かなざわ
2025-04-20 22:45:59
3673文字
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伝書鳩はスケートリンクの夢を見るか

よだつか。海外在住の夜鷹の元へ司が慎一郎から預かった手紙を届けに行っている数年後if。司がちょっと精神的に弱ってる話。

 司にはごく稀に、どうしても眠れない夜が訪れることがある。
 ここ最近では頻度はめっきり減ったものの、一度ああ来たかな、と意識してしまえば後はもう転がり落ちるだけだ。冴え渡ってしまった意識は眠りの尾を掴み損ね、ただひたすらに暗い部屋で時間が過ぎるのを待つことしか出来ない。
 伏せた瞼の裏に広がる暗闇を見つめていても、諦めて目を開けて暗い部屋の天井を見上げてみても、眠くなりはしなかった。
 司は切り換えが早い。苛立ちも迷いも、体を動かして一晩眠れば大体がリセットされる。寝付きはいいし、寝起きだって悪くはない。
 だからこそ眠れない夜には、ただただ途方に暮れてしまう。対処法が分からないものには、どうにも対応出来ないからだ。
 何かで気を紛らわせていた方がいいかもしれない。そう考えて、司は体を起こした。横たわっていたソファーベッドから、慎重に足を下ろす。
 最初は読みかけの本の続きでも、と考えたが灯りを点けるのはすぐに却下を下した。万が一にでもこの部屋の家主である純が寝ているのを起こしてしまうようなことになったら、いたたまれなさすぎる。
「走ってこようかな……
 ぽつり、小さな声で呟く。
 物理的に体力を減らせば眠くなるかもしれない。幸いにと言うべきか、寝巻き代わりに持参していたジャージを身に付けていたから着替える必要もなかった。
 なるべく物音を立てないように、そろそろと動く。店がやっているような時間ではないので、財布は不要だ。持ち物はスマホと、この部屋に世話になっている際にだけ司の物となる合鍵。靴下を履き、靴紐を結べば身支度は完了した。
 よし、と一つ頷き玄関へ向かう。その足がふと、止まった。
 おそらくはないだろうが、万が一、否億が一の可能性として純が起きた際に司の不在を不審に思うかもしれない。暫し考え、メモを残しておこうという結論に至った。
 荷物の中から手帳を出し、後ろのページを適当に切り離す。この部屋にいるのは純と司だけなのだから、名前もいらないだろう。伝えたいことを、簡潔に。

『走ってきます。気が済んだら戻ります。』

 走ること自体が目的ではなく、気を紛らわすための外出だ。いつになるかの言及は避けておいた。
 そもそも純が起きてくるかも分からないし、起きて司の不在を気にするかどうかも不明瞭だ。司にしてみればこのメモは、保険に保険を重ねがけしているようなものだった。
 書いたメモはソファーベッドの上に置いておくことにした。
 準備を終え、司は満を持して玄関へ足を向けた。
 ゆっくりとドアを開け、外へ出る。少し迷って、ドアが閉じる寸前に隙間から室内に向けてそっと声を差し入れた。
……行ってきます」


 純が仮住まいに選んだ街は、長閑な田舎町といった風情漂う小さな都市だった。観光地からも離れていて、この街自体にも見所になるような名所も特にない。
 日本では当たり前のように見かけた二十四時間営業のコンビニなんて店もなく、つまり夜も更けてしまえば出歩いている人はごく稀になる。
 土地勘のない場所では、流石に横道に入るような冒険心もない。少なめの街頭を辿るように、大通りをいつもよりゆっくりとしたペースで走った。
 走って、やがて海辺に出た。潮騒が静寂の中に響いている。
 先へ行こうか、波打ち際に降りるか。
 暫く迷い、結局司は浜へ降りる階段を数段降りたところに腰を下ろした。ゆっくりと走っていたから息の乱れもない。
 ざあざあと寄せては返す波音につられるように海に目を向ける。けれど、光量の絞られた夜の海はただ黒いばかりだった。昼間には見えていた水平線もよく分からない。
 空も海も、ただ真っ黒だ。
 瞬間、司の胸中に広がったのは焦りとも苛立ちともつかぬ感情だった。
 気分転換のために出てきたのに、思考がよくない方向へ転がりだしたのを感じたからだ。
 しまった、と思うが既に遅い。回り出した思考を止める術はない。
 後悔。失敗。やり直したいこと。
 思考が目の前に在る真っ黒な海と空に、夜に呑まれ引き寄せられていく。反省をするのでもなく、次に活かすためでもなく、ただ暗い思い出を次々に回想していくだけの、自傷行為にも等しいそれ。
 オーディション。アイスダンス。フィギュアスケート。同好会。瞳さん。先生。両親。兄弟。
「司」
 唐突に、名前を呼ばれた。今ここで聞こえてくるはずのない、声。
 ぐるぐると巡っていた思考が止まる。
 司はひどく緩慢な動作で、声のしてきた方へ顔を向けた。
 どうして。
 そう言おうと思ったけれど、言葉は声として唇から紡がれることはなかった。
 どうして貴方がここにいるんですか。
 そう聞きたかったのに。
 司に氷の上の世界を教えたひと。掴みたかった世界の、頂点に立っているひと。
 理想で、憧れで、届かなかったが故の一匙の苦さも感じてしまう相手。夜鷹純。
 どうして、こんな気分の俺を見つけるのが、貴方なんだろう。
 司は呆然としたまま、歩み寄ってくる純を見ているだけだった。
 煙草を咥えた純は、相変わらず黒い服を纏っている。司の思考を落とし込んだ色だというのに、純の姿を目にして安堵にも似た気持ちになっていた。
 返事もしない司を流石に不審に思ったのだろう。目の前までやって来た純が、司の顔の前でひらりと手を振った。
「起きてる?」
「起きてます……煙草の火が、ホタルに見えて。ちょっと、驚いて」
……この辺りでホタルは見たことないな」
 純が息を吸うと、煙草の先端が仄かに光る。
 明滅する様がきれいだな、と。
 何気なく思った。
「ぁ、れ」
 声がこぼれたのは、不意に視界が滲んだからだ。数瞬遅れて、自分が泣いているのだと気づく。
 慌てて手の甲で涙を拭うが、拭った傍からぼたぼたと涙がこぼれ落ちてくる。
「ちょ、なに、なんで」
 焦りに喉が震えた。どうにか涙を止めようとするが、そもそも泣いた理由が司自身にも不明なのだから対処のしようがない。
 ぐすぐすと泣きながら、立てた膝に顔を隠すように埋めた。
「ご、め……な、さぃ」
 しゃくり上げる合間に謝罪する。純が今の自分をどう思っているか、想像してみても分からなかった。
 呆れているか、怒っているか。
「べつに」
 そっけなく聞こえる言葉の裏に、いいよ、だか気にしてない、という副音声が聞こえた気がした。

 原因不明の涙が止まるまでに要した時間は、体感で五分もかからないくらいだっただろうか。
 伏せていた顔を上げれば、純の佇まいはいつもと何ら変わりがなかった。
「お待たせしまして……
「ん」
 目の前に手が差し出される。気遣いの透けて見える仕草に、流石に心配をかけてしまったらしいと悟った。
 謝り倒したい気持ちはあったが、散々泣いたせいか頭の芯がぼんやりとしていた。
 折角のご厚意に甘えることにして、差し伸べられた手にそっと自身の手を置いた。ぐっと引っ張り上げられ、物理的に純との距離が近くなる。
 待たされただろうに司を責めるでもなく、純はいつも通りの表情をしていた。
「好きなの?」
「え?」
「海。わざわざこんな夜にまで来てるから」
「あ、いえ、どうだろう……好きとか嫌いとか、あんまり意識したことはない、です」
「そう」
「はい」
「行くよ。ここは波の音がうるさい」
 頷くよりも早く、手を引かれた。手を繋いだまま、歩きだす。
 司は何だか不思議なものを見るような気持ちで、重なった手のひらを眺めていた。
 純がこの時間に起きてくることも、起きて司の不在に気づいたところで探しにきてくれることも、欠片もそんな可能性などあるはずないと思っていた。
 果ては顔を合わせたと思ったら号泣されるなんて、純からすれば傍迷惑でしかないだろうに。
 純は何も聞いてこない。司が夜更けに家を抜け出した理由も、泣いたことも。
 号泣したせいでいつもより体温が上がっている手のひらは、きっと純には熱いくらいだろうに。それでも何も言わず、手を引いてくれている。
 泣きすぎたせいで頭が痛い。目の周りが熱く、おそらく腫れているだろうな、とどこか他人事のように考えた。
 回らない思考で唯一理解出来ていたのは、繋いだ手が暖かいということだった。
 頭の隅で、思考の冷静な部分がどうしよう、と呟くのが分かった。
 こんな風に貴方の手の中に、希望を見つけてしまったら。
 俺は、どうしたって貴方から離れられなくなってしまうのに。
 どうしよう、と思う気持ちとは裏腹に、司は純の手を離すことは出来なかった。
 腫れぼったい目で、なんとなく海の方を見やる。波の音は変わらず辺りに響いている。追いかけてくるようなその音に対して、先刻抱いた恐怖にも似た気持ちはもう沸き上がって来なかった。
「あ」
 ぽかりと開いた口から、小さな声が溢れ落ちる。さっきまで真っ暗だとばかり思っていた空には、星が瞬いていた。