陰鬱な夢から覚めて暗い部屋の中で天井を見上げた。指先すら動かさず何かにバレないよう静かに呼吸をするだけの時間は数秒にも数分にも思えたが、不意に隣から聞こえた「んう……」という小さな呻き声に、魔法が解けたようにあっさりと顔を動かして暗闇に慣れた目ですぐ隣を見つめた。膨らんだ布団がかすかに上下し、枕に寝顔を埋めてすぅすぅと穏やかに呼吸を繰り返す愛おしい恋人が、そこにいた。理由のない不安感や気味の悪さがいっぺんに消え去り、俺は頬を緩めて由鶴に手を伸ばした。
柔らかい頬をそっと撫で、俺より少し高い体温を手のひらに感じる。安心したら喉が渇いた。俺は由鶴を起こしてしまわないようにベッドを抜け出し、足音を忍ばせてキッチンへ向かった。空調のついていない廊下もキッチンもひやりと冷たく静かだった。棚から取り出したグラスに蛇口から直接水を入れ煽るようにそれを飲み干す。口の端から溢れた水が寝巻きの襟元を濡らした。
リビングの時計は二時過ぎを指しており、まだ眠ってからあまり経っていないことに気がついた。隣に由鶴がいてくれたのに浅い眠りで夢を見て起きてしまうなんて。
すぐに寝室に戻ろうと思っていたのにどうにも寝直す気分になれず、電気をつけないままのリビングでソファーに体を沈めた。スマホは寝室に置きっぱなし、テレビやレコードは由鶴を起こしてしまうかもしれない。電気をつけるのも億劫でため息を吐いて視線をやった先は小物をしまってある棚だった。横着して座ったまま手を伸ばし、届かずに仕方なく立ち上がりほとんど開けることのなくなっていたとある棚を引っ張り開ける。そこには数年前までよく吸っていた煙草とライターが雑に入れられていて、俺はそれを手の中に握ってベランダの窓を開け外へ出た。
月が綺麗な夜だった。凍えてしまうほど寒くはないけれど肌を撫でる風は容赦なく冷たい。悪くないな、と思いながら、煙草を咥えて火をつけた。まるで美味しくもないし自分の健康にも周りの非喫煙者にも悪影響を及ぼすコレが、昔はずいぶん役に立った。
吸い込んだ息を吐き出すと白い煙が風に流され夜の闇に溶けて消えた。一吸いごとに、思考がすっきりと晴れていく。久しぶりの感覚はとても心地良かったけれどそれが一瞬のまやかしだと知っていた。一本吸い切ってしばらく夜空を眺めてから部屋の中に戻り、元通り棚の中にしまったところで、カチャッと小さな音がして俺は後ろを振り返った。
ぺたぺたとゆっくり近づいてきた足音の主はリビングに顔を出して俺を見つけるとほっと安心したように「逢さん、いた」と呟いた。由鶴が近づいてくるのと鏡写しのように俺も由鶴に歩み寄って、だけどあと一歩のところでぴたりと動きを止めた。眠たそうな表情をした由鶴がきょとんとして首を傾げる。一歩、後退った俺に何か言おうと息を吸い込んで、由鶴もぴたりと動きを止めた。
「……たばこ?」
「……」
「……眠れなかったですか?」
「いや、……すこし、夢を見て」
「……起こしてくれていいのに」
「悪い」
「謝らないで。……たばこ、まだ持ってたんですね?」
「……」
「もう一生分吸ったでしょう。長生きしてくれなきゃいやですよ」
「……ああ」
優しい声音でしっかり咎めて、由鶴は俺の頬に手のひらを触れさせた。いつのまにか埋められていた距離はもう抱きしめられるほど近く、だけど俺も由鶴もそれ以上は触れようとしなかった。ただじっとお互いの瞳を、頭の中を読むように見つめ合う。由鶴の親指の腹が俺の唇の端を引っ張り、反射的に息を呑んだ。
「……だめですよ、逢さん。今日はもうキスはしません」
「……」
「あなたのことを大切にしたいから、逢さんも、俺のために自分のことを大切にしてください」
「……うん」
「……眠らなくてもいいから、一緒にベッドに入りましょう? その方が暖かいですから」
「ん、そうだな」
由鶴はこどもを甘やかすように優しい笑みを浮かべ俺の手を取った。指を絡めて繋ぎ、離さないようにしてリビングから寝室へ戻る。由鶴が抜けたままの形で残っている布団に二人で少し笑って一緒にベッドに入った。起きた時よりも近くに体を寝かし、布団の中で由鶴を抱きしめる。いつもの癖でキスをしそうになって由鶴が俺の口に手のひらを当てた。
「……うがいと歯磨きをしてくる」
「ふ。だめ」
「……」
「もちろん逢さんがそうしたいならしてきてください。でも、してきても、今日はだめ」
「……絶対?」
「お仕置きがないと、またするでしょう? 俺はじょうずに怒れないのでこのくらいしないと分かってもらえないから」
「……もう吸わない。タバコは捨てる」
「ふふ」
おかしそうに笑うだけで由鶴は折れそうにない。こいつが案外頑固者なことはよく知っていたから本当に今日はキスをしてくれないかも、と頭の片隅で思う。それでも簡単に諦めることはできず、俺は寝転がったばかりのベッドから起き上がり、すぐ戻ると言い残して洗面所へ向かった。
歯を磨き、マウスウォッシュを使い、服には消臭スプレーをかけた。髪にも匂いがついているだろうかと嗅いでみたが自分ではあまり分からない。念のため由鶴が気に入っている香水を耳の後ろに少しだけつけた。由鶴も起きているから物音を気にすることなく素早くそれらを終わらせて寝室に戻った。
真っ暗な部屋の中、由鶴はこちらを振り向くことなく横になっている。静かに近寄ってベッドのふちに腰掛け、やわらかな由鶴の髪をそっと撫でた。
「……ゆづる」
本当に今日はキスをしてくれないのか。熱い体で抱きしめて、蜂蜜みたいに甘い声で俺の名前を呼んでほしい。数時間前に溺れるほどもらった愛情をまだ欲しがってしまう。
顔を上げてくれない由鶴に、俺は背中を丸めて頭を下げ、こめかみのあたりに唇を落とした。ちゅっと音を立てて耳元で「由鶴」ともう一度名前を呼んだ俺に、すぅ、と、静かな寝息が答えた。
「は……」
由鶴は俺をおいて再び眠りについていた。肩に触れると体が動き、瞼を閉じたうつくしい寝顔が上を向く。キスをして、抱きしめて、名前を呼んで。もらえないと分かると余計にそれが欲しくなったけれど、由鶴の眠りを遮ってまで自分勝手に求めたいとも思わなかった。
しばらくの間、由鶴の寝顔を上から見つめ、ふぅとため息混じりの息を吐いて立ち上がり俺もベッドに体を横たえた。温かい布団の中で由鶴にできるだけ近づき、体の間で手を取って重ねる。瞼を閉じてもまだ眠れそうになかったけれど、暗闇の中で聞こえる由鶴の寝息はねむり歌のように優しく俺を包んだ。
不意に「ふふ」と甘やかな笑い声が聞こえて目を開けた。由鶴の目は変わらず閉じているけれど、口角がゆるく上がって笑みを浮かべていた。きっと、いい夢を見ているんだろう。好きな人が自分の隣で眠って、いい夢を見ている。そんな些細なことがとても嬉しかった。俺も口元に笑みを浮かべ、布団を持ち上げてしまわないように少しだけ体を動かして、由鶴の頬にキスをした。唇じゃないから許してくれるだろうか。明日、起きたら、今度はキスをしてくれる?
ぽすんと枕に頬を埋め、由鶴の寝顔を見つめてほっと息を吐いた。俺のことを大切にしてくれる由鶴のため、俺はきっと今までより自分のことを大切にできるだろう。眠れない夜もきみが隣にいるなら悪くない。目をつむった暗闇で、変わらず穏やかな寝息が聞こえた。
「おやすみ、由鶴」
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