ただ、あなたが騎士としてあるまじき振る舞いをしているところを目にして、見過ごすことができなかっただけです」
「減らず口を叩きやがって!」
 荒々しい口調で、再び剣を構え直す騎兵。彼を気絶させるまで打ち合わねばならないかと、ノエが剣を握る手に力を込めた時だった。
 耳障りな、虫の羽音に似た異音。空から降ってきた、異質な気配に、二人の剣士は揃って頭上へと視線をやる。
「ドラゴンフライ……!?」
「くそっ、竜の眷属か!!」
 魔物の方がより脅威になると、騎兵は判断したようだ。すぐさま、彼は武器をドラゴンフライたちに向けた。
 一方、一抹の申し訳なさはあるものの、反対にノエはすぐに踵を返して騎兵の前から姿を眩ました。今は、彼と善悪の押し問答をしている場合ではない。最も気にするべきは、オデットの無事なのだから。
 己にそう言い聞かせ、ノエが再び周囲に視線を巡らせてから走り出そうとした矢先、
「退避しろ!!」
「竜がくるぞ――!!」
 他よりも大きく目立つ警告の声に、ノエもそちらへと注意が逸れた。
 ずん、と地面を揺らす重々しい足音。ばさりと空気を打つ巨大な皮膜の音。大音声を背景に、青々とした鱗の竜が悠々と姿を見せていた。
 家屋よりも巨大なその体躯は、集落のあちこちに残っていた廃墟だけでなく、人が手を入れて住めるようにしていた家すらも突き崩し壊していく。
 無謀にも竜の足元に近寄った騎兵の一人は、竜が口から放った極寒の冷気によって凍りつき、物言わぬ氷像と化していた。
「怯むな! 死角をついて攻撃を続けろ!!」
 後方から駆けつけた一人が声を張り上げるも、掛け声そのものの意気をくじくかのように、氷づけとなった騎兵が氷もろとも竜に踏み潰される。
――!」
 ばきん、と硬質な音と共に砕けたのは氷の像ではない。あの中に人間がいた証拠として、ゆっくりと上げた足の下には真っ赤な痕が見えた。
 これでもまだ立ち向かうつもりか。
 そう告げるかのように竜が吼えると、騎兵たちの半数は距離を置き、残った半数は竜の猛攻によって士気を上げた異端者たちの進軍とぶつかり、新たな戦いを始めていく。
 その混乱の只中を一人の剣士が駆け抜ける。外套を脱ぎ捨てた、鈍色の鎧を身につけた剣士――ノエだ。
 唯一自分に近づく人間に反応し、竜が首を巡らせる。再び首を大きく振り上げ、口にたまった冷気をノエへと吹きかける。
(その動きは、さっき見ていた……!)
 同じ攻撃を正面から受けるほど、ノエも愚かではない。予想通りの動きをした竜に合わせて、体を横へと転がし、冷気の範囲から逃亡を図る。
 竜は逃げたノエを目で追い、今度は己の口そのものでノエに齧り付かんとする。だが、竜の一撃は、ノエの手前にある紙一重の障壁によって防がれた。
 余裕の表情を取り繕い、竜の顎を盾で殴りつけて距離を稼いだものの、ノエは内心冷や汗をかいていた。
(間一髪だった……!)
 もし、少しでも躊躇をしていたなら。
 あるいは、念のため余計かと思いながらも障壁を作るという考えに至っていなかったら。
 自分は間違いなく死んでいただろう。
(ランドンのときとは違う。この竜は、ランドンより動きが速い)
 ランドンの翼は退化しており、その体も頑丈ではあったが動きはこの竜に比べれば遅かった。だが、目の前の竜は違う。
 翼による巧みな姿勢制御、機敏な動きに加えて、一対一で動くノエを侮らずに視線で追う様子。
 ランドンが己の頑丈さを武器に強引に勝ちを拾ってきた竜だとしたら、目の前の竜はその知恵と巧みな体捌きで苦難を乗り越えてきた切れ者だ。
 だが、だからこそ――ノエはかの竜に迫らねばならなかった。
「あなたは、ゲルダさんがお母さんと呼んだ竜ですよね!?」
 騎兵も異端者も近付いていない今だからこそ、ノエは声を大にして問いかける。
 竜はノエをちらと見やってから、言葉など理解できていないかのように、再び噛み付かんとした。
 しかし、先ほど見たばかりの動きにすぐ捕まるほどノエは愚かではない。動きを見切り、あえて竜の懐に飛び込むように距離を詰め、今まで自分が立っていた場所の反対側の地点まで駆け抜ける。
「なぜ、言葉がわからないようなふりをするのですか! 僕は、貴方たちが言葉を話すことを知っています! 実際に言葉を交わしたこともある!!」
 ノエの叩きつけるような言葉の数々に、ようやく竜は今までと違う反応を見せた。
 首をノエに向けても、彼自身を攻撃しようとはせず、
『人間が、竜と言葉を?』
「ああ。彼は……ランドンと呼ばれていた竜は、僕のことを別の誰かと勘違いしていたようでした。ですが、それでも彼と僕は言葉を交わした。そのことは、確かです」
『ランドン……。ああ、あの鋼の翼の若人ですか。あの者は、あの後どうなったのですか』
「ランドンを知っているのですか?」
『友に会いにいきたいと駄々を捏ねる彼に飛竜を貸したのは、私ですからね。私の幼き友人たちは、人を殺める復讐の機会があるのならと、喜んで参加しました』
――!!」
 眼前の竜がさらりと口にした言葉に、ノエは瞬時息を飲んだ。
 この竜は、自身の手のものをランドンに貸した理由として、隠すことなく『人を殺すためだ』と示してみせたのだ。その結果、ノエの父が治めていた領地に甚大な被害をもたらした。
『それで、ランドンはどうなったのですか』
……彼は死にました。山の頂上から落ちて、そのまま」
『人間は、言葉を取り繕うのだけは上手ですね。自分が殺したと、はっきり言えばいいものを』
「否定はしません。確かに、僕が彼に死を与える切っ掛けにはなったのですから」
 だが、今際の際にランドンは自分を助けようとしてくれた――とノエは言わなかった。
 その事実を目の前の竜に伝えたところで、浅ましい自己弁護としか受け取られないだろう。そして、ランドンがもしこの場にいたのなら、自分の決死の選択について、同胞にそのような粗末な扱われ方をされたくなかろうと思ったからこそだった。
「質問を繰り返します。あなたは、ゲルダさんが母親と呼んでいる竜ですか」
『あれは、確かに私をそう呼びますね』
「ゲルダさんは、かつて遭難しかけているときにあなたに助けられ、その後はずっと行動を共にしていたと話していました。なのに、なぜ、あなたは今のように暴れているのですか。ゲルダさんという人間を助けたはずのあなたが、どうして……!」
 明確に言葉にこそしていなかったものの、ノエは言外にこう尋ねていた。
 ――人間を助けたはずの竜が、どうして人間を傷つけるような真似をするのか。
 ゲルダが竜に助けられたと聞いた時、ノエは竜にも人に友好的な考えの者がいるのではないかと考えた。その時抱いた希望を捨てたくなくて、ノエは声を張り上げる。
「あなたは、ゲルダさんを守るために異端者に協力していたのではありませんか。だったら、ゲルダさんを僕たちがここに連れてきます。あなたが今ここで暴れる必要はありません!」
 ゲルダという少女を助けたのなら、この竜は少なからず人間に対して、憎悪以外の感情を持ち合わせているのではないか。そう考えたからこそ、ノエは危険を承知で竜の足元に居続けている。
(ゲルダさんがいなくなって、やむをえず異端者に協力しているだけだとしたら……ここにゲルダさんがいると伝えて、連れ帰ってもらえば、この竜は戦う理由がなくなるはずだ)
 果たして、竜はまじまじとノエを見つめ――笑った。
 それは、人間の笑い声とは大きく異なる、囂々と響く風の唸りに似たものではあったが、確かにノエを笑う――否、嘲笑うものだった。
『この私が、人間の娘を憐れんで助けたと! 本気でそんなことを想像していたのか!? 随分とおめでたい頭をしている人間がいたものですね!』
――――!」
『私があれを助けたのは、あれの中に『ゲルトルーデ』の眼が眠っていたから。人間が持ち去ったあの子の眼のうち、もう片方を見つけるために、あれを破壊せずに懐柔させていた。それだけに過ぎません』
 目の前の竜が言っていることの半分も、ノエには理解できなかった。
 だが、ゲルダが無意識に求めていた母親の愛情などというものを、眼前の竜が全く持ち合わせていなかったことだけは、ノエにも伝わった。
「あなたは、自分の目的のためにゲルダさんを利用していた。そう言いたいのですか」
『そのような言い方もできますね。もっとも、あの男と出会ってからは、私も少々違う目的を持つようになりましたが』
……では、あなたは望んで異端者たちの味方をしているのですか。飛竜を彼らに武力として貸しあたえ、魔物を眷属に仕立てて今も異端者の味方をさせているのも、あなた自身がそう望んだから。そういうことですか!!」
 ノエの動揺を隙と見たのか、竜は首を再び振り上げる。それを氷のブレスの前兆と判断し、ノエは先だってと同じように回避しようとした。
 だが、竜が吐き出したのは氷の吐息ではなかった。
「!?」
 回避しようと飛び退っていたノエの眼前に飛んできた、氷の礫。
 彼の顔ほどもある礫がノエの足元に着弾し、彼の周囲一帯を凍り付かせる。氷の着弾地点から急速に広がった冷気は、積もった雪の上から更に新たな氷で包み、
「足が……っ!」
 地面に立っていたノエの足すらも、氷の呪縛で押し包んでいく。
 先ほどの騎兵のように全身が凍りつくことこそなかったものの、しっかりと根を張った氷の戒めは、ノエの足に絡みついて彼をその場に釘付けにした。
『私が異端者の味方? 冗談も休み休み言ってもらいたいものです。笑い過ぎて、ほうぼうを無意味に凍らせてしまうのは、流石にあなたも困るでしょう?』
 もし竜が人の形をしていたのなら、その声は妖艶な微笑と共に口にされていたことだろう。
 そこには間違いなく、ノエを見下す視線が伴っていたはずだ。
『私は、異端者などと呼ばれる人間たちの味方をしているわけではありません。もちろん、あなた方が騎士団と呼んでいる鉄の塊を身につけたものの味方でもない』
「だったら、あなたは……
『私はただ、人間を殺したいだけです。私の同胞を何人も殺め、私の愛しい片翼すら殺したあいつらを! 最も惨たらしい形で殺したいだけ!!』
 竜の声と共に、極寒の風がノエの全身を打ち付ける。あまりの冷たさに、ノエの全身の表皮に霜がおり、一瞬彼の意識が暗転しかける。
『ですが、私一人が人間の只中に舞い降りても、いずれは私も忌々しい人間に討ち取られるだけです。ですから、私は――ニーズヘッグ様の真似をすることにしました』
 その竜は、建国神話にも登場する邪竜だ。
 今もまだ、イシュガルドの各地で人間との戦いを続けている、イシュガルドにて、最も長き時を生き、最も深い憎悪を向けられている竜。
『私が異端者と呼ばれる者に手を貸せば、彼らは増長し、他の人間と積極的に争うようになる。互いが互いを傷つけ、自滅の道を歩んでいるとも知らずに。そうして自らの種を自らの手で滅ぼすところを見るために、私は彼らと行動を共にしている。ただそれだけです』
 竜は語った。自分が手を貸す理由は、人間の同士討ちを煽るためだと。
 異端者には、騎士団のような政治的な後ろ盾がない。彼らは竜の血を飲んで結束を確かめ合い、時に竜の血による変化を用いて騎士団に抵抗するが、大規模な組織的反抗によって騎士団という組織を完全に壊滅させるほどの力はない。
 だが、その背後に竜の後ろ盾があればどうか。
 大義名分とは異なる、もっと明確な暴力としての力が彼らの背中を押したならば。
 竜がそばにいれば、竜の血も得やすくなる。竜が彼らの背後を守り、騎士団を追い払う手助けをしてくれれば、その活動はより過激になる。
「そのために、あなたは異端者に血を渡し、魔物を与えたのですか……っ」
『それ以外に、そのような手間をかける理由はありません。ただ人間どもを殺すだけでは、私のこの気持ちは満たされないのですから』
 それは人間も同じだ、と喉まで言葉が溢れかけた。しかし、ノエはその反論を無意味なものとして封殺した。
 竜に復讐の怨嗟を問うことは無意味だ。竜が人と違う生き物だから、ではない。
(人間が争い続けるのと同じくらい、この竜も同じ理由で、振り上げた拳を振り下ろさずにはいられないんだ)
 アガテルがオデットを身代わりにした時、ノエは確かに怒りを抱いた。
 もしオデットが取り返しもつかないほど傷つけられ――殺されていたら、ここにいる異端者を全員許すことなど、きっとできないだろう。どれだけ公正であり、公平であろうとしても、命に優劣はある。誰かの怒りに寄り添いたいという道徳心など、あっという間に吹き飛んでしまう。
 そのような憎悪は人間だけが持つものだと言うのは、それこそ傲慢が過ぎるというものだ。
 もう会えない友人を探し続けた竜を、ノエは知っている。
 そして今、失った誰かのために憎悪に瞳を焦がす竜の怒りをその身に浴びた。
「あなたがゲルダさんを助けたのも、結局はあなたの復讐のためですか」
――いいえ。あれは……違います』
「ですが、あなたは自分の目的のために助けたと言った」
『そうです。あれを拾ったのは、あくまで私の失われた片翼のため』
「でも、ゲルダさんはあなたを慕っていました。あなたはそれを見て、何も感じなかったのですか」
 ノエの質問に、竜は軽く鼻を鳴らした。そのひと吹きだけで、ノエは体温ががくんと下がったのを感じた。
『私に慈悲を求めているのですか。そのように足を氷漬けにされて、もはや絶命も秒読みとなって、竜の慈悲に縋るしかないと?』
「違います。僕がゲルダさんに再会した時、あなたの言葉を伝えるべきかどうか、それを知りたいだけです」
 ぎち、と氷が軋む音が響く。氷の呪縛から逃れようともがいたものの、ノエの足はいまだに氷漬けのままだ。
「もし、あなたがゲルダさんのことを、利用する以外の感情をほんの少しでも持って接していたのなら、僕はゲルダさんにそのことを伝えたい。たとえ、あなたがこの先ゲルダさんを迎えに行くことはなかったとしても、あなたの母親はあなたを――愛していたと」
 自分でも陳腐な言葉だと思った。だが、言わねば伝わらないこともある。
 竜が自分に課した使命に従って、素直に言うことができないならば、代弁者になってもいいとすら思っていた。
……人間風情が。私とあの子の間にあったものを、貴様のようなものが知った口で語るな! どうせ、あれに再会する未来など、お前にはない!!』
 これ以上話すことはないと、竜が大きく前足を振り上げる。そのまま勢いに任せて、竜がノエを踏み潰した。
 そう確信した――はずだった。
……?』
 人間を潰したはずなのに、何の感触もない。もうもうと湧き立つ白い煙に、竜が目を凝らし、気がつく。
 その煙は、寒さの末に生まれたものではない。その逆だ。高温により氷が溶けてできた水蒸気だと竜が理解した刹那、
「お前、無茶するのもほんっとうに大概にしろよ! 俺が間に合わなかったら、確実に潰されていたんだぞ!?」
「ですが、ルーシャンさんが遠目には見えましたから。ルーシャンさんなら、あの距離ならすぐに詰められますし、炎の魔法で僕を溶かして救出することも可能でしょう?
 竜から距離を置いた地点にて、ノエは先ほどまでいなかった人物――ルーシャンに連れられて、自分に凍りついた霜を払い落としていた。
 会話をしている途中で、ルーシャンが喧騒を潜り抜けてこちらに近づいてきたのを確認し、ノエは彼が助けに来られる距離に到着するまで、会話を引き延ばすことに注力した。そうすれば、ルーシャンが隙を見て自分を助けてくれると分かっていたからだ。
 無論、会話そのものも無意味だったわけではない。竜との会話を経て、かの竜の狙いを理解することができたのだから。
 竜の視界から逃れるように、ノエはルーシャンと共に建物の裏に逃げ込む。いまだ体に張り付いた霜のせいで、瞳を完全に開くことができずにいると、
「できるかできないか、で言われりゃできるけどな。合図もろくにない状況で、そんな賭けをするのは若人ぐらいだぞ」
 ふ、とノエの瞼を張り付けさせていた霜が溶けていく。ノエの肌を優しく撫でていったのは、傍らにいる仲間の炎だ。
「あのまま踏み潰されちまうって、少しは危ぶまなかったのか?」
「信頼していましたから。ルーシャンさんのこと」
 ノエが何気なく言った言葉に、ルーシャンは意表を突かれたのか、しばらく言葉を無くした。あるいは、それはノエの向こうみずなほどの真っ直ぐさに対する呆れだったのかもしれないが。
「で、あの竜をどうする。倒す気か?」
……それは、できる限り避けたいところですね」
「だな。いくらなんでも、大物が過ぎる。ランドンのように地形の利もない」
 ルーシャンはあくまで戦力について考えた上で、竜と戦いたくないと言ったようだ。しかし、ノエの考えは異なっていた。
(あの竜は、仲間の仇うちのために人間を利用したと言っていた。あの時、僕はあの竜が間違っていると言えなかった)
 人間の視点としては、竜ごときの復讐に巻き込むなと言うこともできるだろう。だが、竜には竜の意思がある。仲間を気遣い、復讐を願う心がある。
 ノエには言えなかった。
 人間は、竜に仲間を殺されたのだから、竜は殺されても文句を言うな、などとは。
 竜は大人しく人間の復讐の糧となっていろ、とは。
「とにかく、今はオデットと合流を……
 そこまでノエが言いかけたとき。これまで聞いたことのないほど、激しい竜の咆哮が彼の鼓膜に叩きつけられた。
……!」
 あまりの轟音に耳が壊れるのではないかと思った。空を割るかと錯覚するほどの大音声。
 その咆哮には、言葉はなかった。けれども、言葉などなくても十二分に理解できるほどの激しい怒りが込められていた。
「さっきの竜がまた吼えやがったのか?!」
「いえ……これは、違います! 見てください、あっちに何か……
 ノエいまだにふらつく頭を片手で支え、立ち上がり、咆哮が轟いた方へと視線を向ける。
「何だ、あのエーテルの量は……!」
 ルーシャンが驚くのも無理もない。視線の先にあったもの――ゆっくりと浮かび上がる赤黒い揺らめきは、近づくことすら躊躇するほどに高濃度の魔力に満ちていた。少し離れているノエですら、恐怖と警戒で鳥肌が立つほどに。
 あそこに近づくなと、全身が警告を発している。その理由は、赤黒い魔力の渦が一つの形を為したことでよりはっきりとする。
「竜が生まれた……? そんなことが、あり得るのか……?!」
 驚愕のあまり、普段は冷静な魔道士の声すら震えていた。
 赤黒い魔力の渦が無くなった時、そこには赤い鱗の竜が君臨し、先ほどと同じように高らかに咆哮をあげていた。新たに生まれた竜は、先ほど目にした赤黒い魔力の渦が形になったかのように見える。
……いや、今は竜の相手について考えている場合じゃなかったか。先にお嬢ちゃんがどこにいるのか探さないと、だったな」
 あまりに絶望的な状況から脱したいと思ったのか、ルーシャンはかぶりを振り、当初の目的に立ち返らんとする。
 ノエとしても、それについては同意見だった。だが、ノエは竜と離れるために気持ちを切り替えたのではない。
「ルーシャンさん。僕は、あの赤い竜の元に向かおうと思います」
「どうしてそんな結論になる。何か理由があるのか」
……直感ですが。あの場所に、オデットがいると思うんです」
 先ほどの咆哮と共に、ただの音とは異なる、何らかの意思がノエにだけ叩きつけられるように響いた。
 それはほんの僅かな、糸屑のように小さな意思の破片に過ぎない。だが、それでも感じられたのだ。
 ――ここにいる。
 あなたの探している人はここにいるよ、と。
 あの竜に、そう言われたような気がしたのだ。
「それに、もしオデットが脱出していて、僕たちが助けに来たのかもしれないと思ったら、オデットは真っ先に一番事態が混乱しているところに向かうでしょうから」
「どうしてそう思うんだよ」
「僕が向かうところは、いつだってそういう場所だったでしょう?」
 ノエはいつだって、問題の渦中に飛び込んで、誰かを救わんとする。それを、オデットはよく知っている。だからこそ、二人が巡り会えるとしたら、それは一番状況が錯綜している現場に間違いない。
 ノエの論法を聞いて、ルーシャンは大きく肩を落とした。
……仕方ない。そういうことなら、俺も若人に付き合うしかないな。お嬢ちゃんたちとお前しかいない状況にしたら、無茶ばかりしそうだ」
『そういうことなら、ボクたちも合流した方がいいかい?』
 折よく、リンクパールの通信が開き、ヤルマルの声が二人の耳に響いた。微かに息が乱れているのは、それほどまでに激しい戦闘を続けてきたからだろうか。
「ヤルマルさん。他の二人は、無事ですか」
『一応はね。こっちはひどい有様だ。魔物が騎兵を襲うだけでなく、周りの状況なんてお構いなしにあちこちで暴れているせいで、二次被害が広がっている』
 ヤルマルの言う通り、周囲の建物は魔物が暴れ回ったせいでいくつか崩壊しかけ、中には瓦礫に埋もれて閉じ込められている人もいるだろう。そして、騎兵も異端者も、そのような者を助ける余裕など持ち合わせていない。
……ヤルマルさん。それに、オランローとサルヒさんも。できるなら、逃げ遅れた人を助けてもらえませんか』
「おい、ノエ。お前、竜の足元に向かうつもりだっていうのに、何を言っているんだ」
『あんた、そんなことをするつもりなのか!?』
 横から割って入ってきたオランローの叱責の意味は、痛いほどにわかる。だが、ノエは首を横に振った。
「僕たちは、オデットを助けに行くだけです。竜を倒すつもりは……ありません。少なくとも、今は。ですが、今この瞬間にも、戦う力を持っていない人が傷つけられている。それを放っておきたくもないんです」
 無理を頼んでいることは百も承知だ。ヤルマルが「異端者たちなどどうでもいい」と言ってしまえば、無理を通すほどの理由を作ることはノエにはできない。
 ヤルマルは大きなため息を一つ、リンクパール越しにこぼしてみせた。
『たとえ、彼らを助けたとしても、だ。彼らにとって山野に逃げ隠れる日々が再び続くだけだよ』
「それでも、命を落とすよりはずっといい。……今の僕には、それしか言えません」
 ノエには人々を全員助けるほどの政治的な後ろ盾もなければ、権力もない。父の手を借りられたときとは状況は違う。
「僕は竜をすぐに葬るほどの力もないし、騎兵をこの場から一掃する権力もない。異端者として活動してきた人を裁くほどの絶対的な正義なんてものも持っていない」
 ノエはよく知っている。自分がやりたいと思うことに対して、自分の手は『無いものばかり』だということを。
 それでも、願わずにはいられないのだ。
「だけど、戦うことを望んだわけでもない人がこのまま死んでいいとも思えないんです。僕の身勝手は意見だとはわかっていますが、それでも」
『うん。それもまた……一つの正しさだとボクは思うよ』
 ヤルマルの静かな相槌が、ノエが必死に吐き出した言葉をやんわりと受け止める。
『ボクだって、彼らを見殺しにしたいとは思わない。飲み込むことはできえも、寝覚めが悪くなるだろうからね』
……すみません、ヤルマルさん。オランロー、サルヒさんも』
『ノエ。そういう時は、違う言葉の方が嬉しい』
 サルヒの涼やかな声には、この場に似つかわしくない労りと優しさが滲んでいた。
 彼女の言葉に背中を押されるようにして、ノエは言う。
……ありがとうございます、三人とも。どうか、皆さんのことをお願いします」
『そっちこそ。オデットとゲルダを連れて、さっさと帰ってくるんだよ!』
 勇ましいヤルマルの後押しを最後に、通信が切れる。
 傍らのルーシャンを見やると、彼は片眉を持ち上げて、何とも言い難い表情を作っていた。しかし、ノエの決断を否定はしなかった。
 好きなようにやってみろ。言外に、彼はそう言っているように思えた。
「それじゃ、お姫様の元に向かうとするか」
「はい。……ありがとうございます、ルーシャンさんも」
「なに、こうなったら乗り掛かった船だ。最後まで面倒見てやらなきゃ、それこそ寝覚めが悪くなるんでね」
 先ほどのヤルマルと同じ言い回しで、ルーシャンは片手をあげて応じてくれた。
 一つ頷き返してから、ノエは赤い鱗の竜が見える方角へと駆け出す。
 あれは、明らかに先ほどの竜とは異なる。憎悪そのものが形になったかのように、ただそこにいるだけで、無作為に殺意を向けられているかのような緊張感を覚えさせられる。
 それでも、ノエは歩みを止めなかった。
(待っていてくれ、オデット。すぐに向かう――!!)
 そのさきで吼える竜が何者であるかを、ノエはまだ知らない。