かなざわ
2025-04-20 22:42:25
4132文字
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君の立てる旗(全肯定ではない)

よだつか。海外在住の夜鷹の元へ司が慎一郎から預かった手紙を届けに行っている数年後if。

 僕には故郷ってものがないんだ。
 純がそう零したのは、慎一郎からの手紙を一通り読み終わった後だった。
 その目線は手に持った便箋に落とされたまま。落とした声音はひどく小さく、独り言なのかと思えるほど不明瞭なものだった。
 人に話しかけているとは到底思えないような姿勢だったが、純のすぐ横に座っていた司の耳にはしっかりとその言葉が聞き取れたらしい。手にしていた文庫本を閉じ、純の方へ体を向けて聞く体勢をとるのが視界の端に写った。
「生まれた場所ってだけじゃ、故郷とは言わないんだろう」
「それは、人それぞれじゃないですか」
「そもそも僕は、生まれた場所もよく知らない」
 聞いたことはあるのかもしれないが、記憶に残っていなければ知らないのと同じだ。
 物心ついた頃から純の生活も思考も、意識のほとんどがスケートへと向けられていた。それ以外のものへの興味は皆無に等しかったし、スケート以外を削ぎ落とすことは決して苦ではなかった。
 必要なものは銀盤と、その上を滑る刃だけ。
 それがあれば、リンクの上で純はひたすらに自由だった。飛ぶように、駆けるように、舞うように、いつまででも、どこまででも。
「一般的には、故郷って帰りたいと思える場所、なんでしょうけど」
 黙り込んだ純をどう思ったのか、司がううん、と唸りながら言う。言葉にしながら、彼自身その定義に納得していないと思わせる声音だった。
 帰りたいと思える場所。
 その言葉を聞いて思い浮かべるのは、リンクだった。白銀に冷たく光る、あの場所。純を自由にしてくれる、息を吐くことが自然に出来る場所。
 どうしたって純から切り離せない場所なのに、だからこそ逃げ出せない。求めているはずなのに、縛られているようにも思えてしまう。リンクの上に全てを捧げてきた、その因果であるかのように。
「そうだな……純さんが会いたい人、会ってもいいかなって思える人って、います?」
 唐突な話題転換だった。何急に、と司に目を向ける。
 純の視線に込められた意味は伝わっているだろうに、司はまっすぐに純を見つめてくるだけだ。純の答えを聞くまで引く気はないと、その眼差しが物語っていた。
 司は一見すると人当たりが良くて、笑顔が多くて、会話もしやすい、所謂付き合いやすい性格だ。けれど、彼が譲れないと思ったところでは驚くほど頑なになる。溌剌とした『司先生』しか知らない人間からすれば、教えられてもきっと信じられないほどに。
 司の問いに答える義理はない。無視したって、流したっていい。それでも、純は司の言葉を胸中で反芻していた。
 会ってもいいと、そう思える相手。
「慎一郎くんかな」
「はい」
「光も」
「そうですね」
「エイヴァと、理凰と汐恩も」
 名前を口にするたび、脳裏に彼らの姿が浮かんでくる。慎一郎からの手紙には、それぞれが元気にやっていると記されていた。
 手に持っていたままの便箋に視線を落とし、表面をそっと指でなぞった。生真面目な彼の性格をそのまま落とし込んだような、几帳面な文字たち。
 ぽつぽつと幾人かの名前を口にした純を見て、司がふふっと笑った。便箋を握っている手に、司がそっと手を添えてくる。普段から体温が高いと自負している司の手のひらは、純からすればいっそ熱すぎるほどだった。
 あついな、そう感じても振り払いたいとは思わなかった。
「俺は故郷って、土地ってだけじゃないと思うんです。会いたい人がいる、そういう場所のことなんじゃないかなって」
……そう」
 故郷と呼べる場所がなくても、別に困りはしなかった。今さら欲しいと思ったわけでもない。
 帰りたい場所はと問われれば、どうしたって思い浮かぶのはリンクで。結局どこまで行ったって逃げられないのだと、そう自嘲しかけていたのに。
 会いたい人はいるか。その問いに答えられる自分がいたことに、驚いていた。
 氷の上にいるために、犠牲に出来るものはすべて差し出したと思っていたから。誰かに会いたいと、そう言えてしまうだけの情緒がまだ残っていたのだと。
 別に気を張っていたわけでもないのに、妙に力が抜けたような心地だった。隣に座っている司に、体を投げ出すようにもたれかかる。筋トレが趣味の司の姿勢は、純が遠慮なく体重を預けたにも関わらず、欠片もぶれることはなかった。
「不満はないの」
「何に対してですか?」
「さっきの」
「今目の前にいるのに会いたい枠の中に入れられるのって、微妙じゃありません?」
 そういうものだろうか。
 よく分からないな、と思いながら、もたれた司の首筋に頭を擦り付けた。触れている場所が暖かい。
 そのまま力を抜いて目を伏せれば、純の手の中から便箋がそっと抜かれていった。紙が擦れる音が僅かに聞こえてくる。おそらく便箋が丁寧に折りたたまれているのだろう。
 司は普段から物に当たるようなことは決してしない。その中でも殊更に、慎一郎からの手紙を扱う手つきは慎重で丁重に見えた。
 言ってしまえば手紙なんて紙の束だ。そこに物品的価値などないに等しい。
 けれど司は、それを壊れ物か骨董品でも扱うような所作で純に持ってくる。見たことはないが、きっと慎一郎から受け取る時も同じなのだろうとは容易に予測がついた。
「俺は会いたいって思われるより、目印になりたい。あなたが会いたいと思える人のところまで、ちゃんと帰ってこられるように」
……旗でも振るつもり」
「いいですねそれ。でっかい旗、振ってやりますよ。鍛えてるんで」
 そのために鍛えているわけじゃないだろう、と。言おうとした言葉は、喉の奥にすとんと落ちて声にはならなかった。
 もたれかかった司の体温が純まで暖めていた。そのぬくもりが心地よく、意識がゆるゆると眠りに絡め取られていくのが分かる。
「純さん、寝ちゃった?」
 潜められた声での問いかけに、まだ寝てない、と返せたのは意識の中でだけだった。
 司の指がゆっくりと純の髪を梳いていく。氷の上で幾人もの目を惹きつけることの出来る指先は、今はただ一人を慈しむためだけに在った。
 その手を握り返したいと思ったけれど、眠りに沈んでいく体は動いてはくれなかった。
「本当は、貴方の手を引いていければいいのかもしれないけど。俺は、貴方の望まないことはしたくないから。だから、旗を立てに来ます」
 司は元々、想いを言葉にするのを惜しまない性質だ。見たものや感じたことを言語化するだけの語彙もある。必要最低限の言葉以上を紡ぐのを得手としない純とは、いっそ対称的とも言える。
 日本から離れた純の元を司が訪れるようになってからの年月は、決して短くない。実際に訪れた回数は分からないが、おそらく片手の指では足りないはずだった。
 けれど司は、こうして純に会いに来るようになってから、一度たりとて日本への帰国を促すような言葉を向けてきたことはない。無論、態度に現すようなこともなかった。そうされていたら純は司の前からも姿を消していただろう。
 司は慎一郎から預かった手紙を届けるという名目で、限られた時間を純の元で過ごしては日本へ帰っていく。バカンスですよ、と笑う顔に嘘はなかった。
 司は純に対して嘘をついていたわけではない。ただひたすらに、純を優先させていたのだろう。
 一緒に帰りませんか、という言葉も感情も、純に悟らせないようにと胸の奥底に押し込めていただけで。
 ねえ。
 君、本当は僕を連れて帰りたかったの。
 そんなの、知らなかったよ。
「誰が何を言おうと、俺は貴方を全部肯定したいんだ。俺は貴方が、貴方のスケートが、夜鷹純というひとが、大切だから。見失わないように、旗を立てます。何度でも」
 彼の立てる旗なら、きっと笑えるくらいの大きさなんだろう。どこからでも見えるほどに。
 風を受けて、嘲笑も称賛も罵倒も歓声も、全てを受け止めて、それでも誇らしげに翻るほどに。
 リンクの上は静かで、ブレードが氷を削る音、頬に当たる冷たい風、時折洩れる自身の吐息、そんなものしか聞こえてこない。氷上は純にとっての唯一で、絶対だ。競技から離れた今でも、それは変わらなかった。
 純は自分が氷の上でしか生きられないと知っているのに、あの場所にずっといることは叶わない。
 ままならなさに歯噛みして、どうしようもなくて、リンクのない場所に移り住んだ。物理的に距離をとってしまえば、胸中に巣食う衝動も落ち着くのではないかと期待して。
 結果として氷上への想いが消えたかといえば、それは否でしかなかった。届かない距離にいても、氷上にどうしようもなく焦がれた。銀盤にすべてを置いてきた今の自分は、抜け殻でしかないとさえ考えた。
 純にとって、氷上以外の世界は嵐のように目まぐるしいものだった。人も物も音も、様々なもので溢れかえっていて、向き合うのも着いていくのも苦しい。
 司は、純とはまるで逆だった。彼は競技者としては大成しなかった。メダルどころか、公的な記録はないに等しい。氷上への執着心はあるのに、弾かれた。
 それでも彼は、氷上へ関わることを諦めていない。競技者からコーチへと立ち位置を変えて、リンクの傍らに在り続けている。
 そうして純が息苦しいと思える氷の外の世界を、氷上と関わりながら自在に泳ぎ回り生きている。純が嵐のようだと思う場所で、笑いながら。
 司はきっとこれから先も純の元を訪うのだろう。言葉通り、何度でも。飽きもせずに、献身的に。
 帰るかどうかは、まだ分からない。
 けれど、司が純の元へ旗を立てにくるというのなら。嵐の中でも、純の目印になるように旗を振ると言うのなら。きっと、そう悪くはないのだろう。
 今までになくひどく楽観的にそんなことを思いながら、純の意識は眠りに溶けていった。

 翌朝。
「一つ、言っておきたいんだけど」
「どうぞ」
「君、全肯定っていうほど僕に従順じゃないよね」
「う」
 聞いてたんですか寝てたんじゃなかったんですか、と顔どころか首まで真っ赤にした司を前にして、純は久々に声を上げて笑った。